やつあたり雑記帳…お出かけ記録

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Jun. '02

6/ 2 元ちとせ「一万人のフリーライブ」
6/ 7 民謡酒場「追分」にて、津軽三味線初体験


  6月 2日 元ちとせ「一万人のフリーライブ」 at 代々木公園特設野外ステージ

 たまたまこの日は安原ナスエ姉が東京に滞在中で、少しばかりの運と慈悲深いお方のご好意によって三人分の「優先エリア入場券」を手にしていたオレは、ナスエ姉をお誘いしようかとも思ったのだが、以下の二つの理由のためにお誘いを止めたのであった。
 1.「優先エリア入場券」を四人分だと思ってしまった。
 2.六月という季節柄、晴れれば暑いし、運が悪いと雨に祟られる。御歳六十X歳のナスエ姉をそんなところに連れ出すのは極悪非道の謗りを免れない。
 そういうワケで、四人分だと思い込んでいた三人分の入場券と、奄美大島は名瀬市生まれの女性二人、同じく大和村生まれの女性一人と原宿駅で待ち合わせたオレであったのだ。
 ちなみに、女性三人とオレ一人というと、「両手に花どころか、一人余るやんけ」とか言われそうだが、世の中そんなに甘くはない。名瀬市生まれの女性のうち一人が遅れて、退屈した他の二人の女性は原宿駅前でボクシングをはじめ、オレはサンドバッグとして彼女らのお役に立ってしまったことを申し添えておく。

 ようやく全員が揃って入場券を確かめると、驚くべきことか、入場券は三人分しかない。果たしてこの四人の運命や如何に、と心配するオレを尻目に奄美大島三人衆は「ちとせちゃんを見にわざわざ島から来たっち言えば大丈夫っちょ!」と気に留める様子もない。
 「江戸時代に、奄美大島の島人たちは薩摩藩の圧政に苦しんでいた」というのは丸っきりの嘘で、「薩摩から年貢の取立てに来た運の悪い役人をイジメていた」というのが真実なのではないだろうか。けっこういいパンチを喰らって疼くアバラをさすりながら、そんなことを考える。

 野外ステージが見える売店で生ビールを飲んでいると”藤沢の健二”が現れ、「もう皆並んでるよ」と言う。「おおそうか、ご苦労である」と鷹揚に頷き、のしのしと歩きはじめた奄美大島ビューティーズのあとを小間使いみたいに付いていくと、うわー、並んでる並んでる。
 三千人募集といわれる優先エリアの列は、早くも三、四百人ほどが列を作っている。それと並行する一般エリアの列は、すでに五百人といったところか。ちなみにこの時点で開場まで一時間前である。
 と、そこにオレを呼ぶ声、天の声。誰かと思って見ると、三人分の優先エリア入場券のうち二人分を譲ってくれた、心優しい工場長その人が、プロレス談義に花を咲かせている。
 ははぁーっ、とひれ伏したオレは、くだんの奄美大島美女三人衆に「こちらをどなたと心得る、頭が高い、控えおろう!」と言うが、聞いちゃいねえ。またボクシングをはじめやがった。慌ててオレは、追加のウーロン茶を買いにいく。

 ほぼ時間どおりに入場がはじまり、三人分の入場券でまんまと入り込んだ奄美大島スーパーモデル・トリオとオレは、ステージのほぼ真正面のあたりに陣取る。六月の太陽は、妙に夏っぽい入道雲の肩越しに照りつける。PETボトルに三分の一ほど入っていたウーロン茶は、あっという間になくなる。
 演奏開始は少し遅れたようだが、もうそんな事はどうだっていい。登場時にあがったそれなりの歓声は、彼女が三味線を構えてマイクに向かうと急速に去っていく。そうか、聴きたいのか、この場にお集まりの皆さんも。たんに「話題の歌手をタダ見しに来た」ワケではないのだな。
 サポート・ミュージシャンの間宮工(ギター)、藤井珠緒(パーカッション)もスタンバった状態ながら、元ちとせは「糸繰り節」をひとり弾き唄う。
 凄い。

