造形技術鑑賞における美学の客観的方法

  T.基本的問題 


  (1)美的主観主義
  
 日常生活の中で美しい物や美しくない物など、諸々の物ついて語るとき、美が相互に自分と他とを区別し、それぞれの美が特有かつ感知可能なその物の性質として客観的に備わっているかのように語る。そして、ある物が我々の気に入った場合、それは、我々がその物の性質と、その確かな手ごたえを認識しようとするかのようだ。
 しかし、すでに経験的にも証明されていることだが、ある同じ物が私には気に入るが他の人の気には入らないとか、また今日は気に入るが明日にはもう気に入らない。また、ある時は、それが「美的である」と認めるが、別の時にはもう認めないとかいうことがある。だが、それにもかかわらず、その時のある物それ自体の客観的状態と性質には、いささかの変化もないのである。
 いろいろな人の年齢や身分、いろいろな人種や時代によって、何を美と見なすかという点で見方の差が無限に広がる。気分、習慣、気性、教養によっても、物の美についての見方が変化してくるのが、だからといって、その物自体が変化しているのではない。
 こうして美に関して評価を定めるのは人間の心、感情、“趣味”であるという理解に立ちいたる。したがって美は対象そのものに因るのではなく、むしろ、受容者の印象に依存しているのである。その彼にとってある物が美しく見えるか見えないか、それは、まったくのところ受容者の印象に依存しているのである。
対象は、我々の感情にとって、そして、その感情を通してのみ美しいのである。当然、その証明は、趣味の多様性には自ずとその限界があるということを立証しようとする試みによって果たされるだろう。
 ヘルバルト派の形式主義美学は、絶対的に美しいという諸感情、または諸観念との間には諸々の関係があることを証明した。誰もが不協和音よりは、協和音を好み、非対称性よりも対称性を好む。また、不統一よりは統一好む、等々。しかし、これは美的経験のすべてに当てはまるわけではなく、ごく一般的な形式(論)でしかない。不協和音、非対称性、矛盾の方がより好まれるという場合もある。したがって、好み(嗜好)もまた、純粋な形式においては相対的である。
 これとはまったく別の方法で同じ目的を目指しているのが、フェヒネルの実験美学である。この方法は、もっとも多数の人たちに気に入られる初歩的な形式を統計的に確認したものである。しかしながら美は投票数で決定されるものではない。
だからシーガルが証明したように、心理学的美学実験は01、平均的数値獲得のための手段ではない。平均値は発見された結果の実数であるかのように見せかけるが、個々に異なる多様な要因の発見のための手段であり、それはまた、好き嫌いの主観的(必要)条件の探索を許すための手段でもある。 
 実験美学は「最も美しい関係を定義するというよりは、美的体験の経過のあいだに意識の中で何が起こっているかという問いに答えるはずのものである。」02
 しかしながら、結局は統計的かつ形式的美学も趣味の同一性(共通性)にもそれなりの限界があることを、不本意ながら認めている。
 それ(その美学)は、非常に空疎な、極めて曖昧な美的印象しか呼び覚まさないいくつかの形式の範疇内に閉じ留められている。初歩的形式は本当の美の実例どころではない。単純素朴な形式は、本当の美の見本どころか03、せいぜい美的嗜好の、きわめて周辺的範囲内の事例にしか過ぎない。
そこから事象v?ciの複雑な美が生まれることは、ほとんどありえないことだし、「素朴な美的印象は、複雑な美的事実とは種族的にも異なるものであり、」04 「ある可能性、たとえば、多くの人物を描いた絵画の方が、数本の線から構成された幾何学的描画よりも、観覧者のなかに、より一層、単純な美的経過しか呼び覚まさないという可能性を受け容れざるをない。」05
 しかし、複雑な美的対象は、必ず、趣味の同一性の枠の枠を越える。したがって、美は個人的趣味の問題となり、「趣味の客観的原理などは有りえない。」06 それは経験の結果であると同時に、哲学的美学の立脚点でもある。
「対象に貸与された美の光輪は、我々(人間)の本性に由来するものである」とリープマンは言う。07
 また、ロッツによれば、「内面的価値が対象に備わっていなければならないという意味で、対象自体は美しくない。「生きた精神が、幻覚によって、自分を破壊しようとする形象の冷たい光の上から、自分の暖かさで覆いかぶせる。」08
 もし、対象が美的として我々が気に入るならば、とH. ジーベックは主張する。それは“我々の問題”であり、それによって対象の本質に何一つ付け加えることもなければ、削減することもない。主観はこの付加を行うか行わないか、ある程度の自由裁量権を持つ。
すなわち、問題を美的観点の元に置くかどうか、それは主観の自由意思に任されている。この付加の本質は、客観性に委ねられているのではない。主観は、美的性質という付加物が、その対象から生じるように(主観の都合に合わせて)その対象を加工する。09 
受容者は美を自分から物にたいして授ける。快感はあらゆる美の源泉であり、あらゆる快感の在る場所でもある。対象それ自体は美的である、“但し、一連の主観的過程の象徴としてのみ”10 美的であるに過ぎない。
「あらゆる美は、主観の受容者がであることによって作られる。」11
自分自身が美的である物はない――我々の概念が、はじめて物を美にする。したがって、美的対象の性質によって、美を性格づけることはできない。12
「対象の美的性格は、対象は主観の美的行動の原因結果の関係に立ちうる事実である。」13
したがって、美は自分の主観にたいしては存在しない。「美は幻覚である」14
これは事実、哲学的美学にとって究極の言葉のように思われる。だから美学の問題は美的諸物の客観的性質の確認であるはずはなく、むしろ、主観の美的体験の研究である。



