story 20

キンちゃんのひたい

思い返してみれば、スールにやってくる女性の常連客の多くは「やあねえ」という言葉をよく発することに気づくだろう。トイレにつと立ち上がって通路を歩いている間にも、けたたましい喧噪の中から、「やあねえ」「あらやだ、またハズレだわ」などという言葉が、リズムに乗ってほとんどBGMのように流れてくる。

それじゃあ彼女たちがよっぽど下手くそでツイていないのかというとそういうわけではない。事情は僕たちだって同じで、通路を歩きながら「連続2倍ハマリかあ、とほほ」「ううう、またまた現金投資」などと嘆いてばかりいるのだ。ただしこちらは頭の中でのこと。僕らは悪いときほど脂汗を浮かべながらも顔では笑っていたりする。

すると、言葉として発せられるにせよ発せられないにせよ、1日13時間のうちほとんどはこんなぼやきが店内にひしめいているのだからパチンコ店もたいしたものだ。
そりゃ軍艦マーチでもかけないと息苦しい。

いつもお葬式の帰りのような黒っぽい服装をしてやってくるので黒ネエさんと呼ばれている中年の女性がいるのだが、この人のぼやきがまた堂に入ったもので、僕らはツカないで落ち込んでくると黒ネエさんのところへいってそのぼやきを聞くのだった。

「あらやだ。見てよ。リーチがかかって当たった事なんて無いわよ」
「これでいくら入れたと思ってるのよ。また酎ハイ薄めなきゃいけないわ」
「昨日は5万負けたのよ。一昨日は7万。ほんとにいつになったら出るのよこの台」
「何よこの台。わたしを殺す気かしら。お店を開けられやしない」

そうすると少しだけ慰められてなんとかやる気を出すことができた。
それでも行ってみるとたまに出ているときもある。

「うふふ。出てるのよ」

そんなときだけは本当にうれしそうな顔で、どこにあったのか色気さえ醸し出して、当たり出玉を吐きだしている台をうっとりとした眼で見つめていたりする。
運悪くそんなときに出くわしたら回れ右をして引き返すか、引きつった笑顔を作って黙って通り過ぎることにしていた。

黒ネエさんは駅裏を少し入ったところで居酒屋をやっていた。
話をするようになって、飲みに来てよと誘われて知ったのだが、場所を聞いてみると、僕がスールに来るときにいつも通る道沿いにあるお店だった。でもその前を通るたびに、ここには絶対入りたくない、と思っていたことは言えなかった。
パチンコに負けると酎ハイを薄めるらしいことを知ってからはなおさらその思いが強まった。

それでもなぜだろう、今となってはどうしても思い出せないのだが、とうとうそのお店に行く羽目になった。
当時はシマさんとキンちゃんと僕とでスナック通いに精を出していた頃で、そのバリエーションの中にどういうわけか黒ネエさんが入ってきて、一緒にマチコや隣町にまで飲みにいったことがあったから、たぶんその流れか何かだったのだろうと思う。

キンちゃんが一緒にいてくれたからまだ気が楽だったけど、覚悟をしてお店のドアを押し開けたことを覚えている。

お店に入ってみると案外に中は広かったが、やはり借り手がつかないので取り壊し寸前の飲食店のようだった。
右手にあるカウンターの上では、ここ何年も新しい学生が進学してこない化学工学科の実験室のように、居場所をなくしたグラスの類がほこりを被っていた。そのカウンターの横ではビール瓶のケースが整理などという心配りをされたことがない様子で乱雑に重ねられていた。

僕たちは仕方なく、追いつめられたウサギのように、入って正面にある八畳ほどの畳敷きの部屋に上がった。
その部屋の奥には床の間があり、その右手には2階へ続いているらしい階段が見えた。居酒屋用にデザインされたというより、一般家屋の居間のような造りだった。畳の変色の具合が一枚一枚違っており、コの字型に配置された座りテーブルのまわりには使い古した色違いの座布団が4,5枚撒かれたように置いてあった。

これで本当に営業しているのかしら?という素朴な不思議で胸をいっぱいにしていたせいか、その部屋に先客がいたことに気づくまで少し時間がかかった。

その人は直径8センチはありそうな拡大鏡をくっつけたようなメガネをかけた短髪の中年女性で、この部屋に溶けこむような地味な色のスーツを着ていた。そういえばスールで見かけたことがあることを思い出したので、僕は軽く頭を下げた。

