第七章


    伊木光彩はどっしりと手ごたえのある太棹を取り上げて、音締めをした。棹に手を移すと、手が自然にすべるように動く。その動きに連動して無意識のうちに右手の撥が三本の弦を打つ。
    彼の左手の軽やかな動きはバイオリンならばヴィルトゥオーゾというのだろうが、この呼び方は三弦の名人芸にはそぐわない。
    光彩は太棹を置いて縁側に出た。

    秋の岩淵のコンサートに出演してくれという電話がかかってきたのは、都内の歌謡ショーでの特別出演としてジョンカラの独演をして戻ってきたときだった。
    光彩はよほど気の合った相手としか酒をともにしない。だから、昨夜も一人ホールを出て、さつきの店『花園』に寄って、徳利を数本倒してから戻ってきたときだった。
    岩淵はどうやら作曲にたいする情熱をまだ失っていないようだった。彼の申し入れは、秋のコンサートまでに太棹とシンフォニック・ジャズ・オーケストラのための協奏的ラプソディーを作曲するから出演を頼むというものだった。
    そして熱っぽくその曲の構想を語ったのだった。
    「おい、光彩、聞いてくれよ。その曲はな、まずオーケストラの不協和音のトゥッティのあと、サックスが低音から高音部にかけて主題を反復しながら上昇して、トランペットがテーマの輪郭をはっきりと描く。すると君の太棹がテーマを受け取り、反復したあと、いきなり太棹のカデンツに入る。その部分のアドリブは君にまかせる。そのあと、サックス、トランペット、トロンボーンと、順に太棹と掛け合いながら展開する……と、まあこんな具合だ」     「わかった、岩ちゃんの申し入れなら、受けて立つしかしようがあるまい。どんなものが出来上がるか楽しみにしているよ。それにしても、太棹とジャズ・オーケストラの組み合わせなんて前代未聞じゃないのかい? 君とのステージのつき合いは、さつきさんの『ジョンカラ・タッピ』以来だからな。ああ、そういえば、いまさっきまで『花園』で飲んできたところだ。さつきさんは元気そうだったよ。だけど、例の事件の民事のほうがまだ未解決だからと言っていた……。心配が絶えないようだ」
    「そうか、おれもそのうち顔出してみようかな。じゃあ、そういうこと、君がOKしたという前提でこの話、進めるからな。じゃあ、よろしく」
    伊木光彩は父の代から引き継いだ駒形の木造二階建ての家の縁側に座って、夜風に頬のほてりを冷ましていた。     隅田川の川風が水の香りを運んでくる。光彩は一旦、流派を離れたとはいえ、その腕を惜しむ声は聞かずとも彼の耳にも入ってきた。もし家元に頭を下げるなら、その仲立ちをしようという世話焼きもいた。
    しかし、その世界にもどればもどったで、体の自由が束縛され、したいこともしにくくなる。さっきの岩淵の話などが来ても、とても応じるわけにはいかなくなるだろう。まず何よりも頭の固い連中はジョンカラ三味線などという異端の音楽とは手を切るようにと当然要求してくるだろう。おまけに「日本の格調高い伝統音楽とジャズなどという騒々しい野蛮人の音楽と競演するなどもってのほかだ……」と、あの老骨の清之助の声が聞こえるようだ。そんなことを考えると、いまさらという気がどうしても光彩の決断を鈍らせる。
     日本の芸事はなぜこんなに狭い枠の中に閉じこもっていたがるのだろう。わが国の芸能はいまや保存が第一で、新しい発展は望んでいないかのようだ――光彩にはどうしてもそう思える。
    光彩が一般にジョンカラともジョンガラとも呼ばれている津軽三味線に興味を持ったのは、まだ芸大邦楽科の学生のころだった。偶然、津軽三味線の創始者である津軽は神原の仁太坊(一八五七―― 一九二八)という盲目の三味線弾きのことに触れた文章に接したのだ。
    それは仁太坊と称する、門つけをなりわいとする貧しい三味線弾きの、何者にもとらわれない奔放な、土地の言葉で言えば「エフリコキ」(気張り、進取の気鋭)、「ジョッパリ」(強情、保守性)、「ナ・ナダバ」(汝何するものぞ、反骨精神)といった矛盾とカオスを包含した精神でもって創案され、工夫された独創的な三味線演奏法だった。
    その革新性は、これまでのおだやかな「弾く」奏法から「叩き奏法」ともいわれる荒々しい撥さばき、また琵琶のように棹を立てる構え方にも現われている。
    仁太坊によってあみ出されたこの奏法は、すべて、これまでの三味線、ないしは三弦の奏法からいえば、むしろ禁手であり、破法の手として忌避されてきたものだった。仁太坊は正統を逆手によって、自分の喜びや悲しみを、思いのままに即興的(アドリブ)に表現した。そこには他の追従を許さない迫力があった。
    当然、同業の座頭坊たちのねたみが生まれた。その独創的な、したがって破格な奏法にたいして非難が集中した。それにたいして仁太坊は自分の生い立ちを取り込んだ、痛烈で自虐的な囃子詞(はやしことば)で応酬した。青森は中津軽の岩木川の渡し守の子供として生まれた仁太坊は、幼いころは玉のようなかわいらしい子供だったが、当時はやった天然痘にかかり、失明したばかりか、醜いあばた面になってしまったのだ。

