どんな人間集団にも言えることなんだろうが、アケド・スールに集う人々もそれをつぶさに見ていくと、実に様々な人格・個性を見て取ることができた。それはまるで、人間のファクターが陳列されているようで、見ていて飽きることがない。そのファクター束にはある程度の偏向があるに違いないが、観測者自身の偏向に比べれば、無視できるほどのものなのかもしれない。
タクシー運転手のチョンノマさんは、ある日一大決心してある開店プロの会に入ったものの、なぜかその翌日には退会してしまったという記録の持ち主で、その容貌は魁偉にして奇特、まるで三国志の世界から飛び出してきたような人だ。
彼のご自慢はドキさんからもらったという、サイン入りのドキさんの新書で、それをいつも持ち歩いていた。
ドキさんというのは、そうと聞くまで実は僕は知らなかったのだが、サスペンス作家だそうで、もちろんスールの常連の一人。もう結構お歳を召しておいでだが、凸レンズ越しに見えるその瞳は生き生きとしておられた。そうと知り、興味を持って書店の書棚を眺めれば、ドキさん執筆の新書だけでもかなりの数に上っていた。後にドキさんの名を冠した脚本賞まで創設されていることを知るに至り、チョンノマさんが急速にうらやましくなっていくのだった。でもたぶん、いや、間違いなく、チョンノマさんはもらった本は読んでないと思うけど。
いつもマイマグカップを持ち歩いているのでマグさんと呼ばれる中年の常連がいた。
カーディガンかなにかをいつも羽織っていて、温和そうな顔立ちをした人だった。
ある時、駅前の書店の二階にある喫茶室で一緒にお茶を飲みながら話を聞いてみれば、彼は作家志望だそうで、なんとか四〇代でデビューしたいと言った。彼によれば、作家というものは、二〇代でデビューしなかったら四〇代でデビューするものらしい。
喫茶店で出されたコーヒーまでマイマグカップに移して飲みながらそう教えてくれた。
なら書いているものを読ましてくれと頼むと、まだそんな段階ではないとやんわり断られた。小説を書くことは段階を踏むことだと知った。
そのマグさんと義兄弟と言っていいぐらいに仲のいいスールの常連に、ダイさんという人がいた。
マグさんもダイさんも私鉄の隣町に住んでおり、同じ電車でアケド・スールに通ううちに知り合ったらしい。
ダイさんは身の丈180cmを超える偉丈夫で、巨大な腹部を擁しながらも、身のこなしは軽やかな感じで、ツイストなんか踊らせたらさぞ上手そうだった。歳はマグさんよりは下らしいが、似たようなものだったろう。
いつも長袖のワイシャツに黒いズボンという出で立ちで現れ、オシャレな感じを装っていたが、どこかで生来のずぼらさを隠すことに失敗していた。
「エフタ君よう、出るかい?」
開店前から並んでいることはなく、いつも決まって遅れてやって来ては、人の打っている背後から大きな影をゆらりと揺らめかせ、微笑みながらそう言うのだった。
どの台を打つのだろうと見ていると、左手にコインを何枚か持ち、それを上下に軽く振りながら、大きな体を屈めるでもなく、下目使いで台を見分している。そうして、ゆらゆらとシマからシマへ歩いていき、何を目星にしているのか知らないが、打つ台が決まると、左手のコインをサンドに入れながら席をまたぎ、ゆっくり座っていく。淡々とすべてを知り尽くしている素振りでそれらの行為をなし終え、席に着くと、やおら打ち始めるのだが、そのとき上半身を大きく右に傾け、そこで固定するので、ダイさんの右の席には余程の人物でなくては座ることはできなかった。
ダイさんとはどういうわけか、よく一緒に飲みに行った。
アケドの駅から住宅街に少し入ったところに、ウルトラシークレットという派手な名前の地味な南国風居酒屋があり、そこがこの町でのダイさんの行きつけだった。ダイさんとここの店長が顔見知りとかで、そのせいでツケも利くらしかった。
入って中央に小さなステージがあり、カラオケだが歌えるようになっている。ダイさんは結構好きらしく、よく何曲も歌っていた。徳永英明なんかが好きなようで、眼を瞑り、少し上を見上げながらの大音声の歌唱は見栄えがした。僕はそんなダイさんを見ながらカウンターでカクテルか何かを飲むのが常だった。
ある日、ここにはよく来るのだという、そういえばそれまでに見かけた憶えのある、妙に浅黒い顔をした若者がカウンターにいて、飲むうちに話をしてみると、彼はSM作家だと自称した。それまでSM作家には会ったことがなかったので、それを聞くと僕は少し興奮した。どういう雑誌に書いているんだと尋ねると、僕はそういうタイプの作家ではない、という。SM作家にタイプがあるとは知らなかったが、じゃあどんなタイプなんだ、と話の流れで聞いてみた。
「僕が書くのは個人向けなんです。マスコミには書かないんですよ。相手は政治家なんかが多いかな。医者もいますよ」
「特に×××総理なんか大好きですよ。この間もあの人のところまで行って感想と注文を聞いてきましたがね。結構な変態なんです」
