U.美的印象 (1)構造的側面から
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私は絵画上に人物または風景を見ている。そして、その中に私は、何か内面的なもの、気分的な表現を楽しんでいる。だが、“実は”私の前には風景もなければ、心象的なものもない。あるのは、絵の具を塗りたくった麻布(カンバス)があるだけであり、結局は心理学的視点から言えば、私に与えられるのは、“もともと”単なる感情であり、その一方で、その他のすべてのものは、“風景”も“表現“も、主観から、それに付与され、経験から連想され、統覚的集合体として結合されたものである。
これによって美的印象の中で、“主要的”刺激原因である感情の要因と、“二次的”または“連想的”(再生的、統覚的)要因とが区別(仕分け)される。つまり、二次的要因は、自ら刺激に密着し、それを共に体験し、ついには喜びと悲しみの感情をも共有しながら、その両方の要因(一次要因と二次的要因)に結び付くすべてを包含するのである。
“我々が何かについて想起するとき、その好きか嫌いかを計る尺度があれば、それを思い出すことによって、この記憶が美的対象に対する好きか嫌いかの動機付けの決め手になる。”42
当然ながら、これらの記憶は、きわめて、多様である。なぜなら、精神は、絶えず新しい映像が降ってくる記録されていないノート(紙片)であるばかりでなく、潜在的気分と残滓物で満たされているのである。”43
したがって、“連想は、一定の精神活動(心理的行為)に刺激されて生まれた恣意的再現として捉える必要がある。”44 しかし、たとえ、偶然的刺激だったにしろ、その刺激に、それなりの反応をしないほど、孤立感や、隔絶感などというものはない。とくに、感情的な美的体験は、まったく個人的な思い出や回想、空想の作用によって沸騰し始めるだろう。45
そして、まさにここに、すべての連想は美的に等価であるか、並行的か、すべての(連想)は同様に“対象v?ciに含まれるか”という疑問が提示される。それらの連想の間には、すでに、我々を、ある一定の、お好みの対象から、解放しており、それが我々に与える快感は、もはや、初めに与えられたものとはちがっている。だから、我々の美的判断には、もはや無意味なものとなっているのである。46
結局、それ(連想)は我々を美的行動の枠外に閉め出すことになる。だから、キュープレは本来の美的連想を次のように定義する。
すなわち、連想的要因は直接的単位とともに、“知覚概念”を作り出さねばならない。観照的価値を持たねばならず、必然的かつ一義的因果関係の中で直接的要因と共存しなければならない。47
ショウヴェロスも同様のことを発見する。連想は、“対象との間に、客観的かつ必然的関係が設定されるかぎりにおいて”また、“本当の反対者”を持ち、“対象と自然で、正真正銘の関係で結ばれている”かぎりにおいて、(連想は)美的受容において必要不可欠であると・・・。」48
ラウリラは、美的統覚に、我々を解き放すどころか、逆に、所与の対象の中に場所を占め、絶えず我々を所与のものへ連れ戻し、その存在理由としての理念(考え方)のみをつけ加える。49
また、アレシュによれば、適切な美的観照に属するのは所与の現象に結びついた(創作)意図のみである。そして、その意図は所与の現象の中に自らの意図が果たされていることを発見する。もちろん、それが発見される場合に限りだが・・・。50
このような仕分けは、単に理論上だけに留まってはいない。実際、我々がその対象に属するものを保存し、それから取り出したものを整理するための美的体験の改訂、ないしは査察のようなものがしばしば行われているのである。
もし、誰かが、いつでもいい、いま、観賞しているその対象が何か、その内容は何かについて発言をしようとしたら、いずれにせよ、その選択を行っているのである。
それは選択には二つの意味がある。
まず、第一に、それによって対象に注意を)向け、その上に見える、ある美しいものは何か、それは本当にその対象の属性なのか、それは印象から出て“自分の”美的実体につながっているのかどうかということである。
しかし、第二に、ここに選択された作品は、必然的に、最初の印象の中にある、何か未完成なものということになる。直接的印象は首尾一貫した経験であり、この自然な充実と、完結性は、いま分離された要因にも付随している。しかし、この印象の分割によって、本源的な、生き生きとした統一性も破壊される。しかし、この分割には統一の発見以外の目的はない。(その統一は)直接的要因との“明確な関連性”として、対象(客観)に対する“生得の(固有の)関係”として、感覚的データという形での“充足”その他、に限定されている。しかし、これらの新しい要因は決定的(に重要)なものである。
感覚は具体的な必要性の迫られて直接的要因へと導かれる。それ(直接的要因)との協力によって作られる統一は、もはや体験の因果関係に基づくものではなく、現実の“対象の状態v?ci”との関係に基づいている。共存の関係の関係の代わりに、競争関係が生まれてくる。美的印象の代わりに、美的対象が登場する。それは客観的に基礎づけられた、すべての要因の統一であり、それらの要因はある一定のケースにおいて、“対象v?ci”に帰属するものである。
ただし、この点は連想に関して当てはまるだけでなく、直接要因にも当てはまる。視野に入って来るものすべてが、視覚的、美的対象に含められるわけではない。ここでは、“対象に対する”視点によって支配される選択が行われるのだ。
結局、直接的要因は書かれた市の中でのように、いとも簡単に消えてしまうことがある。しかし、ここにも、美的対象、つまり、想像力の具体的関連、諸対象の必然的接続(連続)を組み立てよう。
美的対象の、この手の理解は、ごくありふれた美的体験の一種であるが、我々は自分の嗜好の対象を慎重に振り返るために、また、それをしっかり理解し、把握する。そのためには、受容体験、それ自体に関しては、自分を消極的受容から、または、精神的(内面的)“怠慢”から分離する。そして、さらに美的体験の後には、我々は本来の、我々の持続的印象の、長続きしない対象であるところのものを、さらに維持し、明解に発言し、あるいは清明な意識に対比させる内面的努力に集中する。
我々が、自分の気に入ったものを捉え、定着させようと努力するのは、すべて、提示されたものの多さ故に、対象の属性を統一し、整理をしようとする試行の一つなのである。
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