数刻後。彼女は目的地に到着する。そこは由緒正しき神社。
『縁結び』という御大層なものが祭られているが、その恩恵にあやかっていない男性が神主を務める神社である。
そしてその神主は、丁度掃除をしているところであった。
埃舞い散る地面を竹箒でさっさかさと掃き続けている。
慣れたその手つきは、見る人が見れば一家に一台と欲しがるかもしれない。
「おや?」
ふと神主は手をとめた。それは彼特有の感覚によるものである。
女性に優しくをモットーとしている彼は、射程範囲内に女性を感じる事ができるのであろう。
いや、ただの偶然かもしれないが。
「これはこれはルーアンさん。お一人でこの寒い中どうしたんですか?」
ルーアンと呼ばれたその女性は、答えるでもなくずんずんと歩み寄る。
物言わぬままに大地を踏み締める足が埃を巻き上げる。
神主が掃き溜めておいたごみが散らかって行く事にもお構い無しである。
結局彼の目前まで迫るまで彼女は一言も発しなかったが、そこでぴたっと足を止める。
じいーっと見つめるその目には、恋の告白などというロマンチックなものはひとかけらも感じられない。
圧倒されつつ冷や汗を流しながら、彼は恐る恐る言った。
「あ、あのう、よろしければ中でお茶などいかがです?
美味しい和菓子もありますし、それをお供にお話を伺いますが・・・。」
直感で相談事だと受け取った彼の発言に、ルーアンはこくんと頷いた。
鬼気迫るその表情が、少しだけ和らいだ気がした。
「おっはよう太助〜!」
「お、おはよう・・・。」
起き出してきた太助が朝一番に見たのは、彼の部屋の前で待ち構えていた姉、那奈の笑顔だった。
色黒の相変わらず元気いっぱいなその顔に、太助は少しだけ心の中で溜息を吐く。
「おい、なんだその顔は。姉のあたしが挨拶してやるのがそんなに不満か?」
「べ、別に・・・。」
心の中が顔に出やすい。それは太助の特徴であった。
あっという間に感づかれた彼は、慌てて表情を変える。
「・・・まあいい。それより太助、口を開けろ。」
「は?」
忙しく正している最中にあっけにとられる。
と、“は?”と答えた瞬間に、そのわずかに開いた口へ何かがほうり込まれた。
それは那奈の手から素早く放たれた物であるが、太助は慌てて口を閉じてしまう。
「!!な、なにふんだよ!」
「バレンタインのチョコレートだ。可愛い弟にプレゼント。」
「・・・・・・。」
予想もしなかった行動と言葉に太助は動きを止める。
目を白黒させるその姿は、まるでエラーを起こしたロボットの様であった。
本来ならエラーの元となる物体は外に除外するべきなのだが、
今ここでそんな真似をすれば、エラーどころか廃棄処分になりかねない。
無意識のうちにそれを感じ取っていた太助は、無難にじっと固まっていた。
「とりあえず行事だしな。お前はシャオから貰えるのが分かりきってはいるが・・・一応って事で。
じゃあな〜。」
けたけたと一方的に話すと、那奈は手を振りながら階下へ降りていった。
太助が動き出したのはそのしばらく後である。
口の中のそれをゆっくりと咀嚼する。
「っていうか、朝一番にチョコレートを食べさせようとするなよな・・・。」
甘ったるくなっていく口内に少々の不快感を感じつつ、
そして那奈に感謝の念を少し込めつつ、太助は今日という日の行動を考えていた。
そもそもバレンタインデーというものは西洋で始まった行事らしい。
14世紀頃のヨーロッパで、2月14日に恋人へ贈り物やカードを贈る習慣や、
この日最初に出会った異性を「バレンタインの男性・女性」と一年間呼ぶという風習ができた。
また第一次世界大戦後アメリカではこの日が「恋人の日」として急速に普及した。
日本にバレンタインデーを最初にもたらしたのはモロゾフという人物で、昭和11年に宣伝したそうだ。
しかしこの時はあまり定着しなかった。チョコレート業界では昭和33年にメリーがキャンペーンをしたが、
チョコレートの売り上げ総数がわずか5個という燦々たる結果になってしまった。
それでも毎年広告を出していたためか、昭和50年頃からバレンタインデーが日本でも定着するようになった。
涙ぐましい過去を経て、今では知らない人は居ないくらいだと言っても過言ではないかもしれない。
(※「あとらんだむ」2001年度新年号 より)
そんな特別な日でも、七梨家の朝というものはやはりやってくる。
食卓にいつもの面々が座って朝食をとる。
起き抜けにくらった出来事の事もあり、太助はそわそわと落ち着かなかった。
あまりに変なその様子に、シャオはたまらず尋ねてみる。
「どうかしたんですか?太助様。さっきから何かをしきりに気にしてらっしゃるみたいですけど・・・。」
「あ!い、いや、なんでもないよ、うん。美味しいな、今日の大根の味噌汁は。」
「あのう、大根は入っていませんけど・・・。」
「は・・・あ、そ、そう!これはワカメの味噌汁だな!」
「ええ、そうです。」
「ワカメわ〜か〜め〜♪」
「・・・?」
ついには太助は変な歌まで歌い出した。
心中では“ああ、何やってんだ俺は”と目の幅涙を流しているに違いなかった。
心なしか味噌汁までしょっぱくなってくる。そう、これは涙の味だ。いや、元々味噌汁は塩味がきいているが。
隣でそれを見て呆れた那奈は、溜まっていた息を吐き出した。
「太助、もっとしゃんとしろ。そんなんじゃあ○○は貰えないぞ。」
「なんだよ、○○って。」
「わかってるのに聞くのか?ますます駄目だな、こりゃ。」
「うるさいな・・・分かってるよ・・・。」
迷惑そうに返しを行い、太助は元の静かな状態に戻る。
その傍らで、シャオはクエスチョンマークを思い切り浮かべていた。
「あのう、○○って何ですか?」
「いいものだよ。」
「いいものなんですか?」
「そう。とってもいいものさ〜。」
「ふえ〜、そうなんですかぁ・・・。」
かんらかんらな那奈の答えに、シャオは何故か納得する。
具体的なものは何一つ述べられてないのだが、そこがシャオらしいところであろう。
