二人が立っていたのは、濃い霧の丘の上だった。
「なんで、帰れないわけ?」
食事が済んで、二人は板付空港へと向かう。
翌朝、一番先に目を覚ましたのは翔子だった。
気が付くと、二人は扉の並んだ部屋に立っていた。
しかもただの丘ではない。
二人は何時間も歩いているのだが、いつまでたっても景色が変わらないのだ。
遠くに黒くてとんがった山が見えるが、それが一向に姿を変えない。
どの方向に進んでも、一定の姿を維持しつづける。
まるで無限回廊を歩いているようであった。
「・・・いつまでこうしてりゃいいんだ?いいかげん疲れたよなあ。」
ようやく翔子が根を上げた。それを聞いて感心したようにキリュウが言う。
「珍しいな、ここまで耐えるとは。
いつもなら一時間ほどで文句を言い始めるのに。」
キリュウの言う通り、今まで訪れた世界の中で、
なんの変化もない状態で、これほど長時間居たのは初めてである。
翔子はちっちっちと言うように、人差し指を振った。
「雰囲気さ。こういう怪しそうな場所には、
根気が必要って相場が決まってるもんさ。だけど・・・。」
「だけど?」
聞き返すキリュウに、翔子は大声で叫び返した。
「もう帰る!ふざけんなバッキャロー!!」
「・・・。」
しかしキリュウは動じなかった。
それよりは少し安心したようだ。いつもの翔子が見えたのだから。
「では帰るとしよう。既に試練も見つけた。」
「さっすが。じゃあ念じるか。」
キリュウを少し褒めた後、翔子はキリュウと念じ始めた。しかし・・・。
「おかしい、人の気配はないのに・・・。」
そう、いくら念じても帰れない。
周りには二人以外誰も居ない。となると、考えられる原因はただ1つである。
「事件に巻き込まれてるって事?ただ歩いていただけなのに?」
がっくりと肩を落としながらつぶやく翔子。
そしてその場にぺたりと座り込んだ。
「仕方ないな。果報は寝て待てと言うし、しばらくじっとして様子を見よう。
キリュウも翔子の隣に腰を下ろす。
辺りは静かだった。
今まで二人の足音が響いていたのだが、それ以外は何も音がしなかったのだ。
空気はあるが風はない。雲はあるが雨が降っているわけではない。
ともかく、音源となるものは、二人以外には無いという状態だった。
静寂に耐えかねた翔子が口を開いた。
「なあ、見つけた試練てなんだ?」
翔子にとって、試練なんてとりあえずどうでもよかったのだが、
とにかく話をしたかった。キリュウが多く喋りそうな話で。
そんな事までは解らないキリュウは、翔子に少し笑顔で答えた。
「それはだな、この空間を利用し・・・あれは?」
説明しかけたキリュウが、突然ある方向を指差した。
その方向から、何やら大量の生物らしきものが近づいてくる。
「な、なんだ?」
その生物たちを見た翔子は、思わず立ち上がった。
歩いていたときの疲れも、この最初の変化に吹き飛んでしまったようだ。
大量の生物は皆同じ姿であった。ぱっと見れば、いたちか何かと思うだろう。
しかし体はそう思わせるものの、頭の形は円形で、
鼻の頭らしき部分が少しとがって出ているだけだ。
さらに顔についているのを確認できたのは目だけである。
楕円形のぐりぐりとした目玉の真ん中には、うす赤い光を宿していた。
極めつけはその生物の輪郭。はっきりとしてはおらず、
幻というような表現をしたくなるほどぼんやりしているのだ。
やがて何百匹はあろうかというそれらが、二人の2mほど前に集合した。
唖然となってそれらを2人が見つめているうちに、
その生物たちの後ろに大きな黒い影が現れた。
霧もその姿をあらわにするように、その部分だけ薄くなる。
「なんだろう、あれ・・・。」
恐る恐る翔子がつぶやく。
キリュウもいつのまにか立ち上がって油断無く構えた。
