scribbles 24

扉文~映画『ファザー、サン』

きみのまえ窓枠越しにぼくがいる
でもぼく越しに見えたのはファザー

 

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街は坂で出来ていて、坂は建物で埋まっていた。
だから海を見たくなったとき、父と息子はアパートメントの屋上に立つのだった。

軍隊を退役した父になりたくて、息子は軍人養成学校に所属している。
ある日その学校に父が来た。ただの見学だという。
父は組み手の訓練をする息子の様子をしばらく見つめていたが、いつのまにか姿が見えなくなっていた。

それからそこに息子の彼女がやって来た。
彼女は窓越しに息子と会話する。

「あなたにはお父さんしか見えていないのね」

週末になると息子は父の住む部屋に帰ってくる。
そこで息子は父の肺のX線写真を見て、心配ないと言う。
そこには父の上着も父の皮膚も父の筋肉も写っていなかった。
ただ父の骨が見えていた。

やがて息子はもうすぐひとり住まいすると父に告げる。

父はひとり、いつものように屋上に上がった。
そこには一面、白い雪が降り積もっていた。

 

 

息子と彼女の窓枠越しの会話のシーン。
こんなに美しい絵がこの世界にあるのだろうか?
あるんだなあ。これが。
ああ、画面が揺れる!
なんで揺れるんだろう。
なんて熱いんだろう。

それと父親役のアンドレイ・シチェティーニン。
あんな笑顔がこの世界に・・(以下略w)

 

 

今回、地元の映像文化ライブラリーで催された「アレクサンドル・ソクーロフ監督特集」(2006年12月1日(金)〜12日(火))は残念ながらこの『ファザー、サン』(2003)で終わってしまった。初日の『マリア』(1975-1988)、『ペテルブルグ・エレジー』(1989)は見のがしてしまったが、全部で8本のソクーロフ映画に接する機会がもてたわけで、振り返ってみるとこんな映画を知らないでいたこれまでの自分が哀れにすら思える(ちと大袈裟です)。

ソクーロフ映画はぶ厚く、野太く、なにより凄まじいまでに美しかった。
絵のひとつひとつが幻想的なのだけど、その幻想は幻想でないものの存在こそを幻想にしてしまうほどにリアルであって、そうなると、陰と陽、虚と実、美と醜、生と死、主と客、そんな二分論はあっけなく混沌の奈落に蹴落とされてしまい、わたしがソクーロフ映画を見ているのではなく、ソクーロフ映画の中でわたしが生きているような、いや、どちらかというとその方が幸せそうだが、迷宮というものが世界のどこかにあるのではなく、この世界こそが迷宮そのものであると思い知らされることになる。

いや、それもちがう。世界が迷宮なのではなく、世界を見るわたしが迷宮なのだ。わたしの視線が迷宮的なのだ。

だからソクーロフの視線が迷宮に見えたとしても、いや、見えるからこそ、そこにわたしのリアルを見いだしうる。ソクーロフの視線とわたしの視線がすうっと重なる。映像を介在させてシンクロするソクーロフとわたしの視線。それは思いもかけないリアルな体験だ。うっとうしいほどにリアル。

 

 

アレクサンドル・ソクーロフ(1951〜)はなかなか多作な監督で、2006年現在、 allmovie によると、27本の、 IMDb によると、43本の監督作品を撮っている。その中の邦題のあるものだけを挙げてみる(こちらは allcinema による)。

 

1975-1988 マリア
1978 孤独な声
1979 ヒトラーのためのソナタ
1988 日陽はしづかに発酵し...
1989 ペテルブルグ・エレジー
1990 セカンド・サークル
1992 ストーン/クリミアの亡霊
1993 ロシアン・エレジー
1993 静かなる一頁
1995 オリエンタル・エレジー
1995 精神(こころ)の声
1997 穏やかな生活
1997 マザー、サン
1999 ドレチェ 優しく
1999 モレク神
2002 エルミタージュ幻想
2003 ファザー、サン
2005 太陽

 

この中だけでも未見のものが10本もある。今回見たという8本もその半分は寝てたわけだし、機会をみつけて何度でも足を運びたいなあ。

 

映像文化ライブラリーさん、ほんとにありがとうございました。
ぜひ、またやってください!

 

映画『ファザー、サン』より

2006.12.16

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