V.1.2.Esteticky soud 美的判断

1.SUBJEKTIVNOST ESTETICKEHO SOUDU p.21/p22

美的判断の主観性   

 基本的美的判断は、何かが美しいか、それとも美しくないかを単純に証言することである。しかし、同じものが同じものが気に入るのと同様に、嫌いになることもありうるし、判断の場合に、そのものが美しいという判断を肯定する場合も、否定することもありうる。両判断とも同様の確信と正当性をもって提示される。したがって美的判断は普遍的に有効ではなく、その有効性は単なる主観的で個別的であるにすぎない。カントの『判断力批判』の冒頭に以下の通り述べられている。
「我々は認識を目的として、理性に基づく表象(想像)を対象と結びつけるのではなく、想像力によって主観に、また好き嫌いの感情に関連づける。したがって趣味の判断は認識的でもなければ論理的でもなく、美的(判断)である。その意味するところは、決定の元になるのは主観以外の何ものでもないということである。」95 
 カント派のクルケは同じことを別の言葉で繰り返している。「理性的判断は自らの観察内容を常に外部的対象に関連づける。しかし、感情的判断は、一見、外部の対象に関連づけられているかのように見えるだけであり、その(感情的)判断は完全に個人的である。それ故に、また、上記の個人にとってのみ有効なのである。」
 美的判断についても同様のことが言える。それゆえに「趣味の判断は訂正不能であり、その反対のことも証明できないし、取り返しのつかない事実(つまり実際に体験した感情)を告白する」96 「我々は事物については判断しない。そうではなく我々の内部で起こった印象について判断するのである。」97
 このカント的立場には二種類の主張が含まれている。
1.美的判断は客観についてではなく、主観について証言する。
2.美的判断は感情的なものである。そして、感情的判断は認識的ではない。
 だから、普遍的に有効な美的判断はない。
 これによって、美についてのあらゆる客観的判断は、前もって排除されたようである。しかし同時に、両論にたいする反発が起こってくる。
1.    美的判断が対象にたいして適用されないというのは本当か? 
「美的判断は客観的内容に対する客観的内容の有効性にたいする要求権を持っているか、または、主観についてだけ語り、(美的判断は)自分の状態についての主観の単なる反映を表現しているだけなのだろうか? 
 たとえ、ここで客観的原理となりえないとしても、それによって、美的内容としての対象についての判断のいかなる関係も否定されなければならないのだろうか? 98 このような関係は否定するわけにはいかない。なぜなら「これは美しい」という判定(評価)によって判断されるのは、実際には対象であって、決して主観の状態ではない。
 ヘルバルトによれば「美的に判断するものは、自分の対象に関わっているのであって、自分自身にではない。」 ヘルバルトにとっては勿論、美的判断は普遍的ではなく、個別的である。しかし「同じ関係の完璧な提示はいかなる時間であれ、また、あらゆる状況においてであれ、常に同じ評価soudを伴っている。」99
 したがって美的評価は量に関するかぎり普遍的でないとしても、有効性に関しては普遍的である。「美は感じられるだけでなく、 認知されるものでもある。音、色、等々の、いかなる組み合わせも我々にとって、好き嫌い(嗜好)の源泉(原因)である。」100
 では、一体、何によってこのような美的判断の有効性を証明するのか?
「個々の美的判断は(ハイムセートによれば)、個々の内容は、その有効性をまったく理性的に証明することはできない。これはあらゆる美学者や芸術研究家にたいする論理的警告である。しかし、美的対象という前提条件と、同時に、あらゆる認識作業と思索によって、その対象の中へ沈潜するという要求も在り続ける。
 超個人的有効性という前提の上に構築された美学にとって美的対象の決定が(課題として)存在するし、存在しなければならない。」101 だが、この超個人的有効性を何によって定めるのだろうか?
2.    第二の問題は、もし美的判断が“単なる”感情的なものに過ぎないとしたら、それによ
って、実際、あらゆる認識的価値は排除されるのだろうか? どうして、これが“単なる”?なのかと、ヴァラシェクは問う。「感情は、確かに、単純なケースでははるかに明確に語る。しかも、その機能を、理性のように、そう易々と抹消(取り消す)ことはできない。人間感情の繊細さは、鋭い理性よりは、高い位置を占め、より充実し、真理に近い。」102  
感情的判断によって、主観のほんの一瞬の状態が表明されるとしたら、それが、単なる主観の一部分か、もしかしたら、まったく基準外れの、異例のものではないかどうかを、また、全主観か、全自我であるかどうかを見極める必要がある〔前出、ヴァラシェクによれば〕そうである。 客観的、美的判断の基礎は「全主観の美的感情」である。103
 私の全自我に基づく、このような判断が、私にとってより高い、かつ、より持続的な有効性を持つというのは確かに真実である。だからといって、その有効性が、他の主観にとっても通用するという理屈にはならない。諸々の主観は、それぞれ同一ではないからだ。
 主要な問題は客観の方に投げ返される。客観との感連において、感情的判断は認識的なのだろうか? ランドマン‐カリシェロヴァー夫人は“そうだ”と認める。その一方で、感情citは意識の純粋に主観的要素であるが、主観的印象とは同じではないのではないか? と疑問を呈する。
 もし、印象の総体が問題なら、そして印象が我々の感覚器官と諸客体との持続的関係であるのなら、なぜ、我々の感情の客体にたいする恒常的関係も、その客体の本質として認定しないのだろうか? たぶん、印象と感情との間の区別は一次的との二次的質との間での区別のように認識論的ではないのだろうか? 赤は何ゆえに、諸物の、美にたいして当てはまらなければならないのか、それとも、まったく何物にも当てはまらないか? 
「美的感情は、他のいかなる感覚器官の受容と同じような、直接性と、確実さ、不変(恒常)性を獲得するという点にかんしては、反論の余地はない。」104
 そこから、「美的判断は官能的判断の客観的有効性関するものと等しい」そして「同じ意味において、美を官能的質として物の本性として評価するべきだ」105 という命題が出てくる。結局、そのすべてにおいて、問題となるのは、美的判断の客観的有効性は保護されるということである。
 美、そのものについて語ることができるためには、美についての学が可能であるためには、美が有効かつ正しい美的判断の対象であるようにする必要がある。そしてそれは、もちろん、主観主義を前提としては有りえない。
それによって、「常に、どこでも、個人主義的主観性を克服し、排除するよう努力する、あらゆる正しい学問的方法論に反して――すべては趣味と、個人的感情と、個々人の感性に委ねられる。」106
 したがって、問題は、普遍的に有効な、正しい、正当な判断は可能だということである。


