普通であれば竹中英太郎の略歴などを以下にまとめてみるあたりから始めるところなのだろうが、 別頁に竹中英太郎記念館のことを書かせてもらった際に書いてあるので、
ここではそのまま重複することを避け、 図書館などで見ることができる人物辞典等に記載されている竹中英太郎プロフィールをいくつか引用してみることにする。
竹中英太郎 たけなかえいたろう 明治三九年・一二・八〜(1906〜)
画家。山梨県生れ。竹中労は長男。明治三六年ごろから大正末にかけて山梨県下で労働運動に従事し、数次の弾圧に追われて上京。プロレタリア漫画家柳瀬正夢の紹介で出版社博文館のカットを描き、それを機として挿絵画家となる。江戸川乱歩の怪奇推理小説『陰獣』『孤島の鬼』、横溝正史『鬼火』などの挿絵で一世を風靡するも、昭和戦中に乱歩の作品が弾圧されたころから筆を折って大陸へ渡る。日本敗戦とともに帰国、山梨県下で労働運動を指導。かたわら絵を描いた。 |
日本近代文学大事典 日本近代文学館 小田切進編 昭和52年 講談社刊
|
|
たけなかえいたろう 竹中英太郎 明治三九年・一二・八−昭和六三・四・八(1906−88)
昭和期の挿画家。福岡県博多生れ。大正後期より、水平社、無産者同盟などの社会運動に従事するが、弾圧に追われて上京。雑誌「新青年」を舞台に江戸川乱歩『陰獣』(昭和三)、横溝正史『鬼火』(昭和一〇)等の挿絵で一世を風靡する。戦中、筆を折って大陸に渡り、敗戦と共に帰国した。 |
新潮日本人名辞典 新潮社辞典編集部 平成3年 新潮社刊
|
|
竹中英太郎(たけなかえいたろう) 1906(明治39年)・12・8〜1988(昭和63)・4・8。画家。福岡県福岡市に生まれる。青年期に熊本水平社の設立に関連して逮捕されるなど、労働運動にかかわるが、幾度かの弾圧に追われて上京。柳瀬正夢の紹介により博文館で挿絵をかく。横溝正史に見いだされて1928(昭和3)年、「新青年」で江戸川乱歩の「陰獣」の挿絵を担当して好評を博す。その後「新青年」を中心に乱歩、正史のほか甲賀三郎、夢野久作、大下宇陀児ら当時流行の代表的な怪奇小説に挿絵をかいたが、1935(昭和10)年に自著「大江春泥作品画譜」を最後に筆を絶った。その後、満州で出版にかかわるが、帰国後は山梨日日新聞社に入社。晩年は長男労の依頼で再び絵筆をとったが、怪奇的な挿絵からは遠去かった。 |
山梨百科事典(増補改訂版) 平成元年版 山梨日日新聞刊
|
|
文中、赤字、青字にしてある箇所は、引用にあたり、赤字は『間違い』、青字は『必ずしも間違いとは断言できないが正確な情報とも言えない箇所』として参考までにそれぞれ色別けしたものである。
明治三九年・一二・八→明治39年12月18日
山梨県生れ→下二誌にあるように福岡県生れ
明治三六年ごろから大正末にかけて山梨県下で労働運動に従事→明治三九年生れなのに、三六年からの運動従事は無理。
また、上京前の労働運動は熊本県下が主。
弾圧に追われて→そういう面もあったのかもしれないが、主な上京目的は一応学業を志してと言われている。
柳瀬正夢の紹介→博文館を紹介したのは白井喬二
それを機として→実際に挿絵画家と自身で認識していたのは博文館で活躍する以前のプラトン社「クラク」時代からと思われる。
乱歩の作品が弾圧されたころから筆を折って→筆を折った直接の理由は、乱歩作品弾圧とは無関係。
日本敗戦とともに帰国→敗戦以前に帰国している。満州での行動に関しては時期を含めてほとんどが明確にされていない。
弾圧に追われて→同上
敗戦と共に帰国→同上
逮捕される→九州での運動時代に逮捕歴があったという記録はないと思われる。
