第五章

* 主題歌『ジョンカラ竜飛恋さびれ』 唄との譜面へ                  


       
          

「よろしゅう、お願いしまっさ」
 上手の袖に来ると、橘屋は腰は低いが場慣れした芸人の貫禄を見せながら、操作盤の前の樫山と横田に挨拶した。坂本も樫山と横田に丁寧にお辞儀をする。樫山は念をおすように坂本圭太郎に注意を与えた。
「いいですか、舞台の後ろにはくれぐれも気をつけてくださいよ。圭ちゃんの後ろ、セリが下りていますからね」
「はい、わかりました」
 坂本は緊張して答えた。
 それからしばらくして、午後の部、開幕五分前のブザーが鳴った。橘屋は気にもとめずに坂本圭太郎を相手に駄洒落を飛ばせて笑わせていた。
 舞台の中ほどのところに舞台間口いっぱいの黒の紗幕が降りていてバンドのひな壇を隠している。その裏ではバンドのメンバーがすでにそれぞれの位置についていた。
 ジョンカラ三味線の伊木光彩はバンドの前の地舞台の上に、一段高くした指揮台のような平台の上に置かれた椅子にどっかりと腰をすえ、目を閉じてじっと瞑想していた。バンマスの岩淵はバンドのひな壇の前に立って、演奏開始の合図をくれることになっている舞台袖の井川のほうをうかがっている。
 紗幕は一種のすだれと同じような役割りをはたす。紗幕の奥が暗ければ表側からは舞台の奥の様子は見えない。 いま客席側から舞台を見ると、ただ黒い幕が見えるだけである。もちろん紗幕の前のバトンに吊られた「小野田工業創立二〇周年記念社員慰労会」と書いた横一文字のつり看板に記された、白地に黒の明朝体の文字はくっきりと浮いて見える。
 圭太郎の前歌のあいだ紗幕が降りたままなのは、圭太郎とバンド用のひな壇とのあいだのセリが、さつきの奈落板付きのために下りるからだ。紗幕という障害物をおいて、バンドのために少しでも安全をはかろうというのだ。
 この紗幕が飛ぶ(上がる)のは「花園さつき歌謡ショー」の第一曲目『ジョンカラたっび』の前奏でさつきがセリに乗って登場、セリが上がりきったところで、さつきが客席の拍手にこたえて頭をさげる――それがキッカケだ。

