潮っ気と太陽の匂いが混ざった、爽やかな風が吹いている。今日もネオアドリア海は穏やかに凪ぎ。それを臨む水先案内店であるARIAカンパニーにはのんびりとした時間が流れていた。
「今月の予定は、っと……」
カレンダーを前にスケジュールをチェックする灯里。傍にはアリア社長。ごく普通の、いつもの会社風景である。そのカレンダーが見せているのは14月。アクア・アルタも過ぎた、季節的には夏真っ盛りである。
「ぷいにゅーい」
「どうしたんですかアリア社長?」
「ぷいぷい」
「え? あ、お客さん……」
チェックに夢中になっている灯里を気付かせたアリア社長の視線の先には、一人の女の子。丁度カウンターに両腕を置いた状態で、灯里とアリア社長をじいーっと見ていた。透き通るような瞳を持つその顔は、年齢は12くらいといったところか。服装は透き通るように白いブラウスとカーディガンが実に涼しそう。紫がかった黒髪はとても長く、灯里の位置からはまだ先まで見えない。だが、最も特徴的なのは長さではなく、灯里と同じく、顔の横に伸ばして二本にまとめている髪の毛。その途中には鈴のようなもの……響無鈴を付けていた。
「いらっしゃいませ」
「お主、うんでぃーねであるな?」
「は、はひっ?」
いつもの営業挨拶を告げる。と、確認するようにその女の子は尋ねたたのだが、その返事で灯里は声がうわずった。見た目からは想像もつかない口調が飛び出したからである。“お主”などと呼ばれた灯里は、ついつい疑問で返してしまったのだった。
「違うのか? ここは、ごんどらを漕いで観光案内をするところではないのか?」
「い、いえ、そうです、けど……」
ついついどもり、もごもごと言葉を濁らせてしまう。その隣で、アリア社長がぷいぷいと声援を送っている。それに気付いてか、灯里は気持ちを改めた。そう、今はお客さんの対応をしているのだ。
「ならよいではないか。お主に早速観光案内を頼みたい。人数は三人だ」
ふふん、となぜかしら胸をはってその少女は注文を告げる。――いきなりの依頼。灯里にとっては直々のご指名という事で非常に嬉しい事のはずなのだが、それよりは別の事情が彼女の心を先行した。やや緊張して、その事情をつとつとと説明し始める。
「えーと、私はまだ半人前でして……一人前の指導員が同乗しないとお客様をお乗せする事ができないんです」
「なんと、そうなのか?」
「ええ。もちろんちゃんと一人前の方は居るので……あ、呼んできますね」
すぐさま踵を返そうとする灯里。が、その女の子は待ったをかけるように手をあげた。
「いや、構わぬ」
「ほへっ?」
「お主は余と似た髪形をしておるからの。決めた、お主がごんどらを漕いで余を案内いたせ。いや、余達かの」
「え、いえ、あの……」
「一人前のうんでぃーねが一緒ならば大丈夫なのであろう?」
「は、はぁ、そうですけど……」
「なら問題はあるまい。しっかりがいどをするがよい」
「は、はひっ」
いわゆるこれは灯里に対する指名だ。事情を説明した後の、それでもなおのご指名。人物の指名。立て板に水のような指名言葉に、灯里が用件を飲み込むには多少時間を要した。ようやく心の底にいきついた後に、灯里の奥からじわじわと、緊張と喜びの入り混じった複雑な感情が沸いてきた。
普通ならばなんと喜ばしいことであるのだが、動機が“髪型が同じである”というなんともとってつけたようなところが、納得いかない部分であろう。それでも灯里にとってはこの上ないくらいに嬉しいところ。隣でアリア社長がおめでとうの鳴き声をあげている。思わず灯里は飛び跳ねてはしゃぎまわりたい衝動にかられるのであった。
……が、感慨に浸っている場合でもない。とりあえずは、ここARIAカンパニー内の唯一の一人前ウンディーネであるアリシアを呼ぶのが先決であろう。
「ぷいにゅっ」
「え? アリア社長が呼んできてくださるんですか?」
「ぷいぷい」
「じゃあ、お願いしますね」
「にゅっ」
どんっ、と胸を張った後にアリア社長はアリシアの元へと駆け出していった。それと同時に、別方向から誰かが走る音が聞こえてくる。
「神奈さまぁ〜」
ぱたぱたぱた、という騒がしい音と共にその主はすぐ姿を現した。服装は女の子と似たもので、薄い緑のブラウスにスカート。白いレースの上着に垂れた、しっとりとした長い黒髪が際立つ。駈けてきたはずであるのに、息一つ乱していないその顔は、実にしっかりと、それでいて優しい女性の面持ち。すべてを捉えんばかりの目と、すらっとした鼻が美しさを醸し出させる。小さなショルダーバッグを、華奢に見えるその肩にかけているが、それも随分と控えめな色だ。
