『浪と風と……』

 ネオアドリア海を臨む水先案内店のARIAカンパニー。社長含めそこの従業員達によって、本日の仕事が開始されていた。やや雲にかかる太陽を背に、本日の観光案内ルートについて打ち合わせを行っている。それは廻る場所についてであったり、解説時に注意するべき事であったり……。その観光案内を行う相手、つまりはお客さんがもうすぐこちらにやってくるのだ。そのお客さんを案内するのは、ウンディーネである水無灯里。ある程度の事がまとまると、改めるように灯里はアリシアに頭を下げた。
「アリシアさん、本日はよろしくお願いします」
「うふふ、こちらこそ。頑張ってね、灯里ちゃん」
「はひっ!」
 やや緊張気味の顔に対し、“あらあら”といつもの笑顔がそこにある。
 半人前のウンディーネは、一人前のウンディーネ同乗でなければ客を乗せてはいけない事になっている。灯里はまだ半人前なので、一人前であるアリシア同乗でなければいけない。いわばこれは、お客さんを乗せての実地訓練でもある。だがその分料金も安いのである。本日のお客さんは、そこを利用して半人前の灯里をわざわざ指名してきたのであった。
「えっと、そういえば今日のお客さんはどんな方ですか?」
「うーん、私も電話口で聞いただけだったから……。たしか男のかたで……あらあら、そういえば名前を聞いていなかったわ」
「ええっ? そうなんですか?」
「細かい事情を話したらそれでいっぱいだったらしくって、名前を聞く前にお客さんが切ってしまったの。でも“楽しみにしてるのだ!”ってとても嬉しそうだったから、来るのは間違いないと思うわ」
 うふふ、と笑うアリシア。と、そこで灯里はぽけっと首をかしげた。
「何だかどこかで聞いた口調ですね?」
「うふふ、そうね」
「でも指名されるなんてほんと嬉しいです。まだまだ私半人前ですけど、お客さんが折角来てくれてるんだから、頑張らなきゃって思います」
 ぐっ、と灯里の手に力がこもる。もちろん彼女はお客さんが絡まなくても一生懸命であるが、アリシアから見ればより頑張りすぎてしまわないか、という事が少し心配であった。まだまだ接客慣れしているわけではない、極度の緊張を彼女は招きやすいのだ。
「灯里ちゃん、力み過ぎないようにね」
「はひっ! 力みません!」
 言いながら、灯里は更に手に力をこめた。その握りこぶしから、ほんの一滴だけ汗が流れ落ちる。風に流されて、それはあっという間に視線の外に逃げていったが、アリシアはそれを見逃さなかった。
「あらあら灯里ちゃん、もっと気を楽にね」
「はひっ! 楽にします!」
 再び汗が一滴。あらあらうふふ、とやはり笑顔であるアリシアがこれまたそこに居た。
 いつもの風景。今日もARIAカンパニーは絶好調。アリア社長は微笑ましい二人のやりとりに、
「ぷいにゅっ」
 と、エールを送るのであった。

 そうこうしているうちに、誰かがやってくる足音が遠くから聞こえてくる。その主達による話し声も一緒だ。どうやら、本日乗せるお客さんそのものらしい。
「……ったくぅ、予算の都合で半人前のウンディーネを指名するなんて……。っていうか私は三大妖精が一人、ホワイトスノーと呼ばれるウンディーネ……アリシアって人だっけ。その人に会えるから楽しみに来たってのに……」
「大丈夫なのだ、半人前のウンディーネは指導員同乗によって営業ができるそうなのだ。ARIAカンパニーは少数精鋭。たしか今は二人のはずなのだ」
「二人? ってことは……」
「そうなのだ。一人前のウンディーネであるアリシアさん。そして半人前である、今回依頼したウンディーネさん。その指導員としてアリシアさんが乗るはずだから、会えるのは間違いないのだ」
「へええ、そうなるわね」
「それにARIAカンパニーは信頼性も高いから、きっと半人前の方でも一人前並の腕前が期待できるのだ!」
「いや、それはないでしょ……。それでも、三大妖精につきっきりで教えてもらってるわけだから、たしかに腕の方は期待していいかもね」
「だろう? それこそ、軽やかな舵さばき、変幻自在な操船術、その姿は正に水を舞う妖精ウンディーネ……乗ればきっと満足すると思うのだ」
「ふーん、なんだか期待が膨らんでくるわね。きっと舟謳も素敵なんでしょうね」
「おおそうだったのだ。たしか天井の謳声とまで称されるほどで……」
「セイレーン?」
「そう、それなのだ。このネオヴェネツィアでも特に有名だそうのなのだ。もう素敵過ぎてノックアウトされてしまうに違いないのだ」
