第四章


 市民会館の前には先に着いたバンドの連中がたむろして、コンクリートの階段に腰をおろしたり、立ってタバコを吹かしたりしながら、眼前にひろがる田圃のほうを眺めていた。田植えを待つばかりの苗代の早苗が風に吹かれてその葉をゆらすたびに、その緑が微妙に色をかえる。
「どうしたんです? 小屋の人はいないんですか? 
 タクシーを降りた戸田は会館の前にたむろする連中に声をかけた。
「まだ、時間にならないから開けられないんだと・・・」
「だって、もう、九時でしょう」
「いや、まだ三分まえだ」
「なんだか、お役所なんだよな」
 だれ言うとなく、そんなつぶやきがもれた。そういえば打合せのときに、あの井川とかいう舞台係がそんなこと言っていたなと、そう言われて思い出した。しばらくして職員の横田が会館の中に現われて、ガラスのドアのロックをはずした。全員がぞろぞろ入っていく。
 花園さつきは客席への扉を戸田に開けてもらって中に入り、一番後ろの席に寄りかかりながら会場の感じを検分していた。
「思ったよりわるくないわね」
 さつきは一言そういうと、楽屋のほうに行くために、またロビーへ出た。
 舞台の上では照明係が数人立って、スポットライトの光の当たり具合を調整していた。その中の一人は長い竹竿をもって、チーフらしい年配の男の指示にしたがって、竹竿の先で、サス・スポットをつつきながら当たりの微調整をしていた。これこそわが国の照明家の特技である。そのうちどうしても具合の悪いものが出てくると、照明バトンが下ろされ数人の男女がスポットの向きを変えたり、カラー・シートの差し替えなどをした。
 音響のほうも、大きな音をだしながらマイクとスピーカーの調整をしていた。舞台のセンターマイクの前で、髪を長く伸ばし後ろで束ねた若者が声を出していた。
「ティー、ティー、ティー、ただいまマイクのテスト中、ティー、ティー、ティー、本日は晴天なり・・・」
 それらの舞台上の人物たちのなかに舞台係井川のひょろっとした姿も見える。
 舞台の中央奥にはバンド用のヒナ壇もすでにセットされていた。
「おおい、音出しは九時半だから、照明さんも、音響さんも、それまでに終わるように頼みまっせ」
 井川が舞台の下手袖から大きな声で言った。そのそばには、妙に浮き上がった違和感を示しながら舞台の様子を眺めている岡沢係長の姿も見える。
 上手の操作盤の前では職員の横田と井川の助手の樫山がボタンの並んだ盤面を見ながら、何かの打合せをしていたが、こちらの職員は、開演前の地明かりだけが落ちる薄暗い、白々とした、殺風景な光景のなかに何の違和感もなく溶け込んでいた。
 九時二十分を過ぎたころから、バンドのメンバーたちもそれぞれの楽器を手にして舞台袖に姿を見せはじめた。
 ヒナ壇の一番上には、いつのまに運びあげたのか、すでにドラム・セットが並んでいて、ドラマーのトムちゃんがドラムのネジを締めたり、音を小さくたたいたりしながら調音をしている。
 その間にバンドボーイの村井がそれぞれの譜面台にパート譜を配ってあるく。
 九時半近くになって、バンマスの岩淵と津軽三味線の伊木光彩とが話しながら現われた。
 岩淵と伊木とは芸大の同級生だった。もちろん洋楽の岩淵と邦楽の伊木とは学部がちがう。しかしあるときたまたま学生食堂で同じテーブルについてから話が合い、その後もずっと親しい交際が続いていた。
 伊木はとくに三弦を得意としていたが、卒業後は家元とか流派とかのしがらみをきらい、ジョンカラ三味線の太棹に持ち替えて、もっぱら自由に、むしろ洋楽器との他流試合の分野で活躍していた。だからレコーディングや歌謡ショーの世界では、ジョンカラと言えば伊木というところまで来ていた。
 それでも、たまに、時間の合間などに楽屋で、ふと、小唄や新内の一節を口ずさむことがある。すると、日頃は大音響になれたジャズマンたちも、雑談を止め、引き込まれるようにその歌声に聞きほれるのだった。たしかに伊木の芸には心があった。