(2)美学における心理学主義

 もし、美が主観的なら、主観の、ある特殊な美的性質が存在することになり、それを趣味とする考え方がポピュラーな概念に一番近いところにある。好きか嫌いか、意見の不一致を意識するや否や、美の問題を単に趣味として奉仕しておくわけにはいかなくなる。
アイスレルの公理に無意識に反抗する何かがある。「美なるものは、誰かの気にいるものか、それとも誰かが気に入るだろうものである。」15 
すべての物は気にいられることができる。しかし、すべての物が同様に美しく、価値があるわけではない。もし美を客観的に証明することができないとしたら、とりあえず相対主義から通常の美生活の援助を受けて、趣味を評価し、よい趣味にたいして気に入られた(適合した)ものだけを、本当に美しいとするしかない。
趣味は美的実践(体験)を積むことを要求する。だが、ここに問題が起こってくる。それは何によって良い趣味と悪い趣味とを認知するかである。一般的な(ポピュラーな)定義によると、よい趣味とは、本当に美しいもの、価値ある物だけに感応するものだというのだが、これは間違った結論(循環論)である。なぜなら、美の例証が再び、よい趣味にしかならないからである。したがって、趣味の分析から離脱vyjitする必要がある。
そのことについては、すでに古いイギリスの美学が、それに、たまたまバウムガルテンからカントにいたるまでのドイツ美学が試みている。16
たとえ、趣味vkusが「内面的理解」、ないしは「感覚的認識の完全性」として定義されようと、「判断力の巨大さ」、または「理性」として定義されようと、趣味は常に、物の美について断固として有効な、さらには、削減不能な、特別の巨大さ、能力なのである。
これらのこと、すべてによって『趣味』に与えられるのは、もちろん、たった一つの名称でのみである。だが、重要なのは、これによって受容する主観の美学の心理学研究が始まるということである。
 分析心理学は、もともと、すぐに趣味に対応するような、何らかの特別の心理大きさ、ないしは、力などというものは存在しない。そうではなく、趣味は、個人または人間集団における美的印象および反応の、一定の相対的共通性(同一性)に対する、単なる名称に過ぎないのだという認識にいたった。
  実際に存在しているのは個別的な美的体験のみであり、そこに何か共通のもの(がある)を持っているということだけが、我々をそれらの体験を保持し、導く、一つの持続的に作用する力(ヴォリューム)を、それらの体験の属性とするという結論に導く。
 体験を分析するのは心理学の仕事である。したがって美学は心理学の研究手続きに従うことになり、それは“実用心理学の一部門”となるか、17“快楽主義研究という特殊部門”になるかである。18 それどころか、“その役割は純粋に生理学的なものとなる。もし、美学が美しさを分析するということになれば、その意味するところは、我々の内部で起こる受容情況の過程を観察すべきだということになる。”19
 “美学は、美が我々に影響を及ぼすもととなる印象(感動)に関する学問であり”それは感情の一般心理学の一部門である。20 “美学本来の対象は、受容する人間の中での心理学的経過と状況の分析である。”21
 しかし、美学が心理的学習であるとしても、そのことは、美学全体にとっては、単に、ほんの部分的にしか妥当しないものだった。その美学に対する刺激は外部からやって来た。つまり、心理学の発展と進歩がもたらしたものであり、それはまた実証主義科学精神の哲学世界へ向けての勝利宣言(勝ち名乗り)でもあった。