「おお裏葉か。ふふっ、一足遅かったの。たった今余がうんでぃーねの予約を入れたところであるぞ……!?」
がしっ
灯里が一瞬姿を確認したかしないかの刹那、その裏葉と呼ばれた女性は、女の子……神奈を両の手で、これでもかといわんばかりにしっかりと抱きしめた。
「まったく、一人で勝手に走ってしまわれて……裏葉は随分探し回ったのでございますよ!? 少しは大人しく行動なさってくださいませ!」
「ええい、離せ、離せというに……暑苦しい、離さぬか!」
じたばたじたばたと暴れながら、必死に神奈は訴える。ひとしきり抵抗した後に、ようやく裏葉は拘束を解いた。彼女の服に、くっきりと抱きしめた後が残っている。
「ふう、ふう、まったく……裏葉はいつも説教ばかりであるな」
「それはお前が一人自由行動しすぎるからだろ」
更に新たな人物の登場。今度は男性。端正な顔立ちに、ポニーテールにしたすらっと長い銀髪が映える。白のポロシャツと青のジーンズという至ってごく普通と表現したくなる格好であるが、何故か似合って見えない。灯里としては、呑気な声を発しながらも決してのんびりと構えていなさそうなその瞳が気になるところであった。
「柳也殿、お主はいつもぶしつけに現れおるの」
「事実を言いながら普通に登場しただけだが……っていうかさっきまで一緒にいただろ?」
「ええいやかましいわ! 第一、お主は気遣いというものがなっておらぬ。何故余が予約をしておるのだ。家臣であるおぬしの役目であろうが」
「いや、裏葉じゃないのか? いやその前にだなぁ、お前が勝手に突っ走って……」
「ふ、余が本気を出せばこんなものよ」
「お前言ってること無茶苦茶だぞ……」
灯里にとって聞きなれない言葉が、口調が飛び交っている。とりあえず三人の名前はそれぞれ分かったが、あまりにも現代人らしくない。そのまんまではるが、例えれば昔の人。
さっきからそれをじっと聞いてはいるが、口を出す機会がなかなか掴めなかった彼女であるが、ようやく会話が途切れたここぞとばかりに、ひとまず言葉を入れる。
「あのぅ、ご家族の方ですか?」
「あ? ああ、うん、まぁそんなとこだ」
ついつい尋ねてみた灯里に対し、柳也は苦笑を交えながら返す。家族とは応えたが、灯里が思っている家族とはまた違っている。父母と子供、という関係ではどうもなさそうだ。それは、やりとりと呼び方から灯里にも十分わかった。
ただ、それとは別にどうもその口調にしっくりこない。奥底で納得いかない顔をしていたのだろう。それを察知したのか、裏葉は少しばかりと余談を始めた。
「うふふふ、本当は神奈さまには十二単を……といったお召し物をと思ったのでございまするが、何分ここでは目立ちますゆえ、柳也さまともども、斯様な格好と相成りましたのでございます」
「へ、へえ、そうなんですか?」
「裏葉の言うとおりでな、実際俺もこの服は着慣れていない。まぁそんなことはどうでもいいことだが……」
「ああっ、ほらほら神奈さま、汗が垂れておりまする」
自ら出した話は終わったと判断したのだろうか、裏葉は別の方に即向き直る。
「ええいっ、斯様なものをいちいち構うでないっ。第一それは裏葉がさっきひっつきおったからであって……」
「一人で走って滑って転んで海に落ちやしないかと、裏葉は冷や冷やしたのでございますよ?」
「お主は余を何だと思うておるのだ!」
腰をかがめた裏葉が、バッグから取り出したハンカチで神奈の額を拭う。それから逃げるように顔を動かす神奈だが、結局は裏葉の手によってしっかりと拭かれるに至った。
「それにしても神奈さま、どう予約をなさったのですか?」
「ああそれはだな、ここにいる……そういえばおぬし、名は何と申す」
“名前くらい聞いとけよ”とツッコむ柳也を尻目に、神奈は灯里に答えを急かした。咄嗟のことに戸惑いながらも、灯里はなんとか口を開くに至る。
「水無灯里、と申します」
「だそうだ。裏葉、余はこの灯里殿に観光案内を依頼した」
「まあまあそうだったんですか」
神奈の汗を拭き終わったのか、裏葉はすっくと立ち上がった。そしてふかぶかと灯里に向かって頭を下げる。長い黒髪が、さらさらと揺れた。
「本日は観光案内のほど、よろしくお願いいたしまする」
「い、いえっ、そんな、こちらこそ」
慌てて灯里もぺこりとお辞儀。桃色の髪が忙しなく跳ねる。裏葉とはえらい違いだ。
「すいません、お待たせしました」
「ぷいにゅ〜」
神奈が予約時の情景説明を話す、というやり取りをしているちょうどその時、アリシアがカウンターへと顔を出した。呼びに行ったアリア社長も一緒である。もちろん彼女自身、指導員としてゴンドラへ同乗する準備もばっちり整っていた。
