カンカンカンカン…
金属の階段を踏みしめる靴の音が、無機質な建造物の間で響いている。
同時に、荒っぽい息遣いがわずかな隙間をくぐりぬけてくる。
その主が駆け抜ける後を、闇色の服に身を包んだ男達が追っていた。
「今度こそ逃がさんぞ!」
威嚇するように叫ぶ姿は、見た者をすべて凍りつかせるほどの威圧感があった。
それが二人。
追われ逃げる方はもちろん振り向く余裕などなく、ただ全力を振り絞って駆けるのみであった。
白いワイシャツに黒いズボンという正装だが、見た目は十代半ばと思えるほど若々しい。
また、少しだけゆるんだネクタイや抱えている鞄を合わせ見ると、実年齢を推測するには十分である。
対して追い続ける二人は、同じく正装。真っ黒なスーツをまとったその顔には、ただ殺意の色しか現れていない。
そして、屈強な体と顔つきとが、彼らが手に持つ鉄の物体が、明らかに逃亡者とは違っていた。
逃亡と追跡の舞台となっているその建造物は、彼らの他に一人として動く者のいない廃ビル。
建設された当時はかなりもてはやされたであろうほどの高層ビルだ。
だがそれもみる影もない。景気の波に押されたのか、それとも歳に勝てなかったのだろうか。
薄闇に照らされてあちらこちらに見えるヒビの入った壁が、モノの事情を切に表していた。
もはや誰にも、見向きもされていない事は明らかであろう。
今、必死になってこの中を巡っている三人の人物を除いて・・・。
「しまった!」
逃亡者は、一つのこじんまりとした部屋に辿り着くなり舌打ちした。
今まで隠し通路とも思うほどの複雑な経路を使い、懸命に駆け抜けていた。
しかしこの場所は違った。入ってきた道以外は何も無い、いわば行き止まりなのだ。
窓が一つあることに気付く。慌ててかけよるも、その場のとんでもない高さを認識して脱出を断念。
すぐさま背後を振り返る。冷静に来た道を分析する。すぐに、引き返している暇はないと判断した。
もう一度部屋の中を振り返る。隠れられるような入り組んだ場所はもはや無い。つまりは逃げるのはここでお終いなのだ。
「奴らを迎えうてってか?そんな無茶な・・・。」
対抗するには物がなさすぎる。部屋自体はがらんどうなのだ。さすが廃ビルの一室といったところだろうか。
頼れるのは自分の持ち物のみ。
だが、やぶれたポケットにかろうじてしがみついているハンカチを除けば、彼の持ち物はただ一抱えの鞄だけであった。
どさどさっ!
入り口を広げて、乱暴に中身を床にぶちまける。
普段から学校の授業など気にしていない彼のそれらは、数えるほどの筆記具と2,3冊の本のみであった。
次に、何かのたしにはなるだろうかと、首につけていたネクタイをするすると外す。
だがそれは、背後からの不意打ちには役立ちそうだが、現状で使うにはあまりにもお粗末な武器であった。
絶体絶命。
そんな言葉が頭の中をよぎった。
「ちくしょうっ。なんで・・・なんで俺が命を狙われなきゃならないんだ!」
無関係な自分に降りかかる災いであるかのように、彼は吐き捨てた。
彼の両親は、この界隈でも有名な資産家であった。
世によくある、いやらしい金持ちではない。誰にもすかれる、それは立派な人物であった。
仕事でも普段の生活でも。彼らが声をかければ笑顔で挨拶が返ってくる。
信頼も地位も、なにもかもを兼ね備えた、理想の金持ちの姿であった。
だが少なくとも息子にとっては、そんなことは特に関係ないはずであった。
しかしそれも両親が亡くなるまでのことである。
不慮の事故。
車と車の衝突。それに巻き込まれたのだ。
あまりにもあっさりとした死に方を、二人はした。
しかし死後の、事後のことまではあっさりとは終わらなかった。