 それによって美学は二者択一の選択肢の一つという地位を獲得する。つまり、その美学は思弁的か心理学的か、それとも、(その美学は)純粋な構想か、科学(学問)v?da かという選択である。
 さらに、Yrjo Hirn は美学における心理学主義を「美学は科学の進歩とともに(歩調を合わせて)進まなければならない」と、率直に提言している。22 しかし、心理学的美学の課題は、これまで、かなり長い間、はっきりしないままであった。
 ヘルバルトとフェヒネルは美学において、過激な心理学者たちの最初のグループに属していた。しかし、同時に、ヘルバルトは主観から23、また恣意から、直接(美を)抽出しようとしたが、また、心理学的美学のなすべきことは、美の概念を定着させることである、とも言っているが、24 実際には、それ以上のことをした。そして、一ダースほどの美の法則を定義した。それによると、心理学的美学は美の客観的特徴を発見するべきだというのである。
 その次に、心理学は内面的体験の範囲が限定されたとしても、誰の内面的体験を研究すべきかについては、美学には全く不明なのである。サリーSullyの提案によれば、「拡大された美学」は、同じく、民族の精神的発達についても研究することが可能だろうという。25
 ルシアン・ブレイは動物の趣向も勘定に入れるべきだとし、ヴォルケルトによれば、美の研究領域の中には鑑賞者の内面体験ばかりでなく、芸術家の内面体験も含まれるという。26 しかし、そのおかげで、美学は異なる研究の集合体、共通の問題性として乱暴にかき集められた美の塊(集合体)と化すだろう。限定された学問の独自の題材に関して、研究対象の共通領域については言わずもがなである。
 実際、心理学的美学の振りをする(として売り込む)物の総体(総合)もまた、あまりにも雑多に見える。ここでは、美的領域の断固たる統合のみが、解決の糸口となるだろう。それは、(研究)領域が、美的受容の領域として、批判的主観主義の意味で制限されることによって、実行されるだろう。受容されるもの以外に美的なものはない。しかし、受容されるものもまた、心理学的現象であり、受容過程の部分である。
「美学の研究対象は知覚の土壌の上にのみ生じる。」27 外面的(研究)対象は、「美的行動を引き起こす刺激(部分)だけである。」28 美的反応を外部の対象(を何か)に関連付ける権利は我々にはない。
嗜好は「心理的現象だけが、本質的に、その発生に重要な関わりを持ちうる」現象と見なされる。そして、我々は外面的対象(外からの刺激)が存しているところでも、嗜好は感覚というような、外的刺激の単なる印象ではなく、それらによって呼び覚まされた現象と、その他の心理的データの、まさしく効果なのだという意見に満足しなければならない。」29
すべての美なるものは、受容の中においてのみ発見することができる。嗜好の対象は、嗜好それ自体のように、事実であり、同じく良心と同じく主観的である。
美的対象と美的受容、美と美の印象は、純粋に、受容者個人の意識の中で演じられる一つの心理学的経過の部分である。それらの部分なしに起こるものは、美学には属さない。その結果得られるものは、事実の観察という閉じられた領域だ。ここにいたって、初めて、美的受容の心理学が美学全体となり、美そのものについての、唯一の詳細な理論となるのである。ここで批判的美学が心理学的美学に変身する。