 まず、「糸繰り節」の三味線が見事だ。
 この唄は、比較的スローで、かつ音数が少ない。少ないから、一音一音をきれいに伸ばさなくては美しく聴こえない。張り詰めたような緊張感のある音色が、収斂という言葉がふさわしく拡がっていく(この言葉の矛盾がすこしもおかしくないのだ!)。
 そして、声。
 すでに言い尽くされていることだが、「百年に一人」というキャッチフレーズが商売上の誇張だとしても、類い稀な声であることは間違いない。それが、これまでなん千回となく唄って、隅々まで知り尽くし、なおかつさらに向上の余地ありと自ら認める「シマ唄」を唄うのだ。オレが元ちとせを気に入っているのは彼女の声の「質感」の部分であって、それがフルに発揮されていれば、ナニをうたおうが構うことではない。ただ、「ワダツミの木」、「竜宮の使い」が元ちとせの資質を生かすために作られた曲であること、馴染み易いメロディーであることは認めるが、もしかしたら彼女自身も意識していない「スイッチ」が「シマ唄」を唄いだした瞬間に入ってしまうのではなかろうか。

 残念なのは、元ちとせがまったくひとりで「糸繰り節」を唄ったことだ。シマ唄とは民謡であり、民謡とはすなわち伝統芸能であり、伝統芸能とはすなわち長い年月をかけて練り上げられたものである。形式は、たんなる形式ではなく、フォーマットは、たんにフォーマットではないのだ。
 元ちとせが気持ちを込めて「糸繰り節」の最初のフレーズを唄いきった直後、なにか空白としか呼び様のないものをオレは感じた。
 ああ、やはりナスエ姉を誘ってみればよかった。
 「ワダツミの木」のヒットの勢いもあるだろうが、現在の元ちとせの囃し方が務まるのは、オレはせいぜい五人ではないかと思う。そのうちのひとりがたまたまにしろ、東京にいるのだ。おまけに、こういう場で黙っているような人ではない。
 もちろん、オフィス・オーガスタにつまみ出される可能性はあるわけだが、凡そ歴史とは偶然の積み重ねであり、偶然とは、ただ座して待つものではないのだから。しかし、テロリストの論理かな、これは。

 「糸繰り節」を唄い終えた元ちとせは、三味線をステージクルーにわたし、ナニゴトもなかったかのように二枚のミニ・アルバムと最新シングル、発売を目前に控えたアルバム「ハイヌミカゼ」から10曲を歌った。
 途中、大粒の雨が降り始め、ちょうど「幻の月」の歌詞「♪雨が降る前の匂いをかぎました〜♪」のところでかなり激しい降り方になったが、通り雨らしくすぐにあがって、むしろ「演出か?」と勘ぐりたくなるほど。オレが彼女の事務所の宣伝担当者だったら、間違いなく「雨のライブ云々」のプレス・リリースを出していただろうな。
 だってさー、21世紀のオレたちには、食いモンも飲みモンもアミューズメントも、ナニもかもがあるけど、伝説だけはないのだじぇ。元ちとせがウケたのだって、「しまうた」という名詞は、「ちゅらさん」やら「Boom」やらで多少の馴染みがあったにしても、「奄美大島」なんぞという地上のどこにあるんだかも知れないような地名に「なんじゃそれは」というロマンティシズムを刺激された部分があったはずなのだから。



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  6月 7日 民謡酒場「追分」にて、津軽三味線初体験

 この時点において、世は、ワールドカップ一色である。
 いや、別に文句があるわけではない。オリンピックと並んで、「とりあえず世界(の大半)が平和でよかった」という気分にさせてくれるイベントなのだから、文句のあろうはずもない。
 とりわけ、オリンピックではやたらと羽振りを利かせるアメ公どもが目立たないことも手伝って、世界は多様な人たちの集合体であること、その多様さには優劣なんか付けちゃいけないことをじんわりと主張してくれるのだから、これはいいことに間違いはない。
 残念なのは、経済効果うんぬんしか考えられないバカ、フーリガンが暴れたらネタにしようとしか考えない大新聞とよく判らない人が、この国では妙に目立つことくらいだ。
 いいじゃねえか、せっかくのお祭りなんだから、サッカー見て楽しめば。それともアレかい、そろいも揃って「巨人を見ずに飯が喰えるかッ」とかいう手合いなのかい、あんたたち。