が、そこで太助は他の二人が気になった。いや、正確には一人であろうか。
バレンタインなどという行事にはまるで関心がなさそうなキリュウは別として、ルーアンが静かなのだ。
那奈の煽りをまったく気にせず、黙々とご飯を口に運んでいる。
そういえば顔を最初に合わせた時もやけにおとなしかったな、と太助は思い出していた。
もしかしたら、これから始まる熾烈な争いに備えて力を蓄えているのかもしれない。
油断なく目をみやったまま、太助はあむあむと米を噛みしめていた。
太助達が家を出る頃には、雪が降り出していた。
共に吹いている強い風が、横殴りに雪を身体に叩きつける。
「そういや風雪注意報が出てたっけ・・・。」
朝刊にて得た情報を何気なく呟く。
そんな太助の身体は、みるみるうちに雪化粧されていく。
慌ててシャオが傍に駆け寄ろうとしたその時・・・すっと雪が止んだ。
いや、彼に向かう横殴りの雪が止まったのだ。
気づいた太助が目を向けた先には、ルーアンが傘を横に向けて隣に立っていた。
ただ、傘の範囲外の場所からは雪がもれている。
この状態のままでは、雪がかかっていない範囲として綺麗に傘の形が出来上がる事だろう。
「キリュウ、傘を大きくしてくれない?たー様に雪がかかっちゃうでしょ。」
振り向きルーアンは呼びかけた。玄関の傍でがたがたと震えているキリュウに。
こんな天気は彼女にはさぞつらいことであろう。
「しかしルーアン殿・・・」
「試練って言いたいわけ?通学途中くらいは素直に助けてあげなさいよ。
第一学業に差し支えるでしょ。たー様は学生なんだから。」
「・・・・・・。」
ルーアンの発言により、あっけにとられるキリュウ。一瞬すべての寒さを忘れるほどだった。
彼女のみならず、太助を含む他の面々も開いた口がふさがらなかった。
普段のルーアンからは聞くことがまず無いであろう言葉が飛び出していたのだから。
「ちょっとキリュウ、こうしている間にも雪は降ってるのよ。さっさとしてよ。」
「あ、ああ済まない。・・・万象大乱!」
言葉を詰まらせながらも、キリュウは提言を唱えた。
同時にルーアンの持つ傘が巨大化。それはずしりと地面に突き刺さった。
「たー様、これなら大丈夫かしら?」
「あ、ああ・・・。でもルーアン、こんなの持って学校行けないぞ?」
戸惑いながらも、太助はぎりぎり冷静に返した。
たしかに彼の言う通り、この大きな傘を携えて学校へ向かうのは無理がある。
「心配要らないわよ。陽天心召来!」
予想していたのか、ルーアンは素早く対処法をとった。
傘が光ったかと思うと、小さな手足が生え、それは意志を持つ。
「学校まであたし達を雪から守りながら転がって行って頂戴。
これでオッケーでしょ、たー様。」
「うん・・・。あ、ありがとう、ルーアン。」
「いえいえ。・・・ちょっとシャオリン、もうちょっと早く反応しときなさいよ。
普通ならこういう事は守護月天であるあんたの役割なんだから。」
太助の反応を笑顔で確認したあと、ルーアンはシャオに向いた。
少し厳しさを含んだ、たしなめる様な瞳で。
唐突に向けられたそれを、シャオは謝罪で返すしか思い付かなかった。
「す、すいません・・・。」
「とはいえ、さすがに星神呼んで雪を防ぐなんて無理があるだろうから、
これで良かったのかもしれないけどね。」
「はあ・・・。」
すかさず付け足させるフォローに、シャオは内心ほっとする。
と、最後にルーアンは那奈に顔を向けた。
「それじゃあおねー様。学校へ行ってきますわ。」
「あ、ああ、行ってらっしゃい。」
現在受けている衝撃が大きいのか、スローモーションで那奈は手を振る。
それは、もしかしたら自分の意志で行なわれておらず、
あやつり人形の糸に操られているのではないかと自分で思う様な動きであった。
この挨拶を境に、太助達は家を出発する。
ころころと転がる傘に身を隠して移動しているその姿は、
誰が見ても面妖に見え、注目したくはないが注目せずにはいられなくなっていた。
朝っぱらから気恥ずかしい視線を浴びながら太助は顔を俯けていたが、
その傍らで、ルーアンの行動をとても不思議がっていた。
そしてすぐに一つの結論に行き着くのだったが・・・
その時吹いた強風の音により、その結論は消え去ってしまっていた。
学校の廊下をタタタタと走る一人の女子生徒が居た。
両の腕で大切そうに胸に抱えているのは、一つの紙袋であった。
ただ、妙な事に彼女以外に人影もない。
それもそのはず、今は休み時間でもない、授業中なのだ。
シーンと静まり返ったその場所は、時折大きくなる先生の声が教室から聞こえてくる程度。
まさに自分だけの空間、そして自由な領域だ。
彼女がそこを駆けているのには、理由があった。ある一つの目的があるのだ。
そしてそれは、普段では味わう事のできないこの別世界を得る為ではない。
“占いによるとあんたの今日の運勢は絶好調!頑張りなよ!!”
“相変わらず乙女ちっく一直線だねえ。・・・とめないけどね”
心の中で友人達の言葉をリフレインさせる。
心の中で気合をぐっと入れる。気持ちを込める。
同時に、わしゃくしゃという紙袋の音が辺りにこだまする。
やけに大きく響いたそれだったが、その女子生徒はまるで気にもとめない。
やがて彼女の足が止まる。
恍惚としたその顔は、二年一組とかかれたプレートをじっと眺めていた。
「七梨先輩・・・。」
一言だけそう呟くと、彼女は目の前の扉に手をかけた。
ガラララッ!
突如教室に鳴り響く大きな音。
それは誰もが、扉が開いた音だと認識する。
実際クラス外の人間がそこに立っていたのだから、間違えようもなかった。
「七梨先輩!」
「あ、愛原!?」
驚いた声を出したものの、太助はある程度心の中で落ち着いていた。
今日という日がどういう日かを考えれば、おおよそ予想できる出来事だったから。
しかしまるで冷静でもない。
事実、授業中という時間に堂々と別学年のクラスにやってきた花織が、
彼にとっては非常に驚異に思えたのだから。
「あの!バレンタインの・・・」
ばふっ!