弾圧に追われて→同上
柳瀬正夢の紹介→同上
自著→「大江春泥作品画譜」が掲載された「名作挿画全集」は数名の挿絵画家の作品掲載なので自著とするのは問題あり。
怪奇的な挿絵からは遠去かった→遠離った?…そうかなぁ? むしろ増々磨きがかかった感が無きにしもあらずと思うのだが。
天下に名立たる大出版社から刊行されている辞典に掲載されている情報がこれなのだから、ちょっと吃驚させられる。
これらの他にも竹中英太郎のプロフィールに関する様々な文献のどれを見ても、実在した人物でありながら、まるで伝説の中の登場人物でもあるかのように、こうした腑に落ちない記述が少なからず見受けられ、霹靂させられることが多い。
これは、竹中英太郎自身の言葉を借りるならば、
「幻の画家、忽然と消えた画家−−と言われながら、あえて寡黙を続けてきたのは…破れたまゝの自分の初志、それも叶わぬ夢とあらば…そんな過去など、人には語らず、ひとり噛みしめているべき…と思ったからだけのことです。」
とあるように、自身の口からはほとんど挿絵画家時代のことなどに関して語られていないことに起因されると言えるが、さらに言えば、その後、主な伝承を残した(或いは「『伝説』を作り上げた」と言えるかもしれない)子息竹中労の文章を、「竹中労の書いたものであれば、間違いはあるまい」とそのまま鵜呑みにして引き写しただけの安易な記録が流布してしまったからと考えても吝かではないだろう(これは別頁でもまた触れることにする)
。
竹中英太郎が残した数々の作品に感じることのできる作風には、確かに『伝説』という言葉が似つかわしくも思えるし、また、昭和初期の挿絵界に「陰獣」の挿絵を持って突如燦然たる注目の的となり、十年足らずの活動期間でありながらも、後年時代の象徴とまで取り沙汰される程の活躍振りをみせ、暗雲たる時代背景の中、筆を折り、その後の消息は詳らかにされてこなかったという竹中英太郎自身からして『伝説』的であるという事実もまた否定されるべきことではない。
だからといって、『伝説』的であらんが為に、事実とは違っていてもいいということはない。ましてや、まがりなりにも辞典と言われるようなモノであればこそ、正確であることを何よりも重視されなければならないのであるからして、何をや言わんである。
山梨県甲府市に『竹中英太郎記念館』が開館され、改めて竹中英太郎挿絵との出会いがあったことで、それまで漫然と伝説的な人物と捉えていた「竹中英太郎」という人物が、生身の人物として感じられるようになっていくにつれて、「間違いが間違いのまま放置されておるのもいかがなものか、まぁ、直接改訂を嘆願したところで受け入れられるとも思わないので、せめて自分でHPでも作って間違いを指摘するくらいのことはしても構わないだろう」と思ったのでこうして取り上げさせてもらったが、『画家』として扱われているにも関わらず、その画業に関してはあまりにも部分的な事柄しか触れられていないことと比べれば、ここで取り上げてみた間違いなど、あるいは些細なことと言っても構わない範疇なのかもしれないと思わなくもない。
竹中英太郎を『画家』と考える人は少なくない(一部地域の人は別として)。
竹中労の書籍などを飾った彩色画(後に夢野久作の文庫集に転用された)によって画家と捉えている人も多いのかもしれないが、竹中英太郎の画業の本質を見るならば、やはり昭和初期の挿絵画家時代のモノを語ることなくしてはあり得ない。
