scribbles 23

扉文~映画『精神(こころ)の声』

くる病で頭の大きかったモーツァルト
死の味舌に至譜を記しぬ

 

 ●

 

前回の『ストーン』(1992)以降も、ソクーロフ監督特集は続いて上映されていたし、もちろんわたしはそれを見に行った。見た順番で記すと、

12/6 『ロシアン・エレジー』(1993)
12/7 『静かなる一頁』(1993)
12/8 『精神(こころ)の声』(1995)
12/10 『エルミタージュ幻想』(2002)

となる。

 

しかし、残念ながら恥ずかしながら、白状すると告白すると、このどれもその半分ぐらいしか見ていない。館内が暗くなって座席に尻を埋め頭を背もたれにのせ、そこでソクーロフ映画が始まるとどういうわけか眠くなるのだ。眠いというより、生体の活動レベルがぐんと低下するというか、それと同時にまぶたがしゅっと降下するというか、緊張感が解けてついでに頭の巡りも溶けるのだ。人によれば、それは癒される前の準備体操でありこれから安らぐよ〜という予兆だと看破しそれを歓迎するかもしれない。

でもわたしは映画を見に来たのであって、決して寝に来たわけじゃあ・・・
果たしてそうか?

 

映画を見ることとはどういうことなのかを考えてみると、うまく捻出し得たなにがしかの金銭と引き替えに座席に着き、目の前に吊り下げられているスクリーンと呼ばれる大きくて白い幕に次々と映し出されてゆく映像の流れを物語として捉えその感動にうち震えるということばかりが映画体験なのではなく、その映画を上映している建物まで出かけてゆくこと、上映が終わって外に出てみるとあたりの風景がやけに美しいものに見えることに驚くこと、アルコールを摂取しつつ今日という日に経験したあの時間の流れについて誰かに吹聴すること、そんなことも映画を見るということに含まれるのじゃないか。

だとすれば、映画の上映中、映像とわたしの間に誰とも知れぬ者の後頭部が常に介在し、確実にその部分だけを映像の黒い欠けとして記憶に残すことも、さらには上映中に睡眠するという試練に挑戦することも、映画を見るという体験の中にあったとしてもおかしくはないのじゃないか。

 

ソクーロフの映画は一瞬の瞬きを永遠に禁じているからこそ、逆に目蓋を閉じてしまうという掟破りを見る者に誘いかけてやまない。

 

映画『精神(こころ)の声』(1995)より

2006.12.14

back

Copyright (C) taka All Rights Reserved.