 坂本圭太郎の前歌のあいだは紗幕は降りたままだが、紗幕のなかのバンド当ての照明がつくからバンドの姿は客席からはっきり見える。ただ、難点はバンド当ての明かりが入らなくても、譜面灯の明かりがついているから、その明かりが照明が入るまえから点々と透けて見えることだ。だが、そんなことが気になるのは、とくに舞台の視覚的効果に神経質な演劇系のプロだけで、一般の客も音楽関係者もそれほど気にしない。
 そのとき、舞台の下手袖から数歩舞台に出たところから舞台係の井川が、紗幕ごしにバンマスの岩淵に低いが鋭いとおる声で合図を送った。
「では、本ベル参ります。ベルが鳴りおわって、わたしがペンライトを振って合図をします。それで音楽スタートしてください。音頭(おとあたま)でドン帳が上がります。では、よろしく。それから、前歌のあいだにバンドの前のセリが降りますので、紗幕の線からは前には絶対に出ないように気をつけてください」
 井川は幕が上がるまでの手順をバンマスに簡潔に確認して、セリ下げの注意をうながした。バンドはすわったままだから、とくに注意の必要はないようだが、舞台には常に「万が一」がある。
 うっかり、リードケースを落っことすとか、譜面台をたおして、譜面だけ落ちるのならまだいいが(それでも、下に人がいたら危険である)、それをつかまえようとして体のバランスをくずして自分も一緒に落っこちるとか・・・言い出せばきりがない。
 このような配慮は、事故が起こらないかぎり、通常は、単なる取り越し苦労と思われがちだ。しかも、皮肉なことにその配慮が取り越し苦労でなかったことは、事故が起こらないかぎり証明されない。ここに安全対策というもののパラドックスがある。
 だから、事前にどんな対策を講じても、事故はそれ以外のところで起こる。もともと事故というのは、どんなに重大な事故も重大な原因によって起こるのではない。元を正せばあ、その原因はほとんどが、信じられないような、単純、些細なうっかりミスなのだ。
 井川は袖にもどった。それからインカムを頭にセットして、上手の操作盤の樫山を呼び出した。
「樫山ちゃん、井川です。上手スタンバイ、確認どうぞ」
「小呂助師匠、坂本圭太郎、スタンバイ、OK」
「証明さん、音響さん、井川です。では、よろしく。本ベルまいります」
「あいよ、照明はいつでもOKよ」
「はーい、音響もOKっす」
 本番前のこの時点では、当然、証明も音響のオペレーターもインカムをかけて、井川と樫山のやり取りを聞いているわけだから、わざわざここで「証明さん」「音響さん」と呼びかける必要はないはずなのだが、本番直前のこんなやり取りも裏方同士のチームワークのためには欠かせないコミュニケーションなのだ。これがないとヘソを曲げるオペレーターもいる。何とか言いながら、しょせんは職人の世界なのだ。
「樫山ちゃん、では、本ベルどうぞ」
「了解、本ベルまいります」
 樫山の声が返ってくると同時に、会場でブザーが鳴った。ブザーが十秒で切れる。
 井川はインカムにどん帳アップ・スタンバイといってから、黒者幕の奥の、この位置からだとかすかに見えるバンマスに向かってペンライトを振った。
 低い「ワン・ツー・スリー・フォー」の岩淵の声がする。
 バンドがいっせいに楽音をとどろかせはじめた。
 井川はインカムにどん帳アップ」と告げる。
 ドン帳が上がる。
 客席の拍手。
 幕開きのテーマミュージックが切れたところで、橘屋が上手袖から客席の大きな拍手に迎えられながら舞台に登場した。
「ええ、こんにちは、みなさん。レイデシーズ・アンド・ジェントルマン、おじいちゃん・あんど・おばあちゃん」
 どこかで聞いたことのあるギャグだったが、客席はそんなことにはお構いなしに笑いと拍手を送る。それから、今朝のスポーツ新聞から仕入れたばかりのギャグで客席の笑いを取ると、最初の出演歌手の紹介にうつる。