あーあっ、コラ、コラ
神原の仁太坊、昔いい男、昔いい男
今だば坊様、今だば坊様
あーあっ、コラ、コラ
神原の仁太坊、でったらだ下駄はいで
岩木川の砂原、ぶっぱひで(突っ走って)
木の根コさ、けつまげで(ひっかけて)
出べその皮はいですもったん(しまった)
わーい、どんだば(どうしたことよ)
末(すえ)ばて臭い神原の守りア屁
末ばて良くなる仁太坊の三味線

(この囃子詞は巻末に掲げた大篠氏の著書よりそのまま引用)
 この囃子言葉こそ自分を徹底的に虚仮(こけ)にすることによって、その「虚仮」になりきることによって、陰に陽に自分に意地悪をする盲目の同業者たちを痛烈に罵倒した仁太坊の反骨(ナダバ)精神の現われといえるだろう。そして何よりも光彩にショックを与えたのは「真似をするな。自分の手は自分で作り出せ」という、仁太坊が常々弟子に言っていたという言葉だった。それはまさに現在自分が身を置いている邦楽の、伝統の継承を最高の使命とする保守精神をまさに根底から覆すものであった。
    日本の芸能を習うとき、まず、師の芸を盗めといわれる。見て覚えろといわれる。覚えられなければ、覚えるまで繰り返せともいわれる。そして教える側はその奥義を弟子から隠そうとする。もちろん、芸も精神もそこまで達しない弟子に奥義を伝えて、それが間違った形でつたえられたら、伝統芸能にとって取り返しのつかないことになる。だから、わが国の伝統芸能に携わる芸術家は、ある芸能を受け継ぐのにほとんど一生をかけることになる。芸とは継承の上に立ってこそ、真の新しさも工夫されうるのだという。
    たしかに正しい。一理も二理もある。しかし実際にはその「理」が形骸化し、建て前化しているのが現状だ。現代では芸の継承にも金がかかる。たとえそれが「お月謝」とか「免許料」「名取り料」とかの名目であったとしても……。
    また、わが国には伝統的音楽遺産と対等に評価され、認められ、定着している新曲はあまりない。筝曲には洋楽の手法を一部取り入れた宮城道雄や中能島欣一などの名前が有名だが、邦楽でもそれ以外のジャンルとなると、一般の人にはほとんど知られていない。
    たしかに日本の西洋音楽の作曲家のなかには、西洋音楽の構造のなかに邦楽器を取り入れた大規模な音楽を作曲している人もいる。だが、それは限られた例外といってもいい。それらの音楽は一度、作品発表のための特別演奏会で演奏されると、ふたたび取り上げられるという例はまれである。
    日本古来の伝統的琵琶と尺八、それに西洋の大編成のオーケストラとを競演させた武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』は日本のみならず欧米でもくり返し演奏されているが、この曲などは例外中の例外と言うべきだろう。
    伊木光彩の頭のなかには、これらの邦楽器をせめて日本人のあいだにだけでも、もっと普及させたい、もっと誰にでも親しめるものとしたいという願いがあった。いま日本でバイオリンを練習している子供の百分の一でも、千分の一でもいい、その子供たちが三弦を手にしてくれたら、あるいは琴やその他の邦楽器に触れてくれればいい。そのためには、いまの家元制度という狭い枠では限りがある。
    もちろん日本の洋楽の世界にも似たような傾向がなくはない。これは日本人の精神傾向かもしれないが、何か大樹にすがろうとする。だれだれの弟子、あるいは、だれだれの弟子の弟子ということがなければコンクールにも受かりにくいという噂を耳にする。実際、コンクールの結果などを見れば、入選をした若い演奏家たちが、それらの大家の先生方の弟子たちであるということがしばしばある。もちろん、優れた演奏家たちが優れた教師のもとに集まるのは当然かもしれない。
    その例なら、日本にかぎらずヨーロッパにもある。ハイフェッツ、ジンバリスト、ミルシュテインなどを育てたアウアーなど超一流のバイオリン教師がいて、よく「アウアー門下の……」としばしば名バイオリニスト紹介の枕詞のように引き合いに出されていた人もいた。
    新劇の世界でも一時、H座の俳優養成所が優秀な俳優を輩出させていた時代があった。ある人に言わせれば、必ずしもあの養成所が優秀なのではなくて、たまたま優秀な俳優の卵が集まっただけだそうだが……。
    ジェームス・ディーンやマリリンモンローを世に出したエリア・カザンとリー・ストラスバーグが主宰していたニューヨークのアクターズ・スタジオも同じようなことが言えるのだろうか?
     音楽でいえば、ニューヨークのジュリアード音楽院なども世界の俊英を集めている。
    そうかもしれない。優秀な先生、優秀な学校という一種のカリスマ性もこういった芸の教育には必要なのかもしれない。だが、日本の家元制度とか流派とかを考えると、光彩はまたもや気が重くなるのだった。
 





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