竹中英太郎の挿絵といえば、前出した辞典などにも共通しているように、江戸川乱歩の「陰獣」や、横溝正史の「鬼火」がどうしてもその印象深さ故に代表作ということになり、「怪奇幻想の画家」という代名詞は竹中英太郎を語るには必要不可欠のようなものとしてこれまで語られ続けてきた。
確かに、「陰獣」や「鬼火」の挿絵が、今持ってなお竹中英太郎という画家の名前を世に残してきた最大の要因であることは事実だろう。しかし、「陰獣」や「鬼火」以外にもある二千点余の英太郎挿絵(カットを含む)を見つめていると、あまりにも簡単に「怪奇幻想の画家」とだけ捉えられる竹中英太郎像に首を傾げたくならざるを得ない。
もちろん、首を傾げたくなるだけで、決してそれを否定したいと思うわけでは無いが。
今更このようなところで言うまでもないことだが、これまでにも、何度となく「挿絵画家竹中英太郎」は昭和初期の大衆文学、或いは探偵小説について語られるなかで取り上げられてきた。
そして、 そのどれをとっても判で押したように「怪奇幻想の画家」とあり、そのほとんどは「怪奇幻想の画家」としての証明でもあるかのように、「怪奇幻想」的な挿絵だけが紹介され、それ以外のモノについては(まるでそれが不可触域でもあるかのように)触れられていない。
こうした傾向は、「探偵小説」や「エログロ・モボモガの昭和初期」といった面からその当時の様子を表すひとつの手段としては相応しい捉え方なのかもしれないが、竹中英太郎という一人の人物側から見ると、余りにも片寄った見方なのではないかと思えてならない。
挿畫家に就いて 三上於菟吉
いつぞや本紙に挿畫家の談話會があつて僕が新聞の原稿を遅らせるといふので、林唯一君から攻撃されたやうな一節が載つたさうな(。)
しかつるにその記事は筆記が十分でなく、彼は僕に對して気のを感じると言つて丁寧な手紙を呉れた(。) しかし、これまでの僕が、畫家諸君に迷惑をかけてゐるのは事實ではなはだすまなく思つてゐます。けれども僕は決して無關心に諸君の仕事を見てゐるわけではない。僕は一面識もなかつたが月皎君の當時の彩質に感心して『白鬼』の繪を願ひ、同じく未知の専太郎君に『日輪』唯一君に『炎の空』を願つた。僕は少くとも始終諸君の仕事に敬意と注意とを怠らぬつもりで、ああ結構だなと思へば、實に感心に眺め、そして、この人と一緒に仕事をしてゆきたいと思ふ。また社まかせにした場合、富彌君と、はじめて週刊朝日で結びついた時なぞ愉快至極だつた。
事實、つゞきものに於いては、挿繪は文章と殆ど甲乙なき關係を持つ。新聞社及び雑誌社は、もつと畫家諸君を優待してもいゝだらうと考へてゐる。挿繪が氣に入らぬ時、作家たるもの亦實につらいのである。そして制作の熱意が大分はゞまれるのである。双方が駄目なら營業政策上かなりな打撃となるだらうと思はれる。して見れば、挿畫家は資本家に對して十分に主張する権利がるのではないか(。)
絶えず挿畫に意を拂ふ僕は最近、竹中英太郎君を發見して嬉しいことに思つてゐる。氏の年齢閲歴、すべてこれを知らない(。)
しかし氏が『新青年』『文藝倶楽部』等に發表される諸作のあるものは、實に魔美を、近代美を、途方もない想像力をあらはしてゐると信じる。
氏のまげ物さしゑは得意とも見えないが、その筆觸に一種の魅惑がある。現代もののそれに於いては、鬼氣が宿つてゐるかと思はれる場合が多い。恐らくまだ前途の長い方だらうと考へるが、數倍の修業に於いて、たしかに赫々たる光彩を日本さしゑ界にあたへる事が出來ると思ふ(。)
僕は、その中に良き條件の(さし畫畫家に取つて)刊行物に長篇小説の筆を取る時分には、まげて氏の御助力を願はうと決心してゐる。僕は關係者すじが今後の氏に注目し、そして氏の鬼才を十分に伸展せしめんことを希望するものだ。
