story 26

愛しのエミイ

ある噂がアケド・スールに流れ始めたのはいつからだったのか、それははっきりとわからなかったが、耳疎い僕の元にその噂が達したのは夏も終わろうとしていたある日だった。

 

当時僕の部屋にはエアコンがなかったから夏の間はとうてい人間の住める場所ではなかった。夜でさえ部屋の中では(スッポン)ポン以外のファッションは選びようがなく、扇風機だけでは我慢できなくて、大きめのタライに浅く水を張ってそこへ浸かるようにして過ごしていた。その水もすぐに湯気が立つほどに熱くなるのだが、水を換えるだけの体力が残っていることはあまりなかったように思う。

ある日思いついて近所の排水溝を塞いでいる鉄製のフタを何枚か破がしてきて畳に並べ、その上で寝てみたことがあった。これは結構効果的で、ひんやりとして気持ちがよかったが、鉄だけにとにかく堅いので一日で懲りてしまった。

こんな事情を昼飯時にいつものソバ屋でタカカワ君に訴えていると、小学生じゃあるまいし、そんなことでぶつぶつ言ってないでエアコン買えばいいじゃないですか、と言われた。これはあまりにそうなのでタップリ1分間は何も言えないでいた。

僕があまり沈黙を続けるからなのか、タカカワ君は話題を変えるようににその噂について話し始めた。それはあのエミイに関するもので、最近エミイがスールにあまり来なくなったこと、それはオオミネ君と喧嘩でもしてるからじゃないかということに始まり、じゃあそもそもなんであの二人は喧嘩しているのか、などその理由について常連の間で交わされているものらしかった。その結論として出たのが要するにこういうことだった。

エミイは結婚していた!しかもなんと子供も二人いる!

それを聞いて僕の沈黙は白紙を何ページ続けてもいいぐらいにさらに続いた。
タカカワ君も、知らなかったんですか、と言ったきり、残りのそばをすすり終え、そば湯を注文するまで何も言わなかった。

 

もちろんあれだけの美貌なのだからちょっと気の利いた男なら何とかしようと思わないはずもないが、だからダフさんに意見を求めて「うん。ここだけの話、僕でもほっとかないな」とそっと耳打ちされ、キンちゃんに言うと「あり得ますね」と額と瞳をギラつかせて首肯され、シマさんに「ウヒヒヒ、エフタさん何よ、今さら」と上向いて笑われた時には僕自身ほぼそれを事実として受け入れる覚悟は出来ていた。

最後にご託宣を伺うようにツッチャンの隣に座ると「本人に聞いてみればいいよ」と盤面を見つめたままポツリと言われ、それはそうだと膝を打って顔を上げれば、シマ中央に据えられた鏡に映る僕自身の姿が目に入った。

で、おまえは何がしたいのだ?

 

今日もエミイは来ていない。すると残るのはオオミネ君だが、捜してみると彼はスール東の壁側一番端のトイレに近い台で打っていた。それは次の入れ替えで無くなるだろうはずの機種で、最近は滅多に稼働していないのだが、何でまたそんな台を打っているのか、彼を見つけたときまずそこに興味がいった。

「オオミネ君、その台開いてるの?」

そう言いながら背後から釘を盗み見したが、どこがいいのかわからない。

「開いてるわけないよ」

オオミネ君の言葉にそれはそうだと納得したが、ここで引き下がるわけにはいかず、さりとてどう切り出したものか腕を組んで黙って立っていると、

「エミイのこと?」

盤面に顔を向けたまま玉を打ち出したままデジタルも回らぬままオオミネ君はそう言うと貸し玉ボタンを新たに押してこう続けた。

「エフタさん、エミイのこと気に入ってるんならつき合えばいいよ」

新しい玉がタラタラと受け皿に流れ出てくる。ブン、ブンとバネが軋る音がして玉が再び盤面に踊り出した。その玉がガラスや釘に当たりカチャカチャと乾いた音が鈍く響き渡る。デジタルが回らないパチンコ台はなんと味気ない音で満ちているのだろう。その空虚な音の中で僕は自分の胸だけがコトコトコトコトと高鳴っていくのを感じた。

