過ぎた時間が褐色にくすませた1枚のモノクロ写真。
画面からはみ出さんばかりに写りこんだ大勢の人物は、みな快活に笑っていた。
過ぎた一時代の小さな記憶。
そんな写真がピンで留められた少し古びた木の扉には、一言金文字で書かれた「セピア色の海と空」。
これは、そんな扉の向こう側のお話。


「アドリア海の青い空」〜翔子と紀柳のパラレルワールド日記〜


 そこは、どこかの港町だった。
陽気な日差しが石畳の路面に踊り、潮風の匂いが狭い路地の隅々にまで流れ込んでいる。
明るい太陽のおかげで、それでも少しもじめっとせずにからりと晴れ上がった青い空が印象的だった。
「なあ、翔子殿。ここはどこなのだろうな」
「あたしだって知らないよ。外国みたいだけどな」
 翔子は、歴史を感じさせる古びた石造りの家々を見上げながら答えた。
白い石壁に絡まったつたの緑が鮮やかだ。
不慣れな旅にもうなれたのか、それとも、この町が気持ちよい風に満たされているのか、見知らぬ場所に感じる不安はない。
「わーい」
「きゃぁぁ」
 元気に叫びながら追い越していく子ども達の無邪気な表情は底抜けに明るかった。
けれど、すれ違うときにちらと覗き込んだ大人たちの顔は、場違いな陰りを隠していた。
「向こうの方が賑やかだな」
「大きな通りがあるのだろう」
「行ってみようぜ」
 前の方から、人ごみのざわめきと威勢のいい行進曲が聞こえてくる。
先ほどの子どもたちを追うように、二人は狭い路地を大通りへ向かって歩いていった。