二人の親類、家で雇われていた者、少しでも関係があったと主張する者すべてが家におしよせてきたのだ。
目的は、二人が残した莫大な遺産。普段からいい顔をしていた者たちもその中に居た。
自分は親密にしてもらった、だの、面識は無いが遠く血が繋がっている、だの。
モノが絡めば人が変わる。あまりにも正直にそれを表したいい例であろう。
だが、遺言書にはこう書かれてあったのだ。
“私達の遺産のすべては、愛しい一人息子に譲る・・・”
この一文が、彼には無関係で居られなくなった日々の始まりであった。
遺言書に納得する人物など、ほとんどと言っていいほど居なかったのだ。
「はあ・・・。何度も命を狙われては逃げ、狙われては逃げ・・・。
いいかげんにしてくれって感じだよな・・・。けどさすがに今回は・・・。
俺の自慢って逃げ足だけだし・・・。追われる身は辛いぜ。」
少しでも落ち着いてみようと、緊張感をいくらか抜かした声で呟く。空笑いもしてみた。
だが、そんなのは一時の効果しかもたらさなかった。
すぐに彼の表情は歪み出し、その顔いっぱいにひきつりと涙を入り混じってゆく。
「なんで、なんでだよ・・・。なんで俺が殺されなきゃならないんだ!」
分かりきった疑問であった。
遺産はすべて一人息子に行った。しかし彼を暗に死亡でもさせれば、遺産をばらけさせることが可能。
込み入った事情はあるだろうが、とにかく遺産所有者をどうこうすればいいのだというあんばいだ。
もっとも、金持ちは命を狙われやすいというのはいつの時代も変わらないことだが。
「なんで・・・。」
絶望にうちひしがれる。がくりと床に膝をつく。同時に、窓から風が吹き抜けてくる。
さっき床に落とした本が、風に吹かれてぱらりと開いた。
「・・・最後、か。」
めくれた本を見やる。それは両親からゆずり受けたものであったが、彼は一度たりともそれを開けたことはなかった。
元々、本というものが大嫌いであったためだ。だから教科書なども持ち歩いて居なかったのだが・・・。
これも一つの遺産らしい遺産だと思うと、嫌いを通り越して忌まわしく見えてくる。
乱暴にページをつかんで、本を持ち上げた。
そして丁度開かれてあった場所に書かれてあるものを目で追う。
生き延びる為のヒントが少しでもほしい。そう願って・・・。
「統・・・天・・・書・・・?」
不思議であった。彼にとっては見たこともない文字であったはずだった。
それが読めたのだ、ごく自然に。朝起きて普通に顔を洗って食事をしたりするように・・・。
ぱああああ!
本の中から光がはじけた。
彼は驚き、何もできないままそこに立ち尽くしていた。
光が飛び出ていたのはほんのわずかな時間。その間に、目の前には人が現れていた。
それは少女だった。真っ黒な学者の帽子に学者の服。そして鼻にかけている小さな眼鏡。
目を惹くほどの見事な金髪を揺らしながら、愛くるしい笑顔を彼に向けた。
「初めまして。私は・・・」
「居たぞ!」
ダーン!
少女が言葉をつむごうとした瞬間、怒号にも似た銃声が辺りに響いた。
次の瞬間には、少女の前に居た彼はゆっくりと前に崩れ落ちてゆく。
どさり
時が一瞬凍りついた。銃を撃った男も、撃たれた彼も、本から飛び出した少女も。
その一瞬の間、思考も行動も一切行うことができずにいた。
一言で表現するとすれば、決定的瞬間として撮られた写真。
光の、光景のすべてがその場に集約されていた。
彼らの中で、一番早く呪縛から解き放たれたのは、先ほど轟を起こした男性だった。
「あいつは・・・?」
「目撃者だな・・・消せ!」
ダーン!
この建物で二度目の銃声。音源となった弾丸は、少女の胸を軽々と貫いた。
衝撃で彼女は吹き飛ばされる。ここで初めて目を合わせた、顔を合わせた彼と共に・・・。
どん!