「貴女様は、ええと……」
「アリシアと申します」
「アリシア様ですね、私は裏葉と申します。本日はよろしくお願いいたしまする」
登場したアリシアに裏葉は目線を合わせる。かと思いきや、すぐに自己紹介して素早くふかぶかとそれにお辞儀する。合わせてアリシアも頭を下げた。
「あらあら、ご丁寧にどうもありがとうございます。」
互いにふかぶかとする仕草が、実に丁寧なようでまどろっこしいようで、見ている側は何かしら落ち着かない。が、アリシアはそこでふと、と首をかしげた。
「あらあら? えっと、灯里ちゃんが指名されたんじゃなかったんでしたっけ?」
「そうだぞ! こら裏葉、勝手にことを進めてはいかんぞ」
咎めるように口を挟む神奈ではあったが、裏葉は既に承知の顔を神奈へと向けた。
「それは既にお聞きになったではありませぬか。私は、指導員として同乗されるアリシア様にご挨拶を申し上げただけにすぎませぬ」
「そういう事でしたか。すみません、早とちりをしてしまって」
神奈が言葉に納得するより、アリシアが素早くお詫びの言葉をかけた。それに反応するように、裏葉もまた顔を向き直す。
「いえいえ、アリシア様が謝ることではございませぬゆえ、どうかお気になさらず」
「うふふ、ありがとうございます」
何故かほんわかした笑い声が巻き起こる。その笑い声を聞きながら、神奈ははてと首を一つ傾げた。そもそも、“灯里に依頼をした”としか説明を行わなかったのに、裏葉がどうやってアリシアの事を察知したのかは、これまた一つの謎でもある。が、このまま笑い合っていてもしょうがないので、場を改めるように、彼女は咳払いを行った。
「おほん、とにかく余の指名だ。この……えーと、灯里殿と申したな、お主に今日のごんどら漕ぎを申し付ける。アリシア殿は付き添いであったな。しっかり案内するのだぞ」
やや緊張の詰まった空気が辺りを少し埋める。客人らしいといえば実に客人らしいのだが、物言いが実に上である。そんな彼女につかつかと近づき、柳也はすっと腕を振り上げた。
ぽかっ
「あいたっ! 何をするか柳也殿!」
「お前はえらそーにしすぎだ。……失礼したな、ちょっとこの神奈はこういう口調が身についてしまっていてな、気を悪くしないでくれ」
“まったく……”という顔をしながら侘びを入れる柳也に、灯里はぶんぶんと首を横に振った。
「そんな、気にしてませんよ。お姫様を案内するみたいで楽しいです」
「そうかそうか、気を楽に存分に楽しむがよいぞ」
灯里のにこやかな一言に、神奈は胸を張る。あらあらまぁまぁと笑う裏葉、そしてうふふと笑うアリシア。その隣で、アリア社長がぷいにゅっ、と気持ちのいい声を鳴らす。
沸いている面々を他所に、柳也はぽつりと声を漏らした。
「お姫様か……実際はそんないいものでもないのだがな……」
「何ぞ申したか柳也殿」
「いや別に。さあてと、それじゃあ早速観光案内に出発してくれるのか?」
ちらっと目でゴンドラを、そしてネオ・アドリア海を追う柳也。習って神奈や裏葉も視線をずらす。その向こうには、まばゆいばかりの青が広がっていた。
「はひっ。この水無灯里がお客様をご案内いたしますっ。まだまだ半人前ですが、どうぞよろしくお願いしますっ」
ぺこり
深い深いお辞儀を灯里は行った。今更ながらに緊張感が沸いてきたのである。指名されたこと、そして今から正にその案内が始まるのだという事を認識して。
「あらあら、灯里ちゃんしっかりね」
「はひっ。今日はよろしくお願いしますっ!」
ぺこり
付き添いの指導員となるアリシアに対しても、これまた深いお辞儀。緊張をほぐそうと声をかけただけなのに、より大きな反応に対してアリシアはまたも“あらあら”と微笑みで返す。
そんな律儀な姿勢に、神奈は感心の念を浮かべた。
「うむ、殊勝な心がけよの」
「はひっ、ありがとうございますっ」
ぺこり
三度目。客の言葉にもかなり敏感なのが見てとれる。ますます神奈は感心し、そして裏葉もその姿に笑顔満載。ただ一人柳也だけは“大丈夫か……?”と少しだけ心配になるのであった。
◆◇◆◇◆
「ではお客様、お手をどうぞ」
「うむ、済まぬな」
灯里の差し出す手に、神奈がぎこちない仕草で手を乗せる。普段から裏葉といった身近な人物に手をとられたりはしていたりするのだが、こうしてお客様と呼ばれつつ差し出された手はなぜかしら別格に見える。だが、対する灯里は更なる緊張度で、これまたぎこちない仕草なのである。指導員であるアリシア、そしてアリア社長は先にゴンドラに乗り込んでそれを見守っているが、いざとなればすぐに手助けができるようにと気は構えている。もちろんそれを客に悟らせるわけでもなく、あくまでも自然体に。