ブロロロロ…!!
「うおっと!」
 通りに出た瞬間、真横から乱暴にで突進してきた車に衝突しそうになり、慌てて翔子は身をかわした。
「大丈夫か、翔子殿」
「まったく…危ないじゃねーか!!」
 翔子が怒鳴りつけると、通り過ぎたカーキ色のジープは急停車して、乗っている男が振り返った。
周りの仲間に一言二言声をかけると、そのまま4人の青年たちは車を降りて向かってきた。
「何か文句があるのか?」
 背が低くずんぐりとした若者が、居丈高に顔を突き出した。
「我々青年党員に説教とは、いい度胸じゃないか」
 背の高い、にへらと軽薄な笑いを浮かべた青年は、まだそばかすの残る少年に近い顔立ちをしている。
みると、青年たちはみな揃いの黒いシャツ、モスグリーンの制服にベレー帽をかぶっていた。
「俺たちに文句を言うような奴は、愛国者じゃないな」
「見ろよ、外人だぜ」
「よし、本部へ連れて行ってやれ」
 男たちは、翔子の腕をつかもうとした。
「やばい!逃げるぞ、紀柳」
「ああ」
 二人は、身を翻すと一目散に駆け出した。
「あ、待て!」
 男たちも後を追って駆け出した。
通りに大勢の人があふれているのが幸いした。
小柄な翔子と紀柳は人ごみの間を器用にすり抜けて逃げていくが、男たちは周りの人にぶつかりながら怒鳴り散らしている。
通りでは、今まさにパレードの真っ最中だった。
先導のジープに続き、装甲車や戦車が地響きを立てて巨体を揺らしている。
その周りを小銃を肩に立てた兵士たちが一糸乱れぬ足並みで膝を高く上げて行進している。
その後ろの軍用トラックの荷台では軍楽隊が行進曲を演奏して、一層凱旋気分を盛り立てていた。
沿道の人々はそれに熱狂して歓声を上げたり旗を振っている。
道に面した家の2階の窓からも人が身を乗り出して、紙ふぶきが舞っていた。
「なんなんだ、一体? 戦争でもするのか?」
「!! 翔子殿、後ろ!」
 紀柳の叫びに振り向くと、いつの間にか青年党員たちは仲間を引き連れ、追っ手の人数は倍以上になっていた。
さすがに沿道の群集も道を空けるようにしている。
「うわ、やっばー」
 と、そのとき、
「ほれ、こっちだ」
 翔子と紀柳は薄暗い路地から突き出した手に腕をつかまれ、いきなり引きずり込まれた。
「うわっ」
「何をする!」
「いいから黙ってろ、ほれ」
 そこは、小さな戸口の中だった。
そのまま息を凝らしていると、二人には気づかず青年党員たちはばたばたと走りすぎていった。
「まったく、あいつらも無茶をしおる。党の権威を笠に着て、青二才の癖に威張りおって。お嬢ちゃんがた、大丈夫かい?」
 そこにいたのは、牛乳ビンの底のような分厚い丸眼鏡をかけた小柄な男だった。
中年、というにはちょっとくたびれた年だが、老人と老け込むにはまだまだ早い。
くたびれた帽子をかぶり、あごにはそり残した無精ひげ。
はっきりいって、冴えない。
身につけたエプロンと手に染み付いた機械油の匂いから、何かの工場で働いているのだろうか。
「なんとか」
「助かった。すまない」
「いいや、気にせんでいい。それより、何をしたんだね?」
「乱暴な運転に文句を言ってやっただけだよ」
「ははは!そりゃあ威勢がいい。党員相手にそれだけ言えりゃあ立派なもんだ。家の娘どもに負けないくらいの玉だね、あんたは。どうだい、ちょっと休んでくかね?」
「いいの?そりゃ助かるなあ。のど渇いてたんだ」
「あれだけ派手に鬼ごっこしてたら無理もないさ。おーい、フィオ。ちょっとお茶を入れてくれないか」
「はーい」
 奥からまだ若い女性の声がすると、しばらくしてパタパタと足音が近づいてきた。
「あら、お客様? かわいい女の子ね」
 そういう本人も、まだ10代後半のあどけなさを残しているかわいらしい少女だった。
差し出された紅茶のカップに口をつけて一息ついてから見回すと、店の中は薄暗い白熱灯に照らされてくすんだたたずまいをしていたが、どこか温かみがあって落ち着ける。
机の上には積み上げられた書類の束、壁には何かの書付が一面に貼り付けられ、何かの設計図が掲げられていた。
「ここは工場なのか、ご主人?」
「あの図面は、飛行機みたいだな」
「ん?あれか。あれはわがピッコロ社が誇る世界一の傑作飛行艇S21『フォルゴーレ号』、わしのかわいい娘みたいなもんさ」
「家は修理しただけでしょ。それに、いっときますけど、設計したのは私なんですからね」
「分かってるともさ、フィオ。しかしな、フィオを生んだのはわしの息子、息子を作ったのはわしじゃからの、って、いたた!何するんじゃ」
「馬鹿なこと言ってないの!」
 まるで漫才のようなやり取りをぽかんと見つめていた翔子たちだが、感心したように精密に描かれた図面を見つめた。
「へえ、あんたが設計したのか。まだ若いのに…」
「一番の自信作よ。とても綺麗な飛行艇よ。機体のラインも、真紅の塗装も。それに、空中性能はピカ一ね。ただ、その分扱いが難しすぎるけど。でも、パイロットも超一流だから、最強の飛行艇よ」
 フィオは、誇らしげな、そして少し寂しげな表情で、図面を見つめた。
「もう一度、この飛行艇で飛びたいな…」

「じゃ、気をつけてな」
「ありがとう」
 人のよいピッコロ老人の所につい長居をしてしまった後、翔子と紀柳は店を出た。
軍事パレードはとっくに通り過ぎてしまい、人通りはまばらになって、踏みにじられた紙ふぶきだけが路上で風に流れていた。
「これからどうするのだ、翔子殿?」
「んん、そうだなあ。適当にウィンドウショッピングでもしてみるか」
 二人はショーウィンドウに並んだドレスや鞄やはたまたケーキやらを眺めながらぶらぶらと通りを歩いていた。
と、向こうから飛行帽とゴーグルをかけた、街中で見るとかなり不審な二人連れがひょこひょこと歩いてきた。