「では、みなさん、当M市、期待の星、新人にしてべてらん、坂本圭太郎の蛙の声ならぬ美声をどうぞご堪能ください。うたうは東海林太郎の名で一斉を風靡しましたるところの、みなさまご存知『赤城の子守歌』ほか二曲、続けてどうぞお楽しみくださいませー」
 ここで佐藤惣之助作詞、竹岡信幸作曲『赤城の子守歌』の前奏がはじまる。それに合わせて紗幕奥のバンドにも明りがはいる。岩淵がバンドの下手よりのピアノのそばに立って指揮をしている。指揮棒などといった野暮なものはもっていない。
 坂本圭太郎はこちこちに固くなってマイクの前に立っていた。燕尾服姿に直立不動。その姿だけは、おそらく会場の「おじいちゃん・あんど・おばあちゃん」たちにも懐かしいものだっただろう。
 そして第一声、あれっと思うほど東海林太郎にそっくりだ。このような歌のもつ歓声は、中年をすぎた日本人の観客にはなんの抵抗もなくうけいれられ、染み込んでいく。客席はしんとして、しわぶく声もなく、圭太郎の歌に聞き入っていた。
 その間にも井川はインカムを通して、上手の樫山と連絡を取り合っていた。
「井川です。樫山ちゃん、横田さん、どうぞ」
「樫山です、どうぞ」
「横田です、奈落に待機中、どうぞ」
「了解、では、セリ下げ用意、どうぞ」
「セリ下げ、スタンバイOK、どうぞ」
「セリ下げ、スタートどうぞ」
「セリ下げ、スタートします」
 井川はセリの下りるのを確認して、インカムに言った。
「それでは、これから花園さんの奈落板付きの介添えに向かいます。次は奈落から連絡します。あと下手インカムは岡沢係長が引き継ぎます、どうぞ」
「了解」という樫山と横田の声が同時に答えた。
 井川はインカムをはずして、そばに立っていた岡沢係長にインカムを渡した。
「じゃあ、B区、花園さんの板付きを確認してきますから、その間、舞台のほうをよろしく見ていてください」
 井川が花園さつきの楽屋へ行くと、さつきはすでに準備をととのえ、姿身の前に立って、自分の姿を点検していた。
「花園さん、奈落板付きの時間です。少し早めですけど、初めての板付きですから、なにかあるといけないので・・・」
「ハルコ、手鏡とパフ頼むわよ。じゃあ、井川さん、よろしく」
 井川は楽屋の隅にぽつんとすわっていた河原坊やに声をかけた。
「河原さん、奈落の板付き、あなたも一緒に来てください。何か急なことがあるかもしれないから」
 河原は黙ってたちあがると、奈落に向かう一行のあとにしたがった。
 セリは一番下まで下ろされていた。横田は奈落で、井川たちの来るのを待っていた。井川は場当たりのときにつけておいて赤ビニールのテープのバツ印を確認すると、花園に示して言った。
「では、板付き位置はここです。この印の位置からあまりずれますと証明の当たりがずれますから、注意してください。一応、ホロースポットで花園さんの動きは追っていますから、陰になることはありませんが、それでも照明さんが色をつけてくれた場所でうたったほうが、美しく見えます。
よろしければ中間の位置までセリを上げます。舞台への登場のセリ上げは『ジョンカラ』のイントロと同時です。
 ハルコさんと、河原さんは、セリが中断で停止したら、そこの木の階段をあがった、あの台の上で、セリ上げのキッカケまで花園さんの介添えをしていてください。セリは一旦その位置で待機します。何か急なことがあったら、横田さんが立ち会っていますから言ってください」
 井川は横田から奈落のインカムを受け取り、頭にセットして、インカムのマイクに言った。
「樫山ちゃん、樫山ちゃん、こちら奈落、井川です、どうぞ」
「操作盤、樫山です、どうぞ」
「では、セリを中間位置まであげます、スタンバイどうぞ」
「了解。セリ・アップ、中間位置自動停止ロック・スタンバイ、OK、どうぞ」
「セリ・アップどうぞ」
「セリ・アップします・・・」
 モーターが始動する音がする。やがて、ガクンと鈍い音がしてセリが中間位置、通常の役者板付き用の仮設の足場の高さで止まった。