「よっ、ほっ、う、うわわわっ」
なんとか神奈をゴンドラに招き入れる。が、その瞬間に神奈の体がぐらりと揺れた。慌てて両手を広げ、羽を持ち上げた鳥のような格好をしながら重心を調整しつつバランスをとる。
「お、お客様、大丈夫ですか?」
「う、うむ。結構揺れるものだの……」
危なっかしいながらも神奈はなんとか舟に乗る事ができた。中の腰掛にぽふっと座り込む。それをほっとしながら見送ると、灯里は更に次の客を招き入れようと手を伸ばした。
「ではお客様も」
「あらあらまぁまぁ、私もでございますか?」
「え、ええ、はい」
「それではよろしくお願いいたしまする」
私も、などとおかしな事を言う裏葉。が、実のところはゴンドラに乗る乗らないの話ではなく、灯里に手をとられてどうこうという事だ。神奈と同じように接してもらえるとは思っていなかったのだろうか。
ともあれ、先ほどの神奈とにあったぎこちない動作も揺れもなく、難なく乗り入れる。裏葉は、神奈の隣へと腰を落ち着けた。二人が向いているのは舟の進行方向。丁度、灯里が立つ位置のすぐ下だ。
「では最後のお客様」
「なんだ、俺もか? 俺は大丈夫だぞ、これでも100艘の舟を飛び移った逸話がだな……」
「柳也殿、くだらぬ話をしていると置いていくぞ」
軽い冗談、のつもりで話し始めた柳也をあっさり神奈が一刀両断した。涼しい顔の彼女に対し、柳也の顔は実に引きつっている。
「お前な……」
「無駄に時間をかけるから灯里殿が困っておるであろ。はよういたせ」
見ると、差し出した手をどうしようどうしようと、神奈と柳也を交互に見る灯里の姿があった。それを見守るアリシアも、あらあらとちょっぴり心配そうに見つめている。
「それもそうか……済まないな」
「い、いえっ」
よいしょ、とこれまた難なく柳也は舟に乗り移る。話しかけていたことはただの冗談ではなかったのかもしれない、と思うくらいに。彼は彼で、舟の進行とは逆方向、丁度アリシアとアリア社長が座っている位置を越えた辺りへと腰掛けた。
「柳也殿、何故そんな離れた位置に座るのだ?」
「こうすると皆がよく見えるだろ。それに、進行方向と逆となればまた違う景色を堪能できるというものだ。ちょいと体をひねれば前も見えるしな。そう気にするな」
「ふうむ……?」
特に狙いがあったわけではないのだろうか。神奈自身も首を少し傾げた程度で、それ以上追求はしなかったが。
「それでは、出発いたしますね。まずはサン・マルコ広場の方へ向かいます。それまでしばし、ネオ・アドリア海の景色をご堪能ください」
全員が無事に定位置に着いたことをたしかめると、灯里は漕ぎ位置へと立ち、オールを握り締めた。それを笑顔で見守るアリシア。静かに一つだけ頷くと、灯里はオールをゆっくりと動かし始めた。
静かに、五人と一匹を乗せたゴンドラが青い海原を滑り出す。灯里による前挨拶の穏やかな声、爽やかな風と共に流れ見える景色が、既にため息ものの世界を作り出していた。
「おお、おお……これが、これが海なのだな……」
早速、神奈が感嘆の声を漏らす。以前話に聞いた時から、彼女が切望してやまなかった海が眼前に広がっている。しかもここは海の上。少しゴンドラから身を乗り出して腕を伸ばせば直に触れられるのだ。危ないからという事でそれはさせてもらえないが。
「神奈さま、海ならここへ来る前にも沢山見たではございませんか」
「いいや、違うぞ裏葉。こうしてまさに海の上で海を見ておるのだ、今は。贅沢の極みよのう」
「あらあらまぁまぁ、神奈さまが斯様な事を申されるなんて……。神奈さまがご機嫌で裏葉は大層うれしゅうございます」
嬉しいといいながら、何故か裏葉は涙を流し、それをそっと指で拭っている。
「嬉し涙ってやつか? 大げさな奴だな……」
ほんの少し呆れの混じったため息を柳也が吐き出す。が、心地よい風と流れる景色、また、大海原を見てはしゃぐ神奈に、悪い気はしない。次第に心が落ち着き払い、つい目を閉じてうっとりとしてしまう。
「ぷいぷい?」
「ん? …お、なんだお前は」
眠った、と思ったのだろうか、アリア社長が傍にぴたりと身を寄せていた。まだ出発して十分と経っていないのに、随分と早く眠りに入ろうとする客人に、アリア社長は不思議でたまらなかったのだろう。
「そういや、舟に乗る前からいたな……」
「ぷいにゅ!」
率直に表現するならば、白いぷにぷにした動物……を柳也は不思議そうな目で見返した。どっちもどっち、といったところかもしれない。
