第三章


 公演当日の朝、八時四十三分、列車は定刻どおりM市の駅に着いた。市民会館は車で五分くらいのところだった。
 バンドマスター岩ちゃんこと岩淵卓郎は中肉中背、年齢的には四十をすぎたばかりのころか、三十代の発散するエネルギーと四十代の分別とが、ときにバランスをくずして、まだ若いなという印象を、さつきの目にあたえるのだった。
 さつきにとって、彼が自分より年下であるということにある種の日常的な優越感を覚えるいっぽうで、舞台の上での彼の落ち着いた物腰、おだやかな話しぶりのなかに秘められた芸術家的なカリスマ性をふと垣間見るようなことがあると、やっぱりあたしなんかと出来が違うんだ、あたしなんか足元にも及ばないんだわ、という、一種のあきらめというか、ひけめというか、だから岩ちゃんとはなんにもないし、なにか間違いが起こるなんてことがあるはずないという悟りのようなものがさつきの心にを支配していた。
 それが岩淵にたいする、さつきの態度を自然なものにさせている。だから、あの人は、あたしのような落ち目の歌手にも義理堅くつき合ってくれているんだと信じ、そう思い込み、そう自分に言い聞かせていた。そして、もう十年以上もまえのこと、『天の岩戸の……』というコミカルソングでスターダムに登場し、テレビ歌謡ショーにはじめて出演したとき、まだ学生かなと思うほど若々しいミュージシャンがバンドの指揮をしていた。それが岩淵との最初の出会いだった。さつきは番組のディレクターにたずねた。マネジャーは、面食いのさつきが久々に示す若い男への関心に、ニヤニヤしながら答えた。
「さっちゃん、あいつは駄目だよ。あんたの相手にはもったいない。ほんとはクラシックの作曲家なんだよ。すごい曲をつくるやつだって、いま、向こうの(クラシックの)世界でも評判なんだよ。ただねえ、現代音楽の作曲だけじゃ食っていけないからね、こうして歌謡曲のバンドの編曲やら、たまには指揮もするようになった……多少、オンキチ的なところがあるから、音楽以外のことには興味がない」
「オンキチって何よ?」
「音楽以外のことには音痴だってことさ。とくに女には……、君みたいにクラシックと正反対な演歌の歌手なんかいちばん興味がないだろうな」
 おそらく、岩淵にたいする心情のバックグラウンドとなったのは、このときのディレクターの言葉だったのかもしれない。
 それでも、一度、銀座のバーでいっしょに飲んだことがある。たぶんスポンサーか誰かのおごりだったのだろう。テレビの例のディレクターもいっしょだったから――もちろん、スポンサーのお目当ては、この世界ではまだ駆け出しのさつきなどではない。当時、しわがれた低音の魅力で訴えるようにうたうのが持ち味の演歌歌手だった。
 このとき、さつきは岩淵のもう一つの側面を発見した。彼は酒を飲むほうではなかったが、非常にジョークが好きなのだ。いや、駄洒落といったほうがいいかもしれない。
「ぼくの友人に九州のF市から出てきたやつがいてね、ぼくも食えないけど、やつはそれ以上に食えない芝居の裏方をやっているんだ。ある日、そいつが所属している劇団の芝居で登場人物が弾くピヤノの音を録音したいんだけど弾いてくれないかと言ってきた。で、ぼくはね、どんな芝居の、どんな場面で、どんな曲を弾くのか稽古を見にいったんだ。ちょうど休憩に入ったときだった。そしたら、なぜかその日は、雰囲気が違うんだ。ぼくの友人にたいする俳優たちの態度がね」
「どんなふうに?」さつきは合いの手を入れた。岩淵がこんなに親しげにあたしに話しかけてきたことはなかったのにどうしてかしらと、若いハンサムな男と話すことに、なんとなく心が弾んでいた。
