第六章



    タレント・もり研太 が本番中、M市市民会館の舞台から奈落へ転落し、重傷を負った事故の刑事裁判で、市民会館側は、本番二週間前の会館での打合せにおける、花園さつきのセリ使用の危険を十分考慮しない強引な申し入れと、その際、さつきが坊やこと、河原勉に命じた、もり研太へのセリ下げについての伝言が的確に伝えられなかったことが、もり研太のセリ転落の主要な原因であると主張した。
    しかし、これには裏があった。実は、もり研太は事故のショックで記憶を一部喪失していて、本番前の会館職員井川との打合せをした事実を否認してしまっていたのである。
    会館側はこの記憶喪失に由来する誤った証言を有利に利用した。そして老獪な弁護士の指導もあって、井川との本番直前の打合せはなかったという研太自らの誤った証言を根拠にした法廷戦術の体系を構築し、口裏をあわせ、表面上は首尾一貫した事故のストーリーをでっち上げたのだった。
    会館の所有者である市側の主張はこうだ。
   「市民会館は要するに貸館であり、使用者にたいして一定時間施設をその使用に供するだけで、使用者、すなわち催事の主催者がその会館でおこなう催事のないように干渉するわけではなく、主催者側の希望に応じて会場の施設の操作にかんして協力をするだけである」
    これに対して、さつき側は「二週間前、会館側が札側との打合せに応じたことで、会館側にもさつきの歌謡ショーで使用される会館の諸設備にたいする安全管理上の責任がある」と反論したが、有効な反論とは認められなかった。
    また、さつきが打合せの際におこなった、もり研太にたいする人権を無視した不用意な発言も、ことさらに会館側の弁護人から持ち出された。そして、この証言がさつき側の立場を不利にし、裁判官の心証をいちじるしく損ねたであろうことは想像にかたくない。
    結果的には、刑事裁判は河原勉をもり研太自身の記憶喪失と会館側の口裏合わせのスケープ・ゴートとすることによって有罪ではあるが、過失傷害罪として軽い罰金刑で決着した。そこには前途有望な若者であるという裁判官の情状酌量の判断もあったことだろう。

    これを機会に、花園さつきは、いさぎよく芸能界から身を引いた。
    花園さつきは自分の人気の限界を自分なりに意識しており、いずれは小さな店でも開いて・・・という腹案をすでに持っていた。二十年におよぶスター歌手生活でたくわえた金もある。ナツ・メロとかいって、声の出なくなった往年の人気歌手が、いじましくテレビ出演に生きがいを感じている姿を見ると、さつきはああはなりたくないという自尊心が働いた。
    河原勉の刑事裁判が一応、落着するのを待って、さつきは、F市のパトロン、加古喜代治郎に保証人になってもらって資金の一部を銀行から借り、「花園」(かえん)という割烹料理屋を浅草に開いた。そんなこともあって、加古喜代治郎との関係は歌手を引退した後も、何とはなしに続いていた。さつきくらいになると、その程度のパトロンをもっていたとしても不思議ではあるまい。
    店のほうも、さつきの持ち前の気っぷのよさが受けて、かなり常連の上客もつき、けっこう繁盛していた。それには、やはり、これまでの「花園さつき」の名前が大きく影響していたことも否めない。
    坊やこと河原勉はさつきが引取り、客のなかの顔機器の手づるで赤坂の料亭「かしこ」に板前修業にはいっていた。
    勉は、実は、さつきの子だった。、あだ勉本人にも告げていない。
    数年前、一人で多忙をきわめている戸田マネジャーに助手をつけなければかわいそうだと思い、戸田もまた自分の助手を欲しがっていたとき、勉をさる大手プロダクションから譲り受けたのだった。
    そのプロダクションとしても人手が余っているわけではなかったのだが、河原の坊やは無口で、派手な有名タレントの出入りする大手プロダクションには、なんとなくそぐわなかったのだ。
    戸田から渡された履歴書の本籍地を見たとき、さつきは河原勉が同郷の坂田の出身であることを知り、妙に親しみを覚え、純情そうなその少年を手放したくなくなってしまった。