花織がつかつかと歩み寄ろうとしたそのときだった。
手足の生えた黒板消しが物凄い勢いで彼女の目の前を通り過ぎたのだ。
“ばふっ”という音は、それが床に衝突した音である。
驚き歩みを止めた花織は、キッと教壇の方を睨む。
とそこでは、ルーアンが黒天筒を片手に厳しい顔つきで立っていた。
「何するんですかルーアン先生!
あたしのバレンタインを邪魔したつもりなんでしょうけど、そうはとんやが・・・」
「今は授業時間ですよ、愛原さん。あなた自分の授業はどうしたの?
さっさと自分のクラスに戻りなさい。」
極めて静かに、ルーアンは告げた。
同時に、花織の中の熱いものが急激に冷めてゆく。
遮られた言葉は、まったく続かなくなっていた。
「え、あ、あの・・・。」
「何をしてるの。さっさと自分のクラスに戻りなさいとあたしは言ってるのよ?」
「・・・そうやって真面目ぶっても無駄ですよ!
どうせ授業だってふざけて・・・あ、あれ?」
言いがかりの証拠を見つけようと花織が黒板に目をやると、
そこにはびっしりと歴史がつづられていた。
世界の出来事と、正確な年号と・・・。
しかし内容は、バレンタインに関するものであった。そう題目として書かれていたのだ。
「やっぱりふざけてやってるじゃないですか!
普通の授業じゃなくてバレンタインに関する事柄を・・・」
「花織ちゃん!ルーアン先生はバレンタインに関する歴史講座を行なってくれてるんだよ!」
花織の独壇場的発言に耐え兼ねたのか、乎一郎が立ち上がった。
しかしそれでも花織はひるまない。
元々乎一郎はルーアンの味方であるという事を認識しているからだ。
「遠藤先輩は黙っててください!」
「じゃあ俺が黙らない。」
次に立ち上がったのはたかしであった。
“え?”と信じられない様相を瞳に見せる花織。
「あのな、珍しくもルーアン先生は真面目に今日授業してんだ。
しかもそれが面白い!俺は熱き魂を揺さ振られた・・・。
そんな授業を邪魔するってのは、学級委員である俺が許さない!」
「そんな・・・野村先輩・・・。」
「っていうかさ、花織ちゃん。今は遠慮しとけよ。
また後でもいいだろ?わざわざ授業サボって来なくてもさ。」
「・・・女の子には授業より大切な物があるんです!」
訴える様な目をして、花織は言い切った。
もはやここで引き下がれるか、という勢いだ。
たとえどんな批判を浴びようが、太助にチョコレートを渡す!
意地が大半を支配している頭で、彼女は震える足でそこに立っていた。
とどめと言うほどの影響を与えたのか、教室内がしんと静まり返る。
だがそんな中でも、教師を務めるルーアンは譲らない視線を花織にぶつけた。
「あなたの先生は授業を抜ける事を許したわけ?」
「そうじゃないですけど、あたしは・・・」
「だったら!こんな所でサボってないでさっさと戻りなさいって言ってるの!
先生は授業を教えるのが仕事!学生は授業を受けるのが仕事!
勝手にこんな所まで押しかけてくるなんて不真面目な・・・。
今大人しく帰れば、今回のことは不問にしてあげるから。」
“これが最後だ”と言わんばかりの言葉である。
今はまだ行動に移っていないが、更にここで花織が反論すれば、
制服に陽天心をかけることも厭わないだろう。
ただ花織にとって、自分のクラスに帰れと言われている事よりも、
その説得の方法が、紡ぎ出てくる言葉の方が驚きであった。
いつものルーアンではない。それをひしひしと感じていたのだ。
だから、ついぽつりと言葉を漏らしてしまう。
「どうしたんですか、ルーアン先生・・・。」
「あら、あたしはどうもしないけど?」
「だって・・・いつもと全然違うじゃないですか!!
いつもならこう、“自習ー!”とか“たー様〜ん!”とか!!」
「言いたい事はそれだけ?・・・早く帰ってくれないと、授業時間が勿体無いんだけど?」
「う・・・。」
もはや何を言ってもかなわない。そう花織は感じ取った。
たとえば、いわゆる鉄壁の防御を相手にしかれてしまった様な、
突いても突いても突き崩せないような城に閉じこもられてしまった様な・・・。
どうしようもない敗北感を彼女は浮かび上がらせていた。
「・・・すみません、あたし帰ります・・・。」
「そう。ちゃんと先生に謝るのよ?授業を抜け出してすいませんでした、って。」
「はい・・・。」
空気の抜けたビニール人形の様に手をだらんとさせ、花織は教室を出ていった。
扉を閉める音も、入ってきた時とはまるで違う。幽霊がすり抜けたみたいだ。
廊下に響くコツコツという足音も、やがて聞こえなくなっていった。
パンパン
出入り口に注目する皆の視線を戻す様に、手が叩かれる。
再び授業に集中する合図として、ルーアンが行なったものであった。
「それじゃあ授業を再開するわよ〜。あ、遠藤君も野村君も座って座って。」
ついつい立ったままで居た二人の男子生徒を座らせると、ルーアンは再び黒板に向かった。
同時に、本を片手に持つ。歴史の教科書だ。
「さて、日本に本格的にバレンタインが広まったのは昭和50年頃というのはさっき書いた通りね。
で、このバレンタインに必要不可欠なチョコレート!
このチョコレートが日本に初めて出会ったのはいつ頃だと思う?