「まずは様子を見ようではないか。」
そのキリュウの言葉が終わると同時に、その黒い影が喋った。
「おまえ達二人にやってもらいたい事がある。まずは話を聞いてもらおう。」
背丈は軍南門ぐらい有ろうか。しかし姿はえらく単純で、
人間がただ黒い布をすっぽりとかぶったような、そんな感じであった。
しかし人間とは思えないような声だ。
それに二人が反応する前に、黒い影はあの山を指差した。
いつまでも見えつづけていた、黒くてとがった山である。
「あれは生命の山と言う。あの山に、ある旅客機が接触し、
山の一部が砕け・・・その岩のかけらが十人の乗客に降り注いだ。」
そこでいったん言葉を区切ったので、翔子は慌てて聞いてみた。
「なあ、その旅客機はどうなったんだ?生存者は?」
黒い影は落ち着いてそれに答えた。
「無論機体はばらばらになった。乗客も全員死亡するはずだった。」
「はずだった?」
「そうだ。先ほど言った十人は助かったのだ。
あの石には生命のもととなるエネルギーが含まれているのだ。
死ぬ運命に決められていたものが生きているという事だ。
十人のうちの二人の子供からは石を返してもらったが、
残り8人は逃げてしまった。これは許しがたい事だっ。」
怒り口調になりながらも、その影は言葉を続ける。
「あの生命の山を守る役目を持っておるこの“キキモラ”ども。
そのうちの二人に、さっきの二人の子供の体を使って八つの石を取り戻してくる事を命じた。
今人間界でその任務を遂行中だ。」
そこでキリュウはぴくっとなった。影に疑問をぶつける。
「ここは人間界ではないのか?」
「そうだ。ここは生きている人間が来てはならぬ世界だ。」
普通の人なら驚くべき事なのだろうが、二人にとっては、
“はあ、なるほど”とぐらいにしかとれなかった。
なんといってもここはパラレルワールドなのだから。
頭を少しかきながら翔子が尋ねる。
「それで、あたし達に何をしろってのさ?」
「石を持つ人間に会って、その石を取り戻してきてもらいたい。
簡単な事だ。石を持つ人間に、『石を返して』と言えば良い。
素直に渡さぬ場合は、“キキモラ”と唱えれば、石は手元に来るであろう。」
「わーったよ。それで報酬は?」
ちゃっかり報酬をねだる翔子に、黒い影は無表情に言った。
「手前にも言ったが、ここは生きた人間が来ていい場所ではない。
だから石を取り戻す事によって、それを大目にみようという事だ。」
そこで翔子は、にやりと笑っていった。
「精霊もダメなの?キリュウは人間じゃないぜ。」
「しょ、翔子殿!」
それを聞くと、黒い影は少し考え込んで言った。
「ではこうしよう。二人のキキモラの持つ、つまり取り返した石。
それを受けとってこの世界に送ってくれ。先ほどより全然簡単だ。
それで報酬は、大目に見るだけにしてもらえぬか?」
どうやらさらに報酬を渡す気は無いらしい。
それならばと、翔子は負けずにこういう条件を出した。
「その二人のキキモラからなんかもらってもいいよな。それを報酬にするよ。」
「・・・よろしい、そうしてもらおう。私がまた後でその二名に褒美をやればよいことだ。」
交換条件が一致したようで、翔子がOKのサインを出す。
そしてキリュウが質問した。
「二つ訊きたい事がある。その二人のキキモラ殿がどこに居るのかという事と、
石をどうやってこの世界に送るかという事だ。」
「二人は自分たちで探す事だ。
石は、受け取った後に送りたいと念じるだけで良い。」
あっさりと答えが返ってきた。
詳しい説明を期待していた翔子にとってあまりにも腹立たしい事だったので、
黒い影に大声で怒鳴りつける。
「ふざけんなよ!石を送るのは良いとして、探すのに何日かかるかわかんないじゃないか!」