    そしてあるとき、少年の手帳のなかから落ちてきた写真を見てギクリとした。その背景に写る家に見覚えがあったからだ。写真には子供の頃の勉と、同級生なのだろう同じ年恰好の小学校低学年の男の子が三人で写っていた。
    さつきは、事情は話さずに戸田に頼んで、河原の戸籍を調べさせた。
    勉は十歳のときに白井家から河原家に養子に出されていた。そして養父母の死後一人になった勉は、中学校の音楽教師(勉は美少年で声も良かったので、この音大出の女教師にかわいがられていた)のあまり頼りにならない紹介状を携えて上京した。しかし、紹介状をもって、紹介された人物を訪ねるのは気後れがして、訪問を一日のばしにしていた。そして、新聞に出ていた「マネじゃー募集」の広告を見て、むしろ運試しのつもりで受けてみることにした。そこは日比谷の東信ビルという外見はレンガ造りの古ぼけたビルという印象だったが、もとバンドのベースを弾いていたという社長が出てきて、気楽に面接してくれた。
    勉にたいする質問は結局、勉の身の上話を聞くという結果になった。社長はひどく同情したような表情を示して、勉を見つめていた。それは社長の身の上にも相通ずるところがあったからだ。社長も中学時代に戦争を体験していた。そして、東京空襲で両親を失った。戦後、苦学しながら大学にははいったものの、生活費と学費を稼ぐために友人に誘われて、アメリカ進駐軍のキャンプめぐりのジャズバンドに加わった。ピアノとかサキソフォンだとか気の利いた楽器は何もできなかった。「じゃあ、おまえ、ベースをやれ」ということで、シックス・ジョーカーズ、のバンドマンになった。そのときマネジャーになって仕事の手配をしていたのが、いまの奥さんであり、副社長の真里さんだった。面接の途中で、あわただしく部屋に入ってきて、何か急用でもあるのか、早口に社長に耳打ちした。そのとき真里副社長はちらりと勉のほうに視線をはしらせたが、けっしてやさしい目つきではなく、身のすくむ思いを勉は覚えた。採用試験というのはそれだけだった。数日中に連絡するから、という言葉を聞いて勉は、内心、だめだなとあきらめていた。

    さつきは十八歳のときに旧家の白井家の長男と結婚したが、長男の勉を産んだ途端に、夫の女遊びがはげしくなった。
    一方、妻はひたすら家にいて耐えるのみという、旧弊な頭の姑との折り合いも悪く、愚痴を言う相手もないままに、時折訪れる夫の飲み友達の男に引かれて、とうとう不倫の関係にまでおちいってしまったのだ。もちろん男にも妻子があった。
    そんなこともあって、さつきは心身ともに疲れ果て、いざとなると頼りにならない不倫相手の男も見かぎって、とうとう書きおき一枚残して家を出た。東京に行けばなんとかなるだろうという漠然とした、だが、切羽詰った気持ちで上野の駅に降りた。だれ一人、頼るべき手づるはなかったが、通りすがりのそば屋の戸口に店員募集の張り紙を見て、そのままその店に入り住み込みで働くことになった。
    それから後は、条件のよさそうなところを探しては転々と遍歴した。
    そして、偶然に、ある歌謡曲の作曲家の先生に乞われて、その家のお手伝いさんになったのだ。先生は大勢の弟子を教えていたが、とくにプロの歌手を育てるという意欲があるわけではないようだった。しいて言えばカラオケ教室のようなものだった。
    それに作曲家の先生とはいっても、とくにヒット曲の作曲があるわけでもない。要するに食うための内職のようなものだった。それでも先生の曲が有名な作曲家のヒット曲のB面に吹き込まれて、たまにはレコードの売上の印税とやらもはいって入るようだった。
    だから、その先生のうちへレッスンにくる歌手の卵や、カラオケ歌手のおばさんたちの歌を聞いているうちに、さつきは自分にもこの程度にならうたえるというきがしてきて、あるとき作曲家の先生のご機嫌のいいときに給金はいらないから、自分にも歌のレッスンをつけてくれと頼み込んだのだった。
    先生は最初は気軽な遊び半分、暇つぶしみたいなつもりだったらしいが、だんだんと先生の教え方に熱が入ってくるようになった。そしてテストにB面用に作った自分の曲をさつきに吹き込ませた。