「お客様、そちらはわが社のアリア社長でございます」
にこにこと、アリシアが紹介を入れる。しかし柳也は一瞬事態が飲み込めなかった。アリシアと、そしてアリア社長と、交互に交互に、何度も一人と一匹の顔を見やる。
「猫が社長?」
「あらあら、柳也さまったら。もうお忘れになったんですか?」
更なる解説を求めようとした矢先に、裏葉が言葉を挟んだ。が、柳也としては少々戸惑い気味。
「何の話だ裏葉」
「うふふふ、こちらに来る前に申し上げたではございませんか。ここアクアでの水先案内店は、仕事の安全を祈願して、アクアマリンの青い瞳を持つネコを社長にすると。また、火星ネコは人並みの知能があるということも」
「ほう、そういえばそうだったか……いや、俺は聞いてないぞ。神奈には話したんじゃないのか?」
「それが、神奈さまははしゃいで上の空であられまして……よもや柳也さままでお聞きあそばされてないとは、裏葉は悲しゅうございます……」
よよよよ、と目の幅涙を流し始める。やや慌て気味に、二人のウンディーネがそれを慰めにかかると同時に、まったく蚊帳の外にいた神奈が舟内に視線を戻した。
「ん? 柳也殿、その傍にいる者は何者だ」
困ったな、とぽりぽりとばつが悪そうに頭をかく柳也に声をかける。彼女の興味の対象は彼の足元いるアリア社長。が、その彼はてこてことゴンドラ内を歩き始めていた。
「さっきの話聞いてなかったのか? アリア社長といってだな、この…」
と、柳也が言い切るより早く、アリア社長は神奈の元へ。ぴょこん、と顔を持ち上げると同時に、神奈も体を折り曲げて目線を下げた。
「ふうむ、そういえば灯里殿の傍にいたの」
「ぷいぷい」
「しっかしお主は面妖であるの」
「ぷいにゅ?」
「そのような顔では、ろくに他の……ところでお主は何なのだ?」
「ぷい〜。ぷいぷい」
「ふぅーむ、ひょっとして猫かの?」
「ぷいにゅ〜い」
「おお、そうであったか。しかしお主のような猫は初めて見るが……」
「ぷいぷい、ぷいにゅ」
「そういえば裏葉が申しておった。お主、火星猫というやつであるな?」
「ぷいにゅ!」
「ふふふ、そうかそうかそうであったか。にしては、少々太り気味ではないかの。そのような腹では、俊敏に動けぬ。いざという時に頼りにできぬぞ」
「ぷい……」
アリア社長のたるんだお腹に、彼と彼女の視線が注がれたところで会話が一区切り。とここで、いてもたってもいられなくなった柳也がぽつりと尋ねた。
「神奈……お前、言葉わかるのか?」
「なんとなくだ。声そのもので判断せずとも、感覚で分かるものだ」
「ほう……」
不思議といえば不思議。神奈はアリア社長との会話を見事にこなしていた。これには灯里もアリシアもびっくりである。まさか初対面でアリア社長と話ができようとは、非常に意外。いや、実に喜ばしいことであるかもしれない。
「凄いです、お客様」
「アリア社長、よかったですね」
「ぷいぷいにゅ〜」
褒められるという事は悪いものではない。あっという間に顔をほころばせて、照れくさそうに神奈は笑う。
「ふふふ、もっと褒めるがよいぞ」
あまり謙虚そうな言葉が出てこないのはまたご愛嬌。しかし、そんな水先案内店従業員とは別に、裏葉の頭ではまた一つ別の事を思っていた。そして躊躇うことはしない。積極的に神奈へと疑問をぶつける。
「神奈さま」
「なんだ裏葉」
「アリアさまと神奈さま、お声が似てはございませんか?」
ほんの一瞬、水を打ったようにゴンドラ上の空気がしんとなった。何か分からないが、手軽に触れらてはいけないようなものに辿り着いてしまったのかもしれない。
「余と……お主がか?」
裏葉に応えるわけではなく、神奈はアリア社長に向き直った。その目線に、アリア社長もまた鳴き声で応える。
「ぷいにゅ〜い」
「ぷいにゅー」
お戯れ、というやつであろうか。神奈がARIA社長の鳴きまねを入れてみる。と、その後すぐにゴンドラ上で小さなどよめき(とはいっても四人だが)が起こった。
「ほらほら、やっぱり似てございまする」
「あらあら。アリア社長そっくりですね……」
「神奈、もう一度やってみろ」
あれよあれよという間に神奈にリクエストがかかる。というよりは、誰もかれもが“似てる”の一点張り。
「皆して余をからかっておるであろ」
「そんなことありませんよ。本当に似てますってば」
驚きと興味の入り混じった言葉で、灯里が肯定を促す。いや、彼女にしてみればもう一度声真似をやってほしかったのかもしれない。そんな彼女の心を汲み取ってか、アリア社長はどんと胸を張った(実際動作にとったわけではないが)そして、神奈の袖をちょいちょいとひっぱる。