「何よそれ……。でも、わくわくしてきたわ。楽しみ♪」
 男女の、うきうきした会話の一部始終が灯里とアリシアの耳に届く。単純に今日たまたまやってきた客かもしれないのだが、男性の口調とアリシアが電話で耳にしていた声から、本日の予約客であることは間違いない。だがしかし、その会話内容が問題である。一部は事実であったが、半分は灯里を指すものからアリシアを指す表現そのものを会話しているのが十二分に分かった。それどころか、まったくの別人の評判がそこかしこに混ざり合っている。
 かなり過剰に期待されている。灯里の胸に、その事実が重く押し寄せてきた。
「ど、どどどど、どうしましょうアリシアさんっ。わ、私、でっかい期待されてますっ」
「あらあら落ち着いて、灯里ちゃん。いつもどおりに、ね?」
 思わずアリスの口癖が飛び出してしまう。その慌てっぷりは相当なものであるのは間違いなかった。なだめるアリシアも、さすがに気の利いた言葉がすぐに出せないでいる。先ほどまで緊張感いっぱいだった彼女が、ますます緊張を高くする。
「ぷいにゅ」
「あ、アリア社長?」
「ぷいぷい、ぷいにゅ。にゅっ」
 アリア社長は、先ほどのエールに加え、更に激しくエールを送る。体と腕とをあれやこれやと動かし続ける。そんな懸命な姿に、灯里の顔から思わず笑顔がこぼれた。
「ありがとうございます、アリア社長。応援してくださるんですね?」
「ぷいにゅっ」
「はいっ、私しっかり頑張りますっ」
 ぐぐっ、とこぶしを握り締める。が、先ほどまでの緊張はすっかり消えうせ、実に自然な気合のこめ方になっている。たとえるならば、ゴンドラを漕ぐ際のオールを使う力加減を得た、といったところだろうか。すっかり安心できそうなその姿に、アリシアはほっとしたように笑みをこぼすのであった。
「こんにちはなのだ!」
「えーっと、本日はよろしくお願いします」
 丁度その時であった、本日の客人がARIAカンパニーへ姿を現したのは。たまたま背を向けていた灯里は、慌てて体の向きを反転させる。一瞬皺で乱れた制服を素早く整え、元気にお辞儀をした。
「いらっしゃいませ! 本日はどうぞよろしくお願……ええーっ!?」
 今正に彼女が頭をぺこりと下げようとしたその時であった、声を上げたのは。一瞬見えた客の顔に、非常に見覚えがある。それも街中で一度すれ違ったとかいうレベルではない。灯里の友人で、親しい間柄である……。
「ウッディーさん!? 本日のお客様ってウッディーさんだったんですか!?」
 灯里のよく知る顔が、姿が、そこにはあった。ずっしりとした体格に、後でくくった細い髪が対照的。ずんぐりむっくりな顔が、アリスからムッくんそっくりだと定評のそれは、他に見間違えようの無い、それでいて実ににくめない顔。ジーパンとチェックのポロシャツという、特にこれといって特徴のない服装が、これまたよく似合っている。
「ウッディー……?」
「……ぷっ、ウッディーだって。たしかにあんたの名前って宇土だもんねぇ」
 ウッディーと灯里に呼ばれた男性客の隣には、花のように華やかな女性が吹き出している最中であった。ピンク色の髪のポニーテールに、すらりとした体もさることながら、思わず見入ってしまいそうな端整な顔立ち。白いブラウスとデニムのスカート、ジャンパーに身を包んだ姿は、ごく普通の格好だと表現すべきなのに、別格のもの……たとえば、容姿端麗と言い表したくなるほどだ。
「由紀ちゃん、笑うなんてひどいのだ。ウッディー、うむ、いい響きなのだ」
「あんた本気? ……まぁ、親しみこめて呼ぶならいいかもしれないけどね。で、貴女はどうして綾小路の事をウッディーなんて?」
 二人の間で完結したのか、今度は灯里に視線が注目する。ほへ? と灯里が呆ける間、しばし。そして、灯里は一つ首をかしげた。
「えっと、ウッディーさんじゃないんですか?」
「多分人違いなのだ。私はウッディーじゃなくて、綾小路宇土というのだ。よろしくお願いするのだ」
 ふかぶか、と客である宇土がお辞儀。つられて灯里もお辞儀。が、そこでまた灯里は首を一つ二つ傾げた。
「ほへ? ……あれ? ウッディーさんはたしか綾小路宇土51世っていう名前で、浪漫飛行社ってとこに勤めてて……あれれ?」
「はあ!? ちょっと綾小路、いつの間に51世も子孫を……って、やっぱ違う人でしょ?」