すると、やれやれといった顔で(いや、顔は見えないが)その影は肩をすくめた。
「航空機は一三四便。福岡行き。板付空港に行けば分かるだろう。」
キリュウにはなんのことやら分からなかったが、翔子はまあ良いだろうとうなずいた。
「それでは頼んだぞ。なるべく秘密に動くようにな。
外の世界へは、キキモラどもが連れていってくれる。」
それだけ告げると、黒い影はすうーっと煙のように消え去った。
その後まもなく、キキモラ達が一斉に二人を見つめ始めた。
かと思うと、二人は次の瞬間には別の場所に立っていた。
人々が、そして車が行き交うのが見える。
高層ビルが立ち並んでいるのを見ると、ここはある都市のようだ。
景色が変わったことを確認した翔子が、力強く言った。
「まずは飯だ!」
そしてキリュウの服をつかんでずるずると引きずる。
第一声にがくんとなったキリュウは、抵抗もできずに連れられていった。
幸いこの近くにあったので、今は空港へ向かうバスの中だ。
落ち着きが無い様子で、キリュウがきょろきょろと辺りを見回す。
「キリュウ、少しは大人しくしてろよ。そんなに珍しいもんじゃないだろ。」
キリュウの様子を見ていた乗客達がくすくすと笑っていたので、
翔子は恥ずかしくなってキリュウを止めようとしたのだ。
しかしキリュウはそんな事を知るよしも無く、こんな事を言ってきた。
「大型の四輪自動車に乗るのは初めてなものでな。
おっと、ばすと言うのだったな。うーむ・・・。」
ますます周りの笑い声が大きくなる。
頼むからやめてくれと思いつつ、翔子は赤くなってうつむいてしまった。
やがて空港に到着。翔子は、笑っている乗客達を尻目にキリュウを引っ張って、
急いで空港のインフォメーションセンターに向かって駆け出した。
その途中でも、キリュウはきょろきょろとものめずらしそうに辺りを見回していたが。
さすがにつらいと思ったのか、翔子は別行動を申し出た。
「キリュウ、あんたはこの椅子に座って待ってろ。
あたしが情報を仕入れて来るから・・・って聞いちゃいないな。」
キリュウはしきりに“おおー”とか“ほう!”とかいう声を上げながら、
相変わらずきょろきょろしている。
仕方なくキリュウをそのまま引っ張って歩き出す、いや、走り出す翔子。
周りの人間から注目されている事に気が付いたからだ。
なんとか苦難を乗り越え、インフォメーションセンターに到着。・・・したは良いが、
探し人についての情報はまったくもらえず、二人とも追い返されてしまった。
椅子に座った翔子が不機嫌に言う。
「ちぇ、少しぐらい何か教えてくれたっていいじゃないか。なあキリュウ・・・。」
しかしキリュウは、我関せずといった感じで、あいも変わらずきょろきょろしている。
とうとう翔子の堪忍袋の緒が切れた。
近くに座っていた男が読んでいた本をひったくり、それで思いっきりキリュウをぶったたく。
“バシッ”と勢いよく音がしたかと思うと、キリュウがうめき声を上げながら頭を押さえていた。
「う、う・・・。しょ、翔子殿、何をするのだ・・・。」
「うるさい!人が悩んでる時に自分の世界に入りやがって。少しは協力しろ!」
翔子がこれでもかといわんばかりにバシバシやっていると、
本を取り上げられた男が慌てて止めに入った。
「や、やめろ。それは俺の大事な本だ!落ち着け、お嬢ちゃん!」
しばらくのどたばたの後、ようやく翔子は落ち着きを取り戻した。
よほど痛かったのか、キリュウはべそをかいている。
なんとか本を返してもらった男は、疲れた顔で椅子に座っていた。
「まったく信じらんないなあ。いきなり人の本を取り上げてそんな事するか?」
男の責めるような声に、翔子は少し頭をかきながら応えた。
「いやーわりいわりい、ちょっといらだってたもんだからさ。あははは。」