    評判は悪くなかった。それで引き続きB面歌手としてレコードの吹き込みをしているうちに、やがて、そのB面が思いがけなく大ヒットになった。それがこの先生の数少ないヒット曲のひとつ『天の岩戸の・・・』だった。
    世の中はちょうどバブル景気で日本中がうかれているときだったから、その風潮を反映したのだろうか、このやや軽佻浮薄なコミカル・ナンセンス・ソングが馬鹿受けに受けたのだ。予想もしなかったミリオン・セラーになってしまった。
    おかげで『天岩戸の・・・』はいわば花園さつきのだいめいしになり、テレビでもステージでも、『天の岩戸の・・・』をうたっていればお金になった。実を言えば、さつきにはほかにうたうべき、これといった持ち歌がなかった。そんなとき、レコード会社のプロデューサーが『天の岩戸の・・・』だけではだめだからといって、歌手としてのさつきの別の可能性を引き出すべく、当時、人気ナンバーワンの若手の演歌作曲家尼ケ崎孝司につくらせたのが、『ジョンカラ竜飛恋寂れ』だった。
    そんなわけで、東北出身のお手伝いさんは、演歌歌手・花園さつきとして正式にデビューした。それでも「天の岩戸の花園さつき」のイメージから抜け出すのにはずいぶんと長い時間がかかった。
    さつきは、自分ではもうずいぶん長いあいだ人生を遍歴したような気がしていたが、あるとき、ふと、自分がまだ三十歳をやっとすぎたばかりだということに気がついた。心の持ちようひとつで自分を若くすることもできれば、老けさせてしまうこともできる、そんな年齢だった。
    さつきは野心を燃え立たせた。ちょっとしたきっかけをつかんでは作曲家をくどき、レコード・プロデューサーをアタックした。その一つ一つが積み重なって、花園さつきもどうにか第一線の歌手との評価を得るようになった。
    あのとき、戸田はどうしたのだという目つきでさつきを見たが、さつきはただ知り合い筋のこどもだからとだけ言って、面倒を見てくれるようにと戸田に頼んだ。
    戸田はあえてそれ以上のことをたずねようとはしなかったが、わけありという、およその見当はついたようだった。 

    岩ちゃんこと岩淵もたまに店に顔を見せた。彼はさつきの歌謡ショーのドサまわりから解放されてからは、ビッグバンドをひきつれて東京や大阪などの大都市で、外人タレントと共演するなどして、いよいよその世界では注目を集めていた。
    村井もバンドボーイのかたわら、ジャズ・ピアノの練習と作曲らしきものの勉強にはげんでいる。岩淵も村井の才能をそれなりに認め、何かと、面倒を見ていた。ただ村井がジャズ・ピアノのほうでもだんだん腕を上げてくるにしたがって、岩淵としてはなにか割り切れないものを感じていた。
    彼はクラシックの作曲を学びたいといって岩淵のところに来たのだ。それをこのままジャズの世界に引き止めておいていいのだろうかという思いが、彼の心の中のしこりとして残っていた。
    岩淵は歌謡ショーから少し遠のき、もっぱらジャズ音楽に没頭するようになってから、これまでとは違った音色をジャズのなかに求めるようになっていた。彼の独立したステージではスタンダードナンバーのほかに、彼自身のオリジナル曲も必ず取り入れるようにした。
    彼のところにはフル・バンドの演奏会ばかりでなく、小編成のバンド、さらに弦をふくむジャズ・オーケストラの編曲の依頼も来た。そんなとき車夫はもはや村井一人の手には負えなくなった。
    いまでは村井は写譜の手配や、岩淵のラフなスケッチから、完全なスコアに起こす仕事もこなすようになっており、岩淵のマネジャー兼助手として手放したくても手放せない存在になっていた。
    村井もその過程で多くのことを学んでいたし、岩淵のなかに断ち切れないクラシックの、しかも現代音楽にたいする思い入れがあるのも見抜いていた。村井もまた岩淵の最高の理解者になっていた。
    村井自身もときにはジョージ・ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』のピアノ・パートをさらうことがあった。『グランド・キャニオン』という管弦楽組曲でも有名な作曲家ファーディ・グローフェのオーケストレーションといわれるオーケストラのスコア(総譜)も勉強した。