おいおい、本当かいな。
アケドはなかなか文化人が多いようだ。
その日だったかどうだったか、今はもう思い出せないが、ダイさんにいくらか貸したこともあった。僕が先に帰りますというと、ダイさんはもう少し飲んでいきたいが金が少し足りないと言うので、何も考えず貸してあげた。ねぐらの隣町でもう一飲みということだろう。
そんなふうに急速に仲睦まじくなっていった僕とダイさんだったが、ダイさんは調子に乗ったのだろうか、ある日、朝も早い時間に僕の住処まで訪ねてきたことがあった。まだ7時か8時か、そんな時間だった。スールは毎朝10時開店だったから、当然僕は寝ていた。ダイさんは一度ここに泊まったこともあるので、訪問自体は別に驚きではなかったが、何の用だろうと少し訝しんだ。
「何ですか、ダイさん」
きっと目でも擦って見せながらながら尋ねたと思う。
「おう、エフタ君。居たか」
一日寝てないような濁った顔でダイさんは応えた。
夜逃げでもしてない限り、普通この時間なら居るよ、と思いながら、用件を聞いた。
「今日、これから勝負するんだろ。俺もだが、少し金を廻してくれんか」
ダイさんが気まずそうに微笑みながら、名古屋かどこかの訛り丸出しで、そう言うのを聞いて、これは拙い、と感じた。飲む金ならいいが、パチプロがパチる金を借りに、早朝から人の家に来るようでは、いかにも拙い。
僕は冷たくあしらうことにした。
「ダイさん。そういう金は貸さないことにしているんです。どうあっても貸しません」
「・・・」
「悪いけど、帰ってくれませんか」
きっぱりと音が聞こえるように言った。
しばらく、ぼうっと立ち尽くしていたが、ダイさんが泣くように呟いた。
「そんなことを言うんか」
さらに追い打ちを掛けるように、僕は言った。
「帰って下さい。そんな用ならもう二度と来ないでください」
「・・・ほうか」
それがやっとの様に、喉の奥からそう発声すると、ダイさんはそのまま背後の木戸を開け、いなくなった。
TVのチャンネルを変えたようにいなくなった。
僕はその間、ダイさんを部屋に入れもしなかった。軒先で追い返したのだ。
僕は少し怒っていたと思う。
情けない思いだった。
それからしばらくダイさんを見かけなかった。ダイさんはスールにも来なかった。
ダイさんがいないことに慣れかけた頃、マグさんがスールにやって来た。僕はすぐにダイさんのことを聞いてみた。マグさんによれば、ダイさんは今仕事をしているらしい。そう聞くとなんだか安心したし、そんなダイさんに感心もした。なんだか良かったような安堵を感じることができた。
それ以来、ダイさんをスールで見かけることはなくなった。
それからしばらくして、アケドを通っている私鉄のターミナル駅で、偶然ダイさんに出くわした。
その時のダイさんは、きちんとスーツを着ていて、会社員風を少し身につけていた。僕が声を掛けると、ダイさんは前方に顔を向けたまま無表情で「おう」と言ったが、立ち止まりもせず、歩き去った。僕の顔もろくに見てくれなかった。
それもしようがないと思った。あんなに冷たい態度をとったんだから、それでしようがない。そんなもんだ。
それからまたしばらくして、今度はアケドの銭湯でダイさんを見かけた。
そこは、僕の住まいに風呂がなかったので、いつも行く銭湯だった。でもここでダイさんと出会ったことはそれまで一度もなかった。
僕が暖簾をくぐって脱衣場に入った時、ダイさんも今しがた来たばかりなのだろう、上着を脱ごうとしていたところだった。
僕はすぐにダイさんに気づいた。大きな身体だから目立つのだ。ダイさんも僕に気づいたようだったが、お互いにもう声は掛けなかった。僕らは知らない者同士のように少し離れて衣服を脱いでいた。
ダイさんはこの間見かけたあのスーツ姿でやって来たようだった。仕事帰りかな?と想像しながら、ちらちらとダイさんの方を盗み見ていた。僕はすぐに何もかも脱ぎ終わったが、ダイさんはズボンの次にワイシャツを脱ぎ、やっと長袖の下着に手を付けたところだった。スッポンポンになった僕は、何かを期待するようにもじもじと暇を潰しながら、まだ風呂場に入らないでいた。ついでに旧交も温めようとしていたのかも知れない。
だが、次の瞬間、そんな独りよがりで甘っちょろい考えは消し飛んでいった。
ダイさんはシャツの下に両手をかけると、シャツの裾を掴んだまま、ゆっくりと上方に持ち上げていった。大きな裸の背中がその下から現れてくる。だがその背中は僕の背中とは異なっていた。その背には鮮やかな色の唐獅子牡丹が彫ってあったのだ。それは尻のすぐ上から見え始め、ダイさんがシャツを頭からすっぽり抜いて、両肩から二の腕に至るまで、丹念に描かれていた。見事なものだった。
シャツを脱ぎ終わると、ダイさんが僕をチラと見たような気がした。
それからどうやって風呂場を出たのか、ポッカリと記憶削除が起きているようで、何も思い出すことができないでいる。
あれ以来、ダイさんを見かけたことはまだない。
2003.7.19