scribbles 10

「あ、今魚が飛んだよ」
「どこ?」
「ほら、あのへん」
「いないじゃん」
「あ、また飛んだ」
「どこ?」
「あそこよ」
「僕が見てないと思ってからかってるだろ」
「あ、今度あそこ」
「・・・」
「か〜なり大きかったわね。30センチくらいはあったと思う」
「・・・」
「ほら、また!」
「もう絶対からかってるな。だいたい魚は飛ばないって。跳ねるんだよ」
「ううん、違う。飛ぶのよ」
「鳥じゃないんだから飛ばないよ」
「でも飛んでるもの」
「ジャンプしてるだけだろ。グンッてさ」

光は水平線の少し上からまっすぐ僕たちの方へやってきていた。波は海上に無数の鏡をばらまいたようなパターンを造り出し、その無数の鏡ひとつひとつが緩やかに角度を変えながら、水平方向から入射する短波長成分を消失した光を律儀に反射させていた。その反射光のすべてが僕と彼女に注いでいた。彼女の肌と時折風に揺れる髪が水平な光の中で黄金色に輝いていた。

彼女が見たというその魚は泳ぐ方向を間違えただけだ。若くて元気に溢れていて、水の中で軽く身体をくねらせるだけでターボエンジンを搭載した軽自動車のように信じられないぐらいの速さで水中を移動することができる。だからそんな自分に驚いて嬉しくなって誇らしくて、思わず海面めがけて泳いでしまったのだ。

なんだ...
あそこはなんであんなにひかりあふれているのだろう?
なんでこんなにこのおれをよぶのだろう?

ぐんぐん近づく光の園へ。

ああ、まぶしい!なんてまぶしいんだ...!

そして勢い余って空中にジャンプ!

お、お、お
とんでる!
このおれが...ひかりのなかをとんでる...

飛ぶという現象が、瞬間にせよこの星からの離脱を意味しているのか、そうではなく、より自由度の高まった状態でのこの星との融和を意味するのか、僕には判断することができなかった。
明らかになったのは、飛びたいという僕の気持ちだった。
飛んでいる僕を彼女に発見してほしかった。
驚いて指差してほしかった。
感嘆のまなざしで見つめてほしかった。

しかし僕は鳥ではなかったし、彼女の目の前でジャンプする魚でもなかった。
僕は彼女の隣に座ってまばゆくなってゆくばかりの彼女と金色に染まるこの星のたたえるあらゆるものをうらやましそうに眺めることしかできない無能な男にすぎなかった。

「あ!見て見て!今のは見たでしょ!」
「・・・」

僕は見た。
見ることのできる限りの海原の彼方、沈みゆく太陽を背景に空中を飛ぶ魚のシルエットを。それは思ったよりも高く長い飛翔だった。海面を離れた魚は空中で二度三度と身をくねらせた。それは横なぐりの光を背に受けさらに上昇しようとしているかのようだった。そのたびにつややかな鱗は宝石のように光を放ち、彼の意志はしなやかな形となって見るものの瞳の中で共鳴を繰り返した。

僕は知った。
飛ぶこととは現象ではなく行為であることを。
行為を貫く意志であることを。
意志が周りに解き放つときめきの音であることを。

太陽が沈もうとしていた。

僕は黙って立ち上がり、着ていたものを次々と脱ぎ始めた。
メガネを外し長袖シャツのボタンを外しズボンのベルトを外した。拘束を解かれたそれらの着衣はするりと落下すると僕の足下に塊となって静止した。それから下着と靴と靴下を脱ぎ捨てた。
そうして裸になって太陽のくれた最後の一瞥を全身で受け止めると、隣で座ったまま呆然とした表情を浮かべ僕を見上げている彼女に微笑みかけた。

さあ、みてて。
こんどはぼくがとんでみせるから。
きみにみせるから・・・

僕は走り出した。
浜辺に帯状に横たわる海苔や藻の類からなる黒い影を軽々と飛び越え、波寄せる海の中に足を踏み入れた。
僕の足は海に濡れていった。
腰が海に震えていった。
振り返ると彼女の小さな輪郭だけがぼやけて見えた。
波の音がした。

 

この後、僕はひどい風邪を引き、そのうえ彼女にこっぴどく振られてしまったことは
・・・云うまでもない。

2004.10.25

back

Copyright (C) taka All Rights Reserved.