(3)心理学主義の不十分  P.5

 しかし、以上の集中論議の中で、たちまち明白になってきたのは、心理学的美学が、事物の現実的状態に対して、依然として、借りを負った(負の立場に立った)ままだということである。
たしかに、人間は美の受容者であるにとどまらず、人類の全歴史を通して絶え間なく美の創造に尽力してきた。そして創造する側も受容にたいして無関心ではなかった。
芸術家は我々にとって、単に、 何らかの刺激の仲介者であるばかりでなく、その刺激は、我々サイドの適切な受容があってこそ、初めて美的なものとして成立するのであるとはいえ、芸術家の創造こそが我々の美的体験を生み出す美の源泉であるかのようにも見える。
いまここで、芸術家の立場に少しばかり接近してわかるのは、芸術家は、そもそも、美と無縁なものは何一つ創造していないということである。むしろ、芸術家が創造するのは、正真正銘の美であり、我々が受容するのは、単なるその反映に過ぎない。
そこで問題は、美学は、否応なしに、正当化(権威づけ)を拒否するべきか、それとも、端的に、芸術家の立場を無視すべきかどうかである。30
創造は快楽主義を超越する。
あらゆる美はある意味で、我々の精神の賜物であり、受容者もまた、自分の内面から美を創造すると言われている。「美しい物に対する、好き嫌いを最初に意識するに際しては」とボサンケは書いている。「我々は美の特殊な、固有の性格まで感じ取ってはいない。だから、その段階では、疑うまでもなく、我々は、依然として同じ段階、受動的、ないしは、受容者的状態に留まっている。
しかし、観察を続けているうちに、我々は特殊な快感、ないしは興奮に襲われるといった状況の中で、上記の感覚が呼び覚ますことのできる、つまり、美の個性のすべての深みの中で、美の多様性を評価する、単なる観客という立場を放棄して、そして、心の表現と証言へとそそのかされた製作者精神の立場を取ろうではないか。」31
同じく、クローチェによれば、どんな観察も、表現であり、形作りであり、精神活動、創造である。芸術家は自分の直観を形作る、しかし、どんな人間も、直観的に観照し、それから創造する。32 
しかし、たとえ非芸術家の美的生活の中で、創作者の役割が、どんなに小さくても、芸術活動が我々の中で完全に圧殺されていたとしても、これらの創造の役割や活動が、我々に「最も日常的な、もっとも親密なもの」だということ33 人間と美との関係は、需要いよって消費しつくされるものではないこと、および、ここには、さらに緊密な、活気ある、創造という関係があることを忘れてはならない。それは、美学に芸術家の立場に立つことを要求する、主要な要因である。
美学は(モイマンによれば)問題解決の糸口を、芸術と美の世界を実際に創造した物の中に求めるべきである。それは人間の芸術活動が起こる場であるところの、芸術創造と、初歩的諸動機の体系である。」34
芸術的創造に注目することは「美を、誕生の瞬間に捉える」ということを意味する。天才は彼ら(?)の定義によれば生きた美である。」35 観客は間接的(二番手の)創造者である一方で、芸術家は直接的創造者である。」36
ここから、美学の最高の課題の決定までは、ほんの一歩の距離である。それは彼(芸術家)の内面生活の中に、そして彼(芸術家)。の芸術的創造の中に理論的、芸術タイプの構築である。37
もし、美学が芸術創造の普遍的、または記述的心理学に帰結するとしたら、ここでは問題外である。38
重要なのは、美に対する人間の別の関係が現れてくることだ。それも二つの方向に分かれている。つまり、ほとんどすべての人間に物造りの経験、芸術的創造の経験があること、たとえば、少なくとも、何かの飾り付けをするとか、美的興味をもって適応させる、小ぎれいさを満たすために、(そのもののために)何かを手作りすることによってである。
だから誰もが美は単に受容されるだけでなく、製造されることと、実現されること、そして、ある一定の活動の客観的結果だということを知る可能性がある。
芸術家の視点から言えば、美は真っ先に仕事の課題であり、目的である。しかし、この課題を全うすることは主観的な、思考の中においてだけでなく、客観的な、具体的に定められた、現実的な(課題)である。美的創造の経験は美的客観性の経験である。
2.未熟で不完全な受容者なら誰もが、芸術作品を芸術家の作品と思うだろう。これによって、芸術家の創造的仕事は無条件に肯定され、その客観的成果がその作品の美であり、それを作り出した人間の成果となる。その結果、美には私とは別のところに、私の体験とは無関係のところに場が提供される。なぜなら、芸術作品に自分に由来する美を付与するのは私ではなく芸術家であり、私はその美を発見するだけだからである。
芸術家の認証(評価)に際しては、いずれの場合も、美に、受容体験の枠を超えた、新たな客観的現実(リアリティー)が(付与)授与される。39 芸術家の認証にたいして我々は美の(美的)客観性を要求する。その結果、早くも、美の客観性という第三の要求が提示される。
その第一は、初歩的なものである。そして、まさにそれ故に、諸物が客観的に美しいか、美しくないか、美が、それらの物に備わった本当の物なのかどうかに執着するのだ。
第二に、本物の美か見せかけの美かを、趣味の仲介によって実践的に区別することに、そして、最後の第三番目は、芸術作品と芸術そのもの客観性と、芸術それ自体に執着するのである。この第三の要求は見逃がしてもかまわない。