|
昭和四年四月四日 讀賣新聞 文藝欄『讀書界出版界』 (。)
は引用者
|
|
これは、竹中英太郎が新進気鋭の挿絵画家として売り出し中の昭和四年に読売新聞の文芸欄に掲載された囲み記事である。
三上於菟吉(1891〜1944)といえば、この後「赤穂浪士」や「雪之丞変化」などで大衆文学にその名を残すことになるが、この当時でも様々な作品で、文壇をリードしていた売れっ子作家である(余談を差し挟ませてもらうと、当時博文館の編集者であった高森栄次が後年書いた「想い出の作家たち 雑誌編集50年」博文館新社刊
の一節に『私(高森栄次-引用者注)の前の編集長の堀さんという人が、毎月せっせと三上於菟吉の名前で少年小説を連載していた。その他恐らく高名な作家で、自分の名前を弟子たちに貸して稿料を稼がせてやった例はたくさんあろう』という一節があり、こうしたことからも三上於菟吉の当時の有り様がわかる)。
その三上於菟吉に、よりによって新聞紙上で名指しされているのだから、その当時の竹中英太郎の存在は挿絵界のみならず、文壇界にも少なからずインパクトを与えていたのだろうなと感じることのできる記事である。
この三上於菟吉からのラブコールは、この後、同紙に連載された「情火」(昭和4年6/15〜11/22)で実現することになるが、その直前には週刊朝日に「嬲られる」があり、翌昭和5年には「主婦之友」で十ヶ月に渡り「銀座事件」でも仕事を共にする。
(これは全くの余談であるが、前出新聞記事が掲載されたのが引用文末にも書いたが、昭和4年4月4日であるが、奇しくもそのほぼ一年後である、昭和5年5月5日付で、三上於菟吉の「情火」が単行本として発行された際の全集付録の月報に、竹中英太郎は、珍しくも挿絵ではなく文章を寄せている。)
ここに見られるように、当時売れっ子であった三上於菟吉から求められていたものは、決して「怪奇幻想」的なだけの挿絵であったわけではない。
|
「銀座事件」より
(C)金子紫/湯村の杜 竹中英太郎記念館
|
このように、別段「怪奇幻想」的では無い挿絵もまた数多く竹中英太郎は描き残しており、そういった事実を無視し、さながら「怪奇幻想」の挿絵しか描いていなかったかのような評され方はあまりにも表面的過ぎはしないだろうか。
似たような傾向として、同じ「怪奇幻想」的であるとされている当時の探偵小説への挿絵であっても、江戸川乱歩や横溝正史、あるいは夢野久作、大下宇陀児といった面々への作品への挿絵に関しては持ち出されることはあっても、甲賀三郎や小酒井不木の名前を目にすることはあまり多くない。単純に挿絵を提供した数だけで言えば、江戸川乱歩や横溝正史よりも甲賀三郎の方が多いにも関わらずである。これもまた甲賀三郎や小酒井不木の作風が、同じ探偵小説であっても「怪奇幻想」色が比較的薄く、その挿絵も「怪奇幻想」的というには物足りないからという意図を感じなくもない(もっとも、探偵小説ファンにとっては甲賀三郎、小酒井不木といった名前は知っていて当然であるのかもしれないが、それほど詳しく無い人にとっての知名度ということだけでいえばこうした傾向もあるいは致し方ないといった面もあるのかもしれないし、ついでに言えば別の理由も思い当たるがここでは省略する)。
「怪奇幻想」的であったのは、(確かに竹中英太郎の画風にも多少の因果関係はあっただろうが)、なによりもその挿絵を提供した小説事体が「怪奇幻想」であったからに過ぎず、必ずしも「怪奇幻想」的はない作品にはそれ相応の挿絵を描いていたのである。
