essay 26

お肉のためなら 〜映画『笑いの大学』それはそれはアツイのだ〜

ある日のこと、一緒に飲みに行った友人の言葉で三谷幸喜による舞台劇『笑いの大学』が今回映画化されたのだったということを思い出した私は、何かのきっかけでそのプログラムが発動した自動機械のように、その翌日には郊外に新しくできたばかりだという某シネマコンプレックスの某スクリーンの前に座っていた。

この物語 はまず左と右をめぐる記憶を観る者の脳裏に再生させつつ進行する。

私の記憶が正しければ、舞台版でのそれは、検閲官・向坂(さきさか)が右手に、座付作家・椿一が左手に終始位置し続けることで、左と右に関する言説をほぼ封じ込めていたはずだ。もちろんそれは、これが二人芝居であることからくる配置上の必然としての選択のひとつに過ぎないわけで、それを観る者がそのことにことさら意識的である必要はなかった。

順序関係としての時間の流れに従順であろうとするなら、その後として屹立するものは、その前のものを参照せざるを得ないし、その結果、前のものに対するオマージュとして模倣・もじり・反転などの手管でもってそれに敏感である態度を表明することは別に珍しいことではない。
この映画の原作/脚本を担当している三谷幸喜もその手の態度表明のいわば常連であり、それどころかその名手としてすでにどこかの名簿に上位登録されているだろうとも思うのだが、この映画版『笑いの大学』を撮った星護監督もそれに劣らず時間の流れに敏感であろうとし、そのことを彼にとって初の長編であるこの作品の中で、二人の主役の位置関係=左右を反転させることで明確に示して見せた。

つまり、『笑いの大学』映画版では冒頭、検閲官・向坂は部屋中央の机の向かって左に座っており、右手のドアから座付作家・椿一が登場するのだ。

語源 をたどってみると、「にぎる」の「る」が落ちて「にぎ」になり、それがなまって「みぎ」となったのが「右」だという。だから「右」には、英語の right と同じく、原義には「支配」という意味合いがある。だからこそ舞台版で検閲官・向坂は右手に位置していた。
映画版でもそのことに無関心ではいられないようで、検閲室の外(これは映画版ならではのシーン)、喜劇に興味を持った向坂が浅草にある「笑いの大学」座を訪れる場面(都合二度ある)では、向坂は決まって画面右手から現れる。

対して「左」は「へた」「端(はた)」「果て(はて)」などと同源のことばで、人の多くが右利きだということに関係しているのだろう、要するに「下手」であることをその原義にもつという。ゆえに検閲を受ける座付作家・椿一は舞台版では左手にいたのだ。
映画版でも同様に、上演許可をもらうために検閲室に向かう椿一は「笑いの大学」座のある通りを左から現れ右へ(七回も)歩いてゆく。

だから、舞台版では主役の二人が左と右に位置し、映画版では「笑いの大学」座と検閲室が観客から見て左と右に配置されていることになる。

しかし物語は進み、検閲(?)に熱のはいってきた向坂が、椿一の要請で警官役をやってみることになり、検閲室の中央に据えられた机のまわりを駆け回るシーンから、それまで守られてきた二人の位置関係が変化することになる。机のまわりを回る向坂とともに、それまで検閲室の中では固定的だったカメラが彼を追いかけてぐるぐると回るのだ。何周も何周も。

そしてやっと上演許可がもらえそうになり、打ち解けた気分になった椿一が検閲官・向坂につい本音を漏らしてしまう。なぜ国は喜劇を、笑いを取り締まるのか、と。するとそれを聞き捨てにできない向坂はそれまでの態度を一変させ、これでは上演許可を出せない、一切笑いのない喜劇を書け、と椿一に難題を突きつける。それを境にカメラ位置がそれまでと逆になり、スクリーンは右に検閲官・向坂を左に座付作家・椿一を映し出す。

物語は終盤を迎える。
向坂のその挑戦を受けて立った椿一は翌日、結局それまでで一番笑える台本を仕上げてくる。どういうことだと詰め寄る向坂に、椿一は出征することになったことを告げる。そして最後、去る椿一とそれを見送る向坂は、今度は前と後ろという前後の位置関係を取る。もちろんこれは二人の関係が新たなものに移行したことを示している。

私は、こうしてスクリーン上で進行する物語を前に、シンプルさを画にするとはこういうことかと何度も膝を打ちながら、それほどのシンプルな構成でさえも三谷による三谷の喜劇がそこにあることを認めないわけにはいかなかった。なぜなら、いつのまにかいつものように私のほっぺたが熱く濡れていたからだ。

喜劇のくせしてどうして私をかくも泣かすのか?

以前 にも三谷のこの不思議を取り上げて、

三谷はそれ(自分の意識に自分で責任を持つこと)を世間を生きていく上での最後にして最高の秘訣として作品にして提示する。
だから大丈夫だよ、と励ましてくれる。
彼の作品がハートウォーミングである理由はこの点だと思う。

と書いたのだが、ここで言う「自分の意識に自分で責任を持つこと」とはつまり「自分の好きなことを真摯になすこと」と言い換えることができるわけで、今回の『笑いの大学』を観て熱くなるのは、そのことがシンプルに、これ以上なくそのままに描かれていて、その有様が美しいからだと思う。

この美しさを表現し得た点で、他のすべてに失敗していたとしても、星護監督による映画版『笑いの大学』は擁護されるだろう。

それは美しい。

なんたって、
「死んでいいのはお肉のためだけだ!」
もの。

2004.11.28

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