「それで、彼、どうかしたんですか、と中堅の、顔なじみの俳優にたずねたんだよ。そしたら、その俳優はねさも感心したように、あのTという舞台監督助手は、九州にいたころF市の交響楽団で五番目にコントラバスがうまかったんだそうですよ、というのがその答えだった」
「へえ、そんなら、なにも、芝居の裏方なんかやらなくったって……」さつきが、また合いの手を入れた。
「うん、そうなんだ、でも、まあ、いいから聞いてよ」彼は自分で自分の話のオチを待ちきれないように、笑いを押さえながら続けた。「それで、ぼくもね、君と同じ思いさ。稽古がはじまる寸前に彼にたずねたんだ。君は九州で五番目にコントラバスがうまかったんだってね? 知らなかったなあ……。そしたら、彼はにやりとして言った。『五人しかいなかったんだ』って……」
 岩淵は声を出して笑った。さつきも笑ったが、その笑いの意味はおのずとことなっていた。一方の笑いは、プロの音楽家のレベルと、アマチュアのレベルとの差をうっかり混同して、自ら一杯食ったおかしさの笑いであり、一方は、自分にはとうてい手のとどかない、すぐれたアーチストが、演歌歌手の自分にこんなにまで打ち解けて話をかわしてくれることへのうれしさの笑いだった。
 こうして、さつきは岩淵と面識をもったが、その後、ふたたび同じステージに立つ機会はないままに何年かがすぎた。そんなある日、プロダクションの事務所で、新曲と新曲キャンペーンの打合せを担当マネジャーとしているときだった。プロダクションの社長が別のタレントの、レコーディングの立会いからもどってきたが、渋い顔をしていた。
「おい、戸田、今度のさつきのレコーディングはまあいいとして、全国キャンペーンのほうはまずいことになった。バン・マスの広山がどうしても行けないっていうんだ」
「ええっ、なんですか、いまごろになって」
「どうも、別のおいしい話が入ってきたらしんだ。今度、デイヴィス・シンガーズが来日するって話聞いているか?」
「ええ、だそうですね」
「おれも、どうして駄目なのか問いただそうと思って、六丁目のエストンに連れてって、しつこく責めたんだ。そしたら、飲むにつれ口が軽くなってとうとう吐きやがった。そのデイヴィスのバックをやるバンドをフルで大至急編成してくれって仕事が舞い込んできたんだとよ。一度吐いたら、あとはもう止めどもなく舞い上がっていたぞ」
「まあ、そりゃそうでしょう、デイヴィスのバックをつとめたとなりゃ、箔もつくし、ギャラだって大変なもんでしょうからね」
「ただ、その辺だけはぼやいていたけどな。おれんところの旅ギャラとそんなにちがわんらしい」
「まあ、箔がつくだけでも……」
「しかし、そんなことよりもなによりも、あと釜をなんとかせにゃならん……」
 しかし、さつきにはその困った話をそんなに困ったふうには痛感しなかった。それには、もしかしたら岩淵さんならという気がしたからだ。
「社長さん、岩淵さんって方どうでしょうか、とても才能がある方だそうですよ」
「岩淵って、誰だ?」
 社長は思いがけぬさつきの声に驚いて顔をむけた。
「一度、その方の指揮でうたったことがあるんですけど……、とっても……」
「岩淵って、まさか、あの、作曲の……?」
 戸田は学生時代はアマチュアながら大学のオーケストラでクラリネットを吹いていたことがあった。そして仲間とディクシー・バンドなんかを組んでは、大学祭やなんかに出演したりなどしていい気になってやっていたものだった。そんなわけで一度はクラシックの演奏家を夢見たこともあったが、音楽の世界はそんなに甘くはなかった。結局は大学卒業を目前にして就職活動をはじめたが、時すでにおそかった。新聞でたまたま見つけた音楽プロダクション・渡部事務所の求人広告に、せめて音楽と近いところで仕事ができるという思いから、戸田のマネジャー人生がはじまった。そんなわけで、この世界どっぷりの人間よりは、クラシック音楽の情報にはくわしかった。