「セリ、中間位置停止完了、どうぞ」
「サンキュー、奈落からの連絡終わり、あとセリ・アップまで、奈落は横田さんと、花園さん関係者二名、立ち会います、どうぞ」
「了解」
 井川は連絡をおわり、ハルコと坊やが木の仮設の階段を登っていくのを確認し、横田にインカムを渡して、あとをゆだねると。ストップ・ウォッチを押して急ぎ足に奈落を後にした。
 たとえ急ぐときでも、劇場内で走るのは厳禁だ。そういったときの井川の足取りは、まさに典型的な裏方の足取りだった。音を立てない、足を浮かさない。いまでこそ井川は舞台用の草履ははいていないが、草履をはけば必然的にそうならざるをえないという、そんな歩き方だ。劇場という状況のなかに身をおくと、はいているのがゴム底のズックの靴であっても、長年の習慣でおのずとそんな足取りになる。
 井川は舞台の袖に着いて、係長からインカムを受け取って、自分がつけ、いつでもインカムを通して連絡を取れるようなじょうたいになったとき、はじめてストップ・ウォッチをとめた。十八秒だった。井川は「ワン・コーラスの余裕を見れば十分か」と自分を納得させるようにつぶやいた。
 やがて、舞台の上では坂本圭太郎の東海林節が最後の一節を精魂込めてという調子で歌っていた。おわるとさすがに地元の客だけに、さかんに親しみを込めた拍手と掛け声がかかってくる。きっと、そのなかには親類縁者もいることだろう。また、それなりにファンもいるに違いない。
 橘屋はどうせこのあと、この歌手と二度とつき合うことはあるまいという気楽さからか、ほめ言葉とも野次ともつかない合いの手を入れながら、坂本圭太郎のカーテンコールの間をもたせている。こんなところであんまり時間を取ると、バンドのほうも緊張感が薄れてくる。
「奈落の横田さん、井川です、どうぞ」
「こちら奈落、横田です、どうぞ」
「間もなくセリ、アップします。花園さんにもそのことを伝えてください、どうぞ」
「了解。花園さん、間もなくセリ、アップします」
 インカムをとおして横田の声が聞こえる。
 横田はさつきがうなずくのを確認して、インカムに言った。
「花園さん、奈落セリ、板付きOK、どうぞ」
「了解。では、樫山ちゃん、セリ・アップ・スタンバイ、どうぞ」
「こちら、樫山です。セリ・アップ・スタンバイ、OK、どうぞ」
「そのまま待機ねがいます、どうぞ」
「了解」
 その間、橘屋は地元にも花をもたせながら、タイミングをはかっていたが、はがて拍手の薄くなった間をとらえて、観客の気分を一転させた。
「さて、満場のみなさま方、いよいよ、みなさま、お待ちかね、花はさつきかうたかたの、恋に身を焼く花園の・・・、哀調こめて切々と、うたうは浮世の恋時雨・・・。さあ、みなさま、花園さつきのお目見えをどうか拍手でお迎えくださいますよう、まずは橘屋小呂助が、深くおねがいもうしあげまするー」
 ここで、客席は拍手となる。
 舞台の照明は小呂助の語りのあいだに徐々に情緒たっぷりの色に変わっていく。
 小呂助。
「では、バンドのみなさん、どうぞッ!」
 小呂助は身を半身に開いて手で舞台奥のバンドのほうを差しながら「どうぞッ!」強調する。それと同時に紗幕の奥にも明かりが入り、坂本圭太郎の退場で、一旦フェードアウトしていたバンドも、くっきりとした輪郭を映し出している。
 バンドが『ジョンカラ竜飛・恋寂れ』の前奏を演奏しはじめる。それに合わせて井川はインカムに「セリ・スタート」の号令をかけれる。
 バンドはまだ紗幕の奥だ。セリにのった花園さつきが江戸褄に島田くずしのあでやかな芸者姿で現れる。拍手は一瞬、バンドのおとさえもかき消さんばかりにもり上がった。
 さつきが身をかがめて拍手にこたえる。その間にバンドの前の黒紗がトブ。
 さつきはバンドの前奏がおわるのを待って、一歩、足を前に踏み出した。
 最初の一節をうたいはじめる。

