『黒と銀と……』

 優しい風が、ネオアドリア海をなでてゆく。冬の厳しさも通り越し、だんだんと暖かくなってきている季節。本日もネオヴェネツィアは晴天。観光にはうってつけの日和である。
 本日、ARIAカンパニーが従業員である灯里は、プリマであるアリシア指導の元水上練習に出ていた。場所は丁度サン・マルコ広場の近く。大勢の人が行き交い、集まるこの広場の近くでは、開けている場所でもあるが当然ながら水上を進む舟も多い。特に細い水路に通ずる場所などは、気をつけて進まねばあっという間に衝突を起こすであろう。
 そんな周辺でもあるせいか、人工で出来た潮の流れもやや複雑だ。忙しない動きに、ゴンドラを漕ぐのも一苦労。やがて、灯里が操る黒いそれは人気の少ない岸辺につけられる。乗員二人と一匹は舟から地面へと移った。
「じゃあ灯里ちゃん、ちょっと待っててね」
「はひっ」
 丁度アリシア自身の用事もによりこっちの方まで出てきていた事もあって、一時ではあるがアリシアはその場を離れた。アリア社長と共に残された灯里は、うーん、と伸びをする。ちょっとだけ背伸びした視線からは、真っ青な空と海が綺麗に溶け合って見えた。
「いい景色ですね、アリア社長」
「にゅっ」
 いつもながらに優しい指導を行うアリシア相手ではあるが、水上実習は何かと緊張が多い。半人前であるがゆえの、余計な力が入っているのだろうか。体の一部が少々音を立てた。
「うーん、もっと自然に漕げるようになりたいですねぇ」
「ぷいぷい、ぷいにゅ」
  ちょいちょい
「アリア社長? どうしたんですか?」
 灯里がふと下を見れば、上目遣いに服の裾を引っ張るアリア社長が何かを訴えている。目とは違う方向を指している短い手足。そちらにゆっくりと視線を向けてみれば、一人の女の子がこちらを見ているのが目に入った。背丈は灯里と同じくらいであろうか。年齢も同じかもしれない。
「あのう……」
「は、はひっ」
「貴女、ウンディーネよね?」
「はひっ、そ、そうですけど」
「どうして貴女のゴンドラはそんなに黒いの? 他のゴンドラは皆白いのに」
 言っているその女の子の成り立ちも、随分黒に包まれていた。実におとなしい顔立ち。それを覆う様に、飾り気の無いままに垂らされている長い黒髪。そして真っ黒なワンピースに、これまた黒いカーディガンを身に付けている。そこから目立つといえば、衣装とは対照的にすらっとした細い手足と袖口から覗くその白い肌。しかしそれの白さと、どこか見えない憂いを含んだその表情が、病弱そうなイメージを醸し出している。
 それだけではなく、灯里は何か引っかかるものを感じとった。今の衣装に、更にあるものをプラスすれば、かつて彼女が直に体験したものに直結する人物と相違ない。そのあるものが何かは分からなかったが、しかし雰囲気に圧倒されたのは事実。灯里は慌てて質問に答えた。
「そ、それは、私がまだ半人前だからですっ。一人前にならないと白いゴンドラは漕いじゃいけないことになってまして……。でも、一人前の指導員が同乗ならば、半人前でもお客様を乗せてもいい事になってるんです」
 しどろもどろの口調のそれに、女の子はうんうんと頷いた。視線をゴンドラに向けて、そして灯里に向けると、納得したかのようにもう一度深く頷いた。
「そういうこと。じゃあ、乗せてもらえるかしら?」
「え、ええっ?」
「……ダメなの? 指導員は居ない?」
「い、いえっ、とんでもないです! もう少しすれば戻ってきますので……あのっ、ありがとうございますっ!」
 しどろもどろになりながら、灯里はめいっぱい頭をさげた。先ほどアリア社長が服を引っ張ってまで訴えていたのはこの子の事であったのだ。改めて灯里が顔をあげると、少しばかりの笑顔が目に入る。が、それと同時に、非常に気になるものが視界に入ってきた。
 それは、先ほどやり取りしていた時には何故か気付かなかったもの。彼女の真っ黒な容姿ではない。彼女が左手に抱えているもの。
「あのう……その手に抱いているのは……」