 今度叫んだのは由紀と呼ばれた女性客。51世という言葉にいたく反応。だが、すぐに思考は通常に戻る。こういう切り替えの素早さは灯里から見れば実に忙しなく、というよりは半分ついていけていなかったりする。それでも、彼女は“そう、ですね”と言う代わりの相槌を半分打った。
「それにしても浪漫飛行社ねぇ……何かを彷彿とさせるわ」
 そして、しみじみと浪漫飛行社という言葉を呟く。それを待ってましたといわんばかりに、隣に立つ宇土がきらんと目を光らせた。
「浪漫……浪漫倶楽部!」
 声を上げた宇土は、天高らかに一本の人差し指を掲げ、まるで世界宣言をしているようだ。
「物好き倶楽部と何か関係があるのかしら……」
 途端に彼の宣言を崩す発言をかます由紀。これには宇土もがくっと、伸びていた腕をしおらせた。
「由紀ちゃん、物好き倶楽部じゃなくて浪漫倶楽部なのだ!」
「物好きを物好きと言って何が違ってるのよ。だいたい大声で叫ぶようなことでもないでしょうに……」
「あ、あのっ、浪漫倶楽部って何ですか!?」
 呆れ気味にたしなめる由紀を遮り、宇土の声に負けないくらいの大きさで灯里が質問を投げつけた。その瞳はきらきら、しまった口はうずうず、興味津々の顔がそこにある。それに応えんばかりに、宇土は胸を大きく張った。
「よくぞ聞いてくれたのだ! 浪漫倶楽部とは、あちらこちらに起こる不思議事件を解決するために設立された……」
「ふ、不思議事件ですか!?」
 得意げな説明の途中で、更にもう一つ大きな声が響く。灯里はすっかり宇土の話に夢中であった。浪漫倶楽部と不思議事件と、灯里にとっては飛びつきたくなる単語。それが飛び交っているので無理もない。
「……えっと、そんな事より、そろそろ観光案内に出発したいんだけど」
 話が長くなりそう、という予感がした由紀は、中断するようにぽそりと訴える。が、彼女が危惧したとおり、宇土と灯里の勢いは止まらない。
「不思議事件とは、不可解な物音や人の姿など、文字通り不思議な現象のことなのだ。それを解決するために私が設立したのが浪漫倶楽部。そして私はその部長を務めているのだ」
「うわあうわあ、へええ〜……すっごい素敵でわくわくする倶楽部ですね」
「おおっ、ありがとうなのだ!」
「……ちょっと、私の話聞いてる?」
 三人が騒ぐ脇、すっかりおいてけぼりのアリシアとアリア社長。アリシアに抱かれて一部始終をびくびくっとしながら見守っていたアリア社長はともかく、アリシアの方は相も変わらずあらあらと笑顔を浮かべ続けているのであった。……が、さすがにいつまでもこの調子というわけにもいかない。うんざりし始めている由紀の顔が目にとまれば、話を彼女が止める必然性も感じてくるもの。
  ぽんぽん
  くいくい
 アリシアは灯里の肩を叩き、そして同時にアリア社長も彼女の服の裾を引っ張った。、
「灯里ちゃん灯里ちゃん」
「ぷいにゅっ」
「ほへっ?」
 さすがにふたりのそれに対して反応しない灯里でもない。未だわくわく顔を保ったまま、彼女はふたりへと振り返った。
「お話に夢中になるのもいいけれど、お客様を待たせないようにね」
「ぷいぷい」
「え? ああっ、す、すいませんっ」
 ここでようやく、灯里は由紀の不機嫌そうな顔に気がついた。あと2,3分も話が長引けば怒鳴られていたかもしれない。ついつい夢中になってしまっていたが、今は水先案内人としての仕事を全うすべき時。しかも今回は客からの指名によるものなのだから、それこそうっかりのんびりはしていられない。
「失礼いたしました。で、では早速ゴンドラに案内いたします」
 ふかぶかと灯里は頭を下げる。最初に出会った際のよろしくお辞儀とはまた違った意味でのお辞儀だ。
「別にそうかしこまらなくてもいいわよ。……綾小路、あんたが余計なこと喋り出すからいけないのよ」
「う、うん、すまないのだ由紀ちゃん。それと……灯里ちゃん、だったね。由紀ちゃんの言うとおり私の所為でもあるから、堅くならず普段やっている通りに観光案内をよろしく頼むのだ」
「は、はひっ」
 宇土と由紀の気遣い。それがまた申し訳なく、灯里はまたもや頭を下げてしまうのであった。
 ……が、未だ灯里の興味心はおさまらないのか、先ほど宇土と会話していたように目をきらきらさせながら、由紀を見つめた。視線に気付いた由紀は少し首を傾げながら、応えてやる。
「何かしら?」
「あの、貴女も浪漫倶楽部……」
「違うわよ」
 灯里が言い切るより先に、由紀は言葉を区切った。“ほへ?”と疑問顔の灯里が再び喋り出すより先に、更に言葉を続ける。
「私は……」
「由紀ちゃんはお掃除倶楽部なのだ」
  すぱこーん!