        恋が女の いのちなら
        さだめ悲しき おんな道

 なぜか、さつきは乗っているようだった。観客はその情緒めんめんたる、フィクションの世界の――自分にだけは無関係の――不倫の歌にうっとりと聴きほれていた。

        ひと夜の愛に 身をこがす
        人妻恋の 未練花 

        追いつ流れて 落ちゆくさきは
        ジョンカラ ジョンカラ

        ジョンカラ ジョンカラ
        ジョンカラ ジョンカラ

        ジョンカラ竜飛 恋寂れ(さびれ)

 声にならない客席の反応が手に取るようにわかる。さつきは今日の自分の出来にうっとりしながら、一番の貸しの最後の一節を情緒たっぷりにうたいおわり、陶然としてポーズを決めた――どんなもんだ! という驕りが瞬間、さつきの脳裏をかすめた。
 その途端、「ツゥーン」というジョンカラ三味線の音が入った。間髪のずれもない。
 いや、その「間髪」は西洋音楽の合理主義的な拍節(リズム)といった枠の中に閉じ込められた分秒単位の間髪ではない。むしろ、それは合理主義などといった、小賢しい人為の次元を一瞬にして粉砕してしまう日本音楽独自の音空間、間、呼吸、そして芸と呼ぶところの気合だった。
 その一音によって、これまで乗っていいたリズム空間が一瞬にしてジョンカラの世界に完全に塗り替えられてしまった。その響きと間に、一瞬、さつきは金縛りにあったようにポーズを解くことが出来なかった。
 それに続く音は、これほど微細な音はあるまいと思われるほどの最弱音が小刻みに続く。
客席もその呼吸の微妙さに引き込まれて咳きひとつ聞こえない。伊木の三味線は徐々に強さをまして、ついに最強音の一打。沈黙(パウゼ)。
 沈黙は耐えられないほどの長さに感じたが、実際には二拍か三拍にすぎなかったのかもしれない。
 それに続くジョンカラの「叩き」「音澄み」といわれる奏法・技巧を駆使した伊木の撥さばき。さつきには、もはや、自分の振りをどうしよう、こうしようなどと考えるゆとりはなかった。ただ、ひたすら、さつきの慢心を打ち砕くかのような激しい、伊木のジョンカラの叩き三味線に身をゆだねるしか為す術を知らなかった。
 曲弾きかとも紛う伊木の技巧がはじける。だが、その技巧は技巧のための技巧ではなく、続くさつきの唄の効果をいっそう盛り上げるための埒をけっして越えるものではなかった。
 そのとき、さつきにもそれがわかった。これが芸だ。瞬間、さつきの胸を何か熱いものが突き抜けた。
 ドラムの音に我に返った。二番、三番とうたいつぎながら、自分でも歌手生活のなかで最高の歌を歌っているのを意識した。
 第一曲目のおわりを待ち切れないように、バンドの後奏は雷(いかずち)のごとき、聴衆の拍手にかき消されて行った。今日のさつきの歌に、いつもとは違う気迫を感じ取ったのか、橘屋小呂助の語りも、いつものマンネリとはことなる熱を帯びていた。
 こうして三曲うたったところで一旦、下手の袖に引き上げる。
 袖幕のあいだで、お付きのハルコが手を差し出して、いち早くさつきの手を取った。
 袖幕のあいだをくぐり抜けて舞台の脇に出る。そこには簡単な化粧前がしつらえてあった。ハルコが額の汗をガーゼでたたくあいだ、さつきは域をととのえ次の曲の気分を準備している。
 袖幕の陰には、その様子をみつめる、井川の裏方特有の、役者を見守る目があった。
 つなぎのバンドだけの演奏がおわって、四曲目の前奏がはじまった。
 小呂助のしゃべり。
 さつきが出る。
 拍手。
 こうして前半の七曲をうたいおわり、観客の拍手を半身の構えで受けながら、袖へと駆け込んできた。
 ところが、引っ込みの袖幕を間違えた。それとも、ハルコとの打合せが食い違っていたか・・・。さつきはハルコが待つ二袖ではなく、一袖の裏に駆け込んできたのだ。
 ここで黒紗が降りる。井川は落ち着いて樫山にキューを送る。紗幕が降りるのを確認する。そのとき、第二袖幕をはさんで、さつきとハルコが袖幕の手前の奥でもみあっているのが井川の目に入った。
 さつきは舞台でスポットを正面からあびていたから、舞台裏の闇にすぐには目が慣れない。ハルコはあわてている。さつきは鋭い息声でハルコを呼ぶ。ハルコはいっそうあわてて、体ごと袖幕にもつれていた。
 その状況を見て、井川はインカムを岡沢係長にわたし、すぐにさつきの手を取って、袖幕の外に導き出す。そしてそのまま、さつきの手を引いて、舞台奥の楽屋口のほうへ連れていった。