ちっとも悪びれたそぶりを見せない翔子。それを見てキリュウがボソッと言った。
「あれは少しという程度ではなかったぞ。私は何もしてないのに・・・。」
その小声は、周囲の声にかき消される事なく、翔子の耳に届いたようだ。
みるみるうちに翔子の顔が変貌する。
「何もしないから怒ったんだよ!石を探している二人を探すなんて訳わかんない事をしなきゃならないのに、
呑気にかまえてんじゃないよ!!」
またもやキリュウに何かしそうな翔子を、慌てて男は止めた。
「まあまあ、オレで良かったら協力・・・石を探してる二人組!?」
今度は男の顔が変わった。翔子は、何か知ってそうなこの男に事情を話すことにした。
もちろん影の事やキキモラ達の事は伏せて。
すべてを話し終えた後、今度は男が話しはじめた。
「オレの姉さんはその八人の中の一人さ。あんたの言う石を持っていて、妙な女の子もやって来た。
石を返せってな。その女の子によくにた男の子もやって来た。それがあんたの言ってる二人だろう。」
この男の名はロック。姉さんというのは人気アナウンサーの阿沙みどりである。
みどりは深夜のディスクジョッキーをを利用して、
学校で知り合ったZ国のキムという男のスパイ容疑を晴らそうと、日夜努力しつづけた。
キムは、秘密裁判で死刑宣告をうけていたのである。
みどりの努力の甲斐があったのか、世界中からZ国に寄せられた助命の願いにより、
死刑が中止となり、キムは助かった。
「けどその放送を聞いた日の朝、姉さんは死んじまったんだ。
はじめは石のせいだなんて思わなかったけど、他に何人も石を取られて死んだ人がいるって聞いたんだ。
だからやっぱり、あの怪しい二人が石を・・・。」
ロックは言い終わると、力なくうなだれてしまった。その後にキリュウが口を開く。
「ロック殿、申し訳ないが今現在生きている人物の所在を教えてはもらえぬか。
知っている人だけでよいから。」
その声にロックは顔を上げて言った。
「どうやらあんたら二人は、別の理由で探しているみたいだから話してやるよ。
以前ねえさんが、番組のゲストとして三人を呼んだんだ。そのうちの二人はまだ生きているはずだ。」
ロックは紙と鉛筆を取りだし、住所を書くと翔子に渡した。そして立ち上がる。
「それじゃあ頑張ってくれ。その二人だけは命をまもってやってくれよ。
じゃあ、オレは飛行機の時間があるから。」
「へ?あ、あのー!」
翔子が呼びとめる前に、ロックは走り去っていった。
どうやらキキモラ二人を止めに来た者だと勘違いしたらしい。
人ごみの中へ消えて行くロックを見送りながら、翔子はキリュウに言った。
「ロックさんあたし達の事誤解したんだな。
ま、いいや。こうして住所ももらえたんだし、さっそくでかけようぜ。」
しかしキリュウは難しそうな顔で考え込んでいた。
しばらくぶつぶつと言っていたが、やがて顔を上げてこう言った。
「翔子殿、本当に最初の目的で良いのか?ロック殿の言うように守ってあげる方が・・・」
「キリュウ!」
キリュウの言葉を翔子はさえぎった。そしてキリュウの肩に手を置いて言う。
「あの黒い影が言ってただろ。死ぬ運命だった人間が生きているのは良くないって。
そりゃあ、あの阿沙みどりさんのおかげで、キムさんて人は助かったわけだろうけど、
やっぱりこのままじゃいけないよ。世の中には運命に逆らえない人なんて数え切れないほどいるんだ。
だから一部の人間だけが逆らえるなんてことはいけないと思う。
・・・あたしの言いたい事、解ったか?」
翔子の訴えるような瞳に、キリュウはうなずいた。
「わかった。翔子殿がそう言うのなら、私も何も言うまい。
ではさっそく向かうとしよう。まずはどう動けば良い?」
「そうだな・・・げ!かたっぽは北海道か。こっちにしよう。」