 続けようとした矢先、宇土の素早い割り込み。言葉だとこんなにも早い、便利なものである。だが、それに反射するように由紀は手にしていた冊子で宇土の頭をぶったたいた。彼女も負けず劣らず早い。
「痛いのだ……」
「だぁれがお掃除倶楽部ですって!? 私は風紀倶楽部! あんたみたいないいかげんな倶楽部をとりしまるために創設された部よ!」
「いいかげんなんてひどいのだ。我々は日夜努力を積み重ね……」
 ここで二人のいい争いが開始されてしまう。やっとのことで話そのものが終わろうとしていたのに、この有様。発端を担ってしまった灯里は、これまたおろおろとし始める。手助けするかのように、ぷいぷい言うアリア社長のそばで、アリシアは“あらあら”と苦笑するしかなかった。

 そんなこんなで、灯里はようやく二人をゴンドラへと案内するに至った。ゆらゆらと揺れるそれは、いつもの顔で客人を、そして漕ぎ手である灯里とを迎え入れる。当然ながら、アリシアとアリア社長も同乗している。そういえば、と由紀は思い出したようにアリシアへと視線を向けた。
「貴女がホワイトスノーと呼ばれるアリシアさんですか?」
「ええ。今回は指導員として同乗させていただきますので、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。……へええ、笑顔が素敵ですねえ」
「うふふ、ありがとうございます」
 思わず由紀も見惚れてしまうほど。お礼の挨拶にも、ついつい由紀は顔を赤らめてしまうのであった。
「え、えっと、それで今回観光案内してくれるウンディーネさんが……」
「この水無灯里ちゃんなのだ、由紀ちゃん」
 丁度自分が座っている席の後に立つ灯里へ振り向きながら、宇土は今紹介するかのように告げる。
「いや、名前はさっき乗る前に聞いたから分かってるわよ。私が言いたいのは……」
「ああ、セイレーンなのだ」
「そうそう、それそれ。舟謳が楽しみなのよねぇ。どんな歌声かしら?」
「きっと一生忘れられないくらいの思い出をくれるのだ」
「あと舵さばきも楽しみだわ。やっぱり見惚れちゃうくらいに凄いんでしょうねえ……変幻自在、ってどんなかしら」
「きっと見ている我々を十分魅了してくれるのだ。うむ、これは心躍るのだ」
 事前情報から二人の話に花が咲く。それはARIAカンパニーに来る前にも話していた事柄。それを聞いて“はっ”となった灯里は、手遅れになる前に、と恐る恐る声を上げた。
「あのう……」
「ん? ああ、ごめんなさい。もう出発してくれていいわよ」
「我々を素敵な時間に導いてくれなのだ、ウンディーネさん!」
 宇土から期待の視線。由紀からも期待の視線。先ほどの話と含めて物凄いプレッシャーを感じる。慌てて“はい”とそのまま応えそうになった灯里だったが、アリシアからのささやかなシグナルに気がついた。ちゃんと事情を話さないといけない。それを決心づけた灯里は、一呼吸置いて、もう一度恐る恐る、だがしっかりと声を出した。
「まことに申し訳ない話ではあるんですけど……」
「ん?」
「どうしたのだ?」
「実は……」
 あたふたとしながらではあるが、二人の期待は勘違いであるものという灯里による懸命な説明により、宇土と由紀が目を丸くしたのはしばらくしてからであった。半分納得がいかないような、それでも笑って納得したような、そんな複雑な表情を浮かべる二人。こうして、ひと悶着ふた悶着ありながらも、灯里の漕ぐゴンドラはARIAカンパニーを出発するのであった。

◆◇◆◇◆

「さてお客様、あちらのドアノブにも菊、向こうにも菊、こちらにも……。と、ごらんのようにこの街では数多くの菊の装飾を見つけることが出来ます」
 あっちへこっちへ、決して急がずに手を指す灯里。それにつられて、客である由紀と宇土の視線も動く。静かでそれでいてゆったりした解説が響く閑静な街の中。ゴンドラはこれまたゆっくりとしたスピードで水面をすべっていた。
「この菊の花は16世紀にマルコ・ポーロが中国より持ち帰った花で、マンホームのヴェネツィアで当時大流行しておりました。その名残を、ここネオ・ヴェネツィアでも忠実に再現しているのです」
 水の流れのように、自然な案内。ARIAカンパニーへ二人がやってきた当初に比べれば、今は随分とゆったりであった。最初ゴンドラに全員が乗った時に、実はひと悶着あったのだが――

『あれっ、この白い猫は?』
『由紀ちゃん、この猫さんはARIAカンパニーの社長さんなのだ。ネオ・ヴェネツィアの水先案内店では青い瞳の……』
『ああ、言ってたわね、確か。ふーん、乗るまで気付かなかったわねぇ』
『にゅっ』
 アリア社長が片手をあげて得意げに挨拶。そして、ぽぷよんぽぷよんと足音を鳴らしながら、定位置……アリシアの傍へ。が、その瞬間に由紀のからだは動いていた。
 体の重心を前へ、倒れそうになるのも厭わずに、目と手がまっすぐにアリア社長へと向かっている。その伸ばされた手はアリア社長の体をがっしと掴み、自分の顔へと引き寄せる。そして思い切り頬ずりした。