 楽器の調音が全員おわったころ、花園さつきが姿を見せた。
「みなさん、おはようございまーす。本日もどうぞよろしくお願いします」
 さつきが楽隊や舞台回りの面々にあいさつをすると、それには楽隊のざわめきが答えた。それを合図にしたかのように舞台にも照明が入り、バンドの周辺が明るく照らし出された。
「おっす。じゃあ、みんな聞いてくれ」
 バンマスの岩淵がバンドのほうに声をかけた。
「今日のナンバーは昨日と少し変わるから気をつけておいてくれ。村井君、譜面はみんなに渡っているな?」
「はい」
「写譜、間に合ったのか?」
「ええ、なんとか」
 村井は言葉すくなに答えた。
「新しい東海林太郎の三曲は、こっちの歌手の阪本さんが来てから合わせよう。もり研太さんも三曲うたうことになっているが、音自体は簡単だから音合わせに間にあえば合わせるし、間にあわなければ楽屋ででも打ち合わせる。譜面だけは目を通しておいてくれ。さつきさんの歌もみんなレパートリーに入っているものばかりだから、あらためて音を出す必要はないだろう、時間もないことだし。ただ、順番だけは確認しておこう。第一部のはじめだけ今回のツアーになかった曲が入る。『ジョンカラ・タッピ』だ・・・。あとは昨日の第一部の頭の三曲をカットして四曲目に続く。第二部の頭は『天の岩戸の』・・・」
 このとき楽隊のあいだから笑いが起こった。みんなこの曲の趣向を知っているからだ。曲の途中で衣装の早や変わりがある。すると、そのあとは絽の長襦袢ともガウンともつかないシースルーの和装になるのだが、なぜだか、肌着をつけずに着付けてある。
 照明は前から当たるから客席のほうからは見えないとしても、後ろに控える楽隊からは、前方からのスポットの明かりを通して、さつきの体の線がくっきり見えるのだ。さつき自身はそれに気づいているのかどうかはわからないが、この歌ではじまるステージでは必ずこの趣向を用いるのだ。
「続いて昨日の第二部の頭から四曲と、あとはアンコール用に残しておく。『ジョンカラ』はワンコーラス目のあと伊木光彩のアドリブが入る。ここでは伊木のジョンカラの独演をたっぷり聞かせてもらおう。ほどほどのところで、おれが合図するから、トムちゃんのドラムが一小節、そしてトゥッティ(全員)・・・」
「ああ、それからお願い、『タッピ』のツーコーラス目のサビの終わりのとこ、ちょっと小節(こぶし)をねばってみたいの、よろしくね」
「わかりました。じゃあ、『じょんから竜飛恋さびれ』、編曲を新しくしたから念のため、一応、音を出してみようか。いいかな、ワン・ツー・スリー・フォー」
 そのころ地元の歌手阪本圭太郎はやっと上手の袖に姿を見せ、自分のあとでうたわれる花園さつきの歌を聞いていた。もちろん本息ではうたっていない。
 下手の袖では井川がストップ・ウォッチを片手に、前奏のはじめから歌の出までの秒数を計っていた。この頭もセリで登場ということになったので、セリ上げのタイミングを自分なりに把握しておくつもりなのだ。
 そのとき司会の橘屋も舞台袖に井川と並んで立っていた。
「いつ聞いてもいいもんやなあ」
 橘屋小呂助は本心とも皮肉とも取れるような調子でつぶやいた。
「戸田ちゃん、小呂助さんはまだなの?」
 戸田は舞台のほうにはいなかったが、橘屋自身が舞台のさつきのほうへ駆けよりながら声を出した。
「いますよ、いますよ、はい、ここに」
 小呂助は調子をつけながらほいほいと答えた。さつきは自分も小呂助のほうへ歩みよりながら、声を押さえ気味に言った。
「今日のジョンカラ三味線のアドリブ、長めだから、一言二言合いの手を入れてもいいわよ」
 さつきはその間のつなぎの振りをどうしようかと頭のなかで思いめぐらせていた。
 ジョンカラの荒々しい撥さばきで雰囲気は盛り上がるが、さつき自身がかすんでしまうおそれがある----さつきはそれを心配しているのだ。役者にしろ、歌手にしろ、つまらないところに気がまわるものだ。
