story 22

エンケさん、足を洗う

公言されてはいないが、パチンコは歴としたギャンブルだと誰もが知っている。するとパチンコ店は実はギャンブル場なわけで、それがどんな街にもひとつやふたつはあるのだから、みんなギャンブルが大好きなのだ。

ギャンブル社会学専攻の谷岡一郎氏によれば、ギャンブルのなかでもパチンコは
「おもしろさの芸術品」
だそうで、パチンコ常習の身としては、そう言われるとなんだか嬉しいような悲しいような気がしてくる。

そもそも人はなぜギャンブルをするのか?
これに答えて阿佐田哲也氏は
「ギャンブルとは人が神になろうとするゲーム」
だと言った。カッコイイが、パチンコにはちょっとカッコ良すぎるように思う。

では、人はなぜパチンコをするのか?
誰かの真似をして、そこにパチンコがあるから、と答えたらこれも少し気障かなあ。
それはともかく、エンケさんによれば
「いやあ、去年の8月に100万勝っちゃったから」
らしい。

素人がひと月に100万勝つのは珍しいが、真っ昼間からソバ屋で僕にビールを勧めてくる作業服姿のスールの常連は、
「カニの一発台あるだろ?ブクロの××でその月それで100万勝ったんだよ。調子に乗って通い詰めて、その翌月150万負けた。アハハハ」
と言うと、手酌でビールを一気に飲み干したものだ。勝ちも負けも僕の数倍から数十倍に達するその額を聞くと、僕なんかよりよっぽどギャンブラーぶりを発揮しているわけで、ビールも美味そうだし、少しだけうらやましい気がする。

エンケさんの頭頂部はきれいに禿げ上がっており、そのまわりを黒く太いもじゃもじゃとした髪の毛が這っていて、眼鏡もかけているので、その様子は
「1本毛と鼻ヒゲのない若い頃の磯野波平」
と言っておけば、街角で待ち合わせても会えないことはないだろう。

パチンコ常連客としての習性か、それとも首筋を痛めているのか、エンケさんには目だけを動かしてものを見るクセがあり、それで笑う姿は壊れた貯金箱か何かの悪い冗談にしか思えなかったが、さっぱりとして、手ぬぐいのようなエンケさんの人間性は悪いものではなかった。

で、なんだかの仕事をしていた去年の8月、エンケさんはスールで100万勝った。
それを機にパチンコ専業となったという。

エンケさんはクルマを持っていて、僕と知り合ってからはそれでよく僕を飲みに連れて行ってくれた。
ブクロから放射線状に延びている2本の私鉄は西に向かうにつれ互いに平行線を描くようになるのだが、アケドを通る私鉄の北を走る私鉄の沿線にオガワという街があり、ここに安い上に美味い焼き鳥屋があって、そこが僕たちの行きつけの店だった。エンケさんは酒酔い運転や違法駐車などはまったく意に介してない様子で、クルマで行ってはクルマで帰ってくるのだった。

しかしそのクルマが実に噴飯もののクルマで、エンジンをかけるとクルマ全体が強烈なバイブレータとなって乗客の筋肉をほぐしにかかるという代物だった。同時にダッシュボードの上に置かれた時計とか小物の類が同じ周期で上下しながら左に移動していき、端に達して居所をなくしたそれらが順番に落ちてくるので助手席の僕はそれらの落下を受け止めるのに忙しく、エンケさんに何か言おうにも、頬は震え、唇も上下運動を繰り返すので発する言葉は共鳴音の羅列でしかなく、

「「「エ"エ"ン"ケざざんん、ク"グル"マ"マ"どどめて"でぇ"ぇ"」」」

とでも言うのがやっとで、それでも何とかエンケさんの方を振り向くとエンケさんはものすごく上下に振動を繰り返しながら、怖いような顔で僕の様子を見ると、うなずくように震えながら大笑いしていた。大きなエンジンの振動音と共に、その笑い声にさえバイブがかかっていた。

オガワに着いてようやくエンジンが切られたとき、何も言えず、身体全体がじんじんと振動の余韻に浸っているなか、正直気持ち良かったことは否定できなかった。拷問プレイの後の悦楽の味ってこれなのかなと想像できた。