『やーんっ、ふにふにー!!』
『ぷいにゅーっ!』
 アリア社長の見事なもちぽんぽんにかいぐりかいぐり。受けたアリア社長はそのくすぐったさにぷいぷいと声を上げるので必死。そして、突然のそれにぐらっと揺れたゴンドラであったが、灯里のしっかりした支えにより、揺れはすぐに収まる。“踏ん張る方法しっかりしておいてよかったぁ”と彼女が思っている間にも、由紀による抱擁は続いている。ほんの数秒、それが続いたかと思うと、由紀ははっと我に帰ってゴンドラに座りなおし、アリア社長を解放した。
『……あ、あははは』
 そして灯里とアリシアに向けての照れ笑い。すりすりされたアリア社長は何がなんやらわからず、元々丸い目を更に丸くしている。そんな彼女らの様子を見ながら、宇土は“のおおお”とため息をついた。
『まったく、相変わらず丸くて可愛いものを見ると見境がなくなるんだから、由紀ちゃんは……』
『べ、別にいいでしょっ、女の子なんだからぁ!』
 顔を赤くしながら声を荒げる由紀。そんなやりとりを見ながら、灯里は由紀がアリア社長の何に反応したのかよくわからなかった。
『可愛くて丸いもの……ああっ』
 ぽんっ、と灯里は手を打った。少々気付くのが遅れはしたが、大いに納得できてすっきりである。一方アリシアは“うふふ”と笑いながら、アリア社長をそっと抱き上げた。
『あらあら。アリア社長、気に入られちゃったみたいですね』
『ぷいぷいにゅ』
『今日はお客様とご一緒しますか?』
『ぷいにゅっ』
 明るい返事。そして、アリシアはアリア社長を抱きかかえたまま由紀の前へと差し出した。“え?”と首をかしげながらも、アリシアからアリア社長を受け取り、腕に抱きかかえる由紀。
『これからの旅の安全を祈願しつつ……是非今日は、アリア社長と一緒に観光をお楽しみください』
『ぷいにゅっ』
『え、えっと……あ、ありがとうございますっ』
 アリシアの笑顔にどきっとしながらも、由紀は慌てて頭を下げた。同時にさっきまでの自分の行動に気恥ずかしさがこみ上げてくる。真っ赤になった顔を、今まさに腕の中にいるアリア社長へ向けてみると、愛らしい顔で、
『ぷいにゅっ』
と応えてくれるのであった。心を揺さぶるその声と表情に、由紀の顔からたまらないほどの笑みがこぼれる。白い守り神に、顔をめいっぱい近づけてご挨拶。
『……ふふっ、よろしくお願いね』
『ぷいにゅっ』

 ――こうして、アリア社長は由紀に抱きかかえられる形で、今回の旅を出発したのだった。しかしながら、道中は由紀の手がうっかりアリア社長のもちもちぽんぽんに触れるたびに、彼女のかいぐりかいぐりが発動。そのたびに慌てて宇土が沈め、灯里はバランスをとり、アリシアは全般的な補佐。もちろんそこで一時的に観光案内も中断せざるをえなかった。
 随分の回数それがあったものだが、今はすっかり収まっている。何度もされていれば、皆にとっても、そしてアリア社長にとっても慣れたものだ。
「ちなみにその菊の花びらの枚数は全部で16枚。そして、日本で用いられている菊の紋章も16枚。古今東西、美しいものに対する感覚は同じなのかもしれませんね」
「さらにちなみに…」
「はひっ?」
 すっ、と由紀は懐から一冊の手帳を取り出した。薄い黄色に花柄の装飾で、掌サイズの大きさと合わせて実に可愛らしい。ぴらっとめくったそれには文字がびっしりであった。アリア社長からはもちろんすぐ近くにそれが見え、インパクトからびくっとなったのは言うまでもない。
「由紀ちゃん、何をするのだ?」
「黙って聞いてなさいって。色々あったけどこれも今回の目的の一つなんだから。えーと、地球(マンホーム)は日本に、かつて平安時代と呼ばれる時代があって、その頃非常に重要視されていたのが菊なのよ。今でいう、桜、みたいなもんかな」
 ほへっ? と首を傾げつつ、しかし片方で頷いている灯里をちらりと見やると、更に由紀は続けた。
「その当時、菊が満開になると皆で集まって鑑賞したそうよ。この鑑賞会は『菊花の宴』って呼ばれてね……灯里さん、何をしていたと思う?」
「ほへっ? わ、私ですか?」
「ええ、あなた」
「ぷいにゅっ」
 いきなりの名指し。合わせてアリア社長も指差し。あらあら、とアリシアが笑うその傍らに、あたふたと灯里は考え込む。水先案内を務める時と同じように真剣に、かつ緊張しながらはた、と口を開いた。
「やっぱりお花見ですか?」
「おっ、いい線いってるわね。一つ、菊合せ。もう一つ、菊の歌の詠み競い」
 半分正解という事に灯里はぱあっと笑顔を浮かべた。そして、“よかったわね灯里ちゃん”とアリシアからの賞賛の言葉。
「歌の詠み競いとは、さすが平安時代なのだ」
「屋敷の庭に台を作って菊を植えて、それを二方向に分かれた数人で鑑賞して歌を詠むのよ。その歌の優劣を競ったと言うわけなんだけど……まぁ、相当ヒマだったんじゃないかしらね」