 だが、そんな不満も、いまのさつきにはバンマスの岩ちゃんに言えた立場ではないのだ。業界でもあんな一流の腕をもつ岩淵が、どうして落ち目のさつきにこうまで義理立てするのか不思議がるものもいるくらいなのだから。さつきとしては、せめて、小呂助を使って、ジョンカラ三味線への観客の注意を少しでもそれさせることができればというのが、さつきにとってのせめてもの願いだった。
 上手の袖に阪本圭太郎の姿を認めた井川は、音が切れたあいだに急いで舞台の前を突っ切って、上手袖の阪本のところへ行った。
「圭ちゃん、おそいじゃないか」
「ああ、バスが時間どおり来なくて・・・、ごめん」
「いやあ、おれにあやまられても困るんだけど、それで、あんたに言っとかなきゃならないことがあるんだ。今日、あんたの歌のあいだにセリが下りるんだ。だから、後ろには絶対さがらないように気をつけといてな・・・」
「ああ、そう・・・、わかった。ありがとう」
 それだけ言うと、操作盤の前にすわっていた樫山にも同じことを告げた。樫山は了解した。井川は背をかがめるようにして、舞台を突っ切って、下手の自分の持ち場へもどった。
 あと一人、もり研太にも彼のステージのあいだにセリが下りることをつたえておかねばならない。なのに、もり研太はまだ楽屋入りしていない。
 一方、見習マネジャーの河原坊やも楽屋口で、いらいらしながら、もり研太の着到(ちゃくとう--芝居用語)を待ち構えていた。
 舞台の上では十時を少しすぎた頃、やっと阪本圭太郎のリハーサルの番になった。圭太郎はバンドにむかって深々と頭をさげる。
岩淵は言った。
「一応、打合せのキーでアレンジはしておいたけど、念のために一回通しておこうか。三曲とも同じパターンだ。ツー・コーラス目とスリー・コーラス目とのあいだに四小節の間奏が入る。じゃあ、お願いします」
 岩淵の合図で音楽がはじまる。突然、岩淵がバンドを止めた。自分の譜面を見てからテナー・サックス奏者のほうを見た。バンドの連中は一様にどうしたという顔を見合わせる。おかしな音はないのに・・・。  
「おい、村井君、イントロの練習番号2の二小節目のテナーの音ちがってるぞ」
「はい、すみません」
 村井はまず謝ってから、三番サックスのところへ飛んでいった。村井はそのパート譜を見ただけで間違いを認めた。
「急がせたからな、わるかった。昨日は徹夜だったんだろう?」
 岩淵はいたわった。
「おしいな、岩ちゃん。あの人はこんなさつきのドサなんかについて回らなくても、東京の舞台で立派につうようするのになあ・・・」
 橘屋はおおげさに感心する。
 一通りの合わせがおわった。阪本圭太郎は一言も注文のつけようのない伴奏にすっかり顔をほてらせている。これほどうたいやすい伴奏でうたったのははじめてだった。少しのずれもなくぴったりと寄り添ってくれる。
 岩淵は圭太郎の歌の最初の二、三小節聞いただけで、この歌手の癖をすべて見抜いていたのだ。圭太郎は二度も三度も頭をさげて礼を言った。  坂本圭太郎の歌がおわると 、もう時計は十時三十分過ぎていた。午前の式典開始三十分前。会場の時間だ。会館の前にはすでに会場待ちの客が長い列を作っている。
「じゃあ、リハーサルはこれまで。本番をよろしく」
 岩淵はバンドを解放した。
 そのときSK興行の三田村が戸田と一緒にやってきた。
「岩淵さん、わたくし、SK興行のマネジャーの三田村です。お電話ではいろいろご無理をお願いして本当に申し訳ありませんでした。いまの坂本の歌を客席で聞いておりましたが、さすがにバンドが違うと、歌までがこんなに違うのかと、感服いたしました。それで、まことに申し訳ないのですが、もり研太さんの 到着が十一時頃の飛行機だそうで、本番前の音合わせには間に合いそうもありませんのです。ですから、打合せは楽屋のほうででもお願いできればと思うんですが、いかがでしょう。ほんとうにご迷惑をおかけします。