「あら、あの方、作曲をなさるんですか? だからかしら、ピアノがとってもおじょうずでしたわ……」
「あたりまえじゃないですか、彼は本当は芸大のピヤノ科の出身で、作曲でも名を知られているんですよ。このまえも作曲コンクールに入選したくらいです」
「なんだあ、そんな人にこんな話をもっていったんじゃ、はなから相手にもしてもらえんだろう、まるで話しにならん……」
 二人のやりとりを聞いていても、さつきには岩淵がそんなに偉い人かという実感がわかなかった。でも、あれから三年たっているから、才能のある若い男の人って三年たつと、きっとすごく変わってしまうのかもしれない----と、さつきは急に懐かしく、会いたいなという気持がをつよく感じた。
「でも、この話、してみてもおもしろいかもしれませんよ。あの人も、たまにコンボか何かを組んで、銀座のどこかに出ているって話も聞かないわけではありませんから……」
「じゃあ、この際だから、ひとつ話をしてみるか。連絡先はわかるのか?」
「そのことだったら、調べはつくと思いますよ」
「よし、じゃあ、やってみてくれ。駄目なら駄目で、至急、誰か別のバンマスをつかまえなきゃならん」
 渡部プロの戸田から電話を受けた岩淵は、案の定、最初は渋っていた。しかし、状況が差し迫っていること、このコンサートが花園さつきのシングル版発売に合わせてのキャンペーンであることを聞くと、「へー」とおどろいたような声を発し、しばらくの間があってから返事が返ってきた。
「話が急なので、引き受けるとしても、少しスケジュールの調整をしなければならないから、三日後にもう一度電話をくれないか」ということで、電話は切れた。
 戸田は自分でもびっくりしたというような顔をして、電話の顛末を渡部社長に報告した。

 岩淵卓郎はこの頃、自分本来のオリジナルな現代音楽を作曲するをするというより、ジャズ、それも編成の大きな、シンフォニック・ジャズの編曲の依頼で、多忙な日々を送っていた。現場で音を変更するというようなこともなく、まず、その正確さ、的確で、効果的な楽器の使用法で、日本人離れのした、かといって、まるっきりアメリカのスタンダード・ジャスの受け売りでもない新鮮な響きで、その世界では認められはじめていた。残念ながら、彼が望むシック音楽の世界の評価ではなかったが……。
 岩淵自身も彼のジャズ編曲の評判が上がるにつれて、自己の内面的ジレンマに悩むこともあったが、日々仕事に追われる彼には、煩悶に悩む暇もなかった。いま彼はなにか目先の変わったことを望んでいた。いっそ一ヶ月ばかり南米にでも行って、向こうの土俗の音楽にでもひたってみたいという気持ちもないではなかった。これでは駄目だと、日々、思いながらも、売れっ子編曲者の彼に、状況はそれほど寛容ではなかった。
 昔、売れっ子の小説家のところには、雑誌や出版社の編集者が泊り込みで、作家先生の原稿の書きあがるのを、隣の部屋で泊り込みで待っていたというようなエピソードも多く聞かれたが、いまではファックスという便利な機械があり、その必要もなくなってきたようだ。
 しかし音楽の場合そうはいかない。作曲家や編曲家は総譜というものを書く。それにはいくつものパートの音符が書かれている。だからといってその譜面をコピーして各パートに配ればいいというわけにはいかない。そんなことをしたら、楽器奏者のほうは、譜面をめくっては自分のパートを探すのにおおわらわになる。だから総譜のなかから一つの楽器のためのパート譜を書き写す。もちろんワープロとかパソコンというわけにはいかない。手書きである。だから、かつての小説家の状況は編曲家のところに受け継がれていると言っていいかもしれない。売れっ子になればなるほど、編曲もぎりぎりにならないと出来上がらないから、写譜屋さんが泊り込みで編曲の上がるのを待って、その場で写譜する。