 そんな6月7日は、午後からナイジェリア対スウェーデン、夜からアルゼンチン対イングランドというとんでもなく贅沢な試合がある日である。得点計算よりも勝ち点計算が優先されるグループリーグだから、「点獲って勝つぞ」よりも「点盗られて負けたくないよな、みんなぁ」的な試合なことは間違いないのだが、それでも普通だったら、ベスト16とか準決勝並みの試合である。たとえTV観戦とはいえ、見逃す手はない。
 ところが、そんな日に限って、奄美三味線の師匠に「津軽民謡のお店"追分"に行くから、あんたも来なさい」と言われてしまう。「金三郎・銀三郎に紹介するから」と言うのだ。紹介うんぬんはさておいても、いちおう音だけは聴いておかなくてはいけない。彼ら二人には、七月と九月のイベントに出演してもらうので、とりあえず予習は不可欠なのだ。
 しかしではある。ナニもこんな日に行かなくてもいいじゃないか。「ワールド・カップと津軽三味線とどっちが大事だと思ってるんだ」と半ば腹を立てつつ、浅草への道を辿る。
 お店の場所など、下調べもろくすっぽせずに、「浅草で"追分"といえば、三歳の子でも知ってる」とかいうナニゲに信憑性のありそうな噂を頭から信じて、浅草駅前の交番で聞くと、「え、ナニそれ?」


 ここで声を大にして言っておかねばならぬ。きょうびの東京の公番で道を訊くのは自殺行為に等しい。オレは、新宿区内の公番で、ヒドい目にあったことがある。詳細は省くが、嘘を教えられ雨の中を一時間も歩き回らされたのだ。


 それでもタウン・ページから住所を割り出して、地図で示してもらい、てくてくと歩いていくと、また道に迷ってしまった。別な公番で訊いても「有名なんですか、そこ?」、「いや、オレもよく知らないんだけどね…」
 そんなこんなで一時間近く歩いてやっと辿り着くと、師匠もその他の連中も、誰も来ていない。
 しゃあねぇなぁ、とステージ真正面の空いた席にどっかり座ってメニューを見ると、げげ、高い…。
 「給料日、三日過ぎたら給料日前」とは、オレの隠れた名作として俳壇でも注目を集めつつある一句だが、この日はホントに給料日前である。メニューを見て「高いなー」だの「なんとなく馴染めない雰囲気〜」だの思っていると、隣のテーブルでは茶髪のあんちゃんたちのグループがわいわいと楽しそうにしている。
 「オレも場違いだが、彼らには負けるな」だの、
 「しかし、このワールドカップの最中にいい若い者がこんなところでナニをしとるか、あほんだれ」だの思っていたら師匠たち一行が到着して、茶髪のあんちゃんたちを見るや、
 「りょういちろうが来てるんだから、弾いてもらわんば(もらわないと)」などと言って茶髪のひとりをステージに押し上げてしまう。
 「誰なんだ、あれは」と師匠と一緒に到着したひとりに訊くと、「知らないのか?」と驚愕の態。自慢じゃないが、若い男に興味はないぞ、えっへん。「その筋では有名な人物のように見受けられるが…」、「有名なんだよ、彼は!」はぁ、そうですか…。
 あまり勿体をつけるのもアホらしいので、早めに事実を明らかにしておこう。「りょういちろう」と呼ばれていたのは、その筋でなくても有名な吉田兄弟のお兄さんの方、吉田良一郎だったのである。CMに出てた?知らんよ、わしゃ。

 さて、この One of 茶髪のあんちゃんこと吉田良一郎だが、二十畳ほどの座敷の端に設えられたステージの上で三味線を構えると、入念にチューニングを繰り返しはじめる。どれくらい入念かというと、はよせんかこら、とか言いたくなるくらい。
 むかし昔、遠藤賢司はチューニングに時間を掛けすぎて一曲か二曲演奏したところで時間切れになったとか。そこまでではないにしろ、オレみたいに慣れない人は、ステージに上がったから拍手して、ビールをひとくち飲んで、つまみをひとくち食べて、もうひとくちビールを飲んだら、さて、どうしたらいいんでしょ。
 ちょんちょんちょん、ぺんぺんぺん、びょんびょんびょん(<-幼稚園児か、おい)、とチューニングはつづくよ、どこまでも。ぽけっと見てると、あれれ、あの姿、どこかで見たことがある。どこで見たっけ、なんだったっけ、と考えていたらはじまっちゃった。