「いや、ぼくのほうはかまいませんよ。ご本人がそれでいいとおっしゃるのなら・・・、譜面のほうはそろっていますから」
「それは、どうも、いろいろとご面倒をおかけします」
 戸田がsつきの楽屋へ行くと、さつきは化粧前(メイク用の化粧台)にすわって床山の洋子から、かつらの下にかぶる、芝居の世界では通常、羽二重とよばれている、髪を押さえるための絹製の布をつけてもらっているところだった。この布をとめる 鬢つけ油の匂いがつんと鼻にくる。 部屋のもう一方の端では、リノリュームの床の上に畳を六枚ほど並べて敷いた臨時の和室の上で付き人兼着付け係のハルコが衣装の手入れをしている。
 この二人は旅先では荷物を積んだライトバンに同乗して移動し、さつき一行と同行することはほとんどない。運転手の山ちゃんは気さくなおにいちゃんだし、若いもの同士、結構楽しくやっているようだ。
「戸田ちゃん、研太はまだなの?」
 さつきのややとがった声がした。
「ええ、三田村さんの話だと、十一時頃の飛行機らしいですから、早くても十一時半ごろになるんじゃありませんかね」
「着いたら、当然、あたしんところに顔くらいは出すんでしょうね?」
「いやあ、どうですかね、三田村さんはなんとか連れてくるとは言っていましたけどね」
「まったくいやになっちゃう、あんなやつ。坊やはどうしたの?」
「あいつ、楽屋口で研太の入りを待っていますよ。例の伝言があるからって・・・」
「ほっときなよ、セリから落っこちて、首の骨でも折って九束りゃいいんだ。そうなりゃ、せいせいする」
「さつきさん、口は災いの元ですよ、縁起をかつぐわけじゃありませんがね・・・」
「おや、何か言った? まるで旦那みたいな口を利くじゃないか」
 そういって戸田を見る目はつり上がっていた。戸田は言いすぎたことを後悔した。
 本番まえにあまり興奮させてはいけない。落ち目になってから癇のたかぶりがひどくなっている。本番中はなんとか自分でもおさえているが、その後がいけないのだ。それをおさめるのに一晩中かかることもある。

 どうやら、舞台では式典がはじまったようだ。楽屋モニターを通してその声が伝わってくる。やがてマイクの声が人の名を呼ぶ。するとその度に拍手がわき起こった。会社の功労者の表彰らしい。
 そのうち戸田はふと何かを思いついたように、さつきの楽屋を出ていった。さつきの楽屋から三室ほどおいた向こうの楽屋の前で三田村がえび茶色のダブルの背広を着た小太りの年配の男と話している。
「三田村さん」
 戸田は近づいていった。
「ああ、ちょうど良かった。もり研太さんのマネジャーの森肇さんです」
 三田村は戸田に森肇を紹介した。戸田は名刺を出して森に挨拶した。
 森は「ああ」と顎をしゃくるようにして戸田を見てから、もったいぶった手つきで自分の名詞を出した。
「戸田さん、もり研太さんは、昨日の疲れをとるために、楽屋で横になっておられるんですよ」
 三田村が戸田に言うのを引き取って森肇が言った。
「わたし、一応、研太のマネジャーということになっておりますが、実兄でして、あいつのお目付け役もかねており増すんです。花園さんの楽屋にはわたしが名代としてご挨拶するということで、ご勘弁願えるとありがたいんですが・・・」
「そうしていただけると、とりあえずは花園の顔も立ちますし、そう願えますか」
「わかりました。では、では、そういうことでご了解いただくということに・・・」
 そう言うと森肇はいったん楽屋のなかに入っていった。
 その間に戸田と三田村は花園さつきの楽屋にきて、戸田がいまの森肇との話を伝えた。三田村は人気歌手花園さつきの楽屋をそれとなく見まわしていた。大きな籠に盛った花、これ見よがしのこも被りの酒樽――こんなもの、さつきが持っていくわけでもあるまい。さつきフアンの代表格としての小野田社長の見栄にすぎない。