 灯里にとって切実に気になったそれについて尋ねてみる。それは、女の子が片手に抱いている人形であった。気になる視線を投げる灯里に対し、彼女は人形の正面を灯里に向けてやる。片手を曲げて、丁度その腕にそって座らせている状態のそれは、シックな作りながらにレースの飾りが可愛らしい。全体的に黒を基調とした、ゴシック風の衣装を身にまとった、西洋人形。銀の髪とそこに光る紫がかった瞳、そして透き通るような白い肌がたまらなく美しい。灯里は思わず声を上げた。
「うわぁ、とっても可愛いお人形さんですねぇ」
「うふふ、そうでしょう? 普通の人から見ればただの人形だけど、私にとっては天使なの……」
「へええ〜」
 まじまじと人形を見つめる。なるほど、その女の子が天使と言うのもわかるように、その人形の背中には小さな翼が生えていた。しかしそれは服と同じように黒い。物静かな雰囲気を見せているその人形からは、なぜかしらどこか冷たい空気を感じる。もう春だというのに、何故か周囲の温度が低いような……そんな錯覚を覚えた灯里は、無意識のうちの体を震わせていた。
「あらあら、灯里ちゃん。お客様?」
「あっ、アリシアさん」
 用事を済ませて帰ってきたアリシアに、灯里はにぱっと笑顔で応えた。それに気付いてか、その女の子もやや笑顔を見せながら事情を話した。
「ええ、客よ。ゴンドラに乗せてほしいの。行きたいところがあるので連れて行ってほしくて……観光はついでにほんの少しできればっていう程度でいいから」
 要するには、道案内をという事であろうか。とにもかくにも、半人前の灯里にとっては実に嬉しい存在であるのは間違いなかった。
「あらあらすごいじゃない」
「はひっ。とっても嬉しいです」
 素直に賞賛の言葉を受けて、灯里としても自然と気合が入る。よしっ、と両の手を握り締めた。
「じゃあ、お願いね」
 目を見張るほどの美しい人形を抱いたままの女の子をゴンドラへと誘う。後に続いて、指導員であるアリシアが乗り込む。
「あれ……この猫さんも一緒?」
「にゅ」
 不思議そうに首をかしげながら、女の子はゴンドラに一番に陣取っていた猫、アリア社長に目をとめた。先ほども灯里の服の裾を引っ張りながら、自分を気付かせてくれた本人ではある。が、てっきりただの近所の親切な猫、程度にしか思っていなかったからだ。
「はいっ。わが社のアリア社長ですから」
「社長……?」
「はい。この街で水先案内店を営む者はみんな、青い瞳を持った猫をお店の象徴にして仕事の安全を祈願するんです」
「そうなんだ……って、やっぱり猫なのね。随分とふっくらしすぎてるようにも見えるけど……」
 しげしげと、女の子はアリア社長を見つめる。自分自身で猫さんと呼びはしたが、やはりアリア社長を普通に猫だとは納得し難かったのであろう。が、しばらくすると、人形を持つ手をアリア社長からやや遠ざける。
「けど、あんまり人形に近づけないでね」
「にゅ……」
 人形にとって猫は天敵であるということだ。ちょっと冷たく言い放たれ、アリア社長はとぼとぼと距離をおく。
「にゅ」
 そしてアリシアへと抱きつくのであった。
「あらあら、アリア社長。我慢してくださいね。大切なお人形さんを傷つけちゃうと大変ですしね」
「ぷいにゅ〜」
 更にアリシアからも注意を受ける。ショックでアリア社長は瞳を潤ませるのであった。
「準備はよろしいですか? では出発いたします」
 乗員の様子を確認し、灯里はゴンドラを漕ぎ始めた。青い水面を滑り出す黒いゴンドラ。いよいよ、半人前ウンディーネ灯里による、今日のお仕事の始まりである。

◆◇◆◇◆

「ではお客様、右手をごらんください」
 ゴンドラの後から、オールを持つ手とは反対の手、丁度シングルの手袋をはめた手で指し示す。その方向にはたくさんの人で賑わう、開けた場所が見える。
「あちらがサン・マルコ広場です。向かって右から、サンマルコ寺院に時計塔、大鐘楼と並んでいます。えー、サンマルコ寺院はロマネスク・ビザンチン様式建築の傑作と呼ばれてまして、この街の守護聖人である聖マルコを祀るために9世紀に建てられたものです」
