Nov. '00
11/ 2 渋谷 WINE BAR よしはし
11/ 3 品川 天王洲 アートスフィア・メックス 香瑠鼓 Produce SINLA【森羅】
11/ 4 下北沢ロフト 鳥居賀句プロデュース CLOSING TIME Vol.24
11/ 5 横浜 ベイサイドマリーナ特設ステージ
11/22 赤坂 グラフィティ
11/25 下北沢 La Cana RIKKI LIVE
下北沢 La Cana RIKKI LIVE。
10月の赤坂1111(November 11th)に行けなかったので、8月の吉祥寺 Star Pine's Cafe 以来の RIKKI である。
地下2フロアぶち抜きの Star Pine's Cafe に比べれば、この La Cana はひどくこじんまりとした空間で、その分、パフォーマーと観客の距離は小さくなる。ステージからいちばん遠いカウンターに座っていて小柄な(あとで分かったのだが、ほんとに小さい) RIKKI の表情まで見えるのは、なんだか得した気分である。薄い乳白色のゼラをかましただけの照明も、おそらく一役買っているのだろう。地明かりというのは、必ず二色の組み合わせで作るものだと思っていたのだが、べつにそういう決まりはないんだな。余分な陰影がないのは美観的には寂しくもなるのだが、良質な音楽だけを求めれば、美観すら余分なんだ。
世の照明家連中への嫌味はさておいて、この夜聴いた良質な音楽について考えてみよう。
曲目をメモったりしていないので分からない(覚えろって-の)が、出だしはちょっと、悲しいものがあった。喉が暖まっていなかったせいで、高音がかすれてしまっていたのだ。うーむ、発声練習って大切ですね。でも、下北沢の街中でどうやって発声練習をしろというのだ。気違い扱いされるのがオチだぞ。小田急線の電車が通るのに合わせて、線路際でやるか。うーん、楽屋って、必要なんだね。
あ、そういえば RIKKI は三味線を持たずに登場。黒田亜樹(以下、クロアキ)のピアノだけをバックに歌っていく。考えてみれば、三味線なしの島唄って、例えは悪いがギターなしでヘビメタをやろうとするのに近いんじゃないのか。当日はぼけっと聴いてて気にも留めなかったけど、伝統や慣習ということを考えると、これはおおごとなのではあるまいか。しかし、Star Pine's Cafe でも三味線を弾いたり弾かなかったりだったから、当人は案外あっけらかんとしているのかもな。
石川啄木の「はつ恋」は、Star Pine's Cafe 以来のレパートリーなのだが、今回のお披露目はなんと、Pat Metheny 作曲、矢野顕子作詞の「Prayer」。こーれは、すんごいですな。矢野顕子という人は、けっこう早いうちから琉球音楽を自分なりに消化していた音楽家なんだけど、それを真正面からカバーしてしまう RIKKI のヴォーカリスト(唄者と呼ぶべきかな)としての力量は実に空恐ろしいものがあります。矢野顕子カヴァーをシリーズ化してもらいたいんだが、それは無理だろうな。オレは、BAKABONを聴きたいんだけどな。
「Prayer」は、クロアキのプッシュらしい。ピアニストとしてもやってみたかったのだろうな。あと、RIKKI のオリジナル曲(ちゃんと覚えようぜ、オレ)でも、気合の入った演奏をしていた。っていうと、他は気を抜いてたみたいだが、肩の力が抜けたいい演奏の間にピアソラ信者らしい演奏はスパイスになっていたのだ。
修行が足りんせいか、いちばんいいところで他のことを考えてしまったり、途中から入ってきた上々台風の紅龍が隣でもぞもぞして鬱陶しかったりといま考えると勿体無い聴き方をしてしまった部分もある。ま、前向きに考えよう。次は再びの吉祥寺 Star Pine's Cafe。RIKKI バースデイ LIVE だ。RIKKI は雨女らしいから、雪でも降るのかな。