T−4  美学における客観主義の三つの要求

1.    
初心者の視点の有利さは、それ(初心者の視点)が美の直接的体験のほとんどのケースに対応しているということである。美は、この場合、単純明白な所与(提示、展示)として登場する。直接的に客観的なものとは、所与の対象であると同時に、その対象の上に我々が見出すものすべてである。したがって、所与の対象の美も、表現も、感覚、その他も、また、客観的ということになる。
「私と関わりなく自己目的的に存在し私から賞玩される物、一見、私の恣意に左右されていないかに見える対象は、私がそれをエンジョイするためにだけ存在し、または機能しているのではない。そのすべてが、美的対象を客観的所与の列に加える性質なのである。」40
もちろん、心理学的視点から見れば、それは「本質的に」別物である。感覚からのみ組み立てられた対象、および、その他のすべてのものは、主観の内部で起こる、(感情の)因果的(推論)関係の必然的な結果に過ぎない。
 しかし、現象学は例の直接的発見を、いち早くu? 捉えている。ただし、初心者の視線で見た「美しいものrasna v?c」は現象学の場合u ni、「意図的」ないし「理想的」対象となる。それの記述(記録)は、可能な限り、実際の体験za?itkyに接近する。41 
 初心者の視点と現象学的視点には、双方に共通する利点がある。つまり、直接的体験という基礎の上に立っているということだ。その直接的体験を捉え、それを取り替え不可のものとする。しかし、同時にその利点は、直接的証拠の土台だけに留まって(こだわって)いては、その土台を踏み越えた途端に起こってくる諸問題に、対処できないということが弱点でもある。

2.    
このような問題は何よりも実践的だ。実際の生活において、我々は美や嗜好に関する証拠の代わりに、各人の相反する異論や見解同士のせめぎ合いに直面する。しかし、同時に、実践世界において、美は、個人とは無縁の(超個人的)価値となり、その結果として、相反する判断(の矛盾)と趣味の相対性(主義)に脅かされることになる。
ここには確かに矛盾があるが、その矛盾は現実的に解決されることが必要だ。その結果、主観の中で美的体験の際に何が起こっているかには、全く無頓着となる。問題は、気に入るものが“本当に”美になること、また、美を正しく、“有効に”判断する適切な能力になることが大事だということである。
その能力とは、良い趣味である。
こうして美は全く異なる客観性を加えることになる。良い趣味の正しい、有効な判断によって認定されるかぎり(美は)客観的である。もし、無効な判断が提示されるとしたら、美は主観的、かつ、偽装の美となる。
どんな“よい”または“模範的”と認められる趣味も、客観的美の王国を設立するものだ。しかし、いかなる承認済みの趣味でも、せいぜい、その時代の文化的因習に納まっている。その結果、美学の領域に、新しい、歴史的、相対主義が侵入してくることになる。