「ん? どうしたのだ。……お主に続けて真似をせよというのか?」
「ぷいにゅっ、ぷいぷい」
「ぷい、にゅっ、ぷいぷい」
「ぷーにゃにゃんにゃん」
「ぷーにゃにゃんにゃん?」
「ぷいーぷいぷいぷーにゃん」
「ぷいぷいぷいにゅ」
「って、お前らいつまでやってんだ」
「「ぷいにゅ?」」
いいかげんうっとうしくなってきたのか、柳也がストップをかけようとする。その頃には、二人はすっかり仲のいい双子とも言わんばかりのコンビネーション。息ぴったりのぷいぷい声が、ゴンドラに明るく響くほどになっていた。
「あらあらまぁまぁ、神奈さまとっても楽しそうにございます」
「うふふ、そうですね。アリア社長もすごく張り切って……」
微笑ましい一人と一匹のやりとりを、輝かんばかりの笑顔にて見守るは裏葉にアリシア。傍目で聞いていた灯里としては、もう一つ思ったことがあった。それは、彼女ら客人がARIAカンパニーにやってきてから、いや正確には全員と対面してずっと感じていたこと。
(裏葉さん、アリシアさんとそっくり……今日はお客さんとそっくりさんのオンパレードです)
くすり、とこそばゆくなるような笑みを漏らし、灯里はオールを漕ぐ手に力をこめた。もうすぐゴンドラは観光の目的となる地へ歩み入る。ゆるやかな波しぶきを伴って、今度は彼女自身の出番到来であった。
◆◇◆◇◆
どこまでいっても穏やか。そうつぶやきたくなるほどの、時間と風景がいくつも流れてゆく。そのうちに柔らかな楕円を描く、屋根つきのリアルト橋が見えてきた。観光案内を受けるうちにいくつもの橋をくぐりはしたが、今までとは一風変わった佇まい、そして橋上から聞こえてくる賑やかな声に、神奈は思わず身を乗り出した。
「あらあら神奈さま、そんなに身を乗り出しては危ないですよ」
「裏葉、あの騒がしいのはもしかして市か?」
興味津々に橋上を指差す彼女に、柳也はため息をついた。
「お前な、そういう事は水先案内人に聞け」
言うと同時に、灯里に案内紹介をしてもらえるようにサインを送った。一瞬遅れながらもそれに反応すると、灯里は自然に声を滑らせ始めた。
「あちらに見えるアーチ状の橋は、リアルト橋といいまして、ここネオヴェネツウィアにおける商業の中心地にかかっております。サン・マルコ広場と並んで沢山の観光客が訪れる場所なのですが、その理由はお客様がお気づきになられたように、階段状になった橋の上に露店や土産物屋が並んでいることによります」
ここで一区切り。徐々に近づいてくる橋の上を改めて見やると、店と思わしきものがいくつも並ぶのがより鮮明になってくる。みるみるうちに神奈の顔がほころんでくる。彼女の高揚したはしゃぎ声を聞きながら、灯里は再び説明を始めた。
「この真っ白い太鼓橋なのですが、マンホームでそれが完成したのは16世紀頃。以前は木製の橋であったりしたのですが、人の重みで倒壊したり火事になったりと、実は数回建て直しをされております。現在の形になった当時は、この造形が周囲に受け入れられず、 “白い巨象”と揶揄されたそうですね」
「ほほぉ……」
うむ、うむ、と感心したように幾度も神奈が頷く。橋上の様子に気をとられて話など聞いてないのかと思えばそうではないらしい。歴史およびそのものに纏わる話に興味があるならばよいことだ、と傍にいる裏葉はたまらず嬉しくなった。
「して、当然あの市に寄るのであろう? どこから上陸するのだ?」
「えっ、と……」
興味津々の顔が灯里へと向けられる。その発言に、裏葉はがくっとうな垂れた。ああ、神奈さまのお目当てはやはり市のみにございますね――と改めて思い知った次第だ。柳也は柳也で、何も言う気にならずになすがまま。水先案内人次第になるだろう、と身を委ねた。
ただ、やはりそこで困ったのはその水先案内人である灯里。リアルト橋については、とりあえずくぐりぬけて更に観光案内の続きへと突入する予定だったのだから。けれども、この屈託の無い顔を見せられては返答に窮するというもの。
どうしよう、とちらりアリシアを見やると、ただいつもの笑顔を向けられる。アリア社長に至っては、神奈の足元でぷいぷいぷいにゅと彼女に同調しているかの様である。
「お主も市を見たいであろ?」
「ぷいにゅっ」
「うむうむ」
“アリア社長ぉ……”と、とほほな面持ち(もちろん心内でだが)になる灯里。が、これも案内の一環か、と腹を決めた。よくよく考えれば、お客様が望んでいるのにそれを拒む理由もない。予定は予定。予定は未定。寄り道なんて当たり前。にっこりそこで営業スマイル、である。(いや、灯里自身が楽しいのかもしれないが)