そして石を持つ人物のもとへ向かう二人。
お金がないので、キリュウの短天扇で飛んで行く事に。
結構な時間を要したが、無事に目的地がある町に到着した。
「ふう、疲れた。早く探そうぜ。」
「翔子殿、少しどこかで休ませてくれ。私はくたくただ。」
長時間の飛行はキリュウには相当つらかったのだろう。声にも力がなく、へなへなと座りこんだ。
ここに来る途中にも休憩は何度かとっていたのだが、やはりキリュウには堪えた様だ。
「しょうがないな・・・よし!」
翔子はキリュウの目の前に、背を向けてしゃがみこんだ。
「おぶってやるよ。あたしの背中に乗りな。」
驚いた顔をしてキリュウはそれに応える。
「良いのか?翔子殿も疲れているのではないのか?」
「遠慮するなって。ほら、早く。」
翔子に催促され、キリュウは背中におんぶしてもらった。
お決まりのように、顔を赤くするキリュウ。翔子は気にもとめていなかったが。
何分か歩いて目的の家に到着した。家と言うよりはアパートで、部屋はその二階である。
「・・・なんかぼろっちいな。こんな所に居るのか?」
階段を上がり、部屋の前でキリュウを背中から降ろしてドアをノックする。
と同時にドアが開き、中から一人の中年の男が怒りながら出てきた。
「とにかく!早く家賃を払ってくださいよ!」
その男は翔子とキリュウをじろりとにらんだかと思うと、不機嫌そうに階段を下りて行った。
そお〜っと部屋の中を覗く翔子。
部屋の中はものすごく汚くて、たくさんの紙くずといったものが所狭しと散らかっていた。
何枚もの絵が置かれてある。どうやらここに住んでいる人は画家のようだ。
しかし、肝心の画家の姿を翔子は見つける事が出来なかった。
「おっかしいなあ。なんで誰も居ないんだ?」
翔子がきょろきょろとしていると、キリュウが部屋の隅のベッドをすっと指差した。
「翔子殿、あそこに座っている人はそうではないのか?」
「へ?あれ、大きなゴミじゃないの?」
とその時、二人に気付いたゴミ・・・もとい、画家が立ち上がった。
少なくとも40代に見える男性である。
黒髪のぼさぼさ頭、何日もそってないような髭。
服もぼろぼろで、あちこちに絵の具の汚れがつき、つぎはぎが何箇所にもされてある。
首にはチェック柄のマフラーを巻いていた。
「なんだい君達は。おれに何か用?」
ゴミじゃなかったんだ・・・と思いつつ、翔子がそれに応えた。
「あのー、ちょっと話があるんだけど、聞いてもらえないかな。」
「いいよ、散らかってるけど中に入ってくれ。」
そして部屋の中に招かれ、二人はベッドに腰掛けた。
そこで翔子が、これまでのいきさつをうまく説明する。
男は最初は“石”という言葉にビクっと反応していたが、すべての話を聞くと、
ふうとため息をついて、首から糸でぶら下げてある石を取り出して言った。
「そうか、この石をねえ。以前のおれなら必死で逃げ回ってただろうけど、今はもう・・・。」
かなり落ち込んだ表情でつぶやく男に、翔子は訊いてみた。
「なあ、なんでそんなに暗いんだ?生きたいとは思わないのか?」
その言葉に、さらに力なくうなだれて男は応えた。
「見ての通りおれは画家。でもな、俺の絵はいつまでたっても認められないんだ・・・。」
するとキリュウがすっと立ち上がり、一枚の絵を手にとった。
きゅうりだかへちまだかわからないような形の顔に、
目や口といった顔の部品をつけただけのような絵である。
それを見て翔子が笑い出した。
「ぷっ、なんだよそれ。ただの落書きじゃねーの?・・・あははは。」
キリュウは笑わなかったが、翔子の笑いを止めずに、そっけなく言う。
「こんな意味不明な物を認めろというのが無理な話ではないのか?私にはさっぱり理解できぬ・・・。」
しかし男は、怒りもせずにこう言った。