赤坂 グラフィティ、ポエトリー・リーディング(注1)。
夕方、18階の職場から眺めた東京の空は中華まん状の雲隗に半分ほど覆われながらも、乾いた冷たい風が吹きわたり、ついに冬らしくなってきた。薄手のコートを突き刺すような風に震え上がったオレは、足早に赤坂グラフィティを目指したが、道を間違えて20分ほども赤坂の街をまごまごしてしまった。
実を言うと、この日はいまいち乗り気ではなかったのだ。この日は水曜日だったのだが、土、日、月、火と三ツ矢功氏から依頼があった裏稼業に関連する調べモノその他でひどい寝不足だったのと、火災の恐怖がオレの脳裏にしがみついていたせいだ。
本日の出演者のひとり、「さいとういんこ」が10/14に出演したポエトリー・リーディングでは地震があった。11/ 2に彼女が主催したオープン・マイク(注2)のイベントでは、開演直前まで雷雨があった。地震、雷と来たら、次は絶対に火事である。これが日本の常識であることは、疑う余地はない。オレがビビるのは当然なのだ。
ようやく赤坂グラフィティを発見して中に入ると、「小森岳史」氏のパフォーマンス中。へえ、いい声してんじゃん。
赤坂グラフィティは、ライブ・ハウスというよりは、クラブの部類。だが、LIVE を主体としたパフォーマンスにとてもよく気配りした造りである。ステージは45pほどの高さを確保しているし、天井はぎりぎりだが照明の効果が現われる高さで、パフォーマンスを客への大きなサービスとして捉えていることを感じさせてくれる。これでこの料金(入場料1,500円、チャージ600円)は納得。
「小森岳史」氏の次は「西川眞二」氏。彼は、オレの古い友人である高杉光亮に似ている。明らかに違うのは、高杉は当時の若者らしく不潔でワイルドだったのに対して、西川は最近の若者らしく清潔なストリート系だということだ。ただし、西川のパフォーマンスは、ストリート系を超越したものに到達しかけている。到達しているかもしんない。
「さいとういんこ」は、ピアノをバックにパフォーマンス。当人は喜んでいたようだが、こちらとしては「なくてもいいんじゃないの」。彼女は、自前の声だけで聴く者を酔わせられるのだから。
「久保田洋司」をはさんで「マサ・ホシノ・ハル」。古い友人であるというサックス・プレイヤーの3曲をバックにパフォーマンス。
意識してかしないでか、おれは、「キング・コング」を連想してしまった。前半、コングは、人間たちにがんじがらめに縛り上げられて都会へと連れてこられる。自由を求めて身もだえするコング。1曲目、2曲目でのパフォーマンスを、オレはそう見た。
そして3曲目、鎖を断ち切ったコングは吼える、怒りを、悲しみを、希望と絶望を。
火事はなかったが、強烈なオヤジにしてやられた一夜だったわけだ。
疲れてんのかな、ギャグがなかったぞ、オレ。
横浜 ベイサイドマリーナ特設ステージ 第1期 Yokohama Music Award 上位入賞者 LIVE えみコバーン登場(←長いじょ)。
怒涛の四連戦、最終日。長かった、ここまでの道程はほんとうに長かった。タクシーの中に財布は落としたわ、二日酔いで午前中を棒に振った日もあったわ、LIVE の最中に居眠りこいてたわで、ホント、年齢による衰えは、隠しようがない。今後は、ちゃんと、老いと向き合うようにすべし。って、オレはいくつだ。
どピーカンのご褒美に、今日は単車で行こう。横須賀って、どこにあるんだ? げっ、横浜よかずいぶん向こうじゃねえか。13:00 スタートだって…、あ、10:00 だ、行かなきゃ。環八、第三京浜、R16 と辿って行く。掘割川沿いは、気分いい道だぞ。三連休の三日目の午前中は、街も人ものんびりゆったり、ここまで渋滞なし。好調、快調、順調に走って、11:20 頃には会場の 1km 手前まで来ちゃった。おーい、どうするよ。朝飯、まだ喰ってないんだよな。ダイクマを発見したので、軽食 & 休憩。