「フィオさん、いるかなあ」
「俺たち、格好おかしくないよな」
「一張羅なんだけどな」
「はあ」
 いや、せめてゴーグルと飛行帽は外してくるべきであったろう。
まさか、特注した飛行帽なんてことは… それも一張羅というべきなのだろうか。
「あれ?」
「おい、あの子達…」
「ああ、結構かわいいなあ…」
「声、かけてみようか。花もあるし」

「お嬢さんたち、どうしました?」
 突然後ろからかけられた爽やか、になるよう努められた声に、翔子は胡散臭そうに振り向いた。
「どうもしてないよ…って、げ、…何、あんたたち?」
(「げ、だってよ… とほほ」)
(「ど、どうする?」)
「どーでもいいけど変な格好してんなあ」
(「へ、変?」)
(「がぁぁん」)
「不思議な帽子をかぶっておられるな」
「ん?ああ、これか、これは飛行帽さ。飛行艇乗りの心意気って奴よ」
「海と空が俺たちの相棒さ」
「おにいさんたち、飛行艇に乗ってんのか?」
「ひこうてい、とは…。 翔子殿、先ほどフィオ殿のところで話していた、あれか?」
「フィオさんを知っているのかい。ああ、飛行艇ってのは、水の上で離着水する飛行機のことさ」
「それより、積もる話もあるだろうし、これからどこかで…」
「じゃあ、飛行艇に乗せてくんない?」
「へ?」
 積もってもいない話をしようとお茶に誘おうと思っていた男は、一瞬面食らった顔をした。
「あ、ああ、いいぜ。俺たちの飛行艇でアドリア海クルージングといこう」
「青い空と深い海が君たちを待っているさ」
「おーい、早く行こうぜ」
「あ…あ、待ってくれよ〜」
 決め台詞の余韻に浸っている男たちを尻目に、翔子と紀柳はさっさと歩き始めていた。


「Quand nous chanterons le temps des cerises,
Et gai rossignol, et merle moqueur...」


 サアァァ…
 砂浜に穏やかに寄せては返す波の音が心地よい眠りを誘う。
ラジオから流れる甘美な歌声が、白い砂浜に太陽の照りつける昼下がりを物憂げにしていた。

「Les belles auront la folie en tete,
Et les amoureux du soleil au coeur...」


 ジリリリリ…! ジリリリリ…!
 まどろみたくなる空気を破って電話がけたたましく鳴り出した。
浜辺に木製の小さなテーブルとパラソルを引っ張り出して、ワインで喉を潤しながらいつしかうとうととしていたらしい。
幸福なまどろみを無粋な音で破られたため、少し不機嫌に眉をしかめた。
まだるっこそうに顔の上に広げた雑誌をどかすこともなく手探りでテーブルに手を伸ばす。
ない。まだ届かない。
ん。これはグラスだ。
コクリ。ふう。
さすが1914年物だ。いい味に熟してやがる。
因縁の年に仕込まれたくせに。そう思うとふいにその辛味をほろ苦く感じた。
っといけねえ、そうじゃねえや。
 ジリリリリ…
「うるせーなぁ」
 ようやく電話に手が届いた。
受話器を引っつかむと耳に当てる。
「もしもし」
『ああ、ポルコか。わしだよ』
「なんだ、ピッコロのおやじかよ」
『けけけ。フィオじゃなくて悪かったな。』
「じゃじゃ馬嬢ちゃんは元気かい」
『相変(誰がじゃじゃ馬なのよ!)じゃよ』
「元気そうだな」
『まあ、そんなことで電話したんじゃあない。マンマユートの奴らなんだがな』
「マンマユートォ? 安い仕事はしねーと言ってるだろう」
『まあそう言うな。さっき家の店に見慣れない女の子が二人来てな。お茶を出してやったんだが、その時一人の娘がハンカチを落としていってな。追いかけたら、マンマユートの連中に連れられてどっかいっちまったんだよ。』
「…誘拐か」
『へへ。ようやく声が本気になったな。まだよく分からんが…』
「分かった。今から出る」
『ああ、先に家まで飛んで来いよ。渡すもんがあるからな』
 最後まで聞くより早く相棒の元へ向かう。
かけてある帆布を剥ぎ取ると、鮮烈な赤。
ハンドルに手をかけ、力をこめる。
「まってろよ、子猫ちゃん」
ブロロロロロロ
シャァァァー
 残ったのは、エメラルドの海を割る一筋の航跡と砂浜のテーブル、そして消し忘れたラジオから流れる甘い歌声…。

