U−3印象と対象

U−(3)美的印象と美的対象

 

美的対象は、美的印象とは反対に、自ら(美的対象)に関連づけられた感情と想像との統一(結合)体である。だから、美的体験の一定の感情的要因を、独自的性格 に定着させるという行為によって、想像力p?edstav(a)の役割を増大させるという結果になる。したがって、客観的に設定(措定)された関連性、つまり官能的快感、想像(表象)、感情、興奮、その他のデータ(記述)が美的対象ということになる。
 美的印象そのものは主観的である。これらの要素の因果的、持続的、かつ連続的関連であり、その統一は、中断されることのない、持続的な経過である。
 その反対に、美的対象の関連性は即物的であり、現実的関連性に基づき、かつ事物(諸事象)のあるがままの性格に因った、同時的、かつ同一性的である。そして、それは関連性と判定の産み出したものである。
 この対象化は、すでに美的印象の過程において、少なくとも、嗜好性(傾向)として、観察の行為aktとして、事象に関する自発的評価として、我々が意識するものである。たとえば、これは嫉妬のドラマであるとか、これは悲しいメロディーであるとか、これは記念碑的建造物であるだとかいう具合にである。しかし、このような、きわめて単純な対象評価、いわゆる単なる命名はよりは一層高い、かつ有意的な対象化への分解と確定とともに増大する、等々。客観化の単純な行為から首尾一貫した意識的活動、美的対象の具体的再構築が展開する。そういうことが美的対象の記述の際に、もう起こっているのである。
 初歩的には何かを記述するということは、そこに何があるかを単純に述べることである。しかし、ある人物にとって、ある対象v?cを完全に、適切に、その全内容を、その統一的な特性を記述することがうまくいかないとしたら、それは、記述したいものが、単純でないか、まだ、完全に捉えられていないかであり、まだ、持っていない、そして、たった今、探しているところであるかである。
実際の記述は、探求と発見、ヘウレーカーの行為である。曖昧から明解へ、未分化の持続から分化された全体への過程である。美的対象は(すでに)与えられているのではなく、(これから)記述するか否かの問題である。
 問題は勿論、徹底的に美的記述である。それは純粋に対象の美的要因と効果にのみ目をむかるものである。このような記述は美的対象の構成以外のものではなく、その課題は、・体験された、多数のデータの中から、その事象に属するものを発見すること、何がその対象に関連nale?iするものであるか、何がその対象を、構造的側面から、また、機能的側面から性格づけるかを発見することである。
 
 しかしながら、純粋に理論的記述の性格のなかには、これまで述べられてきたことの、すべてを超越するという要求がある。
   1.第一の要求は――とデスワールは敷衍する――芸術作品の記述の際には本質的なものを選び出し、非本質的なものは排除する。
   その際、部分を個別的に計上することが重要なのではなく、重要なのはむしろ(個別的なもの)の関連性を示すこと、つまり、芸術作品の構造(オーがニズム)内での相互(の関係性を条件づける活動の)に関連し合う条件づけ活動の同時性を確定することである。さらに、きわめて捉えにくい固有性は、それ自体の中にではなく、むしろ先にも触れた関連性の内部において捉えられる。
 この理論的記述は受容手順の自然の結末であって、一つには純粋な思索的理解と、一つには対象の印象からの解放、しかしながら、いかなる場合にも言葉という仲介によって、最高に明確な意識にたいしてはっきり体験されたことを提示すること、受容の過程への連合することが感受することの結果である。
 だが、まさに、ここに問題がある。言語によって表現された対象と、感覚によってとらえられた感覚的対象と共通するものは何か?ということである。記述と描写された絵画との共通点をここで位置づけることができるだろうか? 
 物それ自体、絵画そのものは同一的に言葉に移すことはできない。だが、その代わり、その中にある法則性は概念的(言葉として)に表現することができる。記述と絵画の一致は、それらの中にいろいろな形での同一の法則性与えられる場合においてのみ可能である。そこでは事象の同一性ではなく法則の同一性である。つまり、結合された価値の同一性(Gleichheit der Knupfungswerte)である。それは、一旦は視覚的表象(想像)において消費され、また一方では記述の言語的関連性の中で消費される。
 ある確かな関連性が、絵画のあらゆる明白な構成要素に浸透している。その関連性がなくても、色や形は美的に無関係であり、同時に、無意味な言葉のなかに読み取るかもしれない。
 実際のところ、はっきりしたものは、何の関連もなく言葉にすることは不可能である。その反対に、関係は言葉によって表現され、その意味において確かめられ、評価される。何故なら、思想と言葉は絶えることない関係性そのものであるからである。92― 
 したがって、目的を意識した記述は必然的に、自己の対象の法則化を要求し前提とする。なぜなら、自己の手段によって、それを、実際、完全に獲得することができるからである。
 美的対象を判断の領域に移動させることは、同時に、言語的関連性の中に移行させることである。これによって、美的記述は直接的美的所与を不可避的に超越するのである。

   2.記述のごく自然的な目的は、諸事象をあらゆる側面を通して、あらゆる他のものから区別するために、存在するものの集団の中からそのものの独自性を取り出すために、忠実に捉えることである。
 あらゆる記述は個別化であり、比較である。記述された対象を他の記述と区別することは記述本来の発見的な原理である。しかし、他の事象に対するこの関係は直接的所与の決定的な逸脱であり、したがって、記述における第二の大きな要求は、美的対象の自律性と比較可能であるということになる。
 記述によって美的対象は外部の、対象相互間の関係性の領域へ移行させられ、記述によって美的対象は、それ自体に手を伸ばし、特別の関連領域に配列される。美的対象の自立的領域は、したがって、前提条件であると同時に、不変の土台であり、理論的記述の産物である。この両方向において記述は体験において与えられるものばかりか、一般に“記述”と呼ばれているものの境界をも踏み越えてしまう。そして、美的事実の自立的な改作となる。93
 しかし、この美的事実のより高い発展も、原則として美的に受容された対象の方を振り返る意識の単純な行為aktの続き以上の何物でもない。美の単純な印象とは異なり、ここでは常に美的対象が注目の対象となる。しかし、この客観性は所与されてはいない。それは、まさに観賞と判断と改造の目的であり、それは、見つかりはするが、だからといって、その証明はない。
 だから、ここに直接的体験とは正反対に、ある種の不安と障害が生じてくる。どんな新しい判断もまるで不安への一歩のようである。だからそれ(不安)と共に、不一致と誤りも大きくなる。
 確かに美の問題においては、主観的嗜好の不一致ばかりでなく、記述の不一致も有りえなくneplatiもはない。たとえば、ある同一の芸術作品の記述は、違った結果になる。94
 だから、問題が出てくる。そもそも、美的対象に関する客観的記述は可能であるか? 美についての客観的評価は可能か? これによって、美的判断の基本的問題が提示される。




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