 写譜にはある程度の経験と知識が要る。なぜなら、譜面を書くのにもちゃんとした約束があるからだ。たとえば移調楽器というものがある。作曲家ないし編曲家は実音(ピアノの譜面のように譜面どうりの音)で書く人もいれば、移調楽器(クラリネットはおもにBbとA、サックスはBbとEb)の譜面はその楽器で吹いて実音が出るように転調した譜面を書く人もいる。最近ではスコア(総譜)も実音で書く人が多くなってきたそうだ。それは音楽(実質的には使用される音)が複雑になってくると、実音で書いてあってもわけがわからないのに、それに転調した移調楽器の譜面が入っていたりしては、もはやカオスである。
 モーツアルトやベートーヴェンなど、古典的な曲のスコアには移調楽器は、書かれたとおりの音を吹けばいいように、作曲家が移調して総譜に書きこんでいたし、それは作曲家のほうの仕事だった。また、作曲を志そうとする人はそのような譜面を眺めるだけでなく、いろいろな調性でで書かれたスコアを頭のなかでひびかせ、理解することが出来なければならない。なかにはサンサーンスというフランスの作曲家のエピソードが有名だが、まだ少年時代にワーグナーの膨大なスコアを初見で難なくピアノで弾いたそうである。  まあ、そういう天才の話を持ち出してきてもしょうがない。要するに、作曲家と楽隊とのあいだに立ってこの厄介な仕事をしているのは写譜屋さんである。だから演奏家は書かれた譜面通りに演奏すれば、作曲家の希望する音が出せる。この写譜屋さんにしてもそうだが、どんな世界にも裏方がいる。演奏会や演劇の舞台がうまくいくのも、これらの裏方がちゃんとした仕事をしているからだ。そして喝采を受けるのは、観客と直接対面する演奏家であり、俳優である。

 岩淵達郎は最初,クラシック音楽の作曲を志していた。しかし、現代音楽の行く末に幻滅して、アルバイトで弾いていたジャズ・バンドのピアノのほうにどっぷりと浸りこみ、むしろこの世界にもある、ある種の緊張感のとりこになり、魅せられ、ついにそのままこの世界に腰をすえることになったのだった。
 彼の編曲は、本格的な作曲技法の裏づけがあるだけに、また、現代音楽にたいする反発からきた明快さがあり、編曲者としてもその腕は高く評価されていた。だからもともと編曲者としても十分一本立ちできる才能をもっていたのである。そんな岩ちゃんが、なんで落ち目の花園さつきのドサ回りバンドを、依然として引き受けているのかは、この業界の謎だった。今度も花園の旅公演に出る前日になって、M市のSK興行のマネジャーから電話で、もり研太の歌三曲の編曲の依頼が来ていた。
 出発前の時間はすべてふさがっていた。編曲するとなると、旅先のホテルか列車のなかしかない。写譜はバンドボーイの村井ができる。村井は作曲の勉強がしたくて、岡山あたりのツアーのときに、岩淵の楽屋に自分の作曲したピアノ・ソナタをもって弟子入りを頼み込んできたのだった。
 彼はまだ高校生だった。岩淵には実際にピアノで音を出すまでもなく、譜面を見ただけでその音の響きがわかった。それは不思議なことに若い頃、岩淵自身が書いていた曲の響きに似ていた。岩淵は楽屋に置いてあったアップライト・ピアノの蓋をあけて、初見で難なく全曲を弾き終えた。全体で十四五分のわりと短いソナタだったが、岩淵は若い頃の自分に出会ったような気がした。
「君はこの音、どこで覚えたの?」
「ぼく、岩淵先生の曲を聞いて、すっかり好きになったんです。それで、ずっとその響きを探していたんです。やっと、少し、その音がつかめてきました」
「君は高校生? 何年生だい?」
「三年です?」
「じゃあ、大学は?」
「行きません。家に余裕がないんです。父が病気なもんで」