ダイクマ各階めぐり(二階建てだった)を堪能した後、ベイサイドマリーナ・ショップス&レストランツ(ホントに長いじょ)を捜すが、R357 を横切ったとたんに見つける。なんとなく八景島水族館前の商店街みたいなのを想像していたのに、現われたのは流行のアウトレット・モール。なあんだ、LIVE の後は、商店街の親爺連のカラオケ大会になるって思ってたのに。アウトレットなんて、アウトオブデートなオレには無関係だもんね。マリーナ沿いのレストランやカフェも、一人で単車で来るようなオヤジには無縁だいっ、と毒づきつつ、こないだ婚約発表をしたえみコバーンが、極秘デートでもしていないか捜すが、見つからない。やはりオレには、パパラッチは無理か。カメラも持ってきてないし。ぼんやり歩いていたら、本日のコメンテーター、ミッキー吉野を発見。おお、やっぱデカい。
もういっぺん、モール内に戻ると、mont bell のショップを発見。ここだったら安心だ。そういや、品川からの帰りに永年使っていた巾着袋の紐が切れちゃったんだよな。なにか替わりのものを買うか、紐を付け直すか。ふーむ、いろいろありますね。
時間になったので、二階のテラスに移動。特設ステージの正面で、よく見えるんです。Beck Rod、クフ王 と出てきて、えみコバーンになったので、ステージ正面の広場に移動。ミーハーですけんのう。
いつも無愛想なえみコバーンは、きょうも無愛想。日曜日のショッピングモールに集まった人たちが相手なんだから、もうちょっと愛想を良くしてもいいんじゃないの? 案の定、「迷子」、「バタフライ」とえみコバーンの出来は極上に近いものがあるのに、ステージ付近の客の反応は醒めてます。ひとりミッキー吉野だけが、「CD 持ってきたので、買ってってください」との MC に反応してました。そうそう、今日のえみコバーンは、オレが見た中でも三本の指に入る出来。えーと、今日のを入れて全部で六回か。でも、ホントにいいんだよ。
客の雰囲気が変わったのは、「太陽」。賑やかなショッピング・モールが一瞬、静かになりました。よおし、勝ったぞってオレが言ってどうする。
えみコバーンの演奏終了後、コメントを求められたミッキー吉野は、ジョニ・ミッチェルを引き合いに出してました。おお、納得。流石はミッキー吉野、音楽活動三十五年(炭素年代測定法による推定)。
最後まで見ようと思っていたけど、晩秋ですね、14:30 で早くも日は傾きはじめます。同じコースで帰るつもりが、三ツ沢への分岐を見落として、R1、環七で帰ることになりました。往復 85km。よしよし。
やれやれ。次の週末は、実家の法事。しばらくはここをいじる必要はありません。
下北沢ロフト 鳥居賀句プロデュース CLOSING TIME Vol.24。
詩人の炎氷氏が出演とのことで、掲示板に書き込みがあった。ここのネタにせえ、ということだろう。ありがたくお受けしようではないか。かかってきなさい!(←ばか)
ゆうべはなぜか3.5時間ほどしか眠られず、その割に寝覚めが良かったのでコンディション上々のつもりでいたが、受付で受け取ったビールを飲み終えたとたんに襲ってきた、強烈な睡魔! LOU のLIVEの間中、わし、死んでた。
いや、弁解ではないのだが、LOU の音楽には、GROOVE までは行かないけど心地よい「ゆらぎ」があるんだよ。で、オレは、その「ゆらぎ」が嫌いじゃないんだな。「いんこのpm11」に出てたかな? CD 出してんのかな? 実に寝易かった。