    ある演奏旅行の旅先で岩淵が過労で倒れたことがあった。岩淵はバンドのなかに芸大の後輩でピアノの弾けるトランペット奏者を代役に指名しようとしたが、その後輩は岩淵の本心を見抜いたかのように、笑いなながら言った。
   「岩ちゃん、遠慮するなよ、村井は立派に先輩の代役をはたすよ。楽隊のほうはぼくがリードするし、ぼくが抜けると、ちょっと弱くなるからな」
    こうして村井は大編成のジャズ・オーケストラのなkでも立派に通用するピアノ奏者であることを証明した。

    そんなある日、さつきのところにもり研太の舞台事故にたいする損害賠償請求の民事訴訟の通知書が裁判所から送られてきた。さつきはそれとなく覚悟はしていたが、現実にこうして訴状を手にすると、また、悪夢を思い出すようないやな気分になった。
    それでもすぐに、河原勉の刑事裁判のときに弁護を依頼した藤井弁護士に電話をした。
   「じゃあ、その訴状をもって、うちの事務所まで来ていただけますか? その訴状を検討のうえ、また、対策をご相談いたしましょう」
    さつきは弁護士事務所を訪問する日時をきめて電話を切った。
   「これで、また、お金がかかる」と、さつきはそう思って苦笑いした。


    賠償請求の訴状はさつきのところのほかに、市民会館の所有者M市と企画を請負ったSK興行にも送付されていた。訴状における責任追及の要点は、もり研太の出演中にその「直近」一・七メートル後方のセリを下げたことによって生じる危険の安全対策にたいする配慮が、被告の三者、M市、SK興行、花園さつきのそれぞれに欠けていたという点にある。
    けいじさいばんでは、河原勉がさつきの伝言を的確に伝えなかったことが舞台事故の原因として河原勉の過失責任が問われ、罰金刑によって結審
していた。
    しかしもり研太を原告とする損害賠償請求の訴状では、被告三者にたいして、それぞれの立場での危険防止にたいする責任が追及されており、その内容は被告三者のそれぞれの利害が相反するような関係になっていた。
    M市にたいする責任追及は次のようにあった。
   「M市は使用者にたいして事前の打合せの義務を課している。したがって使用者の希望する会館機構の使用法に伴う危険性を十分了知できる立場にある。使用者のほうはセリをふくむ会館の設備構造および使用に不慣れなうえ、責任体制もあいまいで、安全確保のための十分な能力をそなえていないから、安全確保の面では会館側が使用方法および各使用者のあいだの関係にも配慮して積極的な役割りをはたすことが社会的に期待されている。
    しかもこの事故の場合、セリ操作を会館側が引き受け、原告もり研太こと、森研三出演中の最初から十五分ちかくにわたり、演技する森研三の後方直近の本件セリを下げるという、極めて危険かつ不適当な使用法を取ることを結局容認したのであるから、会館側としては使用者(花園さつき)の要求するセリ使用の危険性を予見し、万全の安全対策を講じるべきであった」
    また、SK興行については、アゴ・アシ(交通費と食事、宿泊費をふくむ)付きで出演者と契約し「出演者が出演のために要する出発から、帰省までの時間の一切を興行主が『買い取る』という理解で出演契約が履行されているのであり、その出演者の生命、身体の安全に配慮すべきことが出演契約に付随する信義則上の義務となっており、出演契約が被告SK興行とのあいだで個別に結ばれていることに鑑みれば、被告SK興行が各出演者の出演内容そのものにつき関与しないとしても、各出演者のあいだの相互の連絡調整ないし統括をおこなうことによって、関係者間の連絡不徹底による不足の事故を防止する責任があった」と追求していた。
    花園さつきにたいしては『一週間前の打合せにおいて主導的な立場に立ち、会館職員の意見を押さえて、自らの出演の効果のみを優先させ、被害者タレントもり研太こと森研三の出演中に本件セリの使用の危険性にたいする会館職員の指摘にもかかわらず、『被害者もり研太はbプロであるから大丈夫である』旨の発言と、その場でのマネージャー見習い河原勉にたいする森研三への連絡指示によって、このセリ下げが決定した。したがって被告人花園さつきはそのセリ使用によって危険にさらされることになった他の出演者にも十分安全にたいする配慮を尽くす義務があった」とその責任が指摘されていた。