「ではお客様、少々お待ちください。近くの船着場までご案内いたしますので」
「おお、そうこなくてはな」
「ぷいぷい」
上機嫌で頷く神奈、そしてアリア社長。舟の行き先はすっかり彼女と彼の独壇場のようだ。
さて、と灯里は早速船着場を探しにかかる前に改めてリアルト橋を見やった。活気溢れるその佇まいに、灯里は見知った人影を発見した。長い黒髪をたなびかせ、優雅に歩くその姿は遠目からでも十分に目立つ。ついつい嬉しくなって、灯里は思わず手を振っていた。
「うわああーい、晃さーん!」
一際大きな声。ゴンドラ上の面々はこれまた思わずびっくり。アリシアは“あらあら”と視線を向けると、たしかにリアルト橋上に友人である晃の顔を発見した。灯里の声に気付いたのであろうか、こちらを見やりながら腕を組んでいる。だがその顔は少々ひきつっている(灯里は気付かなかったようだが)小さく手を振りながら、アリシアはこれまた“あらあら”と微笑んだのであった。
「いかがなさいました? アリシアさま」
「いえ……。それより驚かせてしまってすみません」
軽く侘びの会釈をはさむと、アリシアは灯里に顔を向けた。ただ、厳しい顔ではなくいつもの笑顔。ここらへんはいつもと変わらない彼女である。
「ダメでしょ灯里ちゃん。今はお仕事中なのよ、知り合いに声をかけてちゃ」
「あ……ああっ、すいません」
さっきまでの笑顔がしゅんっ、としぼむ。そして灯里は慌てて本来の目的である船着場を探し始めた。その傍ら、裏葉は首を傾げながら再度アリシアに尋ねる。
「あらあら、そのような決まりごとが?」
「決まりごとというほどではないのですけどね」
「うふふふ、なら構わないではございませんか。このような街中で知人と邂逅するなど、滅多にない機会でございましょう。それに、灯里さまは案内を中断して私事を挟んだわけではありますまい。お気になさる必要はございませぬ」
「あらあら、ありがとうございます」
「いえいえ。うふふふ」
あらあらうふふと楽しげな笑い声が舟上を飛び交う。ようやく手頃な船着場を探し当ててえっちらおっちらとゴンドラを漕ぎ出す灯里とは別に、傍でそれらを聞きながら柳也も神奈も、そしてアリア社長も同じことを思っていた。
(裏葉とアリシア……似てるな)
(余とアリア殿、よりもよほどそっくりであるぞ)
(ぷいぷいにゅ)
決して外に出た声ではなかったのだが、灯里の中にはこれでもかというくらいにそれが伝わってきたのであった。
船着場に到着すると、そこに晃が立っていた。客人たちが降りている間は、ただにこやかに挨拶の会釈。丁寧に“姫屋の晃と申します”と自己紹介。ARIAカンパニーの面々とはまた一味違った印象に、客人たちはほぅと心を和ませていたのであった。そして客人を陸上に案内し終え、彼女らが目的の市へ駈けてゆくのを見送った後に、灯里に向かって飛び出た声がこれである。
「すわっ!」
街の雑踏など比べ物にならないくらい一際大きなそれに、灯里は“びくんっ”と体を震わされた。既に客人たちは、目的であるリアルト橋上へと向かい(それはアリア社長も一緒だ)この場にはいない。だからこそこの様な声を晃は発したのだ。いわば、お説教タイムの開始である。
「灯里ちゃん、この前やった指導が活きてないようだな?」
つかつかつか、と傍によるなり恐い口を開け、ぎろっとにらみを利かせる。その鋭い眼光に、思わずたじっとなる灯里。以前、藍華やアリスと共に、この晃に水上実習指導を受けたことがあった。その時灯里は、ゴンドラを漕ぐ遅さと、仕事中に知り合いに声をかけることを厳しく注意されたのだが……今回のこれは、その指導主に声をかけてしまったがゆえに、ただ怒鳴られるだけで済むものでもない。
軽くではあるが、既にアリシアから舟上で注意は受けていた灯里は、慌てて謝罪の会釈を入れた。
「い、いえ、あの……す、すいませんでした」
「うむ、反省ならいつでもできるがな。っていうかアリシア!」
舟から降りた後に、“お前もここに残れ”と無言で晃に合図されたために、アリシアも傍で待機。しかし、おろおろではなくやはりいつもの笑顔。晃がどれだけ怒っていようが、マイペースである。
「あらあら?」
「あらあらじゃねー、もっとしっかり指導しろ! おめーがあらあらうふふばっか言ってるから直んねーんだろーが!」
「うふふ」
「ええーい、あらあら禁止! うふふも禁止!」
びしっ、びしっ、と閃光のように素早く指をさす。瞬間カマイタチにも似た衝撃波が起こったようにも見えたが、仮に起こっていてもアリシアは難なくそれをかわしたであろう。