 V−2.NADINDIVIDUALNI PLATNOST ESTETICKEHO SOUDU

    美的判断の超個人的有効性

 美的判断の現実的かつ普遍的有効性を端的に否定することは不可能である。その反対に、経験も歴史も、あまりにも強調して語っている――:一つには、現実生活の矛盾、非寛容、混乱であり、また一つには、過去の批評的半的のドグマ性と一過性である。
その点については、十九世紀の芸術批評の歴史を展望するだけで十分である。たとえばドラクロワ、クールベ、その他印象派の画家、等々の生涯である。――これらの事例は、きわめて深刻である。
 美的判断の超個人的有効性は簡単に提示することはできない。その代わり、その証拠は異なっており、すぐにでも何種類かのものが出てくる。
1.    まず、最初に証明できるのは、美的判断の有効性は限定的であるということである。かくして、すでに、シュライエルマッヒャーによれば、美は、確かに、同一的(したがって、美について判定することは可能)である。ただし、ある人々の一定領域内においてである。――つまり、『民族的差異』である。107 ミューラー‐フライエンフェルスによれば、美的判断は絶対的でもなければ、普遍的でもなく、一般的である。つまり多くの個人にとって、すなわち、“類”にとって有効な108 ある種のタイプの人々があり、また、多くの場合、このようなタイプの内面に有効な美的判断でありうる。
同じく、マックス・デリによれば、『普遍的に有効な美的判断はなく、あるのは、グループ的判断のみである。その判断は、どちらかと言えばrelativn?、単に、同じ性向、同じ経験を持った個人に当てはまる。』
 それとも、生物学的概念“属”、または心理学の概念“型”の代わりに、社会学的概念“コミュニティー”を据えることもできる。だから美的判断は、(例えば、ラロの場合)社会的認可となる。それは一定の社会組織にとっては、絶対的に有効となる。109
 それが普遍的である限り、それが社会的に支持されている限りにおいて、それは集団的、拘束的、規範的判断である。やがて、それらの中で「よく組織されたもの、持続的なもの、そして抵抗的なもの、そして、また、それ故に、正しいと呼ばれるものと、そして幻想、幻覚と呼ばれるにふさわしいものを区別せざるを得なくなる。それというのも、変化しやすい(移ろいやすい)、あまり堅固にではなく組織され、一定の、または、より変化する 環境に植えつけられるからである。」110
 あるいはまた、究極的には、美的判断が普遍的である限りにおいては、ある程度の時間持続できるだろう。「美的真実もまた、時代の抗争の中で、美的であると証明される。」111
しかし、これらのすべてをもってしても、それらのものの理論的価値定立するよりも、美的判断の現実的不一致の方が説明されるべきであろう。確かに、先祖や気質、グループ、社会、あるいは時代が語り継いできたドグマ、偏見、誤謬などが存在するのも確かである。この問題から理論的有効性は、いずれにもせよ、広範囲に通用する有効性は出てこない。 
2.この考え方は全く異なっている。美的判断は、もちろん多岐にわたるが、これらの判断は、すべて、かつ、完全に美的である! だから、コーウェーCorweghによれば、美的判断の多様性は超美的要因に依存している。それらは、真実、超美的要因を凌駕し、美的であるものをつかみ取る必要があるという。
「判断は(あらゆる超美的要因を排除しながら)すべてのケースにおいて平等でなくてはならない」という無意識の確信は芸術学の基礎となる。112 
 オーマンによれば、「芸術作品が、自分の美的側面(嗜好)に即してではなく、道徳的傾向や、題材的(素材的)、意義および、知性的に把握された尺度――そこには、個人的にまちまちな、部分的にはまったく非美的な対象までもがあり、その対象をA氏またはB氏、さらにX氏までもが、同一の作品について意見を述べ、判定する。」「それは全く論理的前提である。芸術的本質としての芸術作品であるところのものは、純粋に美的観照の中で 各個人に、一義的な内在的必然性として現象する。なぜなら、それは対象の法則zakonそのものであり、その(法則の)要求は、それによって認識されるからである。
 ここから「最高位の法則と究極的規範normaが出てくる。芸術作品の前では純粋に美的にふるまえ!」113
