essay 14

感想文『ヒカルの碁』〜ビルドゥングスロマンとして

『ヒカルの碁』はなぜ面白いのだろう?
その理由をここではふたつ取り上げてみたい。

そのひとつは、『ヒカ碁』はビルドゥングスロマンである、ということだ。

ビルドゥングスロマン とは何か?
詳しくは註を参照してもらうとして、ここでは、

「人間はすべからく善きものに向かい成長することができる、という思想を背景に、その主人公が自己を形成していく長編小説(マンガ)」

のことだとしておこう。

ドイツと日本の民族的同質性などは僕の知るところではないけれど、前世紀初頭にドイツで生まれた独特の概念であるビルドゥングスロマンは日本でもたいそう馴染みがいいと思う。儒教的概念としての「道」にどこかで相通ずるものがあるのかもしれない。

そして注目すべきなのは、『ヒカ碁』においては、主人公である進藤ヒカルに限らず、多くの登場人物がビルドゥング(Bildung;形成、教化)されていくことだ。

主要な三人の場合について、ひとつずつ見ていこう。

 

進藤ヒカルの場合

ヒカルは物語のはじめ、どちらかといえば、悪漢(ピカロ)として登場する。祖父の倉から金目のものを盗み出して小遣いにしようと目論んでいるあたりからそれは明かだろう。佐為に取り憑かれても佐為に同情するでもなく、佐為の憑依をただの予期せぬ不幸として認識しているにすぎない。したがって、佐為の思いに沿ってやろうなどとは少しも思わない。

囲碁が打てないゆえの佐為の悲しみで、悪心のはしるヒカルはやむなく囲碁教室に通ったり、碁会所に行ったりして、そこでアキラとの運命の出会いを果たすことになる。
そのアキラとは、短期間に二度の対戦をすることになるのだが、どちらも佐為が相手をし、アキラを完膚無きまでに負かしてしまう。囲碁に積極的な興味を持つことのなかったヒカルが、その時のアキラの様子に初めて心を動かされる。

とはいえ、まだヒカルの覚醒は起きない。ただ、囲碁を打つことへの憧れが少し芽生えはじめた。

そんなヒカルに、最初のはっきりとしたビルドゥングの機会を提供したのは、ひょんなことで知り合った中学将棋部の加賀鉄男だったといえるだろう。ヒカルは加賀によって強引に碁の大会に出場させられ、そこで初めて自分の力で碁を打つことになる。そして自分で碁を打つ喜びを理解する。
だが勝負に徹するとき、やはり佐為に打ってもらうことになる。それは佐為がヒカルに施した最初の指導碁でもあった。

その碁はたまたま会場に来ていたアキラも見ていた。アキラはその碁を「美しい一局だった」と言い、「僕はもうキミから逃げたりしない」と宣言する。この瞬間、ヒカルは覚醒し、自ら碁の道を歩むことを決意する。

アキラの碁に対する真剣さを見て考え込み、アキラからはっきりと自分をライバル視していることを告げられて、ヒカルは覚醒する。だから、ヒカルはアキラによってビルドゥングされたと言っていいだろう。

それはまた、アキラの碁に対する情熱=欲望をそっくり模倣する形で自分の中に同型の情熱=欲望を持った瞬間とも言える。この構図は、ラカンの言う、「人間の欲望は他者の欲望である」というテーゼを彷彿とさせる。

こうして悪漢に過ぎなかったヒカルは囲碁へ、さらには神の一手への欲望を孕むに至り、佐為やアキラや、多くの院生たちをお手本に、その後もさらなるビルドゥングを重ねていく。だが最も原初たるビルドゥングはアキラによってもたらされたのだ。

 

塔矢アキラの場合

ヒカルの場合もそうなのだが、アキラの場合はそれ以上に、ヒカルに佐為が乗り移ってすぐの頃、つまりヒカルがまだ囲碁に覚醒する前の、ヒカル(佐為)とアキラが打った二局の碁が重要な意味を持っている。この二局ともに独立した形で番外編として再度取り上げられていることからもそれがわかるだろう。本編では二局ともヒカル(佐為)の側から描かれているが、番外編では最初の対局(第18巻所収「塔矢アキラ」)がアキラの側から、二度目の対局(第23巻所収「藤原佐為vs塔矢アキラ」)が佐為の視点から描かれている。