 一通りこれで区切りがついたのだろう、由紀はパタンと手帳を閉じた。それとは反対の手で、髪を少しだけかきあげ、一つ大きなあくび。眠たげな視線をゴンドラの向こうに投げるのであった。

「……いい行事ですねぇ」
 ゆったりと水の流れる音のさなかに、ぽつりとつぶやく灯里の声があった。彼女が言っているのは、菊の行事についてのことなのだろう。結構間があったために何の事かわからなかった由紀だが、やや遅れて灯里の言いたい事に思考がたどり着いた。それに構うことなく、灯里は言葉を続ける。
「のんびり菊を鑑賞して……優雅に歌を詠んで……花に彩られた時間をめいっぱい楽しむ……。昔の人って贅沢だったんですねぇ」
 遠くを懐かしむような……しかしそれでいて、今の時間にも同時に浸っているような目。一目それに気がつけば、誰も彼も魅了されそうな不思議な雰囲気を醸し出している。時間という存在を、愛おしくそして十二分に楽しんでいるような目。
「……なるほどね」
「はひっ?」
「火鳥君と月夜ちゃんが勧めた理由がなんとなく分かった気がするわ」
 ふふっ、と柔らかい笑みを称えながら、由紀はゆったりと頬杖をついた。先ほどの眠たげな瞳から一転。遠くに投げる視線が、種々多々を納得したかのように見える。両手から片手の支えになったアリア社長は、あたふたとバランスをとるのに忙しい。それを助けてやりながら、宇土が由紀に疑問の視線を投げた。
「由紀ちゃん、何が分かったというんだい?」
「今言ったでしょ。火鳥君と月夜ちゃんが、ARIAカンパニーを推薦した理由よ」
 より強調して、由紀は言葉を繰り返す。宇土はそれに“なるほど”と応えた。
「二人がここを勧めたのは、灯里ちゃんを素晴らしいと感じたからなのだ。少しのきっかけにも大きな、素敵な感動をくれる。そして分かち合ってくれる……」
「そこまで大げさに言ってたかしら……。どうでもいいけど、いきなりちゃん付けはどうかと思うわよ? せめてさん付けにしときなさいって」
 あれやこれやと二人の会話がはずむ。が、その一方で話の種となっている灯里本人はまたも極度の緊張に襲われていた。居ても立ってもいられず、二人の会話が途切れないのも構わずに間に入る。
「あ、あのっ、勧めた……って、どういう事ですか?」
 やや恐る恐る。が、声が十分に震えている。ふふっと微笑を浮かべて、由紀はそれに応えた。
「さっき聞いたと思うけど、私達の後輩の――火鳥君と月夜ちゃん、っていう子がね、貴女の漕ぐこのゴンドラに乗ったのよ。それで“よかったから是非乗ってみてください”って勧めてくれたの。ARIAカンパニーと、灯里さんをね。そういう事よ。もっとも、ほとんど詳しい事は聞いてないけどね。ただ単純に“乗ってみてください”って勧められただけだから……要は後は乗ってのお楽しみってとこかしら」
「本当は、折角だから同じARIAカンパニーの違う人……と言っても、ARIAカンパニーには二人しか従業員がいないということだから、そちらのアリシアさんにお願いしたかったのだが……」
「私ですか?」
 にこり、と営業スマイル。それでいていつもの笑顔。その素敵さかげんにうっとりしそうになった宇土であったが、由紀にじろっと睨まれて慌てて小さくなる。
「ったく、綾小路が金欠なんていうから……」
「仕方ないのだ。ついついネオヴェネツィアの美味しいものが目に入ってしまって……」
「っていうか考えなしにばくばく食ってんじゃないの! あんたねぇ、観光に来て一番の目的であるゴンドラに乗るお金が足りなくなったってどういう了見よ!」
「うわああ! 由紀ちゃん落ち着くのだー」
「ぷいにゅーっ」
 思わず立ち上がりそうになる由紀。その剣幕だけでゴンドラは随分と揺れ動く。灯里はバランスを崩さないように舵をとるのに精一杯。由紀の腕から放り出されたアリア社長はうっかり転がりかけたが、アリシアが素早く抱かかえるのであった。
 やがて揺れは収まり、さっきまでの平静を取り戻す。ゴンドラに沿って作られた波が小さくなる。元々ゆっくりのスピードで進むこの舟ではあるが、さすがに本体が大きく揺れては波も随分と立ってしまう。今日これほどまでに揺れるのは一体何回目だろうか。ちょっとその辺りが心配であった灯里だが、気になる事を確かめておこうと、改めて由紀に尋ねた。
「えっと、その火鳥さんと月夜さんという方が乗ったっていうのは……」
「あ、ほら。あれじゃないかしら?」
「ほへっ?」
 由紀が指さした先、それはとある民家の庭であった。色とりどりの花が咲き、実に丁寧に手入れのされた庭。初見の人にとっては、何か特別な場所ではないかと見間違えるほどの。
「あれ、見覚えない? 月夜ちゃん――その勧めてくれた私の後輩の女の子が、素敵バロメーターなんて言葉を聞いたりして、でもって凄いってその時のウンディーネさん――つまりは貴女ね。貴女に素直に凄いって言われて、後で随分気恥ずかしかったって。それでも、何気ないものに凄く感動できる人なんだなあって……それで、私達に勧めてくれたのよ」
「そうなのだ。結果的に灯里さんの案内になって丁度よかったのだ」