「この手羽を練りワサビでいただくという、これがなんとも」

パリパリと香ばしい手羽焼きをパクツキながら鼻をツーンとさせ、チューハイを飲み干すと、おかわりを待つ間エンケさんは奥さんとのなれそめを話してくれたりした。なんと奥さんはシンジュクのディスコでナンパしたのだと言う。

「だからエフタさんもナンパでもすれば」

やっと来たネギマを食らうのに忙しく、話も切れ切れになりがちだったが、

「でもこの歳になってこんなにいい友達ができるとは」

今度はタレツクネを頬ばりながら、僕よりひとつだけ年上のエンケさんはそう言ってくれた。その傍らでは僕もチューハイレモンでグビグビと自分のノドを鳴らすのに専念していた。
ホント美味い!

しかし、年が暮れ、年が明けた頃からエンケさんの成績が芳しくなくなっていった。

ツキの波は誰の身にも押し寄せないではいないものだが、春になってことさらに大きな不ヅキの波がエンケさんを襲った。ものはそのころ出回り始めた平和の名機CR名画だった。

そのころのCR機は大当たり確率に3段階の設定がついているのが当たり前で、平常時は最低確率設定と心得ていながらも、よく出ている台を見ると、あれは設定が甘いのでは?といった疑心暗鬼がよく生じたものだが、CR名画には設定がないのでその点安心して遊ぶことができた。

この機種の確変は、名画を模した絵柄で大当たりした後、その上にある小さな7セグで決まるという当時としては変則的なもので、7セグがHなら確変、-なら単発だった。

その日、エンケさんは朝からこの名画を打っていた。
聞いてみると回りは30ぐらいで、そのころは確変無制限だったと思うけど、よく回る方だった。エンケさんの裏のシマで打っていた僕はことある毎にエンケさんをのぞいてみたが、いつ行ってみても当たっていなかった。

当時は回転数を示すカウンター表示などなかった頃で、だから各自自分で回転数を数えていた。僕なんか手押し式の数取り機を持参していたものだ。エンケさんにその回転数を尋ねるとその度に左手を見ながら辛そうな表情で○○回、とつぶやいた。エンケさんは自分の左手の指を折ることで数取り機の代用にしていた。

しかし正午をだいぶ過ぎて、おやつの時間が近くなった頃からエンケさんの表情がどこか和らいでいき、なぜか笑みさえも浮かべるようになっていた。僕がそばにいくとやはり顔は動かさないが、横目で僕に笑いかけた。

一度エンケさんの方から僕の席までやって来た。1800回でも出ない。止めようか、と言うので、2000回までには出るんじゃないですか、などと無根拠なデタラメを言ったが、なんと言えば良かっただろう。寂しそうに笑いながら軽くうなずくとエンケさんはまた自分の台に戻って打ち始めた。

結局2100回を少し超えたところでやっとその日初めての当たりが来たが、それも単発だったので交換だった。それからまた400回ほど回したけど当たらず、エンケさんはひどく負けて帰っていった。

その数日後、日の暮れる時分だったと思うが、エンケさんがスーツを着てスールにやって来た。脇に書類袋を抱えていた。僕はそれを見かけると、その日はもう打ち止めにしてエンケさんと一緒に近くの居酒屋に入ることにした。

エンケさんはおしぼりで広い額を丁寧に拭うと、横目で僕に笑いかけ、今日は面接に行ってきた、と言った。何かをクルマで配達する仕事のようだった。たぶん雇われるだろうと言った。

「去年8月に勝った100万がこの間でキレイになくなったよ」
「嫁さんはうるさいし、2000回ハマルし、仕事をするいいきっかけになった」
「オレはエフタさんのような本当のプロじゃなかった」

えっ?

・・・

その後エンケさんが何を言ったか忘れてしまった。
エンケさんと別れて帰宅する途中に見かけたアケド駅の裏の神社に1本だけ植わっている大きな桜の木がもうすっかり 散っていた。

エンケさんはそれからも何度も僕を誘って例の焼鳥屋へ新しいクルマで連れて行ってくれた。仕事が休みの日にはスールでパチンコを打つし、その春の反動のようによく出していた。声をかけると相変わらず横目で僕に笑いかけた。

エンケさんのそんな様子はそれまでと何も違っていないようだった。
でも彼はもうパチプロではなかった。

エンケさんは足を洗った。

2004.4.4

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