最初の対局はたまたま入った碁会所でのもので、これは佐為にとっても、今回現世に蘇っての最初の碁という意味を持っているのだが、アキラにとってこそ驚天動地の出来事だった。番外編に詳しいが、その時アキラの技量はその年齢としては群を抜いており、それはすぐにもプロ試験に合格できるだけのものだった。しかし漠然とした不満をどこかで感じていて、そのまますんなりとプロになることにはためらいがある状態だった。

その抜群の技量も、名人である父親と毎日休むことなく碁を打つことで、いわば機械的に自然に身に付いたものだった。言い換えれば、その時アキラの感じていた漠然とした不満というのは、自分はまだ精神的自己形成を為していないという気づきに由来する不満だったのだろう。そんな時、自分と同い年のヒカルと出会い、こてんぱんに負けてしまう。
だがこの時点ではアキラもまだビルドゥングされてはいない。思わぬ所から生じた不可解な精神的揺籃を感じていただけだろう。ただ、その揺籃を振り払うべく、ヒカルにはもう一度会わずにはいられない心理状態だった。

そして二度目の対面を果たす。この時ヒカルがいつもの悪漢ぶりを発揮し、プロ棋士に対する侮辱と取れる言動をとったため、アキラの中にメラメラとヒカルに対する対抗心が燃えはじめ、ついに再度の対戦を申し入れることになる。
そして再度の敗北。見えない大きなカベの存在を感じる。このとき、アキラにとって世界はそれまでとは異なったものになった。

そして決定的な囲碁大会の場面を迎える。
中学生と偽って大会に出場させられたヒカルがその決勝戦で中学生を相手に対局するのだが、実質的に打っているのは佐為だった。この対局を見ていたアキラはヒカルをライバルとして認め、そのときヒカルは囲碁に覚醒する。

父とも違う。父の同僚たちとも違う。そんな進藤ヒカルを恐れながらも追いかけてしまう。そしてそのことこそがアキラをより高みにまで導いていく。

ヒカル(佐為)と二度対局し、囲碁大会でヒカル(佐為)の碁を観戦することで、アキラはヒカルではなく、佐為にビルドゥングされたことになる。
三度目の対局は途中からヒカルが打ってしまうのだが、アキラはそのときのヒカルの碁に失望しそれを期にプロ入りしてしまうことからもそれがわかる。

 

藤原佐為の場合

神の一手を極めんと三度にわたり現世に蘇ってきた佐為。

一度目は千年の昔、平安の大君の囲碁指南役として生身であった頃のこと。だが、もう一人の囲碁指南役との汚い一戦に敗れ、都を追われ、入水自殺を遂げる。しかし成仏できなかった佐為は江戸時代になって、一人の囲碁好きの子供に乗り移る。彼こそが後の本因坊秀策だった。秀策は佐為の力を理解し、佐為の思うがままに碁を打たせてやった。だが秀策は34歳の若さで流行病に散る。佐為はその時もやはり成仏できず、今こうしてヒカルの心に宿ることになる。それもこれも囲碁の神の一手を極めるという目的のためだった。

そんな佐為が囲碁の面で誰かに後れを取ったのは、インターネット上での塔矢行洋との頂上決戦に勝利したおり、その碁では行洋に失着があり、それがなければ実は佐為が負けていたとヒカルに指摘されたときだけだ。それは佐為も気づかなかった手順だった。
それを聞いて佐為は自分の存在理由を悟る。

これを契機に佐為はヒカルの意識から消えてしまう。神の一手を極めるのは自分ではなく、その役割はヒカルに託されたことを知ったからだ。その意味で佐為はヒカルにビルドゥングされたと言えるだろう。

以上主要な三人の場合を見てきたが、この三者はジャンケンのような関係で互いをビルドゥングしていることになる。佐為はアキラを、アキラはヒカルを、そしてヒカルは佐為をビルドゥングする。
この他の多くの登場人物もこの三人を中心に、誰かをビルドゥングし、誰かにビルドゥングされていく。

こうして、

少年マンガに通底するビルドゥングスロマンの体裁を過剰なまでに濃密に踏襲していること。

これが『ヒカ碁』のひとつの魅力だと思う。
もう一つの魅力、「人物構成の面白さ」についてはまた次回に。

 

『ヒカルの碁』
原作/ほったゆみ、漫画/小畑健、監修/梅沢由香里 (集英社 平成11年5月5日〜平成15年9月9日発行)
テレビ東京・「ヒカルの碁」公式サイト

2003.9.27

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