「それ、さかさ。」
「さかさ?」
言われてキリュウが上下をひっくり返す。しかし・・・。
「どっちにしたっておんなじようなもんじゃないか。やっぱり落書きだ。」
翔子の言葉に、キリュウも続いて言う。
「まったくだ。努力は認めてもよいかもしれぬが、こんな訳の分からぬ物は・・・」
「なんだと!?」
突然男が大声を出して立ち上がった。・・・と思ったら力なく座りこんだ。
「そうなんだ。モジリアニやゴッホみたいに、
死んでからじゃないと俺の絵は価値が出ないのかも・・・。」
翔子はその様子を見て、心の中では“そんな馬鹿な”と思いつつも、
申し訳なさそうに男に言った。
「ごめんよ、けなしちゃってさ。でもさ、死んでから価値が出てもしょうがないって。
とまあそれはさておき、少しお金貸してくんないかなあ。北海道へ行かなきゃならないから。」
そう、本来ならこの男の家で、キキモラ二人が来るのを待っていたかったのだが、
この汚い部屋で待つなんてことは出来そうにない。しかもいつ現れるかが分からないのだから。
というわけで、もう一人の方で待とうと翔子は考えたのだ。
しかし男は、翔子の方を見ながらあきれたように言った。
「お嬢ちゃん、家賃も払えないようなおれが、飛行機代なんて貸せると思う?」
「・・・確かにそうだよな。でもなあ、キリュウ、すぐに出かけるのは無理・・・だよな。」
キリュウは手に持っていた絵を置き、落ち着いて答えた。
「無論だ。今日はもう休まないと・・・。」
そして考え込む翔子とキリュウ。二人のそんなやりとりを聞いていた男は、こう提案した。
「だったらここに泊まっていけばいいよ。狭いベッドで悪いけど、
君達二人なら一緒に寝られるはずだ。おれは床で寝ることにするから。」
翔子にとって、泊めてもらえるかどうかが問題ではなく、
ここに泊まる事が問題ありと思っていたのだが、翔子が言うより先にキリュウが応えた。
「そうか、それはありがたいな。翔子殿、ぜひ泊めてもらおうではないか。」
「あ、いやその、無理にここじゃなくても・・・。」
翔子は反論しようとしたが、キリュウの目を見るとそれは出来なくなった。
たった一日でここまで来れたのはキリュウのおかげなのだから。
「決まりだな。それじゃあなにか飯でも食いに行くとするか。」
男の言葉に、翔子は窓の外を見た。確かにそんな時間、すなわち夕暮れである。
「なあ、飯食いに行くのは良いんだけど、おじさんお金持ってるの?」
心配そうな翔子の声に、男は明るい声でこう言った。
「一人分のラーメン代ならなんとかね。」
やれやれと翔子は肩をすくめた。
(よくそんなんで飯食いに行こうなんて言い出すなあ。
ま、別におごってもらおうなんて思っちゃいなかったけど。)
「あたし達は飯代くらいはちゃんと持ってるから。じゃあ行こうぜ。」
そして外へ出かける三人。食べたのはもちろんラーメンである。
男と翔子と会話をはずませていたが、キリュウは一人物思いにふけっていた。
最近の食生活について思ったのである。
(なにかとあればラーメンだな。確かに手軽で良いと思うが・・・。
ふーむ、今度シャオ殿に相談して、試練にでも使ってみようか・・・。)
そして部屋に戻る。翔子とキリュウの二人は疲れていたこともあり、
さっさとベッドで眠らせてもらう事にした。
「じゃおやすみ。」
そして静かな夜が訪れる・・・。
ちなみに、朝といっても昼近い時間である。この男の起床時間は特に決まっていないようだ。
「よく寝るなあ、二人とも。ふあ〜あ。」
大きなあくびをする翔子。その時、こんこんとドアをノックする音が聞こえてきた。
「客かあ?おーい、おじさん。起きろって。」
しかし男は起きない。小さないびきをかいたまま眠ったままだ。仕方なく翔子は、