 この次のセリ下げのキッカケは、もり研太の歌の三曲目、森繁節のものまね『知床旅情』がはじまってからでいい。ベテランの裏方井川には、このような公演のときに、必ず押さえておく要点は何かということは頭で考えなくても、裏方の直感が心得ていた。
 開演前、井川は自分で直接、仏頂面の研太をつかまえて、研太がマイクの前についたらすぐにセリを下げたいという花園さつき側の希望を伝えた。
 研太はいまいましそうに言った。
「おい、そいつぁ、やべえんじゃねえのか? 何がなんたって、十五分間も奈落の淵でうたわされてたまるかい。それじゃ、おっかなくって身動きひとつできやしねえ」
「えっ? もりさん、歌をうたうんですか?」
「なんでぇ、そんなことも通ってないのか世。SKの三田村には言っといたはずだぞ」
「はあ、そうですか。で、何曲歌われるんですか?」
「最後は森繁さんの『知床』をやる、思い入れたっぷりにやるから、そいつがはじまってからでいいんじゃないの、セリは」
「そうですね、わかりました。じゃ、三曲目がはじまったら、セリが降ります」
「で、おれはそんとき上手のほうに寄って、ハンドマイクでうたうからな。橘屋だかなんだか、あいつがおれにハンド・マイクを手渡せるような、そんな段取りつけといてくれよ」
「承知しました」
 井川はさつきの手を引きながら、もり研太も結構心得たことを言うなと、そんなやり取りを思い返していた。「セリ下げは研太の『知床』だ!」
 舞台では橘屋ともり研太のやり取りで、客席を沸かせていた。やがて、研太は舞台中央のマイクの前まできて、漫談をはじめた。研太の声がする。
「では、川田正子さんになりかわりまして『月の砂漠』をお届けいたしまーす。バンドのみなさん、よろしくー!」
 井川は研太のそんなせりふをききながら、こんなところだけはソツがないなと足を止めて。袖幕のあいだから研太の様子を見ていた。
 研太はお調子者よろしく、子供っぽい足踏みをしながら後退していた。そのとたん、すーっと研太の姿が吸い込まれるように見えなくなった。
 井川は、とっさには、何のことだか意味がわからなかった。鈍い音がする。次の瞬間には額縁のそばに飛んでいき、岡沢係長の頭からインカムをひったくると、頭にかぶるいとまもなく、送話器にむかって叫んでいた。
「樫ちゃん、井川です、どん帳ダウンどうぞ、どん帳ダウン!」
「どん帳ダウン、了解!」
 井川は岡沢係長には目もくれず、奈落のほうへ駆けおりていった。セリ舞台のうえに研太がぐったりとのびていた。井川は奈落のインカムを取って樫山に連絡した。
「事故だ。至急、救急車だ。横田さんに一一九番通報を頼んでくれ」
「了解」
「それから、このままでは危険だからセリを上げる。それまで動かないようにバンドにどなってくれ」
「了解」
 樫山がバンドにその場にいるように大声で叫ぶ声が、ぽっくり開いた舞台の上から聞こえてくる。
「井川ちゃん、セリ・アップ・スタンバイ、OK」
「よし、セリ・アップどうぞ」
 そうインカムに叫ぶと、井川はインカムを放り出して、おもむろに上がりはじめたセリに飛び乗った。セリの上に横たわった研太のそばにひざをついて、研太の息をうかがう。ひな壇の上にすわったままのバンドのメンバーの見守る前にセリがゆっくりと上がってくる。
 研太の口からは、かすかだがうめき声がもれている――死んではいない!






主題歌『ジョンカラ竜飛恋さびれ』 唄との譜面へ
                  



    (1)

   恋が女のいのちなら
        さだめ悲しき女みち
     ひと夜の愛に 身をこがす
    人妻恋の 未練花
  追いつ流れて 落ちゆく先は
    (リフレイン)
    ジョンカラ ジョンカラ
    ジョンカラ ジョンカラ
    ジョンカラ ジョンカラ
  ジョンカラ竜飛
         恋 寂れ

    (2)

  恋に身を焼く 蝉しぐれ
   尽きぬ思いの 果てるまで
  泣いてないて 泣きくれる
   いいの 好きなの あたしだけ
  忍ぶ恋路の
        行きつく果ては
     (リフレイン)

    (3)

  恋の涙の わかれ鳥
   思い果てない わかれ唄
  ひと夜の なさけに
   とこしえの ちぎり交わした
  あの人の 面影いだいて
          流れるいのち
     (リフレイン)





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