「単純に広場ってだけじゃなくて、随分色んなものが並んでるのね」
「はいっ。たとえばあちらの円柱の上に、翼の生えた獅子の像があります」
「へえ〜?」
 手をかざして、女の子は柱を見上げる。翼の生えた、というのは女の子が持つ人形もまた同じ。言葉に興味を持ったのかもしれない。
「あの獅子は旧約聖書に出てくる四頭の有翼動物の一頭で、福音史家マルコを表したものだといわれています。この街に多数存在していて、サン・マルコ広場だけでも14頭もいるんですよ」
 以前暁にも同じ場所を案内する機会もあったせいか、特に詰まることもなく流暢に説明を繋げる。今日は調子よくいけそう、と灯里が思った矢先であった。女の子は柱を見上げていた顔を元に戻したかと思うと、そのまま灯里へと目を向けた。
「……もういいわ」
「はひっ?」
「もういいって言ったの。観光はここでおしまい。後は私の言う場所へ行って頂戴」
「は、はあ……」
 案内が下手だったのかな? と灯里は心からずーんと落ち込んだ。まだ観光案内など、始まったばかり、サン・マルコ広場を紹介しただけである。しかもほんの一部だ。やや涙目。どうも、ガイドそのものにもっと訓練が必要な様であると、心の中で反省の念を強める。
 ただ、元々この女の子は観光どうこうよりも、目的地へ運んでくれる事がメインであった。観光はほんのついで。それでも、灯里としては非常にやるせなかった。

「ではお客様、どちらへ行かれますか?」
 灯里の心中を察してか、気を利かせてアリシアが尋ねる。と、女の子は水平線の向こうを指した。
「サン・ミケーレ島へお願い」
「!!」
 行き先を聞いた瞬間、灯里は思わずオールを落としそうになった。それほどの衝撃が走ったといえばそういうことなのだが、初めて会った時に感じていた何かはこれだったのだ、という事に見事突き当たったのだ。
 過去に一度、灯里は真っ黒なドレスを着た噂の君に、サン・ミケーレ島へと誘われ……。危ういところを猫妖精(ケット・シー)に助けられたという経験を持つ。今回はその噂の君とはもちろん違うと感じていたが、過去のフラッシュバックが起こるのは免れなかった。
 すっかり口がきけない状態となってしまった灯里の代わりに、アリシアが会話を繋げる。
「サン・ミケーレ島……あそこは墓地以外何も無いところですけど……」
「いいんです。私、元々そういう場所を探してやってきたんですから」
「そういう場所を探して? それはどういう……」
 訝しげにアリシアが更に尋ねようとした折、女の子の持つ人形にアリア社長がずずいと迫っていた。ゴンドラに乗る際に注意を受けたものの、アリア社長としてはずっと気になっている存在であったのだ。いやそれよりも、目的地の名を聞いた時の灯里の反応を敏感に感じ取っていたのだ。それは少なからずも恐怖、そして畏怖の念。恐い思いをしている社員のフォローをせずに社長は務まらない。
 幸か不幸か、丁度その女の子はアリシアへ視線を向けているせいか、彼の存在に気付いていない。何か事を起こすならば、今がチャンスなのである。
「にゅ」
 が、アリア社長ができることといえば、そうバリエーション豊富ではない。ひとまずは気付かれないように人形へと近づいて……近づいたはいいがさてどうしようという段階であった。何でもいい、灯里の恐怖心(?)を和らげる行為ができれば。
 社長の目の前には人形。人形にとっては正に眼前の猫。人間にとってもアリア社長のどアップはインパクト抜群。それが小さな人形の立場なら果たしてどうであろうか。心なしか、その人形はわずかに震えているように見えた。そして……
  れろん
 アリア社長の舌が、人形を襲った。
「ひぃっ!」
 小さな、それでいて実によく通る声が上がる。だがそれは、人形の持ち主である女の子のそれではなかった。
「え……に、人形が……動い……た?」