これがなんと江戸時代にさかのぼるんですって。
えーと、1617年に伊達政宗の密命を受けてスペインに行った支倉常長って人が、
日本人で最初にチョコレートに出会った人だと言われてるらしいわ。
この時代はまだ固まってるチョコレートは無くて、“チョコラトル”って呼ばれる飲み物だったそうよ。
そして次の接触は明治時代になるんだけど・・・。」
騒ぐ者は居ない。皆しんとしてルーアンの授業を聞いているのだ。
時折面白い箇所で笑ったりする者も居るが、野次を飛ばすような者はいない。
中でも乎一郎はいつも以上に熱心に聞いている。
そうした状態で、講義は続けられるのであった。
時は流れ・・・昼休み。
この時間は、授業とは一転して学校全体が騒がしくなる。
普段の休憩時間と違って、生徒達全員が、校舎校庭含め散らばるからだ。
太助達は教室内で、太助の席を中心にシャオ手作りの弁当を広げて昼食をとっていた。
相も変わらずの見た目豪華なそれらが食欲をそそる。
しかしその場にルーアンは居ない。昼の職員会議とやらで呼び出されたのだ。
そしてまた、突然午前の授業にまで押しかけてきた花織の姿も見当たらない。
「来ないな、花織ちゃん。」
「あれだけルーアンに諭されたんだ。多分放課後だよ。」
「いやいや太助、この調子だと放課後も会いにくるかどうか怪しいもんだぞ?」
「そうかもな・・・。」
のんびりと箸を口に咥えながら、太助は授業での出来事を思い返していた。
やけにその顔は複雑な想いを抱えている。
驚くほど教師らしく対応したルーアン。すごすごと去って行く花織。
彼にとって初めてであったその光景は、十分過ぎる衝撃を与えたのだ。
ただ、もう一つ今気になる点もあった。それを尋ねてみる。
「なあシャオ。」
「はい?」
「山野辺はどこ行ったんだ?」
昼という時間に人ごみの耐えない場所、それは購買部。
昼食あり文房具あり、ここを利用しない生徒はまず居ないであろう所だ。
毎回戦争のごとく騒ぎとなるここも、ある程度の時間がくれば落ち着く。
大半の生徒達が目的を果たし終えて去っていくからだ。
そんな空いた時間を狙って、翔子はやってきていた。
実は目的は昼食ではなく、売り子を勤めている出雲である。
丁度彼は、休憩も兼ねて軽い食事を摂ろうとしていたところであった。
「よっ、おにーさん。」
「これはこれは翔子さん。お一人でどうしたんですか?」
「ちょっと話をしたいと思ってね。あ、とりあえずその余ってるパンくれないかな。」
何か食べながらの方がいいと彼女は思ったのだろう。
指さしたそれは、丸い形をしたチョコレートパンであった。
ふう、と息をつくと、出雲は示された商品を手に取る。
「はい、80円です。」
「ええ〜?女性のあたしからお金とるの〜?」
値段を告げられると、翔子は露骨に嫌そうな顔をした。
「当たり前でしょう。こちらは商売なんですから。」
「女子生徒には無料で配ってるじゃないか。」
「いつもというわけではありませんので。」
イタイ事実を告げられはしたが、彼はきっぱりと返す。
最近はどうも、女性を口実としてタカられる事が多いからだ。
その瞳は、優しくは見えるが厳しい意志も含んでいた。
相手の周囲を柔らかい膜で包み込み、逃げられないかの様な・・・。
「ちぇっ・・・今日はバレンタインだってのにさ・・・。」
「あのねえ、それは関係ないでしょう?」
「折角おにーさんにあげようと用意してたのに・・・。」
「翔子さん、そういう見え見えの嘘はよくありませんよ。」
「くっ・・・。」
とうとう翔子は抵抗をやめた。
すべての女性に優しくをモットーとしているはずの出雲だが、
一部の女性に対してはそうでもないのだ。
それはやはり、女性側の対応によるものだが・・・。
結局翔子は、おとなしく80円を払ってチョコレートパンを手に入れた。
売り子としての任務を果たした出雲は、休憩用の椅子に座り直す。
「用事は済みましたか。」
「ああ・・・って、済んでないって。あたしはパンを買う為に来たんじゃないんだから。」
言いながら翔子はパンの袋を開け、かぶりつく。
少しだけチョコレートの甘い香りが辺りに広がった。
「そういえばお話があるとおっしゃってましたね。何でしょう?」
「率直に言うぞ。ルーアン先生についてなんだけど・・・。」
「ルーアンさんについて?」
「ああ。今日のルーアン先生はなんか変だった。真面目に授業をしてたんだ。」
「へえ!なるほど、それはたしかに変ですね・・・。」
椅子から立ち上がると、出雲は指を顎に当てた。
お決まりの考える仕草。だが、すぐに椅子に座り直す。
「ただの気まぐれではないんですか?よくある事でしょう。」
にべもなく言った。調子を狂わされた翔子は慌てて首を横に振った。
「いや、今回初めてだって。クラス中びっくりしてたしさ・・・。」
「それで?そこで私に話とはどういう事でしょう?」
「ルーアン先生の意図を知りたいんだ。」
「意図?何も無いと思いますが・・・。
第一ルーアンさんが真面目に授業をする事と私と関係無くありませんか?」
「女性に詳しいおにーさんなら分かるかと思って。」
「うーん・・・いくら私でもルーアンさんの深い胸の内までは読めませんしねえ・・・。
普段の行動からして、今回のその真面目というのも気まぐれと思うしか・・・。」
腕組みをしながら出雲は答えた。
眉を真ん中に寄せて困った表情を作る。これ以上は力になれないという意思表示だった。
「そっか・・・。」
合わせて翔子も困った様な表情を作る。それと同時に、食べかけだったパンをすべて口に入れた。
もぐもぐとそれを咀嚼しながら、くるりと購買部に背を向ける。
「邪魔したな。」
「いえいえ。気が向いたらまたいらしてください。」
「はは・・・またな〜。」
翔子が少しだけ後ろを振り向いた時には、既に出雲は笑顔を作っていた。
購買部とはいえ商売人であるから、いつまでもしかめ面ではよくないと考えての事だろう。
だが彼は、その笑顔の下でほっと胸を撫で下ろしていたのだった。
そして頭の中では、昨日の出来事が再現映像として流れ始めていた・・・。
質素な畳の匂いが気分を落ち着かせる。その様な客間。
部屋の真ん中に置かれたテーブルの上には、既に空になったいくつもの皿が並んでいた。
そばには熱いお茶の入った湯のみ。
それをお供に、ルーアンと出雲は向かい合ってテーブル前に座っていた。
「はあ〜、落ち着いたわ〜ん。」
幸せそうな表情でずずずとルーアンが茶をすする。
その口の周りには餡子などの和菓子を食べた後が見事に残っていたのだった。
対する出雲は対照的に綺麗である。しかし彼は菓子に手を一切付けていない。
ただお茶を啜り続けていただけなのだから。
「・・・で、ルーアンさん。何かお話があるのではないのですか?」
「は?」
「は?じゃないでしょう。あんなに切羽詰まった顔をしてやってきたんですから。
それに陽天心を使ってじゃなく、歩いて・・・。相当な事情なのでは?」
呆れながらも、出雲は親切丁寧に説明を交えながら質問した。
自らの感情を抑えつつ、とりあえずの目的を達成する為に。
(もちろんそれはルーアンの要望に応えてさっさと帰ってもらう事だが)
と、ルーアンは飲んでいる途中の湯飲みをことりと置いた。
先ほどの幸せそうな表情から一転して、これは無いというほどまでに神妙な面持ちになる。
そしてそれには、少しの憂いが含まれてもいた。
女性のそのような顔を見て、出雲は軽く相手するだけではいけないと思い立つ。
ルーアンと同じくして一転。真剣な聴く態度を見せた。
「・・・ねえいずピー。」
がくっ
ルーアンの第一声に出雲は派手に顔をうなだらせた。
「ちょっと、真面目に聞いてよ。」
「・・・あの、ルーアンさん。いずピーはできればやめていただきたいのですが。」
真面目にするべきなのはあなたの方では?と出雲は訴える。
だが・・・
「やーよ。そんな事よりいずピー、相談があるのよ。」
と、告訴はあっさり却下された。
もはや今回の話の中で、いずピーと呼ばれ続けるのは仕方ない事の様だ。
相談される立場でありながら、何故に自分の相談(この場合要望だが)がのまれないのだろう?