「やれやれ。それじゃあ、あたしが親切心で出迎えてやるとするか。」
と、寝起きの顔で入り口のドアを開けた。
「はーい。どちらさま?」
立っていたのは、白い服に黒マントで身を包んだ子供の男女。
男の方は黒髪で、額と前髪の際の輪郭に、角張ったMの字が書かれてある。
女の方は茶髪で、男の方とは違って丸みを帯びたMの字を逆さにしたような文字であった。
しばらくの沈黙の後、少女の方が口を開いた。
「あなた誰?ここに住んでる人じゃないわね。」
続いて少年の方も口を開く。
「とりあえずお邪魔しても良いですか?石を返してもらわなといけないから。」
そう、この二人こそ、例のキキモラである。
翔子はへえーとうなずき、二人をどうぞと中へ通してやった。
「「おじゃましまーす。」」
ごみごみした部屋に入る二人。しかしその来客にも、相変わらずキリュウと男は寝ていた。
それを見た翔子は、一人で話をしようと、ベッドに腰を下ろしてこう告げる。
「あんた達キキモラだろ?持ってる石を受け取ってこいって、黒い影に言われたんだ。
というわけで今まで集めた石を渡してくんないかな。」
単刀直入に告げる翔子に、キキモラ二人は驚いて立ち尽くす。
やがて少年の方がそれに応えた。
「ボスに、会ったんですか?あなたはキキモラじゃない・・・一体どうして?」
「詳しい事情は言えないんだ。とにかく渡してよ。」
片手を差し出して催促する翔子。しかし少女の方は厳しい顔でこう言った。
「あんたがボスに頼まれたって証拠を見せてよ。でなきゃあ信用できないわ。」
そこで翔子は腕を引っ込めた。
よくよく考えてみたら、頼まれたと言われてはいそうですか、
と渡してもらえるほど簡単な事ではないはずだ。
しかしここで負けるわけにはいかない。頼まれ事を済ませない限り、もとの世界には帰れないだろう。
とりあえず寝ている二人を起こすことにした。
男はキキモラ二人が来たという事で、すぐに飛び起きた。
キリュウも、目的の二人が来たという事で、すぐに目を覚ました。
男から石をもらうのは後回しにして、石を渡す渡さないの言い争いとなった。
「だからあ、あんたらのボスに頼まれたの。それじゃあダメなの?」
「ダメよ。だいたいどこかで盗み聞きしてたって可能性もあるわ。あたいは信用しないからね。」
「・・・どうすれば信用してもらえるのだ?」
「だから、頼まれたっていう証拠を見せてください。俺達二人が納得するような。」
しばらくの言い争いの後、双方とも疲れたのか、しんとなった。
それを狙っていたかどうかは定かではないが、キリュウがぼそりと言った。
「翔子殿、証拠を頼む・・・。ふふ・・・。」
“ボカ!”強烈なげんこつがキリュウの頭にヒットした。たまらず殴られた所を押さえるキリュウ。
「よーし、そんなに言うんならこの翔子様が証拠を見せてやる。
悪いなおじさん。あんたはやっぱり死ぬ運命にあるようだ。」
そして男の方に向く。嫌な予感がしたのか、男はぶんぶんと手を振った。
「ま、待ってくれ。せめて死ぬ前にお願いを一つ聞いてくれ。」
「お願い?」
「そうとも。あんたら死神の使いなんだろ?だったら30年後を見せて欲しいんだ。
おれの絵がどんなに価値が出ているのか知りたい。」
突拍子もない頼みごとに、二人のキキモラが顔を見合わせた。しばらくの後、少年の方が言った。
「分かりました、ボスに頼んでみます。」
「ほんとかね、きっと、頼んだよ。」
そして翔子が待ちくたびれたように言う。
「もういいか?」
「ああいいとも。お嬢ちゃん、やってくれ。」
「じゃあいくぜ。キ・キ・モ・ラ!」
翔子がキキモラと唱えると、男の首にぶら下がっていた石がすうっと浮き上がった。
かと思ったら、だらんと元の状態に戻った。
それを見て首を傾げる翔子。