鈍器で殴るようなにぶい音がした。
そのはずみで、彼女が身につけていた眼鏡と帽子は湿っぽい音を立てながらその位置を外す。
暗闇の中に、鮮血が飛び散る。壁に叩きつけられた少女は、ずるりと床に体を落とした。
壁に背をもたれさせ、がくりと顔をうつむける。
同時に壁に付着した真っ赤な液体は、雫となって流れのあとを作り出した。
一連の様を見終わった男性二人は、音の発生源となった鉄の物体を懐にしまいこむ。
「・・・ひょっとして、男が雇った護衛か?」
「まさか。あんな弱っちい奴が・・・。ともかくこれで目的は果たした。後は・・・。」
「・・・そうだな。さっさとぶっ消してずらかるぞ。」
「生死の確認はしなくていいのか?」
「・・・問題ない。」
「そうか・・・。」
二人の男は、既に段取りをしているかのように小声で確認をしあった。
一瞥を、倒れている彼と彼女に向けると、そのままくるりと踵を返す。
すべてが終わったかのような足音を立てながらその場から去っていった。
部屋に残されたのは、相変わらず吹き抜ける風に揺れ動く小物、文房具、そして本。
物言わずぴくりとも動かない、一人と一人の躯、それのみであった。
「く・・・。」
いや、一人はかすかにうめき声を上げた。
うつむいていた顔を上げ、か細い手を伸ばし、ばらばらと音を立てている本をつかむ。
苦痛に、一瞬の出来事に顔を歪ませている、金髪の少女であった。
「・・・まずは、状況把握・・・っと・・・。」
おおよそ力の無さそうな動作で、本を手元に手繰り寄せる。そしてある程度ページをめくり、中身を読む。
2,3度頷いた後、彼女は本をパタンと閉じた。
「・・・移動、しないといけませんね・・・。」
懐をまさぐる。そして小さな球体を取り出した。
次の瞬間にそれは“ばっ”と音を立てて広がる。一枚の絨毯と化していた。
状態を確認した後、彼女は書物のあるページを開ける。
「ちょっと乱暴だけど仕方ないですね・・・。来たれ、突風!」
ビュウッ!
窓でも入り口でもない、あらぬ方向から風が吹く。しかもかなり強烈なものだ。
それはこの場にいる二人の身体をさらい、先ほどの絨毯へと運ぶ。
どさりと二人が音を立てて着地した後には、風はすっかり収まっていた。
「これで、準備よし、っと・・・ごほごほっ!」
よしと微笑んだ後に、少女は慌てて口を押さえる。
行動不能に至らないまでもかなりの衝撃を与えた鉛の塊が、彼女の身体を蝕んでいた。
口の中に広がる生命の味覚が、自分の身体の状態をいやがおうにも分からせた。
「っと、その前に・・・。」
風と共に手元にやってきた二つの物を手にとる。
それは、彼女が元々身につけていた、数少ない二つの飾り。眼鏡と帽子であった。
手元に寄せたそれらを、書物の上に置く。そして彼女は静かに念じた。
「かのものを幽閉せし力、封印する力、今ここに集わん・・・。万象封鎖!」
わずかな時間の後には、二つの物体はすっかりその場から消え去っていた。
ここでの用事は済んだ。これ以上の予断は許さない。急がなければならない。
そう言い聞かせ、彼女は再び書物を開いた。
「・・・来たれ、幻影!」
部屋の窓の外が妖しくざわつき出す。
同時に、その窓から彼女達は飛び出した。絨毯に乗って。
まるで中世の時代から復活した魔法のように、空飛ぶ絨毯に乗って・・・。
彼と彼女が廃ビルから脱出してしばらくした後、その廃ビルは大きな音を立てて崩れた。
黒スーツの男たちがあらかじめ細工をしておいたのだろう、爆破する細工を。
本当ならこの様な突然の爆破という行為は許されないはずなのだが、そんな事情は彼らには関係ない。
ともかくこうすることによって、あの時息があっても死んでても、逃亡者と少女の生存は絶望的だということだ。
「しっかしさっきの妙なチラツキはなんだったんだ?」
「霧とかじゃないのか。とにかくこれで用は済んだ。さっさと報酬をもらいにいくぞ。」
多少行動が遅れはしたが、二人は目的をすべて達成したと完全に思い込んだ。
