story 21

ゴタンダの夜  〜ダフさんとシロエさん 3〜

マルソーがやって来る!
そう叫びながらキンちゃんがスールに飛び込んできたのはいつだっただろうか。

キンちゃんは僕をたちまち見つけると隣に座って、ジャケットの内ポケットからチケットを4枚取り出して見せた。
その時、キンちゃんのうっすらと汗ばんだ額は室内照明と台ランプのけたたましい反射光でチカチカと極彩色に点滅していた。それに気づくと、キンちゃんの差し出すチケットに自然反射的な仕草で手を伸ばしながらも、僕はキンちゃんの額から目を離すことができないでいた。

「マルソーの公演のチケットです。ダフさんとシロエさんを誘って一緒に行きませんか?」

そう言われて、僕はやっと手元のチケットに目を落とすことができた。
僕は立ち上がり、パチっているダフさんのところへキンちゃんと二人で歩いていった。

それから何日か後の夕刻、僕たち4人はゴタンダの駅前にいた。
この街にあるフナンビルというビル内に設けられているホールで今回のマルソー公演があるのだ。そこまで近いから歩いていこうということになった。

ダフさんによれば、マルソーは毎年日本で公演しているそうで、その常連であるダフさんとシロエさんは、ここの後タマで予定されている公演を観に行くつもりだったらしい。僕はそんなことはちっとも知らなかった。マルソーを観るのも初めてだし、それどころかマイム(パントマイムを含む)を観ることでさえ今回が最初だったのだ。しかし実をいえば、僕としてはこれがマルソーの公演である必要は全くなかった。ダフさんとシロエさんたちと時間を共有できるならアケドの居酒屋で十分だったのだ。

すでにゴタンダの陽は落ちて、昼間あんなに晴れ渡っていた空は夕闇のものになりつつあった。仰ぎ見ると、窓にポツポツと照明の点り始めたビルの大きな影がくっきりと黒くそんな夕空を切り取っていた。道路はヘッドライトの残光と交通標示灯で彩られ、脇の歩道は就業時間が終わって自由を急ぐ人々で犯罪大通りのように混雑していた。

だからフナンビルについた時、僕らは脱水機で揉まれた洗濯物のような気分だった。
ダフさんはジャケットの襟を整え、シロエさんは髪に手をやり、キンちゃんは額の具合の確認に忙しかった。

そうしてホールに入ってみると、鈴生りの盛況というわけでもなかったが、閑散というには当たらないぐらいのほどよい客の入りだった。
しかしダフさんに言わせると、このホールは広すぎるらしい。その意味は白塗りのマルソーが登場して初めてわかった。僕らの指定席はホール内の全体的位置から見れば舞台からそう遠い席でもなかったが、それでも遠すぎた。マルソーの全身の動きはわかるが、マルソーの顔の微妙な表情はまるきり見えなかった。これではクロースアップ・マジックを隣の部屋から覗いているようなものだった。

準備がいいことに、キンちゃんはオペラグラスを持参していた。
ちょっと見せて貰ったがそれで何とかマルソーの顔面表情を観ることができた。でもキンちゃんの持ってきたのはひとつきりだったので、それはシロエさんの目の前に落ち着くことになった。

そんな初期条件にもかかわらず、マルソーの演技には、『公園』、『人間の一生』、『仮面つくり』など、全くの門外漢の僕でさえ感動することができた。
もっとも僕は感動体質とも言うべき少し特異な体質の持ち主で、確率の5倍ぐらいのハマリを食らうだけで、自分の哀れさにいたく感動してしまうほどだから、僕の感動ほどアテにならないものはないのだが。

マルソーの感動的な公演が終わって、さあ飲みに行こうと意気も揚々に会場を出てきた僕たちのところに、どこからともなく一人の男が近づいてきた。壮年時代を浅くはない屈託を抱いて生き抜いてきたような風貌をした、少し猫背の初老の男だった。一瞬、マルソーが化粧を落としてやって来たのかと思ったが、もちろんそんなはずはなかった。その男はダフさんに向かって言った。

「失礼ですが、シミズキヨシさんではありませんか?」

するとダフさんは僕たち3人に「ちょっと待っててよ」と言って、その男を誘ってロビーの片隅に歩いていった。キンちゃんと僕は説明を求めるようにシロエさんを見た。

「きっと劇団時代のシュンさんを見かけたことがあるのね」

遠ざかる二人の背中を見つめながら少し微笑んでそう言うと、シロエさんはバックから煙草を取り出して火をつけた。

あたりまえだがシロエさんはダフさんのことを本名で呼んでいた。

ダフさんを見ると、その男に自動販売機のコーヒーを買ってあげていた。きっと昔のことを一緒に思い出すつもりなのだろう。少し時間がかかりそうだった。

「でもシミズキヨシって誰なんです。薬局の人?」

空いたソファーを探しながら僕はシロエさんに尋ねた。

「薬局はマツモトキヨシです。おそらくパントマイミストの清水きよしでしょう」

運良く空いていたソファーに座りながら、そう答えたのはキンちゃんだった。キンちゃんがそんなことまで知っていることに僕は驚いたが、そんな驚きをおくびにも出さず、さらにシロエさんに尋ねた。

「え、ダフさん、マイムをやってた頃ってそんなに有名だったんですか?」

「座長だったからそれなりに知られていたようね」

それは初耳だった。ダフさんが若い頃マイムをやっていたことは知っていたが、どこかの教室で習っていたのだろうぐらいにしか思っていなかったのだ。それが劇団の座長だったとは、大いに驚いた。こっちの驚きは声に出していた。

「へえ〜、それは驚きました。じゃあシロエさん、そのころからダフさんを知っていたんですか?」

シロエさんはそれには答えず、唇を結ぶように微笑むだけだった。それからシロエさんは僕の目から視線をはずし、僕の背後の何もないはずの空間を見つめた。

やがてダフさんが戻ってきた。

「いやあ、シミズさんに間違われるとはね。でも話してみると昔僕たちの公演も何回か見に来てくれてたみたいだね」

とシロエさんに言った。それから僕たちに向かって、右手の人差し指と親指でつくった輪っかを口の前で二度ほど軽く傾ける仕草をしながら言った。

「エフタティートシ、キンちゃん、お待たせ。さあ、どこかに行こう」

席を立ちながら振り向いて、ホールの大きな窓越しに空を見ると、それは真っ黒な壁のようだった。その真っ黒な壁の中を仄かな赤い光と緑の光が音もなくまっすぐ北上していた。その光がどこに向かっているのか、僕には見当もつかなかった。

「どこに行きますか?」

ロビーから続く広い階段を下りながら僕はそうつぶやくと、ダフさんとシロエさんを振り返った。ダフさんとシロエさんは二人がもっと若かった頃のことを思い出しているのか、夢見ているような口調で繰り返した。

「どこに行こうか」
「どこへ行こうかしら」

何もかもが始まった、目映いほどのあの頃。
あの頃、世界は円環状に光を放ち、すべてのものが調和していた。
行けるものなら、あの頃へもう一度・・・。

マルソーの公演は思いがけない旅行きに僕たちを誘った。

2004.3.1

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