 さりげに自身をフォローする宇土。が、やはり由紀にじろりと睨まれてすごすごと小さくなる。とまあそんなわけである、と話を区切る。どういう反応があるかと由紀が見ていると、しばしの放心状態の後にようやく灯里は口を開いた。
「そうだったんですか……すっごく、嬉しいです……」
 えへへ、と柔らかく笑う彼女の姿は、人との出会いを心底味わい楽しむ気持ちがいっぱいににじみ出ていた。とその時……。
  ぐううう……
 盛大に腹の虫が鳴る。がくっとうな垂れながらも由紀が隣を見やると、宇土が顔を赤くしながら頭をかいていた。
「いやぁ、すまないのだ。ちょっと小腹が空いてしまって」
「ったく、いい雰囲気だったのにぶち壊しじゃないの……」
 縁に繋がる更にいい話が始まろうかという矢先にこれであったため、由紀としては“はああああ”と相当投げやりなため息をつきたくなっていた。
「あ、丁度近くに美味しいじゃがバターを売ってるお店があるんですよ。私買ってきましょうか?」
 にぱっと笑って提案を投げる灯里。それに食らいついたのは腹の虫を鳴らした張本人、宇土であった。
「じゃがバター! ほくほくとした食感と、口の中でバターのまろやかさと溶け合う絶妙なそのハーモニーが……」
「はいはいはいはい、料理番組みたいな解説はいいから。じゃあ済まないけど買ってきてもらえるかしら? 私もちょっとお腹すいたし……5人分あれば足りるわよね。一ついくらなのかしら?」
 ごそごそと由紀は懐から財布を取り出す。宇土の反応を予測してか既に岸へとゴンドラを停めようとしていた灯里は、いえいえと手を横に振った。
「私が買ってきますから」
「だから、お金が要るでしょ? 綾小路は金欠でも私は持ってるから」
「なにぃー! 由紀ちゃんへそくりを隠し持っていたなんて聞いてないのだ!」
「へそくりじゃないわよ! つーかあんたにお金をすべて任せてたらろくな事にならないってのがわかったからこうして私が密かに持ち歩いてんじゃないの!」
「ぐぬぬぬぬ、もっと私を信用して欲しいのだ」
「いや、信用した結果ゴンドラに乗るお金が足りなくなったでしょーが」
 自然に始まる、平然とした口げんか。それをやっているうちに、ゴンドラは着岸。そして灯里はゴンドラをつなぎとめ、陸へと上がった。
「えっと、それじゃあ買ってきますね」
「ええ、行ってらっしゃい灯里ちゃん」
「ぷいにゅっ」
 まだ言い争いを続けている宇土と由紀の代わりに見送るのはアリシアとアリア社長。結局は灯里は自身のお財布と共にじゃがバター購入へと出発したのであった。

 ほどなくして、彼女はじゃがバターのお店に到着。それは小さな屋台。あったかい湯気と匂いが、近くを通る者を魅了する。が、そこではたと気付いたことがあった。
「5つ、って一人で持つのは大変かも……」
 両手で抱えるにしても、せめて重ねて持てればいいのだが、そこで売られているのは箱式のものではない。少なくとも数回往復しないと持って帰れそうにない。
 はてさてどうしたものか、と灯里が少し考え込んでいるその時であった。
  くいっ
「よぉ、もみ子じゃないか」
 灯里のもみあげ……もとい、両脇の髪を引っ張る人物がそこに居た。堂々と、当たり前の挨拶のように構えているそれは……火炎之番人こと暁であった。
「暁さんっ! って、もみ子じゃありません」
「何を言う。だったらその見事なまでのもみあげはなんだと言うのだっ」
  くいっくいっ
「はうう、髪の毛引っ張るの禁止ですーっ」
「はっはっは」
 彼にとってはいつもの行動。灯里が禁止というのもまたいつものとおり。が、今日はそのままいつもどおりには進まなかった。
  べしん!
「いてっ! 誰だ俺様をぶつのは!」
「誰だじゃないわよ! あんたねぇ、女の子の髪の毛を引っ張って得意になってんじゃないわよ!」
 派手に音がした。灯里が見ると、先ほどまでゴンドラで言い争いをしていた由紀がそこにいた。アリア社長を抱きかかえているが、右の手だけが構えモード。ピンク色のポニーテールを揺らしながら荒い息を吐き出している。暁を叩いた張本人は、彼女に間違いない。
「はれっ? お客様?」
「ちょっと、貴女大丈夫なの? まったくデリカシーの無い男はこれだから……」
 急いで灯里を暁から引き離しにかかる。叩いた拍子に灯里の髪の毛をつかんでいた暁の手ははなれていたため、そう苦労したものでない。また、気がつけば由紀のみならず宇土やアリシアまでそこに集まっていた。
「あれれれっ? ゴンドラで待ってたんじゃ……」
「いやぁ、さすがに灯里ちゃん一人に買わせるわけにはと思ってやってきたのだ」
「1人で5人分を買うのは大変ですものね。お客様が気遣ってくださったの」
 やいのやいのとその場に集まる。その中の華麗なアリシアの姿を認めると、暁は一気に直立不動の姿勢へと移った。
「あああ、アリシアさん! こ、こここ、こんにちはっ!」
「あらあら、暁くん。こんにちは」