爆破前にビルから飛び出した一枚の絨毯にまったく気付くことなく・・・。
「・・・この辺、かな。来たれ、濃霧!」
少女が呟くと、絨毯は静かに着地した。
そこはビルの屋上。もちろん廃ビルとは非常にかけ離れた場所である。
彼女らの姿が目立たないための、自然の霧の結界(結界とはいえ、視覚効果のみであるが)が現れた。
横たわり仰向けになっている男性を見下ろしながら、少女はゆっくりと本を開けた。
「調べたけど・・・即死、だったんですよね・・・。どうしようも、ないか・・・。」
“死”という言葉を紡ぐと同時に、目から雫がこぼれ落ちた。
霧によって少しばかり湿った本のページを更に濡らす。
そしてまた、わずかに口から飛び出した赤い液体によっても染みが作られていった。
「・・・いけないいけない。ま、私は丈夫なのが取得だからいいんですけど・・・。」
口を拭う。自嘲気味に呟くその姿は、もう怪我の状態など気にも留めていないようだった。
回復力が恐ろしく早いのか、それともただの強がりなのか。
どちらにせよ、彼女の着ている真っ黒な服に付着していた真っ赤な血は、
周囲に同化するかのごとく、すっかり黒く乾ききっていた。
「私は、できるだけ主様に次の主を決めてほしいから・・・。」
口内に広がる血の匂いと共に重く言葉を吐き出すと、彼女はゆっくりと本をめくった。
すぐにその手は止まり、あるページを指し示す。
一度大きく息を吸い込み、吐き出す。深呼吸を幾度となく繰り返す。
あらゆる覚悟を決めたような、そんな顔で、彼女は提言を始めた。
「生の活動、そしてその源の象徴よ・・・。静止した者に再び息吹を・・・。万象蘇生!」
パシュッ!
ほんの一瞬、まばたきするより早く、閃光が走った。
満足したような、それでいて不安げな、複雑な表情を入り混じらせながら、少女は本を閉じた。
しばらくその上でぐるぐると手を動かし、最後と言わんばかりの念を込める。
やるべきことがすべて終わると、彼女は足元にぺたんと腰をおろした。
ゆっくりと傍らに本を置き、今だ横たわる彼に顔を向けた。
「ほんとにもう、遊び程度で使えたならどんなによかったか・・・。
・・・主様。もしよろしければ、今後は積極的に本を読むようにしてくださいね。」
たしかめるように、諭すように、少女は自分の気持ちを投げかけた。
それが終わると、かくんと顔をうなだれる。
どこからともなく、冷たい夜の風が吹いてくる。湿っぽい紙切れが動く音が聞こえてくる。
明々とともる地上の星座。その光もとどかないこの場所に、二つの体が静かに存在し続けていた。
ぴーひょろろろ〜
遠くでとんびが鳴いている。
青く澄み切った空の下で、風になびかれて壮大な草原がざわざわと音を立てる。
耳に聞こえるそれらと、身体をなでて通り過ぎる柔らかなそよ風に、心地よい眠りへと誘われる・・・。
「おーいっ。ご飯の時間ですよー!」
まどろみかけた頭を、甲高い声が揺さぶった。
一度さえぎられた眠気というのはそうそう現れ直すものではない。
それでも悔しくて、再び自然に身を任せようとする・・・。
「おーいっ!聞こえてるんですかー!もしもーし!!ご飯だって言ってるでしょー!!」
「・・・うるさいなあ、聞こえてるよ。」
二度目の妨害に、耐え切れなくなって身体を起こす。
地面にあずけようとした首を、体を伸ばすように、かたくなっていた箇所を鳴らす。
現実的なその音が、今の居場所の雰囲気をまるで変えてしまいそうだった。
だがそれも瞬間的なもので、風は相変わらず吹き続け、草木は揺れ続け、鳥は歌い続ける。
それら自然の音が心地よく・・・。
「ご飯ですってばー!!」
「うるさいー!!」
我慢ならなくなって、甲高い声の元に向かって駆け出す。
その方向に見えるのは、広い野原の真ん中にぽつんと建つ、こじんまりとしたログハウスだ。
一段上がった木の床の上に、木作りのテーブルや椅子が並んでいるおしゃれな家。