 やがてドアにノックの音がして、森肇が入ってきた。いかにも慇懃無礼とも見える鄭重さで、研太が昨日のビデオ撮りの疲れで、いま楽屋で横になっているので、その代わりに自分が来たのだと言い訳をして、さつきに挨拶した。
 メークにかかっていたさつきは、これも、鄭重に受け、鏡のなかの森肇にむかって慇懃に答えた。
「もり研太さんのご名代のご挨拶、痛み入ります」
 そう言うと、さつきは鏡のなかの視線をそむけて、あとは黙々とメークを続けた。
 森肇はぐっとこみ上げてくるものを抑えて、さつきの楽屋を後にした。楽屋の前まで送りに出た戸田と三田村は顔を見合わせて無言でニヤリとしたが、それぞれ心中にどんな思惑を抱いていたことか・・・。
 三田村は橘屋と坂本圭太郎の楽屋になっている、一つおいた隣の部屋をのぞきに入る。戸田もあとに続いた。戸田は鼻唄まじりに、スポーツ新聞をひらいて見ながら、司会の口火を切るためのいい枕の種はないかと探しているところだった。
「やれやれ、芸能界はゴシップの花の花盛りだというのに、うちの花園にはゴシップの花も咲かないか・・・、咲くは季節はずれの狂い花ってね」
 ドアを開けて入ってきたのが三田村と戸田であるのに気がつくと、橘屋は回転椅子をまわして二人のほうに体を向けた。
「どうです、こっちの若旦那は・・・?」
「いやあ、こういうのって、旅先までもち込まれたんじゃ、わたしら地方のマネジャーには扱いかねるんですよ」と三田村がぼやく。
「ま、どっちもこっちですがな。一方は精気りんりん昇り竜、片や盛りすぎたる下がり藤ってね」
 同室の坂本圭太郎はそれどころではない様子で、一心にぶつぶつと口の中で歌を口ずさんでいた。そこへバンドボーイの村井が顔をのぞかせた。
「もり研太さんはいらっしゃいますか?」
「もり研太の楽屋はここまないぞ、隣だ」
「あっ、すみません」
「なんだい」
「あのう、バンマスの岩淵さんが研太さんと打合せがしたいと・・・」
「なんだ、あいつまだやっていないのか。隣でふて寝しているから、たたき起こして言ってやんな」
 橘屋小呂助が言った。しかし、彼が言うと、こんな棘のある言葉でもおかしく響く。
 村井は思わず笑顔になった。やがて隣のドアが開いて、村井の言葉に返す不機嫌そうな声が聞こえてきた。その後、楽屋を出る二人の足音が遠ざかった。バンドの控室には二階の会議室が当てられていた。
 しばらくして、また誰かが隣のドアを開けた。それにたいしてマネジャーの森肇の低い響きのある声が答える。やがてドア口で「それじゃ、よろしく。もう一度確認にまいりますので、もり研太さんにお伝えください。お願いします」という声がした。
「あれは、井川の声だな、なんだろう・・・」
 三田村はいぶかって小呂助たちの楽屋から出ていった。
 そのとき、会社の女子社員らしい若い女性が二人、戸田を訪ねてきた。花束贈呈の手順についての打合せだった。戸田は花園への花束だったら、歌謡ショーの終わりにすることを伝え、後半のステージの終わりごろになったら、舞台の下手の袖に来るように言った。
「それじゃ、舞台係の井川さんに頼んでおきますから、花束贈呈の出のタイミングは井川さんの支持にしたがってください」
 若い女子社員たちは意味もなくきゃっきゃっと笑いながら去っていった。
 戸田はまだ打合せをしておくことはなかったかなと、これからの段取りを思い返していた。そこへ井川がやってきた。
「午後の部の開演、十五分前です。橘屋さんと、坂本さんは上手にスタンバイしてください」
「やれ、はっつぁさん、八五郎さん、舞台の上手にゃどう行くの?」
 橘屋が何かの歌舞伎のせりふをもじって、節をつけてたずねるのに、地元歌手の坂本は「こっちです」と橘屋をともなって、まだ緞帳の下りている舞台前を急ぎ足で横切って行った。









第5章へ進む

目次へ戻る

トップページへもどる