「J'aimerai toujours le temps des cerises,
Et le souvenir que je garde an coeur,
Une plaie ouverte...」



眼下に広がるのは一面の青い海。白い波頭が太陽を反射してきらきらと輝いている。
遠く見える半島の海岸は切り立った白亜の崖に緑が映える。
水面を行く船の航跡が白く海を裂いて伸びていく。
空は快晴。澄み渡った青に綿雲の白さが軽い。
窓から顔を出すと強い風が髪をなびかせる。
潮の匂いが鼻をくすぐる。
「うほー、気持ちいいなあ」
「気に入ってくれたかい、翔子ちゃん」
 翔子は、空の旅に非常にご満悦のようだ。
一方紀柳は、空を飛ぶことには慣れているが、短天扇以外のもので飛ぶことがないためか、珍しそうに飛行艇の中を見回していた。
「この様な鉄の塊がよく空を飛ぶものだ…」
「どうだい、お嬢ちゃんたち。俺たちの愛機は」
 自信満々に胸を張ってそのたくましい腕を組んでいるのは髭面の男。
マンマユート団というらしいこの飛行艇の乗組員のボスである。
そういえば、搭乗員は揃いもそろって飛行帽とゴーグルを身につけている。
まあ、飛行艇に乗っている間くらいは様になるよな、と翔子は思った。
「でも、この飛行艇って相当ぼろぼろだよな。落ちないたりしないよな。大丈夫なのか?」
「うっ。だ、大丈夫に決まってるだろうが」
「そうだよ、こないだ整備したばっかりだし」
「1ヶ月ぶりにエンジンに油もさしたしな」
「ああ、おかげで変な音もしなくなったし」
「…なんかすっげー不安…」
「おや、ボス殿、こんなところにも穴が」
「うっっ」
「尻尾の方なんて色も塗ってないじゃん。かっこ悪いなあ」
「ええい、うるさぁい! 大事なのは見てくれじゃねえ! 無骨でも機体をいたわる愛情! 嵐でも恐れぬ勇気! そして青い空と海! これが飛行艇乗りの魂だ。それさえありゃあ恐れるものなんてなにもねえ」
「おお、ボス、かっこいい!」
「最高!」「そうだそうだ!」「大統領!」
「はあ、なんか野村が集団でいるみたいだな」
「野村殿がここにいたらさぞ喜んだであろう」
「暑苦しいからいいよ、もう」

ヴォォォォーン
 定速で回転を続けるエンジンは低い音でうなり続けている。
オーバーホールしてから目立ったトラブルもなく、フライトは快調そのもの。
見上げれば白い太陽がぎらぎらと輝いている。
ふと、はるか高く一筋の雲のように空を渡る飛行機たちが見えた気がした。
思わず小さく舌打ちして、意識を周囲の空域に戻す。
「いやがった!」
斜め前方数マイル。間違いない。
スロットルを押し込むと、ぐんと加速度がかかりシートに押し付けられる。