がさがさと、背の低い草を踏みしめる感触が心地よい。
一生懸命生えている彼らには悪いが、自分はこうやって生を実感してるよ、と密かに謝罪する。
ほんの一分と経たぬ間に、一人と一人の距離は、見詰め合えるほどに縮まっていた。
「ご飯です!」
「聞こえてる!」
「だったらさっさと来てください!スープが冷めちゃいます!」
「俺が来てから作ればいいだろ!?」
「そんなことしてたらいつまで経っても食べられません!」
両者の間を激しいつばが飛び交っている。
片方は、先ほどまで呼ばれ続けていた者。
背も高くがっしりとした体格とは対照的に、滑らかな面を持つ素顔が印象的な青年だ。
整えた黒い髪とお揃いの様に、手には黒い本を抱えている。
もう片方は、先ほどまで甲高い声を上げ続けていた者。
背中までおろした見事なまでの金色な髪と、それに負けないほどに輝いて見える表情は目を惹かれる。
青いメイド服にエプロンドレスと、頭にちょこんと乗っけた白い髪飾りが可愛さを引き立てている。
怒った様に叫んではいるが、その底からにじみ出ている喜びがなんともいじらしい少女であった。
二人は、ずっと聞いていれば絶対飽きてしまうくらいに喧々諤々の言い争いを続け・・・。
その後、互いに笑いながら家の中へと入っていった。
匂いや見た目だけでおなかいっぱいになりそうなたっぷりの料理を食べた後は、二人座って静かに過ごす。
ただ椅子と机が一そろいあり、たくさんのオブジェが、人形が並んでいる棚がある小さな部屋でだ。
この家での日課が、いつも通りに訪れる時間が、これであった。
青年は本を読むのに熱中し、少女は慣れない手つきで懸命に裁縫をこなそうとする。
聞こえてくるのは、時々ページがめくれる音と・・・
ちくっ
「痛っ!」
「また刺したのか?」
「酷いです。私はそんなに何回も刺してません。」
「何回も刺してるだろ・・・。怪我しまくってるくせに・・・。」
「こんなの、一日もすれば治るんです!」
血がにじみ出ている指先を咥えながら、少女は懸命に反論する。
涙ぐむその姿に、青年は“わかったわかった”とこれ以上言うのをやめた。
「しっかしいつまで経っても上手くならないな。」
「ちゃんと勉強はしてるんですけどね・・・。私ってばやっぱりずっと不器用なのかな・・・。」
「向き不向きの問題だろ。お前はやれるだけの事をやればいいんだ。」
「はい、ご主人様。」
やさしく言葉を投げかけた青年だが、少女の最後の答えにがくんとなる。
慌てて取り落としそうになった本を持ち直すと、苦笑交じりに言葉を紡いだ。
「そのご主人様ってのはやめてくれよ。」
「どうしてですか?私はあなたにずっとお仕えしてきたんですから。」
「だからってなあ・・・。」
言い張る少女に、青年は上手い説得の言葉を見つけられない。
振り返れば、彼女に助けられ通しだったこと。
いつも傍に居て、支えてくれていたこと。
そして、今こうして二人で穏やかに暮らしていられることに、とても幸せを感じていること。
もっともっと早くに自分が彼女の存在に気付いていたなら、どんなに良かったろう・・・。
後悔の念もあり、満足の念もあり。複雑な思いに青年はかられる。
今や大切なパートナーである彼女に対して、どうも厳しくなりきれないのだった。
頭をひねり、あごに手を当て、うーんうーんとうなっている。
そうして困っている青年の姿に、少女はくすりと笑った。
「では呼び方を変えまして、主様ではどうでしょう?」
「それは絶対に使うな。」
冗談交じりに告げた少女であったが、青年の語調は急に厳しくなる。
触れてはならないものに触れてしまったような、言ってはならない言葉を言ってしまったような・・・。
あまりにもその変貌が顕著だった為か、少女は思わずびくんと後ずさりした。
「ああ、済まない。」
「あ、あの・・・私、変な事言いましたか?」
恐る恐る尋ね返す少女。腫れ物に触るように、大切な人の機嫌を損ねないように。