その女性も来たばかりなのか、おしぼりで手を拭きながら黙って僕とキンちゃんを見上げていたが、僕らがその女性の斜め前にあるテーブルにつこうと座りかけているときになってやっとその女性が口を開いた。

「わたしは相を見ている者だけど、失礼ながら、そちらのあなた、顔相が並じゃないね」

その女性はキンちゃんの方を向いてそう言った。

「そうですか?」

背中を向ける格好だったキンちゃんがその女性に顔を向けながらうれしそうにそう言った。それからもっとよく見てもらおうとばかりに身体ごとそちらに向き直った。

「どのあたりがですか?」

「ひたいよひたい。そのおでこですよ」

その女性はキンちゃんのひたいを指さしてから、自分で自分のおでこをピシャピシャと叩きながら言った。

僕は危うく吹き出しそうになった。そのころからかなり薄かったせいか、キンちゃんは自分のおでこの成り行きにはひとかたならぬ心配をもっていたからだ。そう聞くとキンちゃんは何も言わずこちらに向き直ってうつむいてしまった。

すっかり愉快になった僕は、テーブル越しにもう一度うながすようにきいてみた。

「ひたいがどう並じゃないんです?」

「女好きだね。いわゆる好色なんだよ。その具合が並じゃあない」

予想と違った返答だったが、これはこれで別の興味をかきたてられた。
キンちゃんも顔を上げて半身を再び女性の方に向けた。

それはキンちゃんの定例自慢事項の一つだった。

世之介よろしく幼少の頃から性欲盛んで、あそこの皮を剥いたのはまだ幼稚園に通ってた頃で、剥けたてのそれに砂場の砂を擦りこむようにして遊んでいたことに始まり、小学校に上がって担任が女教師になったら学校へ行くと毎朝鼻血が出たとか、『カーマ・スートラ』が愛読書の一つになったのは小学校を出る前だったとか、そのころから必要もないのに親の目を盗んで紅毛長命丸(何なのそれ?)を毎日飲んでいたとか、それはもう、シモ関連の自慢をさせたら聞きたくもないのにいつまででも続いて終わるということがない。

長ずると彼は世に溢れる女衒マンガを読みあさり、女の身体を舐めるときはそばに1リットル入りペットボトルの水を用意してそれを時々口に含みながら舐めないと舌がカラカラになるとか、あそこを毎夜腹に打ち付けながら寝るとあそこのいい鍛錬になるとか妙に具体的な知識を伝授してくれた。

そういえばキンちゃんが僕の部屋に泊まったりして彼と同じ部屋で眠るときなどは、夜になってピタッピタッと肉と肉がぶつかる鈍い音が部屋にこだまするのだった。その音が鳴り始めると僕はいつも耳を塞がなければならなかった。

そういうわけで、キンちゃんが女好きなことは僕らの間ではあたりまえのことなのだが、たとえ相を見るとはいえ、初見の女性に言い当てられるほどにキンちゃんの好色は客観的事実として明らかなものなのかと思うと、僕はなんだか途方もない気がしてくるのだった。

「それで、女難の相でも出てるんですか?」

僕は魅入られたようにそうきいていた。

「いいや、その逆だね。女に恵まれる。しかもいい女にね。そのモテっぷりは女のわたしでさえ羨ましいぐらいだよ」

手を拭き終えたおしぼりを丁寧にたたみながらそう言うと、その女性はカウンターの方に向かって少し大きめの声を かけた。

「いつものねェ」

どこにいたのか、黒ネエさんがお盆に酎ハイと何かの小鉢をのせてにこやかにやって来ると、それを相見の女性のテーブルに置きながら僕たちの方を振り返った。

「あらやだ、珍しいじゃない。来てくれたのね。うれしいわ〜。何にする?」

僕は酎ハイだけは頼まないように用心しながらメニューに目を落としたが、そうなるとビールぐらいしか選びようがない。どうする、と前を見ると、さっきまで向かい合わせにいたキンちゃんが相見の女性のテーブルに席を移り、同じものを、と彼女がうまそうに飲んでいる酎ハイを指さして黒ネエさんに頼んでいた。

この分では今夜もあのピタッピタッを聞かされそうだった。
それもひときわ大きいやつを。

僕は頭を振って膝を抱えると、盛んに相づちを打ちながら相見の女性とカンパイなんかしているキンちゃんのひたいを見つめながら、ビールが注がれたほこりまみれのジョッキを静かに傾けた。

2004.2.6

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