    さつきは藤井弁護士から訴状の内容の説明を聞きながら、つまりは自分が生理を使用したことに、この事故のすべては原因があったのかという気がしてきた。
    さつきもあの事故のあとひどいショックを受けた。まだ楽屋で準備をしていたさつきは、もり研太の転落事故の報告を聞いて、これは自分のせいだと思うと同時に、悪いことをしたという思いとが交差して、二週間前、会館での打合せのときに会館職員の前で発したもり研太への悪口や、楽屋での戸だの忠告に眦(まなじり)をつり上げた自分のことを思い返していた。
    そして、なぜか「あたしの歌手生命もこれでおわりだ」という何か切ない思いと、その一方、心の奥では誰かが安堵の息をもらしているおうな気もした。
    次の瞬間、「もし、研太が死んだら、あたしは殺人罪に問われ」るのではないかという不安の雲がむくむくと大きくふくらんできた。さつきは姿見の前に尻餅をついたまま立ち上がる力も出なかった。楽屋のなかにはさつきのほかには誰もいない。さっきまでいた床山の洋子もお付きのハルコも河原も、いつの間にかいなくなっていた。自体の成り行きを見にいったのだろう。
    やがて、楽屋の前を騒々しく人が行き交い、救急車のサイレンも聞こえてきた。
   「こっちです」と救急隊員に言う声が聞こえる。あれは戸田の声だなと思ったのが最後だった。さつきは意識を失った。

   「そういうわけですから、ほかの二人の被告の弁護士がきまったら、そちらのほうとも連絡を取って、対策を立てたいと思います・・・。なにしろ、この訴状の内容では、被告同士がお互いに責任を転嫁しあうようなことになりそおうですからね」
   「わたしは法律のことはまったくわかりませんので、先生に全権をおまかせするしかしかたありません。どうぞよろしくお願いします」
   「わかりました。なんとか全力を尽くしますから、ご安心ください。裁判の費用などについては、後刻、ご連絡いたします」
    やれやれ、お金か・・・。さつきは何にでもついてまわる金にいやけを覚えていた。だが、それでも、お金がなければ何もできない。

    市民会館の館長室では堀江館長を前にして舞台管理係長岡沢、横田、それに舞台機構操作係井川、樫山が神妙にすわっていた。館長の机の上にはもり研太の損害賠償にかんする訴状が開いたまま置いてあった。
   「やあ、遅れまして、申し訳ありません。もう一件のほうの手続きに手間取りまして」
    田辺弁護士はせわしなげに、がさごそと鞄のなかを探しまわって、市民会館から送られていた訴状のコピーを引っ張り出した。
   「田辺先生、どうもお忙しいところ、お呼び立ていたしまして申し訳ありません。当日の舞台担当者は一応、呼んでおきましたので、何なりとご質問ください」
   「いや、当会館としてもとんだ災難でしたな。いちおう、事故が発生したという事実はいかんとも否定しようがありませんのですが、ただ、いかなる過程によって事故にいたったかについては、もう一度はっきりと確認しておかなくてはなりません。
    もり研太さんが当会館における事故で半身不随の重傷を負われたことは非常に痛ましいことではありますが、その同情と、事実とは厳格に、場合によっては冷酷に区別していただかなくてはなりません」
   「まったく、その通りです。こちらといたしましても議会の承認を得て、しかるべき岳の見舞金はお贈りしてありますのですから・・・」
   「じこにいたります経過の事実関係につきましては、刑事裁判で一通り明らかにされておるわけでして、その結果は、花園さつき側の過失責任が認定されているわけです」
   「それにもかかわらず・・・」
   「そうでう、それにもかかわらず、賠償訴訟においては、その認定がさもなかったかのごとくに、また、わが会館にも責任があるかのごとくに申し立てているのであります」
    田辺弁護士は法廷で証人尋問でもしているかのように、館長室の絨毯の上を歩きまわりながらとうとうと述べ立てた。