 鉄と汗とエンジンの排煙の匂いに少々むっとする艇内から出て涼しい空気を求めるため、翔子はタラップを上がって機体上部の銃座から顔を出した。
アドリア海の紺碧と空の青が目にしみる。
「んー、いい風。」
 あたりを見渡すと、右斜めはるか後方の空で、何かがきらりと輝いた。
「ん?なんだ、ありゃ」
 最初は小さな点だったそれは、次第に接近して大きさをもってきた。
「飛行機、赤い飛行機か?」
 赤色の飛行機!シャアじゃないのか!?と叫んだのは筆者のみである。
「へー。綺麗な飛行機だなあ。真っ赤な飛行艇かあ。…あれ、ひょっとするとフィオさんの」
「フィオさんの何だって?って、…あああ!!ポルコ・ロッソだあぁぁぁ!!!!」
 見張りの一言で、飛行艇内は蜂の巣をつついたようになった。
「ボスゥ! ポルコ・ロッソが出たぁ!」
「何だと!? 何で豚野郎が」
 騒いでいるうちに、赤い飛行艇は見る間に接近してきた。
こちらよりやや上方に占位して、すうっと滑るように近づいてきた。
まるで、スローモーションのように緩やかに真上に滑り込んで来たかと思うと、
ひらり!
真紅の翼を一閃して垂直にダイブに入ったと思うや。
キィィーン
バリバリバリ
機銃を発射しながらマンマユート団の飛行艇の翼を掠めるように翼面下に消えていった。
「撃ってきたぁ!」
「慌てるんじゃねえ!今のは威嚇射撃だ。いくらあいつでも、いきなり墜としはしねえ」
 ボスは慌てる部下を一括すると、コックピットから顔を出してメガホンで叫んだ。
「くをらぁ、豚野郎! 何のつもりだあ!!」
 赤い飛行艇は、浮上するようにすうぅっと上昇すると、マンマユートに並走するように並んだ。
翔子は相手のコックピットを覗き込んだ、すると。
「ぶ、豚ぁ!?」
 そこにいたのは、まぎれもなく、飛行服を着、ゴーグルをつけた豚だった。

「あれが人質のお嬢ちゃんかい。マンマユートの奴ら、フィオに手を出したと思ったら次から次へと、もてねえくせに…。ひでえことしてないだろうな」
 真紅の翼、サボイアS21試作戦闘艇「フォルゴーレ号」のパイロット、ポルコ・ロッソは、信号用のライトを取り出すとシャカシャカと点滅させてメッセージを打電した。

「豚より発火信号! ゲ・ス・ド・モ・ヒ・ト…
『下種ども、人質の少女を解放してさっさと失せろ。さもないと二度と飛べなくしてやるぜ』だと?」
「人質? 何のことだ? おい、お前たち。誰か誘拐でもしたのか?」
「俺やってねえ」
「俺も」
「おいらもしらねえ」
「豚野郎!! 俺たちは何もしてねえぞぉ!」
「再び入電!『お前たちの言うことは半分は嘘で半分は出鱈目だ』っていってます」
「うるせえ!!」
「ああ、来ます!!」
「ええい、しょうがねえ。応戦だあ。撃て撃てぇ!」
 赤い飛行艇は一旦距離をとると再び翼を翻して反転してきた。今度はほぼ同位戦である。
ボロロロロロロロロ
ウォォォォォォン
キィィィィィン
 咆哮をあげる双方のエンジン音と空気を裂く音が響く。
「くぅおのぉぉ!」
ダダダダダダダダダダダダダダダ
 マンマユートの飛行艇からも、機銃弾が連射されたが、赤い機体には傷一つつけることなく消えていく。
「下手くそぉ」
「ほっとけぇ」
「無駄弾撃つんじゃねえ! 今月は厳しいんだからな」
「ボス、あと2ケースしかないよ」
「ぐっ。お前ら、2日間飯抜きで我慢しろ!」
「そんなあ」
「それが嫌なら豚を落として払わせてやれ!」
 それでも、ポルコ・ロッソは弾幕を軽くかいくぐると機銃から火を噴いた。
タタタン、タタン!
 ほんの少しの銃撃で、ポスポスッと、塗装のない剥き出しの情けない尾翼に簡単に穴があいた。
「ああ!あの野郎、直したばっかりだってのに!」
 赤い飛行艇は自分より数倍大きい機体の脇をすり抜け一気に前に出ると、反航して突撃をかけてくる。
「ねえ、あたしに貸してみなよ」
「ん? ああ、翔子ちゃん、だめだってば」
 翔子は銃座によじ登ってそこにいた男を押しのけると、機銃の前に座った。
「へへへ、やっぱり本物って一度撃ってみたかったんだよね」
 前を見ると、見る見る接近してくる赤い翼。
「せえの!」
ズガガガガガガガ
 煙を引きながらするすると伸びていく銃弾は、フォルゴーレの翼をすれすれに掠めて飛んでいった。
翼端から、小さく赤い破片が剥がれ落ちた。
「当たった!」
「ざまあみろ、豚野郎!」
「翔子ちゃん、すげえ」
「もうちょい」
ズガガガガ、ガガガガン
 溶けはじめたアイスキャンディーのように曳光を引きながら伸びていく銃弾が、そのまま真っ直ぐエンジンに吸い込まれそうに見えた瞬間、
ふわり。
赤い機体は鳥のような身軽さで一回側転すると大きくバンクを切ったまますうっと下降していった。