半分哀しくなりながら、出雲は先を急がせる。
「相談・・・とはなんですか?」
「あのね、明日ってバレンタインでしょ?
どうやったらたー様にチョコレートを受け取ってもらえるかな、って。」
「へえ・・・。」
直球に告げられたのだが、内容を考えるとそう簡単に返事は出来なくなった。
以前宮内神社であった事件で、太助はシャオに“好きだ”と告白した。
それ以来、どうもこの二人に入る隙が無いのだ。
出雲自身それをひしひしと感じていて、ルーアンからの相談事にはあまり気乗りはしなかった。
だから彼は、直球には直球で、きっぱりと尋ね返す。
「しかしルーアンさん。あなたがどうこうできるレベルではないのでは?」
「どういう意味よ。」
「知ってのとおり、太助君とシャオさん、二人の距離が急激に縮まってきています。
もはや私ですら認めてしまういい雰囲気の・・・。」
言っている途中で出雲本人の言葉の勢いがなくなってきた。
元々はシャオを目当てに彼らと交流し出した出雲。
そんな彼からしてみれば、今それを自分でそういう事を言ってしまうのは、
自らの行動の否定の一部となってしまうことでもある。
その矛盾を感じながらも彼が切り出した言葉。
だが、ルーアンは首を横に振った。
「そんなの分かってるわよ。でもね、あたしは・・・。」
諦めきれない。
ただ一言で表現するならそうであろうような視線を、ルーアンは出雲に投げかけた。
ある意味懇願していると見える瞳だ。にごった意識はまるでない。
見る人が見れば釘付けになること請け合いのそれに、出雲は心を打たれた気がした。
「・・・わかりました。縁結びの神様を祭る神社の神主として、いい案を出しましょう。」
「そんな形だけの肩書きなんてどうでもいいから、さっさと案を出しなさいよ。」
「あのね・・・。」
とたんに呆れ気分になってしまう出雲。
そして、ルーアンに一瞬心を奪われそうになった自分に自己嫌悪。
更には、“形だけの肩書き”という言葉にずーんとショックを受ける。
しかしそこはキザな神主を名乗っているだけあって表に出さず、即考察に入り出した。
「あ、ねえねえ、和菓子のお代わりってないかしら?」
「・・・・・・。」
折角考え出したのにすぐこれだ、と思いながら、出雲は仕方なくお代わりをすぐに用意する。
座敷から席を外して取ってきたのは色もつやも申し分ない芋羊羹であった。
そのできばえは、ともすれば和菓子屋の商品として売りに出せそうな代物である。
差し出されたそれを、ルーアンは幸せそうにぱくぱくとほおばり出した。
「う〜ん、美味しいわ〜♪」
「そりゃあよかったですね。」
彼女の満面の笑みも出雲にとってはただのオブジェ。
いや、飾ってあるだけで考察の妨げとなってしまいそうなほどだ。
「まったく、どうしてそんなにたくさん食べようとするんですか・・・。」
ついついこんな事を口に出してしまう。すると・・・
「食べたいから。」
にべもなくルーアンは答えた。ある意味自分に正直な意見には頷くしか反応できない。
“はあ”と出雲はため息をつく。そして今自分がしようとしていた行為を振り返り、また自己嫌悪。
……まったく、どうしてルーアンさんはこうなんでしょうか……
……少しは私に感謝くらいしてくれても・・・いやいや、私がこんな事を考えていたのではいけませんね……
……しかしもう少し相談する立場としての態度もあるでしょうに……
……そんなだから太助君もルーアンさんには・・・そうだ!……
「ルーアンさん、思いつきましたよ。」
「え、なになに?」
もはや最後の一個というところでルーアンはぴたっと手をとめた。
“早く言ってよ”と急かすように手を震わせている。
そんな彼女に、出雲はきりっとした目を向け、直に告げた。
「今のルーアンさんの態度を改めればいいんです。」
「はあ?」
「私が言うのもなんですが、普段あなたはやりたい放題ですよね?陽天心召来とか・・・。
それでは太助君が敬遠してしまうのも無理はありません。
ですから、せめてバレンタインデーの当日くらいはおとなしく・・・」
「はあ・・・。」
出雲の提案に対し、ルーアンは同じ言葉を二度吐き出した。
それは共に喜びをともなったものではない。むしろ落胆の色が濃いのだ。
「ちょっとルーアンさん、話の途中ですよ?」
「うっさいわねえ、分かってるわよ。いずぴーの言う事ももっともだと思うけど・・・」
「あたしには性にあってないのよ、ですか?そんな事はわかってます。
私は一日だけでもそう態度を改めれば、と言いたいのですよ。」
「っていうか、バレバレじゃない。バレンタインのチョコを受け取ってもらうためにおとなしくなる。
そんなのにたー様が気付かないわけないでしょ。」
「それはそうかもしれませんが、逆にルーアンさんのそんな気持ちを汲み取ってくれるかもしれませんよ。」
自信ありげに出雲は言った。
そしてそれはたしかに成功率が高いいい案でもある。
ルーアン態度改まる→太助心を打たれる→ルーアンのチョコを太助が受け取る
太助の性格を考えれば、まず間違いなく成り立つ。
「・・・へえ、なるほどねえ。」
「でしょう?」
「でもねえ・・・。」
腕組みをしてうなり出す。ルーアンにとって、この作戦は乗り気ではないようだ。
やり方が気に入らないのかもしれない。普段のルーアンでチョコを受け取ってほしいのかもしれない。
「ルーアンさん、何を悩んでいるんですか。」
「ううん、たー様はやさしいから、きっとチョコを受け取ってくれると思って・・・。」
「ではよろしいじゃないですか。何が不満なんですか?」
「不満ってわけじゃないけど、やっぱりあたしは普通に・・・。」
「それが無理だからこうして私に相談を持ちかけたのでは?少し贅沢ではありませんか?」