    館長の前にすわっている職員たちは神妙に、法廷での証人尋問がまたここで再現されてでもいるかのように、うつむき加減に、じぶんがじんもんされているかのように、体をかたくして田辺弁護士の大きな威圧的な声を聞いていた。
    なかでも、責任者の係長岡沢の体は、さらにいっそう縮こまって見えた。
   「そこで、もう一度、確認しておきましょう。セリ下げの合図を出したのは誰です?」
    関係者たちの沈黙に、田辺弁護士はいらだたしげに、語気を強めた。
   「どうしました? ここが肝心な点ですよ」
    そういうと、回答をしぶっているかのような、四人の関係者に背を向けると、窓のほうへ歩いていった。窓の手前まできて、一瞬立ち止まったかと思うと、突然、体を向き直り、まるで被告にたいする反対尋問でもあるかのように、いどみかかった。
   「セリ下げの合図を出したのは誰です。なぜ、黙っているんです。そんなことでは裁判官にたいする心証にも影響します。井川さん、刑事裁判ではセリ下げの合図をしたのは、あなただと言いませんでしたか? ちがいますか?」
   「そうです」
    井川は低い声で答えた。弁護士はここで巧妙に質問の趣旨のすり替えをした。つまり、井川は出していない。だから、出したか出さなかったかについての直接的質問には、井川の気持ちとしては答えにくい(だって、自分は出していないのだから)。ところが刑事裁判の経過では自分が出したことになっている。だから、質問が刑事裁判での筋書きの上でのことなら、「はい」と答えても嘘にはならない。岡沢にしても同じだろう。田辺弁護士の矛先が岡沢係長に向けられた。
   「係長、あなたも責任者としてそれを認めますね?」
   「通常、合図を出すのは井川ですから」
   「どの時点でセリを下ろすかが決まったのはいつです?」
   「花園さつきさんが会館に打合せに来られたときです。セリを使うことも、そのとき決まりました」
   「セリの使用を言い出したのは誰です?」
    井川が答えた。
   「花園さつきさんです」
   「当然ですね、自分の舞台ですから。岡沢係長、そのとおりですね?」
   「はい」
    小さな声で答える。
   「井川さん、あなたはもり研太さん、いや、森研三さんが会館に着かれたのが何時だか覚えていますか?」
   「いいえ、覚えていません」
   「あなたはそのとき何をしていましたか?」
   「はい、午前の部が十二時少しすぎて終わりました。そのあとは午後の部の準備をしていました」
   「それでは、あなたは午後の部の開演前にも、もり研太さんとは会わなかったわけですね」
   「はい、そのような時間的余裕はありませんでした」
   「あなたは、セリ下げについて、もり研太さんに連絡する必要を感じなかったのですか?」
   「感じました。でも、その連絡は、花園さんのマネジャー助手の河原さんがすることになっていましたから・・・、わたしは、それを信用して、連絡はすんだものと・・・」
   「・・・おもっていた、ですね? いいでしょう。その証言をくずさないようにしてください。それによって会館側に責任がないことが証明されます」
    田辺弁護士は「ほっ」というように、館長のほうを見た。
   「これで、なんとか法廷維持はできるでしょう。ああいう事故が起こったという事実は否定できませんからね。完全に免責というわけにはいかんでしょうが・・・」
    館長はしぶい顔をした。その結果によっては、自分の地位も無関係ではなくなってくる。それでも気を取り直して言った。
   「いやあ、もう、田辺先生が、唯一のたよりです。どうぞ、よろしく」
    田辺弁護士は岡沢以下の職員を引き上げさせたあと、しばらく館長と裁判にかんする実務的な問題について話し合ってから会館を後にした。

    
    いっぽう、SK興行の北幸平は角刈りの頭の汗を白いタオル地のハンカチでさかんに拭いていた。どこか市内のビルの一室、窓のガラスに一枚に二文字ずつ書いてある「梶尾浩子弁護士事務所」の文字が裏文字になって見える。