3.    
これら、全てのものを以ってしても、美に対する人間の関係を極めつくすことはできない。美の直接的体験には、事実、明白な確かさはあるものの、それは個人的、主観的な確かさにすぎない。実用的必要から出てくる美的価値の基準化、規制はこの個人主義を克服するが、やはり独断的(教条的)である。それでもまだ異質なものが残っている。もし、美的領域に何かまったく自分独自の、かつ特殊なものがあるとしたら、そこには全く特殊かつ自分独自の関心のための場があるとしたら、その結果、美的事象にまで高められた、特別の関心のための、美的事象に対する特殊な美的作業のための場も有る。
 人間は美を受容し、評価するだけでなく、美を実現し、獲得するか、あるいは、また、それに没頭し、努力する。そして美のためにそれ続けようとする、等々。社会のある側面対する関心の高まりにつれて、新しい、特別な問題や課題が生じてくる。あらゆる関心が新しい問題を生み出す。だから、そのことは、ここでも当てはまる。
 美が人間の特殊な努力の対象になるとしたら、それ(美)は同時に、美と関連した精神労働の課題または目標となるだろう。芸術家にとっては、いずれにもせよ、意識の問題である。その課題を果たすには芸術作品の主題の一定の特性を客観的に示す必要がある。創造の観点から言えば、美は客観的定義と動機によって満たされなければならないものであり、したがって、客観的な何ものかである。真実の美の存在は、ここでは、美の客観的実現に基づいている。
 美学は、事実、しばしば、効率という視点に立とうと試みた。それゆえに、美学は芸術家とその作品を自分の研究課題とした。そのため、肝心の道筋を見失ってしまったのである。
芸術家は主観であり、創造は主観的経過である。それらに対する解釈(視点)は心理学以外の何ものでもない。効率にかかわるすべては、客観的であり、生産そのものである。そして、これは、主観的受容と相対的趣味のみがアプローチできる物のように見える。美に関して我々が直接的に知っている唯一のものは、我々の個人的快感のみである。
 しかし、さらに、もう一つの美に対する特殊な関心は、原則的に美しい対象に向けられる。それは理論的関心であり、その課題は対象の美を明確な形で意識に受け止めることである。意識にとっても、また、美は客観的であるから、客観的判定能力のある現実とうまく折り合いをつけることができるように、美ともうまくいくのである。
理論的受容は、実際、全美的生活を通して、徹底的に複雑に絡み合っている。美学がそのこと(理論的受容)をこれまで見過ごして(軽視して)いたということは、確かに変だが、美学が自分本来の道ではなく、一般哲学の道を進んできたということによって説明がつく。
そこで、以下の章においては、真っ先に、この美的受容に対する客観的視点関係が、それからまた、美的印象、美的判断と美的評価に対する関係についても、以下の章の全ページにわたって、示されることになるだろう。
客観的視点が獲得されるや否や、美的客観性も提示される。しかし、そこ(美的客観性)へ通じる道は、もはや、芸術的創造を起点としてはいないとしても――それは、我々にとって、実際のところ、どんなに努力しても、ほど遠く、見通しのつかないものだとしても――美的受容から、そして、我々自身の美の体験から出発しているのだ。
なぜなら客観的視点は、同時に、普遍的に美学を扱った問題の論議にも関係があるからであるし、それは、また、これまでの科学的美学の問題提起と、その知識と探求、発見と問題提起から出発する必要があるからである。


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