不安に満ちた彼女を見て、青年は“いいや”と静かに首を振った。
その後に“ふむ”と天を見上げる。そして、部屋の中のとある人形に目を留める。
彼の視線を追って、少女もその人形に辿り着いた。
「・・・あれ?こんな人形ありましたっけ?」
「あったんだよ。ずっと昔から。目立たない位置に、な。
お前が見つけたってことは、多分話す時が来たんだろう。」
「へえ・・・。」
よいしょ、と青年は腰をあげる。
ゆっくりと歩を進め、問題の人形を手に取った。
それは片手に持つにはあまりにも大きい、女性の人形。いや、人形と呼ぶにすら大きい。
まるで一人の幼い少女。抱えるには両手を用いないととても無理なほどであった。
「やけに大きな人形さんですね?」
「はは、そうだな。お前くらいあるだろう?」
「ええ〜?・・・いえ、ありますね。それにやけに私に似てるような・・・。」
「それは髪の色だけだ。」
少女が述べる感想の途中に、きっぱりと青年は告げる。
折角のところでさえぎられて、少女は不機嫌そうに頬を膨らませた。
だが、すぐに人形に視線を集中させる。
真っ黒な服を身にまとい、肩ほどまでの金色の髪、あどけない少女の顔。
そして、その顔はあまりにも無表情であった。だが・・・。
「あのう、ご主人様。」
「だからご主人様はいいかげんやめろって。」
「べーだ。・・・これ、本当に人形なんですか?」
「ああ、人形だ。今はな・・・。」
「今は・・・?」
青年が吐き出した言葉が少女の耳に引っかかる。
縫い物作業の手をとめて真剣に聞き返す彼女を見ながら、手に持った人形を見ながら、
彼は、昔の記憶を頭の中から少しずつ引き出していた。
主様。すべては信じられないかもしれませんが、どうか聞いてください。
私は、この黒い本。・・・統天書より現れた空の精霊、知教空天楊明と申します。
「なんですか?それは。」
「俺の命を助けた、楊明の言葉だ。この本に書いてあった、な。」
「この方が記した言葉がそれだったんですか?」
「ああ。意識を取り戻した俺が、初めて受け取った言葉、と言っていいかな。」
「へえ〜・・・。」
私はこの本を開けた者・・・正確には、この本の文字を読めた心清き者を主とし、
その主様に様々な知識を教えるのが役目なのです。
「あのう、ご主人様。これって本当のことなんですか?」
「聞くだけなら絶対そう思うだろうな。けど俺は、彼女が本から出てくる現場を見ている。」
「でもとっさのことで・・・信じられますか?」
「心が清いんだ。だから信じられる。」
「ええ〜?」
「・・・おい、なんだよその反応は。」
「冗談ですよ♪」
「ったく・・・。」
ですが主様、あなたは死んでしまわれた。私が役目を果たそうとする前に。
守ろうとする前に・・・それが非常に残念です。
「私も、それが残念でした。報せを聞いた時はどんなに悲しんだか分かりません。」
「悲しんでくれたのはお前くらいだろうな。メイドとして家で働いてて・・・。」
「当たり前です。大旦那様や大奥様に大変よくしてもらって・・・どうして悲しまないことがありましょう。」
「そういや、親父とお袋の葬式の時も、お前一人は大声で泣いてたよな。」
「あんなに悲しいことはありませんでした。その上ご主人様まで亡くなられたと聞いた時には・・・。」
「財産目当ての連中しかほんと居なかったから、俺はそういうお前の心に気付いてやれなかった・・・。」
「そんな悲しい顔をなさらないでください。今こうして暮らしているじゃありませんか。」
「そうだな・・・。」
そして私は、ある方法を使いました。蘇生の術です。
今生き帰った主様なら、信じてくださることでしょう。
「ご主人様が生きて帰ってらした時にはほんとびっくりしました。」
「こっそり家に帰ってお前に見つかった時も、俺は本当にびっくりした。」
「もう・・・。生き帰ったことに驚くのが先でしょう?」
「驚くより最初は信じられなかったからな・・・。だから、すんなり受け入れた自分が不思議だったよ。」