    「先生、まいりましたよ、こんなものが・・・昨日、送ってきたんです」
   「ちょっと、拝見」
    ウエストきっちり絞った濃紺のすーつ、スカートは細めで、膝が隠れる長さ。若さに威厳をもたせるためか、服装にも気配りをおこたらないエリート女性のプライドがにじみ出ている。
    それにくらべると、SK興行の社長北幸平はいかにも田舎のおっさんである。半袖の白の開襟シャツ、すそはズボンの外に出している。
   「ほんとに、まあ、いやになっちゃいますよ。こんなことでいつまでも気苦労をさせられたんじゃ・・・。なんとか賠償金を払わなくてすむ方法はありませんかね。あたしゃ、何千万なんて払わなきゃならないとしたら、手っ取りばやく夜逃げでもしますよ。あの三田村の野郎、トンずらですわ、まったく顔も出しゃしません」
   「そうですね、こういう場合、完全に免責というわけにはまいらないと存じますわ。被告三者が責任を均等に分担するということになれば、よしとするしかありませんわね。いまのところ花園さんの坊やが、刑事裁判で有罪が確定していますから、責任の大小ということになれば、花園さつきさんが、そのマネジャー助手の坊やの使用者責任をもふくめて一番重い責任を問われることになるでしょうがね」
   「そうですかね、まあ、わたしにゃ、何がなんやらさっぱりわかりませんので、よろしくお願いします」
   「裁判費用のことについては、いずれご連絡いたします」
    北幸平はまだ何か言いたそうだったが、ちょうどそのとき電話のベルが鳴ったので、仕方なく、挨拶もそこそこに弁護士事務所から出て行った。

    岡沢係長は館長室から舞台事務所の自分の場所にもどってくると、デスクにはつかず、その前のソファーの上にぐったりと腰をおろした。井川と横田と樫山は事務室の入口のところで何かの打合せをしているようだった。
    井川はあれ以来、一切、岡沢と仕事の話はしなくなった。それは当然のことだった。あのとき事故原因のセリ下げのキューを出したのは岡沢だったからだ。−−だって、あの二週間前の花園さつきとの打合せでは、もり研太がマイクの前に立ったらセリを下ろすことになっていたではないか。その打ち合わせ通りでなくなったのなら、なぜおれに言ってくれなかったんだ!
    おまえは、あの大事なときに持ち場を離れて花園さつきの手を取って、お付きがいるというのに楽屋口まで送っていったじゃないか。そのとき、もり研太はもう舞台のセンターマイクの前で話しはじめていたんだ。だから、おれはセリ下げのキューを出した。ところが、おまえは勝手に、もり研太と打ち合わせをして、セリ下げのキッカケを変更していたのだ。それをおれに伝えなかった。連絡ミスだ。その点では、おまえの責任も重大だぞ!
    この数十年間、何ひとつ目立つこともしなかったが、失敗もなかった。そのおれが、この年になってこんな事件に巻き込まれるなんて! 巻き込んだのは、井川、おまえだぞ!
    表向き、刑事責任は免れた。それだって、事故のショックで記憶喪失におちいって、もり研太が本番前のおまえとの打ち合わせの事実にかんする記憶を喪失していたからだ。だから、おまえと会ったことがないというもり研太の証言をもっけの幸いに利用して、こっちが口裏を合わせてつじつまを合わせた。だが、それが偽証であるという事実には変わりはない!
    おれには良心がある。おれは良心の呵責に一生苦しめられるだろう。しかし、おれはどんなにつらくとも、役所をやめるわけには行かないのだ。今後、役所のなかでどんなに疎(うと)んじられようとも・・・。
    おれには、一生面倒を見なければ一人では生きていけない子供がいるんだ。家内はおびえて、どうしても二人目の子供を産もうとしなかった・・・。それだって、いまとなっては悔やまれる・・・。
    もし、二番目の子供が健康な子供だったら! そうさ、健康な子供だったにちがいない!
    だが、それも今となってはなあ、もう、手遅れだ・・・。
    岡沢は、じんわりとわいてくる涙の目頭を押さえた。











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