眠るだけ眠って目が覚めたら、炎氷登場。あいかわらずシブいのう、わしの次くらいにランクさしたろか(←医学用語で言う、譫妄状態だね)。バック・トラックもなく、軽ーく、流すようなポエトリー・リーディング(注1)。これにはちょっと、面食らった。
炎氷氏のリーディングは、これまでに3回ほどお目にかかっているが、いずれもエネルギッシュでビートの効いた、「ポエる松崎しげる」の異名にたがわぬパフォーマンスではあった。これは、どういうことなのか。えみコバーンの婚約騒動が響いているのか。そんなわきゃねえだろ。
あっけに取られるオレを尻目に、炎氷氏は、3作品のリーディングを終えると自著の宣伝をしてさっさとステージを降りてしまった。
なんだったんだべ、ありゃ。
たしかに、オージャス・ラウンジとは客層が違う。でも、そんなことは、最初から百も承知のはずである。
わからんなあ。
次に出てきたバンド、なまえ忘れた。大阪から来た若い衆。けっこういいぞ、何曲かは GROOVE してた。
そして、魔女系詩人(炎氷氏命名)RAM。中東系のバックトラックで、堂々たるリーディングだった。
最後は、鳥居賀句自身のバンド、The Blacklists。こーゆーのは、絶対にやってる当人がいちばん面白いって。
Lou Reed の "Walk on the Wildside" をカヴァーした以外は、全部オリジナル曲みたいな顔をしていたが、見事なコラージュ! オリジナルのリフの上に、あっちのバンドからこのフレーズ、こっちのアーティストからこのフレーズ。歌詞もあっちから、こっちから。カフェテリアか、寄せ鍋か、季節がら芋煮会ってのもありか? でもちゃんと GROOVE してたから、LIVE の客としては、それでいい。
最後のほうで、松田文登場。お、あのギターは、フェンダー・テレキャスターの、ブロード・キャスター・モデルではないのか。ラストの曲では、ハーモニカとサックス吹きも呼んで、おいおい、ステージ上に何人居るんだ。えーと、9人! 我が儘親爺炸裂、の一幕であった。はいはい、御馳走様。
品川、天王洲 アートスフィア・メックス、香瑠鼓 Produce SINLA【森羅】。
Mちゃんに頼まれた時の電話では「ご招待」になりそうだったので期待して出かけるが、受付でMちゃんを捕まえると「当日券を買いなさい」とのお達し。けち。まあ、去年はもっとたいへんな労働をして前売り扱いだったから、Mちゃんとしては当然だろうな。それに、オレは性格上タダで見ると悪口をいえないので、ある意味で良かったかもしれん。ひっひっひ。
表現芸術として、演劇とダンス(舞踏)のふたつだけを比較すると、どちらがより古くからあるものだろうか。
どうせ根っこはひとつなんだから比較すること自体に大した意味はないんだけど、最近は詩の朗読を見に行くことが多いんで、ああいう古くからあるものが冷や飯を食わされていることについてちょっと考えてみたい。
演劇は、ギリシャの神話劇が記録されている限りでは最古のものなんだけど、ダンス(舞踏)は、もうすこし古くからあるはずだ。定型化、様式化された時点でみても、けっこう古いはずだじょ。そいつが複雑になって演劇になったんではないかいな。それがどうした。
えげれすの諺に「新しい芽は、いちばん古い幹から出てくる」というのがある、らしい。まあ、あすこはなんでも古いものをありがたがるというお国じゃから、気にすることもないっちゅえばないんだけど。あ、余談になるけど、「転石に苔は生えず(A rolling stone gathers no moss)」っていうえげれすの諺は、苔を貴重な経験や財産として捉えた諺だからね。間違えてる人が多いから、注意するように。次のテストに出すからね。戻して、と。あれ、なんだっけ?