 必要以上にどもって挨拶をする暁にうふふと笑うアリシア。そして彼女は客人の相手へと戻る。もっとも、ただの立ち話に過ぎないが、それに由紀も加わった。元々最初に一人灯里を迎えに出たのは由紀であったのだから、まさか残りの人間まで出張ってこようとは予想外だったのだ。
 そこで飽きもせずに始まる言い争い。間にアリシアがなだめているものの、特に収まる風でもなく……。遠巻きにそんな姿を見ながら、暁はじゃがバターを買いかける灯里にぽつりと侘びを入れた。
「アリシアさん、お客様……なるほど、もみ子今は仕事中だったのか。それは悪いことをしたな」
「いえ。でももみ子じゃありませんから」
 先ほどからの灯里の言動で、暁は事情を察する。遊びではないがちょっと用があって下に来ていた彼にとってみれば、あまりだらだらと一緒にいるわけにはいかないと思った。
「ってぇ、今日の客はウッディーなのか!?」
 ちょっと遅ればせではあるが、暁は宇土の存在に気がついた。最初はアリシアしか目に入ってなかったという事の表れであろう。そんな彼の大声に、宇土、そして由紀とアリシアも彼の方を向いた。
「……由紀ちゃん、またウッディーと呼ばれてしまったのだ」
「つくづくそっくりなのねぇ。いっそ改名したら?」
「そういう問題ではないのだ由紀ちゃん」
 がくっと肩を落とす宇土。そんな彼の肩をぽんぽんと叩く由紀。先ほど彼女に頭をぶたれた暁としては、よく見知った顔を持つ宇土とのそんなやり取りが不思議でたまらない。ただただ首を傾げるばかりである。
「……違うのか?」
「はい。そっくりなんですけど、別人なんだそうです。綾小路宇土さんといって、ウッディーさんと同じ名前なんですけどね、でも別人なんだそうです。世の中には自分とそっくりな人が3人はいると言いますけど……」
 唸り唸って非常に納得のいかない暁。と同時に、灯里自身もまだ納得がいかなかったようである。今更な言葉に、宇土はまたがくっと肩を落としたのであった。
「もう勘弁してくれなのだ……それよりじゃがバターなのだ」
 ひたすら言われ続け、かつ空腹も手伝ってか、宇土の顔は更に沈みがちである。
「あ、そうだったわ。折角皆で来たけど……丁度いいわ、貴方が全員分買いなさい」
 由紀がぴしっと指したのは、先ほどひと悶着あった暁。
「はあ!? な、なんで俺様が!」
「灯里さんの髪の毛引っ張って遊んでたでしょ! 当然の報いってやつよ。っていうかそれくらいの甲斐性見せなさい!」
「ぷいにゅっ!」
「ぐっ、お、おのれ……」
 激しい由紀の剣幕(何故かアリア社長も一緒だが)に、暁はあっさり折れた。すごすごと屋台へ近づき、じゃがバター人数分を注文しにかかる。“まったく由紀ちゃんは強引なのだ”とつぶやく宇土の隣で、アリシアはあらあらといつもの調子であった。
「い、いいのかな……」
 成り行きに暁に事を負わせてしまった気後れから、灯里は遠慮がちにぽそりと呟く。それを聞きつけて、由紀はずんずんと灯里の傍へと歩み寄った。ずいっと顔を正面に近づけ、物凄い迫力である。
「だめよ。乙女はね、本当に気を許した人にしか髪を触らせちゃいけないんだから」
「はひぃ、そうなんですか?」
「そうなんですか、って貴女ねえ……」
 若干嫌がっているようにも見えたが、特に過ぎたものでもなさそうに思えて、由紀は毒気を抜かれたように息をついた。よくよく思い返せば、感情的になっているのは由紀と宇土くらいのものではないだろうか。灯里達ARIAカンパニーの面々といると、余計にそれを感じる。ただ能天気ではなく、その時その時を実に正直に受け止めているような柔らかさ。
 あとしばらくすればほくほくのじゃがバターを食べにかかる。その時もまた色々な話をするのだろう。そしてその中で、また灯里らのほわほわっとした素敵さを知ることになるのだろう。由紀としては、そこがたまらないほどの楽しみになっているのを感じていた。
(ありがとう)
 自らの心に思い描けるだけの人物に感謝の念をこめる由紀。その一方で、また宇土も同じくらいに楽しみの念をこめている。ほんわかした空気が、いつものようにそこを漂うのであった。

<素敵な時間を>


あとがき:
 二作目は、「浪漫倶楽部」より、部長&由紀ちゃんでした。
 原作ARIAにおいては、火鳥君と月夜ちゃんが出ているので、まぁその設定を少々受け継ぎつつ……。
 個人的には、なんとなくながらとりあえずの天野こずえ作品メンバーとして一番に書きたかった組み合わせです。相変わらずながら、二人の掛け合いが好きなもので……(まぁ、あんまり長くないですけど)
 こたびの観光地は特に無し。っていうよりは原作で訪れた土地、ですね。素敵バロメーター。この言葉につきます。菊の話については、他の所から少々情報を引っ張りました。BLADEの、ね。丁度いいのがあったもので。
 折角なので、浪漫倶楽部がらみでもう一回くらいは書きたいなとは思うのですがねぇ。
2006・4・20

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