語調がきつくなってくる。出雲にしてみれば最高の案を出したつもりだ。
だのにそこでルーアンが悩んでいる。詰め寄りたくなるのも無理はなかった。
と、ここでルーアンはうつむいていた顔をふいっとあげる。
考えがまとまったのだろう。彼女の言葉を出雲は待った。だが・・・
「分かってないわね、いずピー。」
“もうそろそろ帰るわ”と付け足しながらルーアンはすっと立ち上がった。
慌てて声をかけようとする出雲に構わず、背を向けてすたすたと歩き出す。
そして部屋を出る間際に、彼女は最後にこう付け足した。
「たー様はね、あんたみたいに白黒はっきりさせ切れてないのよ。」
「どういう意味ですか?」
「・・・まあいいわ。折角だからあんたの案を実行してみるから。
で、あたしがどういう目的で態度変えたかとか絶対秘密にしといてよ?」
「それはもちろんです。作戦がばれてしまっては元も子もありませんから。
ですが、ルーアンさん。あなたは私の案にどういう不満が?それに白黒はっきりとは?」
納得がいかない出雲は突き立てるように質問を浴びせる。
提案をとりあえず受け入れてくれた事とは別に、新たな疑問点ができてしまったのだ。
しかしルーアンは、それに答える代わりにただ“ふっ”と笑みを漏らしただけ。
その反応にどうしていいものやら。ただ出雲は呆然と、彼女が去るのを見送るのだった。
「まったく、ルーアンさんは何が言いたかったのやら・・・。
ま、素直に私の案を実行してくれているだけでもよしとしますか。」
これ以上の立ち入りは自分の範疇外であると、出雲は無理に納得した。
自分はただ提案しただけ。そう、納得した。
そして自分にできることは、ルーアンの行く末を見届ける為の手伝いをするだけ・・・と。
夜の帳がおりてくる。
あちらこちらの家の窓には明かりが灯り、道を歩けば夕飯の匂いがただよってくる。
朝吹雪いていた空も今はすっかりその時間の色彩をみせびらかす。
七梨家では、いつものように、いつもの時間に、食事の準備が進められていた。
「太助様、もうすぐできますからね。今晩は肉じゃがです。」
「ああ、ありがとうシャオ。」
キッチンからの可愛い呼びかけに、太助はリビングから笑顔で答える。
実際その笑顔はシャオ本人が直接見ることはできないのだが、声だけでそれは十分伝わっただろう。
また同時に太助は、今日という日のことを深く考えていた。
本命としてもらいたい品物は、実はまだ受け取っていない。
いや、本命どころか、受け取ったのは今朝の不意打ちの一個という状態なのだ。
(授業中に教室にまで押しかけてきた愛原花織は、結局あれっきり姿を見せなかった)
そしてその不意打ちを渡した張本人はただいま太助の部屋で親友と話し中である。
“ったく、なんで俺の部屋でわざわざ・・・”と太助はしょっちゅうぼやいていた。
その隣からキリュウが“試練だ”などと言おうものならひょっとしたら怒鳴っていたかもしれない。
だが実は、そのキリュウまでも同じ部屋の中に居る。これでは、時々行われる作戦会議とあまり変わりない。
しかしながら、彼女らが話し合っている内容はそうではなかった。
今日という日の、もっとも注目すべき事柄は・・・
「絶対ルーアン先生は何かたくらんでる!」
「けれども結局太助にチョコは渡さなかったんだろ?しかも学校に泊まってるし・・・。」
「実はルーアン殿は明日何かするつもりなのかもしれないな・・・。」
・・・とまあ、もっぱらルーアンの行動についてであった。
食事の時間になったので呼びに来た太助が、部屋の前で耳にした彼女らの会話。
それは、彼自身もかなり意識していた事柄でもあった。
そして太助は考えた。一つたしかめてみようか、と。
たしかめる方法はただ一つ、直にルーアンと話をすることなのだが、彼女は今学校だ。
どうしたものかと思案する。と、とんとんと肩を叩かれた。
振り返るとそこに立っていたのはシャオ。
食事の支度を完全に終えたのだろう。エプロンも外していた。
「太助様、折角ですからルーアンさんに差し入れを持っていってあげてください。」
「えっ・・・。」
「今日の肉じゃが、自分でも驚くほどとびっきり美味しく作れたんです。ですから・・・。」
「シャオ・・・。」
いつものにこにこ顔にほっとさせられる。
曇りの無いその表情と声から、太助は半分驚きながらもこくりと頷いた。
「わかった。食べ終わったら行ってくるよ。」
「はい。後で軒轅を呼びますので、よろしくお願いしますね」
「ああ、ありがとう。」
この時太助は、シャオに対して非常に尋ねたいことがあった。
だが、それも彼女の顔を見てふいっと消え去ってしまう。
それほどまでに、シャオ自身が純粋な宝石の様に見えたからだ。
輝きはもちろんだが、共に見える透明さ、そして逆に何もかもを見透かすような光・・・。
「え、えっと、じゃあまずは夕飯、だよな。」
「はい。お話に夢中になってる那奈さん達をお呼びしませんとね。」
そして後に始まる穏やかな夕飯。
食事中、太助は一つ決めたことがあった。それは大した事のないように見えるが実は大した事で・・・。
特にルーアンと話をする際、平然と切り出せるように心の中で準備をしていた。
辺りを静かな闇が包み込んでいる。
聞こえてくるのはただ、そこらへんで鳴いている虫の声。
遠くの街からかすかに届いてくる喧騒の一部。
それらをBGMに、ルーアンは校舎の一室にじっと座っていた。
その傍らには空になったいくつものお菓子の袋。
「ふう、退屈。張り切って宿直やるなんて言い出したのは間違いだったかしら・・・。」
苦笑しながら彼女は窓を見やった。
結局今日という日を真面目一点張りの教師っぷりで行動し、宿直という現在に至っているのだ。
それは今まで散々ルーアンに迷惑をかけられていた他の先生方をいたく感動させ、