「ちぃ、やるじゃねえか」
 ポルコ・ロッソは機体の体勢を立て直しながらつぶやいた。
先の大戦でイタリア海軍のエースパイロットとして戦場で幾多の死地を経験したポルコだが、戦争に嫌気がさして人を捨ててから冷やりとするシーンはめっきり減ったはずだった。
自然と高まっていく緊張感に、知らずに口の端を歪めてにやりと笑みが浮かんだ。
「俺の愛機に傷をつけるとは、カーチス以来じゃねえか。俺も焼きが回ったかな。にしても、マンマユートにそんな腕のいい奴がいたか?」
 独り言を言いながらも、目は決して敵機を離さない。
相手を甘く見て思わぬ一撃を被ったが、油断を捨てて今度は死角の下面から一気に突き上げる。
みるみる視界で大きくなる飛行艇の腹。と、
「ん? 何ぃ? どうなってるんだ?」
 それもそのはず、機銃座に座って喜んでいるのは人質のはずの少女ではないか。
「くっ。くそ親父、ガセネタつかませやがったか!」
 ポルコはトリガーを引きそびれてそのままマンマユート機の上方へ一気に駆け上がっていった。

「いいぞぉ、翔子ちゃん!」
「今日こそ豚の奴に目に物見せてやる」
「くうぅ。マンマユート団結成から早何年。散々煮え湯を飲まされてきた忌々しい破廉恥野郎に、ついに一矢を報いるこの日がきた」
「ボス!俺たちにもやればできるんですね」
「おうともよ。お前ら、もっと自分に自信を持て!」
「おお!!」
「…なんかまた熱くなっちゃってるよ…」
 ボスはおいおいと腕を目に押し当て涙をぬぐっている。
男のロマン、と言いたいところだが、実際活躍しているのは翔子だけで他の男たちはむさくるしい以外何もしていないということは気にしてはいけない。
と、突然、エンジンから異音が聞こえてきた。
ボロロロ、ブス、ロロロロ、ブスブス、プス、ボロロロ…
「げ、エンジンが」
「豚め、やりやがったなあ」
「ボス、ただの燃料切れです」
「そういや今日はガソリンケチってきたからなあ」
「うるさい、全部豚のせいだぁ!」
 エンジンから情けない音を立てながら、ガス欠のマンマユート団の飛行艇は、次第に速度が遅くなり、高度を下げ始めた。
「翔子殿、もう気はすんだか?」
「紀柳?」
「このまま無意味な争いを続けても仕方がなかろう。けが人が出る前にやめるべきだ」
「でも、相手が納得してくれるかなあ。さっきも話を聞いてなかったし」
「私が言ってこよう」
 ぱさり。
紀柳は短天扇を広げると、ひらりと窓から身を躍らせた。

「なんだ? マンマユートの奴ら、エンジンがいかれやがったのか。まったく、ぼろ船のくせにろくに整備もしてないからだ。さて、さっさとけりをつけてしまうか」
 ポルコは再び照準を合わせた。
「…ポルコ殿とやら…」
「ん? 誰だい? ああ、お嬢ちゃん、今取り込み中でな、後にしてくれ…
…って、ええ!?」
 キィィィ
 突然横から話し掛けられ振り向くと、そこには扇に乗った少女が空を飛んでいるというなんとも非常識な光景があった。
思わず操縦桿をひねってしまったポルコ・ロッソの機体は、バランスを崩しそのまま錐揉みに突入して海面へとダイブをはじめた。
「しまった! ええい、鎮まれじゃじゃ馬ぁ! さあ、いい娘だ! こんのぉ!」
 あわや海面に激突かという寸前で、真紅の機体は辛うじて体勢を立て直し水平飛行に移った。
触れんばかりの低空飛行に、海面に一筋の航跡を引いて、フォルゴーレは再び舞い上がった。
「…すまぬ。大丈夫か」
「ああ、何とかな。といいたいところだが、あんた、何もんだ?」
「私は万難地天紀柳。ポルコ殿、とりあえず、争いを止めたいのだが…」