 モイマンによれば、美的判断は、通常、思われているように、それほど恣意的ではない。 なぜなら、判断の多様性は個々の人たちが、様々な場面で、実際に異なったもの――ある時は形、別の時にはむしろ内容、等々――によって説明される。
「しかし、大勢の人々が同じ条件で美的判断をするときは、どこでも、彼らの判断は一致するだろうということを承認せざるを得ないだろう。」114
 結局、シューベルト、ゾルデルンによれば、美的判断の普遍性は、美的嗜好の無関心性から導き出せるという。
「なぜなら、監察の対象から見えてくる、観照(瞑想)のいかなる目的も、いかなる個人的好き嫌いも、切り離されて見えることによって、他の誰かにとっても単なる観照のみで満足するということを前提としつつ、私だけのものではなく、誰のものにもなりうるという視点に立つ。同じ内面的条件のもとに、美についての判断も普遍的に有効となる。」115
 上述の諸見解のすべてに即して、真に無関心な(先入見にとらわれない、偏らない)、相対立する美的判断の中のそれ(ひとつ)が純粋に美的であるだろう。美的判断の有効性の基準は、ただ一つ、判断が起生する(因ってくる)ところの元である美的行為の純粋性である。
 しかし、私は、何によって 111 他人の主観的観照をコントロールすることができるのか? 彼らの判断が私の、仮定的な、純粋な美的判断と一致しないからと言って、その(観照の)純粋性を、端的に、否定する権利があるだろうか? 
 私は絶対にないと考える。もし、主観が多様だとしたら、それら独自の多様な純粋さもありうる。私にとって嫌なものでも、他の者には純粋に好きな対象であるということもありうる。したがって、純粋かつ正当化された判断でもある。
 しかし、「最高に教養のある少数派には」とマックス・デリは考える。「すべての人間の全体を拒否することによって……、正当化された判断から発言された価値判断でも拒否することが許されたままである。
我々は、もはや、我々が理解できない、このように個人的に正当化された判断に直面して
上記の人物がなにも理解しないのではなく、むしろ、まさに彼自身が低価値なのだとを言うのを止めよう。」116
 しかしながら、自己研鑽を積んだ少数派でさえ、と私はあえて言う。人間の価値、無価値について、とやかく言う権利を持っていない。誰かが何かを判定しようと、それはその人間の問題だ。もし、彼の喜びが純粋で、強いものなら、その喜びを過小評価する権利は誰にもない。
 群衆、観客たちは低価値だということもありうる。なぜなら、群衆には中核(心)がないからだ。しかし、誰かが自分の最も私的な生活にとって何かを発見し、美しいと判断したら、他人には干渉をゆるさない、純粋な判断であり、(他人が)自分の純粋判断によって評価することは許されない。
3.(25枚目)だが、オーマンはさらに語る。美的純粋判断にも、また、相違がある。美的対象が体験されるためには、ものすごく複雑な機能が必要となる。だから、ここでは、知覚能力、記憶、再創造の想像力fantazie、注意力、才能、訓練に関しての多様性が提示される。それゆえ、美的対象は芸術家が意図したような全面性と、効能を伴った意識において、常に、実現されていない。ここから判断の多様性が生じてくる。117 
同様、エーヴェルトによると、美的判断の多様性は芸術作品の豊饒さの中から選び出されたものに過ぎない。それは互いに対立し合うものではなく、むしろ、思考的に自分流に、自分と並行し、自分をえるものだ。118
こうして複雑化する判断をその(対象の)多くの側面を通して、美的対象の複雑な描写に融合させることが可能かもしれない。そして、相違点は単にそう見えるだけかもしれない。
 いずれにしても、同一対象にたいして「それは美しい」また「それは美しくない」という基本的判断が主張されるとしたら、対象の複合的評価を、内面的矛盾なく、一つにまとめるiのはかなり難しいのではあるまいか。――
 これらのすべての試みにおいて問題となるのは、少なくとも一定の制限の中で(範囲内で)美的判断の普遍的有効性の保護である。この、一定の範囲内で有効性が保護されるか、または、判断された内容のアイデンティティーは主観的規範に結び付けられている。
 しかし、これらの制限は、直接的確信と、美的判断が証言される無制限性とは完全に相反しており、ここで念頭に
 美的判断に規範的有効性を付与する者は、そのことを念頭に置いている。



  美的判断の規範性