涙まで流して彼女に感謝していたほどであった。
しかしそれも今日一日限り。明日からはまた普通のルーアンに戻るのだ。
ただ、肝心のチョコレートは太助に渡せないままであった。
真面目に居すぎた為か、彼に個人的に接触する機会を失ってしまっていたのだ。
一度、太助の帰り際に“あんまり無理するなよ”と、声をかけられはした。
その時にでも渡そうとすればよかったのだが、ルーアンはあえてそれをしなかった。
「・・・だって、絶対に受け取るに決まってるもの。たー様は・・・。」
少し悲しそうな表情を浮かべて、ルーアンは呟いた。
自惚れでは無い。事実を哀れんでいるかのような、残念そうな顔だ。
ちなみに、人一倍熱心にルーアンに接していた乎一郎には、形ばかりのチョコをちゃっかりあげていた。
お菓子の差し入れをもらったということもあったが、授業を本心から褒められた事で気分が良かったのだ。
もちろんそれとは別に太助の分も用意している。ここに・・・。
「って、こんな所で持ってたってたー様が来てくれないと渡せないじゃないのよねえ。」
二度目の苦笑いを浮かべる。そして、少しばかり後悔の念をいだいた。
「・・・馬鹿みたい。これで本当にたー様が来ちゃったらあたしどうしようかしら。」
ひょっとしたら、という考えが彼女の頭の中に浮かぶ。すると・・・
こんこん
窓を叩く音がする。“もしかして!?”とルーアンはバタバタと駆け寄る。
がらっと窓を開けたその先には、予想的中と言わんばかりの、待ち望んでいた人物の顔があった。
いいや、実は待ち望んでなんかいなかった。それどころか本当は来てほしくなかったかもしれない。
それでもルーアンは、満面の笑みを見せた。
「たー様、どうしたのよこんな夜更けに。」
「ちょっと差し入れを、と思ってさ。今日一日ルーアン凄く頑張ってたじゃないか。」
はい、と太助が差し出したのは鍋の器だった。今日の晩飯であろう肉じゃがが中には入っていた。
きっとこれはシャオの提案なのだろうと、ルーアンは直感的に思った。
“まったく、他に気にかける事があるでしょうに”とため息をつきながらあったかいそれを受け取る。
そして彼女が改めて太助を見やると、その隣で一鳴きして返してきた者がいた。
軒轅だ。太助を乗せて夜の中飛んできたのだろう。
二人の姿はマフラーといった防寒具を十分に着込んだ姿。まあこの寒さでは仕方ないが。
しかしそこで彼女は気にかかったことがあった。シャオが居なかったのだ。
「シャオリンは?」
「一人・・・いや、軒轅とだけで来たんだ。個人的に話したいことがあったからさ。」
慌てて付け足すと、太助はいつもの真面目な視線をルーアンに向ける。
話をし出す前に、彼女はそこで自分の用件を切り出した。
「でもその前に渡したいものがあるんだけど・・・。」
「やっぱり・・・。」
「は?」
分かったように太助は息をついた。
おおよそルーアンもその反応を予想していたのだろう。
“は?”と答えたものの、特に慌てるでもなく次の言葉を待った。
「いや、朝から全然ルーアンらしくない真面目一番の行動をとってたじゃないか。」
「悪かったわね、あたしらしくなくって。」
ここはさすがに反応しておかなければならないと、ルーアンは膨れっ面を見せる。
それはまるで意地悪された女の子がちょっとだけわざと拗ねる姿のよう。
“悪い悪い”と謝りながら、太助は続けた。
「で、なんでそんな真面目になりだしたのか全然わかんなくて。
でも家に帰ったら那奈姉と山野辺と、更にはキリュウとがしきりに話してるんだ。
今日のルーアン先生は変だ、とか。どうして今日という日に限って、とか。例によって俺の部屋で。
ったく、なんでリビングとか使わないんだって言いたくなるよな・・・。」
「愚痴ってないで。・・・で、それを聞いててぴーんときたんでしょ?」
「そう。今日はバレンタインデー。それで俺にチョコを渡そうとああいう行動をとったんだよな・・・。」
「そうよ。まあとりあえず渡すけど、受け取ってくれる?」
太助の説明を早々に切り上げさせ、ルーアンは包みを手元に用意した。
同時に愛くるしい視線を投げるのも忘れない。いつもの色っぽい視線ではない。
実にいじらしい、可愛い視線だ。彼女はこんな顔もできたんだ、とついときめいてしまうほどである。
どきんという一度の衝撃の後に激しい慟哭をそれにつなげながら、太助は優しく微笑んだ。
「ありがとう。喜んで受け取らせてもらうよ。」
「これが本命だと言っても喜んで受け取ってくれる?」
「さすがに全部は受け取れないけど・・・
それでもルーアンの気持ちを無下に断るなんてできないしさ。そんなに一生懸命なんだし。」
あったかい気持ちになるような顔を向けたまま、太助は手を差し出した。
そんな彼に、相変わらずのもじもじした表情でルーアンは包みを手渡す。
それを太助は受け取る。出雲の提案は見事成功した。そして事は無事済んだ。
だが・・・。
「・・・ねえたー様、満足?」
「へ?満足、って・・・どういう事だよ?」
「あたしからチョコレートもらえて満足?ってことよ。」
不意の質問に戸惑う太助。そしてその意味は彼には分からなかった。
どういう事かと尋ねようとするが、見た先のルーアンの表情に思わず息をのんだ。
そこにあったのは、さっきまでの愛くるしい表情ではない。
たとえるならば、今にも雨が降り出しそうな曇天模様の空・・・。
そんな哀しそうな表情を、彼女は浮かべていたのだ。
「・・・あたしはね、すっごく不満だわ。」
「ど、どうして?だって、俺にチョコを渡すために・・・」
「真面目に過ごしてたんだろ、と言いたいの?」
「あ、ああ。・・・そうか、ごめん。」
「いきなり何を謝ってるの?」