「盲獣」があのような作風でなければ、また挿絵も違ったものになっていたかもしれないし、「鬼火」にしたところで、検閲を受けたのは竹中英太郎の挿絵のせいとは言えない。
「怪奇幻想」的(或いは「エログロ」的)であったのは、竹中英太郎の挿絵がそうだったのではなく、むしろ画題である作品が(そしてその当時という時代が)そういったモノであったからにすぎないのではないだろうか。
当時の挿絵と小説の関係は、現在よりも遥かに濃密なモノであり、単に挿絵が小説の添え物というような認識ではなく、時に名脇役的介助であり、同等とは言えないまでも、それなりに確固たる存在感を持ち合わせていた。これは『名作挿画全集』といった画集すら出版されることからも推し量ることができる。
岩田専太郎を始めとして、数多くの挿絵画家が活躍し、そういった活躍に影響を受けて新しい挿絵画家たちも登場し始めた時代である。また、それまでは出版者お抱えの挿絵画家であったり、或いはフリーの個人事業者として活躍していた挿絵画家たちも、挿絵業界全体の社会的在り方というようなことを模索し、挿絵画家協会といったものまでつくり、それぞれの作品の在り方もまた見直そうという風潮がうまれてきた時代でもあった。それまでの「挿絵などは本画家のアルバイト程度のもの」といった画壇からの軽視的風潮から脱却し、ひとつの文化として実を結びつつある最中の『黄金時代』であった。
竹中英太郎は、元から挿絵画家になりたいと熱望して挿絵を始めた訳ではなく、単に食わんが為の手段としてたまたま挿絵の仕事を始めたにすぎない。むろん、きっかけがたまたまであろうが、与えられた仕事は生来の生真面目さからどれも真剣に取り組んだに違い無い。残された挿絵からはそういった姿勢もまた強く感じられる。挿絵の仕事に真剣に取り組めば取り組むほど、それまで抱いてきた志しとのギャップが大きくなっていたのだろう。自ら望んで「怪奇幻想」を書きたいと願ったわけでもなく、他にも、それこそ昼夜を問わずがむしゃらに描きつづった数々の挿絵があっても評判になるのはその「怪奇幻想」ばかりとなり、気がついてみると他の挿絵画家たちの活躍もあってか、自分に来る仕事は「怪奇幻想」ばかりになっていたということも複雑な思いで受け止めていたのではないだろうか。
私は久しく畫筆から遠去つてゐる。そして、まことに亂歩氏初期の作品中の人物のやうに、何事にも興味が持てず、何事にも退窟しきつて、われとわが身を持て餘してゐる。
さて、私も亦亂歩氏が「陰獣」によつて再起した如く、再び挿繪を描くやうなことになるかも知れぬ。だが、その時はいままでの怪奇畫家竹中英太郎でだけは、決してありたくないと思つてゐる。
『名作挿画全集』の付録である小冊子『さしゑ』に掲載された竹中英太郎による「『陰獣』因縁話」の一節である。
「怪奇幻想」的な挿絵画家竹中英太郎といった面からだけでみると、この一節を見て、なぜ筆を折らねばならなかったのかと意外に感じられる部分もあるかもしれないが、それ以外の挿絵もまた踏まえた挿絵画家竹中英太郎という認識からみると、この言葉にはあまり不自然さを感じることはない。
「怪奇幻想」的な挿絵こそが竹中英太郎の絵であるという向きもあるかもしれない。それは別に個々の絵だけの印象ということから考えれば否定されるべきことではない。
しかし、それだけではない挿絵画家竹中英太郎も知り、それらを知った上でその「怪奇幻想」的な面をさらに見つめれば、その「怪奇幻想」のもつ意味もまたそれだけではない捉え方ができるのではないかというような気がする。
そして、そのそれだけでない捉え方こそが竹中英太郎が終生守り続けた沈黙の意味に繋がるような気がしてならない。
2005.6 襟裳屋
|