scribbles 12

穏やかな灯のともる廊下を突き当たり、その左に見える漆黒のドアを開けると、生暖かい空気がシャリシャリとした音とともに私の肩に触れた。

入って左手の壁と右手には半地下とロフトからなる二段ベッドのようなテーブル席が上下に設けられていて、そこはすでに若者たちのグループによって満席に近かった。正面の細長いカウンターに空席があったが配膳口として使用されているようだったので敬遠し、右手奥に設えられたステージのすぐ前の無人の円テーブルに座った。

ここからはステージはもちろんほとんどすべての客席を見渡すことができた。逆に言えば、ほとんどすべての客席からここを見ることができるわけだ。

纏めるには短いと思われる黒髪を後ろできちんと纏めた黒いTシャツの男が屈みかげんの腰つきで近づいてきて私に飲み物を尋ねた。室内の照明が少し落とされ、ステージがスポットライトで照らされた。
私は水割りを頼み、黒いTシャツは頷いてカウンターに戻っていった。それと行き違うように演奏メンバーが奥の方からやってきた。

ギターにベースにドラムス、それからボーカルとおぼしき4人だった。
まちまちの服装をした彼らはすでにそこに置かれていたおのおのの楽器を手にとると音合わせを始めた。私は上着から煙草を取り出し、どこでも見かける黒い陶製の灰皿の中に置かれている今ではお目にかかることがすっかり珍しくなった真新しいブックマッチを手に取った。火を点けようとカバーをめくると、その裏に“I Shall Return MacArthur”と印刷してあった。だがそれだけではなかった。最後のMacArthurの部分に鉛筆のようなもので横線が引かれ、その上に同じ鉛筆の線でNobodyと乱暴に手書きしてあった。

演奏が始まるのと頼んだ水割りが来るのが同時だった。
棚の上のおもちゃ箱をひっくり返したような騒音がいきなり始まり、一瞬遅れてそれに負けないぐらいの熱気が客席から沸き起こった。座っていた客たちが立ち上がってフロアに出てきた。私は水割りを置いて帰ろうとする黒いTシャツの男の腕を取り、その耳に口を寄せてブックマッチをもう一つ持ってくるように言った。柑橘系の香りが強く匂った。

私の正面、ステージの左脇にあるトイレに男がひとり入っていった。
そのトイレすぐ脇のステージ奥ではドラマーがF1カーでも操縦しているかのように歯を食いしばった表情でドラムの山にひとり埋もれ、その緊張した顔面だけがほの明るく浮かんでいた。彼の刻むリズムはともかく、彼の叩き出すその音量だけは確かにF1並みだった。

黒いTシャツの男がブックマッチを持ってきた。めくるとカバー裏にはやはり“I Shall Return MacArthur”の文字があったが、MacArthurの上の横線もNobodyもそこにはなかった。
私は静かに首を回して熱狂的に身体を揺らしている客たちを見分していった。

揺れ動く肩と腕の狭間に見覚えのある顔がひとつあった。だが私と目があった瞬間その顔は消えた。私は立ち上がった。と同時にドラマーがひときわ大きな音を立てた。その音に被せるようにある音が聞こえたような気がした。私は立ち上がったまま動けなくなった。客たちは何も気づかず相変わらず身をくねらせ続けていた。ドアのある場所から廊下の灯りが漏れたがそれもすぐに消えた。私は動かなかった。気づくとドラマーが憑かれたように私を見つめていた。それを反射させたように、私の視線はトイレの入り口に固定されていた。

ここにもはや私の居場所はなかった。

ゆっくり外に出るとポツリポツリ雨が落ちていた。ポケットから取り出した横線のない方のブックマッチを擦って硫黄の煙る匂いを嗅ぎながら先ほど吸いそびれた煙草に火をつけた。それから左右に首を振り公衆電話を探したが、どこにもそれらしきものはなかった。

激しくなった雨が肩にあたって滲むような音を立て始めた。

2004.12.6

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