 「じょんがら節でもやりましょうか」とか言ってたような気がするが、もう忘れた。正直言って、「じょんがら節」だろうが「創業元和元年土佐壱の鰹節」だろうが「チュニジア代表ミッドフィールダー、ハッサン・ガブシ」だろうがオレにはどうでもいい。どうでもよくないのは、彼の操る撥と三味線から出てくる音、である。
 なんじゃこりゃあ、である。カッコいいやんけ、である。
 ヴォキャブラリーの貧弱さを白状するみたいでナサケないのだが、他に言葉が見つからないんである。念のために三十分ほど考えてみたが、やはり見つからないもんは見つからないんである。
 長々と演奏していたような気もするし、すぐに終わっちゃったような印象もある。終わった直後のオレの脳裏には、「とんでもないモノを見てしまった」という言葉だけがぐるぐると駈けずり廻っている。

 この後は、お店の店員兼演奏者による通常の演奏メニューになったが、こちらに関しては、べつだん感想はない。
 むかし、エルビス・コステロがジャズについて「器械体操を見ているようだ」と言っていたのだが、まぁ、そんな感じですな。
 なんだなんだ、吉田良一郎だけ特別扱いしてちゃ狡いじゃないか、などと批判される向きもあるかもしれない。オレもその点はちょっと気になったので、後であらためて考えてみた。
 ちょいと段差を付けただけのステージで演奏する吉田良一郎を見て、どこかで見たことがある、どこで見たのだろうと、しつこく考え続けていると、翌日、電光のように閃いた。一年ほど前、赤坂でのPANTAのライブにゲストで出た石間秀機とダブっていたのだ。

 石間秀機は、日本で最高のロック・ギタリストと呼ばれる一人で、日本のロックの歴史を語るときに、この人、あるいはこの人が在籍したフラワー・トラベリン・バンドの名前を外すと、「それって歌謡曲の歴史だよね」と言われてしまうような人である。もっとも、こういう名前があがるのは、「日本のロックの歴史」の中でも飛鳥白鳳文化の時代に当たるので、もっともらしい理由をつけて省略されてしまうことも少なくないのだが…。
 その石間秀機だが、おそらくはビートルズのノルウェーの森に触発されてのことだと思うが、インドの弦楽器、シタールを習得した。習得したのはいいのだが、あまりにも難度が高すぎる演奏技法、演奏自体のほかに付随してくる煩雑なもろもろに腹を立てたかして、「それなら自分で創ってしまえ」と、シタールのボディにギターの弦を張った「シターラ」を考案してしまった。
 現在は、世界で唯一のプロ・シターラ・プレーヤーとして、シターラの演奏と普及に取り組んでいるそうな、めでたしめでたし。

 吉田良一郎がなぜ石間秀機とダブって見えたかについて考えてみると、どうも「アジア」というのがキーワードになっているのではないかと思う。
 演奏自体と、それが演奏者の肉体にフィードバックされる部分において、「アジア」という言葉で括れそうな何かがこの二人に共通していたような気がするのだ。
 もちろん、吉田良一郎も石間秀機も「ロック」や「ポップ」を通過したり吸収したり、あるいはその渦中に居るという点でも共通している。それに対して、それぞれがプロの民謡歌手、あるいは民謡の器楽演奏者である店員兼演奏者たちには、そうした「現代性」を感じ取れなかったばかりでなく、オレは「アジア」的なテイストをも感じられなかったのだ。

 「日本はアジアの鬼子である」というテーゼを耳目にすることがある。
 無理もないよな、とオレは思う。中世から近代にかけて二百年以上も「鎖国」をやって、やめた途端に西洋志向を徹底させたのだから、近隣との類縁意識が希薄になることは不思議ではない。
 しかし、それでもなお、この日本民謡の独特さはいったい何なのだろう。

 もちろん、この項の後半三分の一ほどは翌日以降に考えついたことである。
 とにかくこの日は、給料日前に福沢諭吉一名と別れを告げたこと、できれば決勝トーナメントに進んでほしいナイジェリアのこと、終電の時刻が迫っていることが気になって、吉田良一郎どころではない。
 自宅の最寄駅になんとか降り立ち、「そういえば、ワールドカップと津軽三味線とどっちが大事なんだろう」とか考えながら家路についたオレであった。



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