この国の文化ってやつは、ひとつのジャンルが確立され始めると必ず、家元制度みたいなのを作り出してしまう。現在進行形でそれをやっているのがプロ野球だ。モンクあるか。第二次大戦までは、それで目に見える破綻はなかった。明治維新とその後の自由民権運動でひっくり返りそうになったけど、日清・日露戦争に勝ったんで大筋OKというコンセンサスができちゃった。第二次大戦に負けて、制度疲労が見えてきちゃった。家元なんてエバってたってダメじゃん、てわけだ。それで、古いモノはダメ、新しいモノはなんでもいいモノ、に走っちゃった。モンクないだろ。それで、いろんなものがとばっちりを受けちゃった。演劇、ダンス(舞踏)といった舞台表現なんてモロにそう。だって、TVのほうがずーっと新しいんだもん。うちに居ても見れるしぃ。タダだしぃ。
香瑠鼓さんは、ポピュラーなダンスシーン(前衛舞踏を省くってこと)における第一人者なので、ここで見られるダンスは、最先端ではないのだ。ここにあった新し目のすべての断片を、ぼくらはTVやヴィデオで見ることができるのだ。「ニューヨークのストリート・パフォーマーたち」というテーマで。
じゃあ、なんの価値もないものだったのか。とーんでもない。ちゃんとやることはやってくれてます。とてつもなく高いテンションの陰に、そこはかとなく遊び心が滲んでいます。ダンス業界の方々にとってはどうか知らないけど、人形浄瑠璃みたいな動作は、ジャパン・オリジナルに向けた試行として強い意志を感じました。「新しい芽は、いちばん古い幹から出てくる」、のかもしれません。
長くなってるけど、もうちょい。
ここ二、三年、舞台を見に行くたびに必ず思うんだけど、平面のダイナミズムしか見せてもらえないんだよな。今回もそう。いい劇場なんだから、もっと高さを使ってもらいたい。危険なのは知ってますよ。オレだって、丸っきりのトーシローじゃないんだから。でもさ、生身の肉体がいくら飛び跳ねたって、限界は低いんだからさ。
役者もダンサーも、すぐに床をのたうちまわりたがるけど、あれって、実は気分いいんだよ。人前で這いずり回るのって。おマゾな気分で。でもさ、客の2/3には、見えないんだよな。金取ってんだから、客のことも考えろってんだ。あれを三次元ていったら、許さないからな。
来年の四月に、また、なんかやるらしい。
渋谷 WINE BAR よしはし、ポエトリー・リーディング(注1)。
雨である。雷まで鳴っている。10/14のさいとういんこのポエトリー・リーディングでは地震があった。
スタート30分前についてしまうが、主催者のさいとういんこさんとかわむら恭子さんを除けば片手で足りるほどの人数しか集まっていない。あいかわらず出足のにぶいイベントである。
今回も例によって出演者が足りない。かわむら恭子さんが、オレのところにダメ元と言う顔で「読む?」と訊きに来る。力いっぱい首を横に振ると「…たりない」と叫んで、なんきん氏を呼びに携帯を手に走る。無事、なんきん氏をつかまえたものの、寝ていたらしい。「なんきん待ち」でスタートが30分繰り下がる。
最近、内臓の調子が悪く、寝酒をホットミルクに変えているのだが、こういう場所に来て酒を飲まないわけにはいかない。カウンター奥の棚には美味そうなものが並んで手招きしている。入ってすぐに頼んだアイリッシュ・ウィスキーのオン・ザ・ロックは、すでに飲み終えている。早くはじめてくれとオレの肝臓は訴えているようだ。スコッチのお湯割を頼んで舐めていることにする。
20:30 になり、なんきん氏を待たずにはじめる事になった。今日のハイライトは、テルミンである。断っておくが、ムーミンではない。かなり変わった楽器である。どれくらい変わっているかを説明するのは面倒なので、オレも実物を見たのは初めてだと告白するにとどめたい。実のところ、実在を疑っていたほどだ。
演奏は、ドビュッシーの「月の光」、武満徹のボサノヴァ風の小曲に谷川俊太郎作の詩を載っけたもの(朗読はさいとういんこ)、そして、日本人なら誰もが知っている名曲「たんたんたぬき」。…。
どうにも不思議なのは、オージャス・ラウンジやベンズ・カフェのオープン・マイク(注2)で読んでいる連中がここに出ないことである。客が少ないのが気に入らないのか。
よしはし初登場の紀ノ川氏がいい味を出していた。見た目も強烈だったし。
(注1)直訳すれば、詩の朗読。しかし、かなり広範囲なパフォーマンスを含む意味で使われることが多い。オレは、この言葉には違和感を感じるんだけどな。和製英語でもいいから、なにか目新しいネーミングをできれば、世間への浸透度も上がるんじゃね−か。
(注2)誰でもパフォーマンスできますよという前提だっちゅうこと。