「それだけ素直でいらしたんですよ、ご主人様は。」
「そう言ってくれると嬉しいよ。」
しかしこの術は、術者である私にある代償を科します。
何年・・・いえ、何十年かもわかりませんが、私は物言わぬ存在になります。
「それが、この人形さんの状態、なんですね。」
「そうだ。自らは何も言う事ができないから、説得も説明も無理になる。」
「よくそうなる代償を受け入れましたよね・・・。」
「それだけ、主っていう存在が大切だったってことだろう。」
動くことも喋ることも・・・何もできず、しかし周囲の声だけは聞こえる。
その様な、いわば人形となります。
「今も私やご主人様の声を聞いてるってことですよね・・・。」
「ああ。ばっちり聞いているはずだぞ。」
「そ、そうですよね。それじゃあ・・・。」
「はしたない妄想とかも・・・」
「もう!そんなことしてないじゃないですか!私が心配してるのはお裁縫です!」
「ああ、よく失敗してる様子とかか。いつか間違えて手を縫わない様にな。」
「縫いません!」
ですから、そうなる前にこの文章を記しました。
もしもここまでを信じてくださるなら、どうか私を傍に置いてください。
いつか目覚める時がくる日まで・・・。
「そしてご主人様はずっとそばに置いていたんですね。」
「ああ。あれから5年経つが、まだ目覚めないな。」
「もうすぐ目覚めるんじゃないんですか?」
「そうだといいけどな。」
もしも信じられないなら、どうなさっても構いません。捨て置くのも逃げるのも自由です。
あなたの意志に、私は従うと決めましたので。
「いくらなんでも捨てて逃げるなんてできないですよね。」
「そんな奴の心は絶対清くないと俺は考えている。相手は文字通り命の恩人なんだからな。」
「でも中には・・・。」
「もしそうだとしたら、楊明は助けたりしないだろ。それくらいわかるさ。精霊なんだし。」
そうそう、この統天書くらいは持っていても損は無いですよ。
主様にしか読めない様々な知識が書かれてありますので。
それと、あなたと私を乗せてきた空飛ぶ絨毯・・・飛翔球も。
これらを使って・・・少なくとも、あなただけは生き延びてください。
それが、私の願いです・・・。
「今もこうして、暮らしてますよね。」
「ああ。幸せだよ、本当に。」
「一緒に暮らそう、と私を連れ出してくださった時は本当に嬉しかったです。」
「昔のことをわざわざ言うなよ・・・。もちろん後悔はしてないからな。」
「後悔してるなんて言ったら物凄く怒りますよ?」
「あ、ああ・・・。」
「で、いつもその本を読んでらっしゃいますよね?」
「面白いからな。色んな出来事が、知識が書かれてある。」
「へえ・・・。」
「しかし順番が滅茶苦茶なんだ。脈略が無いから、読むにはよほど頭を使うよ。」
「へえ・・・私にも読ませてくださいませんか?」
「残念ながら、お前には読めないぞ。」
「どうしてですか?」
「これは、楊明本人と主以外には読めない様にできてるらしい。理由はわからないが。」
「へえ・・・だったら仕方ないですね・・・。」
「とまあ、以上。そんなところだ、この人形の、楊明とのいきさつは。」
「あ、はい。よく分かりました。」
聞かせ、聞くやりとりがはたと終了する。
中心となっていた人形、楊明は元の位置に静かに戻された。
さっきまでと同じ格好で、同じ様に無表情のままで。
「ご主人様。」
「なんだ?」
「その、楊明さんはいつまでそのままなんでしょうね?」
「さあな。」
「目が覚められたなら、私、色んな知識を教えてほしいです。」
「特に編み物が上手になる方法とかな。」
「もう!」
からかいからかわれるやりとりが続く。
明るい談笑が部屋に響いている。
楊明、という人形を含め、部屋に存在するすべての物に声が届く。
何年先になるかは分からないが、時がくれば必ず変動するであろう。
この場所での、生活が、暮らしが、生命が。
そして・・・。
<おしまい>