 品のいいバーの内装は豪奢ではあるが過剰な派手さはなく、暗めの照明がしっとりと落ち着いた空間を演出していた。
ピアノの演奏が心地よいBGMを奏でている。
ホテル・アドリアーノは、アドリア海の飛行艇乗り誰もが安らぐ場所。
その一角に、賑やかなテーブルがあった。
「ったく、ひどい目にあったぜ」
「でも、翔子ちゃんは大活躍だったね」
「ああ、いっそ俺たちの仲間に入らないか? 腕のいい射撃手が欲しいんだ」
「あたしが空賊? 遠慮しとくよ」
 引きつった笑いを浮かべながら翔子が答えた。
マンマユート団が翔子と紀柳を囲んで夕食の席でにぎわっていた。
珍しいことといえば、宿敵同士の空賊と賞金稼ぎが同席していることだろう。
「しかし、今回は単なるピッコロ親父の勘違いか。とんだ無駄足だぜ」
「てめーが言うな、豚! おかげで俺たちの船にまた穴あけやがって。迷惑料込みで修理費はしっかりと払ってもらうからな」
「その前に、この間貸した酒代を返しな」
「う、そんな細かいこと言ってんじゃねえ」
「ついでにギャンブルの負け分もたまってたな。そいつでチャラにしてやるぜ」
「うぬぅ、おのれぇ」
「よかったですねボス、これで借金チャラですよ」
「馬鹿野郎! 被害者の俺たちが下手に出てどうすんだ!」
「あらあら、賑やかなのね。一緒に飲んでるなんて珍しいじゃない」
 凛とした声に振り返ると、このホテル・アドリアーノの女性オーナーが笑っていた。
「ジーナ、聞いてくれよ。豚が、罪もない俺たちを撃ったんだよぉ」
「あら、そうなの、マルコ?」
「文句はピッコロに言ってくれ。おおっと、忘れてた。はい、お嬢ちゃん忘れ物だ。まったく、俺の飛行艇はいつから宅配便になったんだ?」
「あ、あたしのハンカチ。サンキュー」
「宅配便は客に発砲するのかよ」
「お前らの顔見るとつい条件反射でな」
「何を!?」
「しょうがないわね。でも、ここでは喧嘩はなしよ」
「ああ、分かってるって。な、豚」
 ポルコはふん、と鼻を鳴らした。
「綺麗な人だなあ」
「まあ、ありがと。ずいぶんとかわいいお客さんがいるのね」
 思わずため息を漏らした翔子にジーナは微笑んだ。
「翔子ちゃんと紀柳ちゃんだ。翔子ちゃんは射撃の名手、紀柳ちゃんはなんと、大地の精霊なんだとよ」
「まあ、精霊? すごいわね」
「私は万難地天。主殿に試練を与えるのが使命だ」
「それはたいしたもんだ。お前らも紀柳ちゃんに鍛えてもらった方がいいな」
「そりゃないよ、ボス」
 赤くなった紀柳の周りで、海の男たちは豪快に笑いあった。
「でも、飛行艇から飛び出したときは、びっくりしたなあ」
「ほんとほんと。そのまま豚の方へ行っちゃうんだからさ」
「女の子が扇に乗って空を飛ぶなんざ、非常識だ」
「黙れ豚ぁ。空飛ぶ豚も十分非常識だ」
「くっ」
 ニヒルに決めていたポルコが不服そうに頬を小さく膨らませると、翔子はなんだかおかしくなってくすりと笑った。
「ね、この人、かわいいでしょう?」
「豚なんてちっともかわいくねーよ、ジーナ」
「ふふふ。あなたたちといると楽しいわ。最近は世の中も先行きが怪しいでしょう。耳にするのも物騒な話ばかり。もう、うんざりよ。どうして戦争なんかするのかしらね。女は戦いなんて望んでないのよ」
「俺たち空賊には国家なんて関係ねえ。でも、守らなけりゃいけないもののためには戦う。海を守り、愛するものを守るために戦うのが、俺たちの誇りだ」
「ボス、かっこいい」
「あなたもそうなの、マルコ?」
 ポルコは、サングラスの奥の目をかすかに細めた。
見つめているものは、いとしい女性か、それとも空に散った古い友か、果てしない空の青さか…。
「飛ばねえ豚は、ただの豚だ」
「馬鹿…」