 口をぱくぱくさせながら灯里がつぶやく。同じようにアリシアにアリア社長が見ている前で、その人形は女の子の手を離れてゴンドラ上に素早く、しかし静かに降り立った。アリア社長になめられてべっとりしているその顔を、女の子はハンカチで優しく拭きにかかる。
「もう……水銀燈、動いちゃダメじゃないの」
「冗談でしょ、めぐ? 猫に顔をなめられてじっとなんてしていられるわけ無いわ。ばっかじゃないの!」
「あーあ、目的地変更ね」
「何のんきな事言ってるの! 早く拭いてちょうだい!」
「慌てなくても今拭いてるわ」
 アリアカンパニーの従業員側としては、今眼前で起こっている光景に驚くしかできなかった。不思議な事や素敵な事を数多く体験してはいるが、これは正に初のこと。ただ目を丸くするばかりである。
 やがて、綺麗に顔を拭き終わったのか、めぐと呼ばれた女の子はハンカチをポケットにしまいこんだ。水銀燈と呼ばれた人形はといえば、ゴンドラの縁にぽふっと当たり前のように腰掛けた。ついでに、アリア社長をぎろりとにらむのも忘れない。その視線に、アリア社長は慌ててアリシアの背後に隠れるのであった。
「それにしても、私が最後まで動かずに居たら墓場になんて……まったくもってよくわからない条件だわ。普通逆じゃないのぉ? 私が動かずに居たら貴女が望む墓場に行かない、とか」
「普通なんてつまらないでしょ。もっとも、おかげで違う結果になっちゃったけどね」
「あなた本当にイカれてるわぁ」
 さっきの皆の反応もどこへやら。当たり前の日常のように会話を交わす。そして、くすくすと笑いながら、めぐは灯里へと顔を向けた。
「というわけで……ウンディーネさん。予定変更して、観光に戻ってくれないかしら。まぁそれもある程度したらもういいから適当なところで下ろして頂戴」
「…………」
 呼ばれた。しかし声が出ない。返事ができない。灯里としては何をどう反応したらよいのやらが頭の中で分からなかった。その目は、今まっすぐに水銀燈に向けられている。
「なぁに。私が気にかかるわけぇ?」
「ほらぁ、水銀燈が動くから驚かせちゃったじゃない。恐がってるわ、絶対」
「人形が動いた程度で恐がるわけ? 人間って本当に面倒ね」
 やや軽いため息と共に冷ややかな視線を送る。だが、灯里の中を満たしていたのは恐怖などではない。彼女の目だけみれば分からないかもしれないが、それはまさに好奇心のそれであった。やがてみるみるうちに灯里の顔が綻んでくる。口元がゆるりと曲がり、頬につやが現れる。
「すっごぉーい! すごいすごい、すごいですお客様! 私、動いて喋るお人形さんなんて初めて見ました! しかもそんなに可愛い人形が!」
 喜びをいっぱいに含んだ声を、灯里は大きく上げた。びくっとしたのはめぐと水銀燈だけではない。同乗していたアリシアやアリア社長も同じ。意外といえば意外な灯里の反応に、今度はお客二人の目が丸くなる。そして流れる少しの沈黙。それを破ったのはアリシアの声であった。
「うふふ……さあ灯里ちゃん。観光案内に戻らないとね」
 先ほどの驚嘆の表情はどこへやら。アリシアもいつもの笑顔、いつもの優しい目に戻っていた。その指導の言葉に、灯里は慌ててオールを握りなおす。
「……あ、はひっ! うわあ、きっとARIAカンパニー史上初ですよね、喋るお人形さんのお客様って」
「あらあら、ひょっとしたら水先案内人史上初かもしれないわよ?」
「うわあーひっ」
「あらあら」
「ぷいにゅっ」
 灯里の陽気さにつられて、アリア社長も顔を出した。きょとんとしている水銀燈を、さっきのお返しとばかりにきらんとした視線を送ってやる。やがてそれに気付いた彼女は、ぷいっとそっぽを向いて流す。めぐはといえば、“へえ……”と逆に驚かされ、それでも少し感心したような表情を浮かべていた。

 一度はサン・ミケーレ島へと向いたゴンドラの進路が、サン・マルコ広場へと向けられる。人形騒ぎで惑っている間に潮に流されたのか、結構離れたところまできていた。
「ところでお客様、どうして私のゴンドラに乗りたいって思ったんですか?」