「まぁまぁ晃様。よろしいではございませんか、気軽にお声をかけるお知り合い同士、仲良いならば」
「すわっ!? と……」
突如かけられた声に、晃は思わず体をよけた。とっくにリアルト橋の市へ向かったと思われた客人の一人がいつの間にか傍にいたのだ。それは裏葉。アリシアと変わらぬほどの笑顔を浮かべ、そこに居座る姿は、息も切らしておらず、慌てて戻ってきたという風には見えない。しかし、アリア社長らと共に市へ向かった。その後ろ姿を確認したはず。なのに……と灯里は少し首を傾げていた。
「まったく気配を感じなかった……」
「うふふふ」
思わずつぶやいてしまうほどに晃は気圧されていた。それは表面的な威圧感ではなく、内からくるものである。また、ここで彼女がなだめに入ったのは晃にとっては予想外。さすがの彼女も、相手が客人では厳しく言うわけにはいかない。先ほどの険しい顔もすぼめ、思わず肩をすくめるのであった。
「ですがお客様。ウンディーネたるもの、お客様を相手に仕事をしているわけですから……」
「まぁまぁ、今回は無礼講ということで」
「あらあら、無礼講ですか?」
「うふふふ、そうでございますよ」
「うふふ」
にこにことしている裏葉と晃との会話に、再度アリシアが入った。こちらもまた似た口調で、そしてにこにこ顔。その光景から、思わず晃は額に手を当てて顔を俯かせる。
「ほへっ? どうしたんですか、晃さん」
「いかん、アリシアが二人いるみたいだ……」
「そうなんですよねぇ。裏葉さんってアリシアさんみたいで……とってもほんわかしちゃいますよね」
「頭が痛くなってきた……」
さすがの晃も、ダブルアリシアには勝てるわけもない。そうでなくとも、普段からアリシアに対して決して優位に立っているわけでもない。この状況が彼女にとって不利なのは、火を見るより明らかであった。
「もういい。灯里ちゃん、今回は免除だ」
「は、はひっ」
「まったく……」
ぽりぽり、と頭をかきながら、あらあらうふふと笑いながら会話する客人と友人を見やる。と、ここで晃には気になることがあった。
「そういえば私は自己紹介をしてない気がするんだが……」
「ああ、それは」
「あぁ、灯里ちゃんがでっかい声で私の名前を呼んでいたっけな。それでか」
「は、はひ……」
少々の当て付けのように、晃は呟く。傍で受け答えしていた灯里は、やはりそこでしゅんとうな垂れるのであった。
やがて、市……露店を思う存分見回ってきた神奈たちが船着場へと戻ってきた。ほとんど見てまわっていただけであったせいか、荷物らしきものは増えていない。が、一つ違っていたのは彼女は小さな布袋を三つ手元に抱えていたという事。何だろうと首を捻る灯里の横から、裏葉が覗き込むようにそれを見ていると、柳也が笑いながらただ一つの成果を述べた。
「丁度いいものがを見つけたんでな。つい買ってやった」
「まぁまぁ、それはお手玉にございますね?」
「ああ。前のやつは誰かさんが水路に三つとも身投げさせてしまったからな」
「そうにございますね。長き旅路を共にしてまいりましたが、げに哀しきはその行く末……。神奈さまの手にかかったのが運のツキにございました」
「まったくまったく」
示し合わせたように頷きあう。それを聞いていた神奈はぶすっと頬を膨らませた。
「やかましいわ! あれは手がすべったのだ。決して故意ではないぞ?」
明らかに彼女が不機嫌なのは見るまでもない。だが、それよりは灯里にとってはその物についてが気になってしょうがなかった。
「あの、一体何の話ですか?」
「ん? そうか、お手玉を知らぬのだな? そうかそうか、ならばこれは是非披露してやらねばな。余の華麗な技をとくと見るがよい!」
気合の入った神奈の声が周囲に響く。そして、同時に先ほど購入した三つの袋玉を目前に構えた。“ほへっ?”とあっけにとられた灯里ではあったが、まさに今から始まる華麗なはずの技に、すでに心は待ち状態である。傍らの面々も似た感じだ。“お?”と目を見張る晃、“うふふ”とわくわく顔のアリシア、“ぷいぷい”と期待顔のアリア社長。そして、“あらあら”と声援を送る裏葉。皆とは対照的に、“よせーっ!”と素早く止めようとするのは柳也。そして……。
「とぉーっ!」
疑う余地もないほどに力と気合の入った声の後、すがすがしいほどに煌く神奈の顔がそこにはあった。宙に投げられたのは三つの布袋……お手玉。今日もネオ・ヴェネツィアは空と街とが、穏やかという名に包まれた、日和である。
<行方は……推して図るべし>