「さあ、さっさと並べ!」
「ほら、もっと寄らないと入らないぞ。豚もぶつぶつ言わねえでそっち寄れ」
「なんで俺まで入るんだ」
「ほら、マルコ。いいからいいから」
「ほら、翔子ちゃんと紀柳ちゃんは、真ん中に」
 短い付き合いだったが、海の男たちは、決して気取らず仲間に入れ、一期一会の出会いをとても大切にする。
この不思議な出会いの思い出に、たった一枚の記念写真。
「笑え!」
 シュボッ
 マグネシウムライトの眩い光が、翔子の瞼に焼きついた。




 夕暮れの道を歩きながら、翔子は隣を歩く紀柳に問い掛けた。
「たのしかったなあ」
「ああ、いい人たちだった」
「…なあ、紀柳。あの人たち、どうなったかな」
「戦争のことか」
「うん」
 紀柳は、夕日に赤く染め上げられた空を見上げながら答えた。
夕日よりも真っ赤な翼を思い浮かべながら。
「大丈夫、きっと、またあの青い空を飛び回っている」
「…そうだな」
 見上げるはるか上空を、飛行機雲が一筋伸びていった。
「じゃあ、家こっちだから。またな、紀柳」
「ああ。また」



CAST
山野辺翔子
万難地天紀柳
ポルコ・ロッソ
フィオ・ピッコロ
マダム・ジーナ
マンマユート・ボス
ピッコロ親父

STAFF
原作作品宮崎 駿
桜野みねね
アレンジ・脚本AST
背景提供むーんひる



「はっはっは。この獲物はマンマユート団がいただいていく」
「二代目、今日も収穫ありましたね」
「すげえや、メバルにカジキに、ロブスターまである。ボス、今日はご馳走ですぜ」
「…お前ら、漁師をいじめて魚を巻き上げていく以外に、やることないのか。親父さんも泣いてるぞ…。この間も『息子が不甲斐ねえ』って愚痴聞かされたんだからな」
「あんたらも、先代みたいに商船ぐらい襲ってみたらどうだい」
「そんなことしたら犯罪じゃねえか」
「今も十分犯罪だよ…」
「ボス! あれ!!」
「やばい、豚のせがれだ!! 野郎ども、引き上げだあ!!」
ボロロロロ
「二度と来るなあ!」
「…明日も来るんだろうな…」
「ああ」
「平和だなあ」
「ああ」
「懐かしいなあ」
「ああ」
「あの子たち、元気かなあ」
「ああ…」
「さて、俺たちも帰るか。どうだい、アドリアーノで一杯やってかないか」
「いいねえ…」




Fin



The Adriatic Blue Sky
MAMOTTE SYUGOGETTEN! Fan Fiction featuring "Porco Rosso" (Crimson Pig)

written by AST (S.Naitoh),2001

以上の作品は、実際の同名作品の著作権所有者とは一切関係ありません。
「紅の豚」は、宮崎駿氏の著作物です。著作権は、二馬力、TNNG(徳間書店、日本テレビ放送網、日本航空、スタジオジブリ)に属します。/1992
「まもって守護月天」は、桜野みねね氏の著作物です。著作権は、エニックスに属します。