 ゆったりゆったり舟をこぎながら、灯里が質問を投げる。案内人としては気になるところ。サン・ミケーレ島を目的地としていた客となればなおさらである。
「それは、このゴンドラが黒かったからよ。丁度この……水銀燈の黒い羽のように……」
 ちらり、とめぐは水銀燈の背中を指差した。それでもその視線の先は遠く、灯里達とは反対方向。しかも、あるはずの無い遠い遠い場所を見据えているようでもあった。
 そのまま、沈黙の空気が辺りを包む。結局は、暗い雰囲気からは逃れられないのだろうか。が、しばらくするうちに目的地が近づくと……。
 一気に、ゴンドラの空気が変わった。賑やかな雑踏と、ぶつかりあう波の音に包まれてゆく。さあっ、と吹いて来る心地よい風を受けながら、揺れる髪を押さえて思わず目を細める面々。先ほどの気まずい雰囲気もすっかり消え、丁度二人をゴンドラに乗せて出発した時のようだ。
 また、いつの間にかすっかり慣れたのか、何故か彼女の足元にはアリア社長が鎮座している。もっとも、それでも相変わらず水銀燈はアリア社長から目を逸らしていたが。更に言えば、警戒心たっぷりである。いつまたアリア社長の攻撃がくるかもわからないからだ。
 やがて、舟はサン・マルコ広場……丁度観光案内の続きができそうな場所までやってきた。再びウンディーネとしての実力のみせどころ。今度は途中で“もういい”などと言わせない。頑張るぞ、と灯里は気合を入れた。
「あっ」
 いよいよ観光案内が始まろうかというゴンドラ漕ぎの最中、灯里は、サン・マルコ広場へ向かうとある人物をみつけた。それは彼女にとっては非常に見知った顔である。さっき入れた気合もどこへやら。ついつい、いつものクセが飛び出してしまう。
「アリスちゃーん、おおーい」
 ぶんぶん、と大きく手を振る。そしてまた大きな声。声をかけられた本人であるアリスは、遠いながらも何事かと振り返る。向こうもこちらに気付いたようである。
 だが、案内人である彼女が、仕事中に知り合いへ声をかけるなど言語道断である。手を振り終えた灯里に対して、アリシアが指導員らしき注意を投げかける。
「あらあら灯里ちゃん。今は仕事中でしょ? 個人的な知り合いに声をかけるとかしちゃだめよ」
「あっ……す、すみません」
 以前の水上実習においても、これは晃から激しく注意された事柄だ。まだまだ抜けきっていないのは、彼女の性格かもしれない。慌ててしゅんとなる灯里であった。
「うふふ、次からは気をつけましょうね」
「はひっ」
 アリシアからの注意は、実にのんびりしたものである。あまりにも呑気なそのやりとりに、水銀燈はついついツッコミを入れたくなる。
「……平和ねぇ。貴女それは甘やかしすぎじゃないのぉ?」
「うふふ、大丈夫ですよ」
「ふぅん……って、ちょっと待って。さっきなんて呼んだの?」
 軽いアリシアの返答にも軽く流す水銀燈。そして後から気付いた、灯里が呼んだ人物の名に。まじまじと投げるその視線に、灯里はしっかりと反応した。
「え? アリスちゃーん……って……」
「アリス……アリスですって!?」
 ばっ! 水銀燈はと勢いよく対象人物へと視線を向ける。目を細める姿は真剣そのもの。今までのそっけない様相やいいかげんさなどがさっぱり消え去っている。
「あの子がアリス……ちょっと、あの子のところへ連れていってちょうだい」
「ほへ? あの、観光は……」
「そんなものいいから! さっさと案内しなさい!」
「は、はひ〜」
 物凄い剣幕で、水銀燈は怒鳴りつける。さすがにそれに逆らうわけにはいかず、折角ウンディーネの仕事がこなせるかと思いきや、さっきと同じく運び人に逆戻りである。うっかり声をかけたのが原因であろうか、と灯里は再び落ち込んだ。実は今回の二度の案内中断においては、厳密には灯里の責任ではないのだが、そこはまた次なる仕事への糧となることであろう。しっかりと落ち込みを励みにしながら、灯里はアリスの居る方へとゴンドラの向きを変え、そしてゆっくりと進めて行くのであった。