 

それから数日が過ぎた。
考えてみればあたりまえだが、オオミネ君があんなことを言ったからといって世界が僕に微笑みかけるわけでも、僕の男前があがるわけでもなかった。相変わらずエミイは姿を見せず、オオミネ君はトイレ側の台の前に座っていた。

その日はスールに打つ台はなく、こういう時のいつものように僕は向かいのポルカ・ドッツをのぞいてみた。あれほど熱狂していたアクダマンのシマには知ってる者は誰もいなかった。そういえばタカカワ君はターミナル駅にある何とかいうお店の新装に行くとか言ってたっけ。釘を見て端の空き台に座って打ってみる。千円で13かもう少し伸びるか、まあたいした回りじゃあない。

それでも何となく集中して打っていると脇に誰かが立ち止まった気配がして自然にそちらに顔が向いた。

エミイが立っていた。

 

「エフタさん久しぶり。ここにいたんだ」

エミイは美しい声でそう言うと両手をだらんと垂らしたまま盤面に飛び交う玉の流れを黙って見つめていた。盤上ではダンタカ、ダンタカとリーチがかかる前兆音が次第にその音量を増し打ち手の期待をそそっている。

「わたし、オオミネ君と喧嘩しちゃって」

左デジタルに7が現れリーチがかかった。

「それに知ってると思うけど、今、ダンナとも揉めてるのよね」

ダダン、ダダ、ダダン、ダダとリーチ音。

「ねえ、エフタさん。話があるんだけど、今日の夕方もう一度ここへ来るからさ、居てくれる?」

やがてダーンと派手な音がして右デジタルにも7が出た。次いでピョコンと役物左の羽根が開く。役物内の回転体を見ながらタイミングを取って玉を打ち出す。アクダマンは玉を拾うこのタイミングがすべてなのだ!タイミングが合いさえすればそれだけで2万6千円ほどになる!!

「お願いね」

そう言ってエミイが立ち去るのと、なんとか羽根に拾われ役物内に飛び込んだ玉が安喜節のようなメロディが流れる中手前に落ちてきて回転体に刻まれた当たり穴とはほど遠い部分にぶつかり、その下にある大きなはずれ穴に吸い込まれていったのが同時だった。

僕はやっと我に返ると、とてつもない幸運とふつうの不運が仲良く腕を組んでやってきたことに気づいた。喜んでいいのか戸惑うべきなのか。
上皿の玉がなくなって打ち出しを止め、横を振り返ったがそこには誰もいなかった。

夢じゃないよな
静まりかえった盤面のガラスには、そうつぶやく魂の抜けたような表情が映っていた。

僕は何かを決めることもじっとしていることもできず、気がつけば立ち上がってタカカワ君のところへ向かっていた。

 

新台は大同のミサイルだった。
15台ほどのシマにはタカカワ君をはじめ、オトツッチ君やケンジ君、トンドウさんまでがいた。ツッチャンを除くアクダマンのメンツが勢揃いしていたのだ。挨拶するとみんなギラギラしたまなざしを返してきた。いけてるようだった。すぐにタカカワ君が良さげな台を二三教えてくれた。

新装にもかかわらずあちこちに空き台がある。少し複雑な手順が敬遠されているのだろうか、見まわすと打っているのはプロばかりのようで、そのシマには目に見えない静かな熱気が漂っていた。

 

しかしそんな中、僕だけが違う熱気に捕らわれていた。

エミイ、エミイ、エミイ...

やっと自分に訪れた幸運の大きさに気づいたのか、僕はその熱気に翻弄されようとしていた。

窓の外では秋の音が遠くの空から聞こえてくるようだった。

2004.9.25

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