「そう、立ち入ったことを聞いて悪かった。じゃあ、高校を出ても家からはなれられないんだろう?」
「でも、ぼくは・・・」
 村井は岩淵が日本音楽コンクールに出した室内楽を聞いていた。入選はしたが入賞はしなかった曲だ。音楽雑誌には、岩淵の曲が入賞しないのはおかしいという批評さえ出ていた。村井は一応入選作としてほんの一楽章しか放送されなかった岩淵の曲に、すっかり魅せられたのだ。岩淵には、顔をほてらせながらその曲の印象を語る村井が、なんとなくいじらしく感じられた。
「じゃあ、今度また曲が出来たら見せてくれよ。おれは年中、ドサ回りをしているから、またこのへんに来るかもしれない。君のためになるようなアドバイスがおれにできるかどうかはわからないがね。おれは現代音楽にいやけがさして、こんなことをしているしがないバンド・マンだ」
「このソナタについて何か・・・」
「昔、おれもこんな曲を書いていた頃があったとだけ言っておこう。いまは、それ以上のことは、おれには言えない」
「ありがとうございました」
 村井はそう言っただけで、多少肩をおとしたようすで岩淵に背を向けてゆっくりと去っていった。
「村井君、おれは君に才能がないといっているんじゃないんだよ。才能なんてたいしたことじゃない。問題は君が貧乏に耐えながらその才能をもちつづけられるかどうかなんだよ。おれは貧乏にも耐えられなかったし、なけなしの才能すら保ち続けることができなかった。だから、いまはこうして、しがないバンドマンをやっているんだ」
 岩淵は無言で村井の背中に叫んでいた。
 それから一年ほどして、都内のホールで歌謡ショーのバンドをやっているときに、村井がひょっこり楽屋に訪ねてきた。父が亡くなったので、母に話して上京の許可を得てきたというのだ。いま、クラブであるばいとをしているということだった。
「どうするつもりなんだい、そのまま、バイトを続けるつもりなのかい?」
「できたら……」
 そういって村井は下をむいた。
「できたら、どうなの?」
 村井は意を決したかのように顔をあげた。
「先生のところの内弟子か、バンドボーイをやらしてください」
 実はちょうどバンド・ボーイが一人欲しいと思っていたところだった。いまの坊やはどうもひとところに腰をすえていられるような性格ではないことがわかって、代わりさえいれば首にしようと考えているところだったのだ。
「それじゃ、このあと一週間ばかり地方へ出かけるから、もどってからもう一度相談しよう」
 こうして村井は岩淵のバンドのバンド・ボーイ兼弟子として採用されたのだった。

「戸田君、もり研太さんは何時に小屋に入るか聞いているの?」
 バンド・マスターの岩淵がたずねた。
「聞いているのは、ぎりぎりになるだろうということだけです」
「いちおう、キーは聞いてそれでアレンジはしといたんだけどね」
「ええっ? 歌をうたうんですか? いや、ぼくは初耳です。それじゃあ、リハーサルくらいには間に合うように来るでしょう」
「さつきさんとも三曲ばかり合わせておかなきゃならないし、へたするとぶっつけ本番ということになるぞ」
「そうですか、困りましたね」
「口で合わせるだけでもしておかないとな。研太さんが楽屋入りしたら、すぐ、ぼくんところに来るように言っといてよ」
「わかりました、伝えておきます」
 戸田はそう答えると、花園さつきと河原をうながしてタクシーに乗った。
「市民会館」
「はい……、意やあ、花園さんをお乗せできるなんて、幸運ですな」
 老眼鏡をかけた小柄な運転手はお愛想を言いながらアクセルを踏んだ。
 なんの変てつもないこの町では、花園さつきの来演はちょっとした話題になっているようだった。


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