早くに事情を察した太助は、まず謝罪を入れた。
「本当はこんな事しなくて、普通に渡したかったんだよな。
その、いつもの様に渡してたんじゃ受け取ってくれないと思って・・・。
俺がシャオを好きだからってことをよく分かってるから・・・。
それでこうやって気を引きながら不自然な形ででも渡したいと思って・・・。
ごめん。心配しなくても俺はちゃんと受け取るからさ。
その、完全に本命を受け取るわけにはいかないけど・・・。」
しどろもどろではあったが、太助は自分の思うところを素直に告げた。
その説明を受けていた時のルーアンの表情も心境もかなり複雑であった。
ルーアンのことを、自分なりに本当に思いやろうとしている主様。
それでもなお、自分の気持ちを忘れずにたしかめておく姿。
物事をはっきり決められていない様相が見え見えのその姿。
それらはすべて、ルーアン自身が期待していた太助ではなかった。
思っていた通りの姿だった・・・。
「・・・ごめんね、たー様。戸惑わせちゃって。」
「え?あ、い、いや、そんなことはないよ。」
“言葉で既に戸惑っているわよ”と笑いながらルーアンは返す。
その表情は、既にさっきの悲しい表情ではなかった。
幻だったのか、と思わせるほどに一瞬で消え去っていた。
「今度からは普通に渡すわ。だから普通に受け取ってね?」
「あんまり妙な渡し方はやめてくれよ。」
「あら、たとえばどんなのかしら?」
「それは・・・。」
言いかけて太助は口を閉じる。
あからさまに言えるようなものではなかったからだろう。
過激な材料が多すぎたということかもしれないが。
「そうそう、ところでシャオリンからはもらった?」
「え!?い、いや、ま、まだ・・・だけど・・・。」
顔を紅潮させる太助の姿に、ルーアンは“はあ”と呆れたように息をつく。
肝心の本命を後回しにしているとはなんたる事だろうという風に。
だが、ルーアン自身の行動が気にかかりすぎてもらうのを忘れたという原因があったのだろう。
そこらへんはさすがの彼女も気付いてはいなかった。
「あ、ここであたしがたー様を一晩以上引き止めておけばチョコはもらえないわけよねえ?」
「おい・・・。」
「冗談よ。もう帰りなさいよたー様。用事も済んだでしょ?」
「そうだな・・・軒轅、それじゃあ帰ろうか?」
太助が呼びかけると、軒轅は待ちかねたように宙に舞った。
そして窓の向こうへ、彼を乗せて飛び出した。
「じゃあルーアン、また明日な。」
「ええ。まだ日は替わってないんだからちゃんともらっておきなさいよ?」
最後の忠告としての言葉に、太助は苦笑しながら手を挙げて答えた。
そのまま二人は去ってゆく。夜の闇にその姿がまぎれても、ルーアンはじっとその方向を見つめていた。
冷たい夜風に前髪がさらわれる。任せるがままに、彼女は一言つぶやいた。
「やっぱり・・・まだまだ、ね・・・。」
翌日。いつもと変わらないルーアンの姿が教室にあった。
いつもどおりのたー様ほめたたえ授業。
そして“ああ、昨日のは気まぐれだったんだ”と納得している生徒達、先生達。
学校の中では誰一人として、彼女の行動を深く考える者は居なかった。
相談を持ちかけられた出雲は、ルーアンから報告と簡単なお礼の言葉を直接聞き、そのまま納得した。
「どうです、いい案だったでしょう?」
「・・・そうね、やっぱりと思うほどいい案だったわ。」
「でも来年は普通に渡せるならもう特別にする必要はありませんね。」
「そうね。そうあって欲しいものだわ。あたしがわざわざこんな事しなくていいように・・・。」
やけに真面目な顔をして呟くルーアンに、出雲は“ははは”と笑った。
「大丈夫ですよ。なんと言っても太助君ですから。」
「たー様だから心配なのよ・・・。」
「はい?」
「なんでもないわ。・・・さーてと。悪いけどいずピー、パン頂戴。」
むんずと購買部に陳列されてある袋をつかむルーアン。単数ではなく複数だ。
“やれやれ”と出雲が思った頃には、彼女は既に歩き出していた。
「ちょっとルーアンさん!代金!!」
「いいじゃない。先取りホワイトデーよ。」
「な・・・。わ、私はあなたから何ももらってませんけど!?」
「女性に優しいんでしょ?だったら何も貰わなくたって何かはあげなくちゃ。じゃっあねん♪」
「無茶苦茶ですよそんなのー!!」
廊下にびりびりと悲痛な叫びが響き渡る。
そんなことに、ルーアンはもちろんお構い無しだった。
ついさきほどの獲得物を開封し、それにかぶりつく。
少々早い食事・・・いや、さしずめおやつといったところだろう。
「さーて、気合入れて頑張らなくちゃね!」
自分を改めるかのように吐き出した言葉は、まるで遥か頂上を目指す登山者のモノの様であった。
だが、麓から見上げてのそれではない。先へ進む光明をつかんだ、輝きを含んでいた。
手に持っていたものをあっという間にたいらげると、彼女は授業に向かう。
ここから新たに始まる、苦難と障害の入り混じった道を進むために。
<おしまい>
後書き:
やけに長くなってしまった・・・。
っていうか完成無茶苦茶遅くなっちゃってるし(爆)
元々はブレイドが出る前に書き上げて投稿しちゃろうとか思ってた作品でもあります。
(いや、本当はちゃんとしたバレンタイン話を一つは書こうと思ってたんですけどね)
かなりひねりにひねりましたが、ルーアンの真意は汲み取れたでしょうか。
(もっとも、ちゃんと汲み取る必要は無いですけど)
ただチョコレートを渡したかったわけではないのです、彼女は。
でもって、出雲に相談したのも、厳密には違うのです。
もっともそれらはちゃんとは語って無いですけどね。
しっかしほんと久しぶり、月天の二次小説・・・。
これを機に未完のものをどんどん仕上げてゆければいいんですけどね。