「あれ、おっかしいな。
これを唱えると石が手元に来るってあの影は言ってたのに・・・。」
そして拍子抜けしていた男が言った。
「あの、おれが直接手で渡したほうが・・・。」
「そうですね。じゃあ石をください。」
男が少年のキキモラに石を手渡す。
「うう・・・おれは今死ぬ!!永遠の芸術のために・・・。」
そして男は息絶えた。
「・・・本当に死んだの?」
翔子の問いに、少年のキキモラが答える。
「ええ、生命の石を手放しましたから。
それより、やっぱりボスに頼まれたんですね。おれは信じますよ。」
どうやら、キキモラという言葉で石が動いた事が証拠となったようだ。
少女のほうも驚いて言った。
「まさか本当に頼まれてたなんてね。はい石。」
石を手渡された翔子を見ながらキリュウが言った。
「だから翔子殿が証拠を・・・」
“ごん!”再びげんこつがキリュウを襲った。
さっきと同じように頭を押さえるキリュウ。
「さてと、くだらねーしゃれを言うやつほっといて、報酬をもらおうか。」
「報酬?」
翔子の言葉に、目を丸くして言う少年のキキモラ。
それに翔子が答える前に、キリュウが横から言ってきた。
「まったく、自分だって言ったくせに・・・。」
“ばきょお!!”三度目のげんこつがキリュウの頭を直撃する。
今度はキリュウは横に倒れてしまった。
倒れたキリュウのそばに、少女のキキモラが寄る。
「あんた達っていつもこんなどつき漫才やってるの?なかなかおしゃれねえ。」
「何がおしゃれなんだよ。これは試練なの。そんな事より報酬くれよ。
あんたら二人から報酬をもらえってあの影に言われたんだから。」
本当は少し違うのだが、面倒くさいので翔子はそういう事にした。
翔子の言葉に考え込むキキモラ二人。
当然の反応だ。報酬なんて用意しているわけが無いのだから。
やがてキキモラ二人は、ごにょごにょと相談をしだした。
しばらくの間それは続き、それが終わるとすっくと立ち上がった。
「おっ、決まったのか?何をくれるんだ?」
翔子の期待に満ちた声に二人のキキモラはにっこりしたかと思うと、
素早く翔子の持っていた石をひったくって部屋の外へ飛び出した。
「ああっ!!ちょっと待ておまえら!!」
急いで翔子も外へ飛び出す。
しかしそのころには、キキモラ二人は遠くのほうへ逃げていく途中であった。
その速さは尋常でなく、とても翔子が追いつけるようなものではなかった。
「ちっくしょう、逃がしてたまるか!!おいキリュウ!!」
すぐさま部屋へ引き返した翔子だが、
キリュウは頭を押さえながらうんうんうなっていた。
さすがに三発目は聞いたらしく、とても今すぐに動ける状態ではない。
「こりゃダメだな。はあーあ、無駄骨かあ・・・ん?」
翔子はあの二人が座っていた辺りに、石のかけらが落ちているのに気が付いた。
かけらと言っても、指先でつまめる程度の大きさのものだったが。
「これを報酬にしとくか。キリュウ、帰ろうぜ。」
相変わらずうなっているキリュウ。
キリュウが動けるようになるまで、翔子は男の死体をベッドに寝かせてやった。
「不思議なもんだな。昨日一緒に食事したと思ったら、もうお別れだなんて・・・。
未来か・・・。有名になってるといいな、おじさん。」
しばらくして、ようやくキリュウが立ち上がれるようになったようだ。
男にさよならを言い、キリュウを連れて家を出る翔子。
そして二人は念じた。そこは誰にも見られていない場所だったので・・・。
キリュウは少々の試練、
そして余計な事は言わないほうが良いという知識を改めて得た。
翔子は、
「この石、大事な記念品だな。いやあ、いい体験ができた。結構結構。」
と上機嫌であった。
余談だが、二度とこの世界に来れない事を二人が知ったのは、後の話である。