 一方、灯里に声をかけられたアリスはといえば、黒いゴンドラが近づいてくるのを待っていた。丁度趣味の散歩中であった彼女は、名前を呼ばれはしたものの、相手は仕事中という事をすぐに認識し、目を合わせた後に一礼してその場から去ろうとしたのだ。だが、その相手がわざわざこちらにやってくるではないか。しかも乗っている客の視線の先にはたしかに自分がある。一体何事かと、これは待つより他なかったのだ。
 やがて、問題の灯里ゴンドラが岸辺に到着。サン・マルコ広場より離れた、特に人気の無い場所である。気をきかせてアリスが誘導を行ったのだ。彼女が事情を灯里に尋ねようとするより先に、水銀燈は舟を飛び出した。ずずいっとアリスの眼前へ。しかもそれは宙に浮いているのだからびっくりもびっくり、でっかいびっくりである。
「ちょっと貴女!」
「!! あ、はい……な、なんでしょう」
 これまた目を丸くしながら、アリスはなんとか水銀燈の声に反応した。
「貴女がアリス……アリスですって?」
「え、ええ、たしかに私はアリスと申しますけど……何か、御用でしょうか?」
「ふうん……貴女が、アリス……」
 ぐるうりぐるうりと、円を描くように水銀燈はアリスの周囲を飛び回る。まるで品定めをするかのように全身を見回っているようだ。
 一方、ゴンドラに残っている面々のうち、灯里は再度感嘆の声を上げるにいたった。驚きのような大きいものではなく、単純に感心というか、ため息のようなものだ。
「あの水銀燈さんって飛ぶことも出来るんですね……」
「ええ。天使ですもの」
「ほへ〜……」
 灯里の声にめぐが反応する。水銀燈に周囲を飛ばれて落ち着かないアリスとは実に対照的だ。夢中になっている水銀燈をよそに、アリスはそのゴンドラの上でのんびりほわほわの灯里に声をかけた。
「灯里先輩……」
「あっ、な、何? アリスちゃん」
「灯里先輩って……本当に色んなお友達がいらっしゃるんですね……。空飛ぶお人形さんのお友達なんて、でっかい珍しいです」
「あははー、珍しいっていう問題なのかな……」
 やがて、さんざん飛び回った水銀燈は再びゴンドラへと戻ってきた。そして縁へと腰掛けてぽつりぽつりと喋り始める。
「アリスとは……お父様の中だけに生きる少女。夢の少女。どんな花よりも気高くて……どんな宝石よりも無垢で……一点の穢れも無い、世界中のどんな少女でも敵わない程の至高の美しさをもった少女……」
 呪文のようなその言葉に、周囲の面々はただ沈黙を保つのみ。ただ、その視線はアリスへと注がれる。ご大層な表現の元、水銀燈が夢中になって接触を試みた少女へと。
「それが……こんな、人間?」
  ムッ
 水銀燈の言葉に、音にも出そうなくらいアリスは顔を歪めた。
「こんな、とはでっかい失礼です」
 実に不機嫌な顔。その一方で、灯里は相変わらずほけほけ顔である。
「ほへええ、アリスちゃんってそんなに凄かったんだぁ……」
「灯里先輩。でっかいボケはしなくていいです」
「ええ――っ」
 そうかなぁ――と素直に灯里は首をかしげている。その後で、アリシアが“あらあら”と、いつもの暢気な笑みを浮かべている。実に似た雰囲気の顔が並んでいるのを見て、アリスは一つため息をついた。
 ため息といえば、水銀燈も同じである。アリスという名を聞いて急いでやってきてみれば、彼女にとってそれは実に期待はずれのもの。それこそ、彼女がアリスという存在を求めてすごしてきた時間は計り知れないのである。
「……あのぅ、水銀燈さんは、そのアリスという人を探しているんですか?」
「探しているんじゃないわ。アリスには私がなるの。アリスゲームを制してね」
 新たな言葉が登場した。他の面々のみならず、聞いているアリスが一番わけがわからない。特にアリスゲームなどと、自分の名のゲームなどは実に関わりたくない、と言って間違いない。
「……よくわかんないですが、私が思うに……それはでっかいアリス違いではないでしょうか」
「アリス違い?」
「ええ。貴女の仰るアリスさんは、多分別の方ですよ」
「そんなはずないわ。だって、アリスは……お父さまが求めるアリスは……」
「水銀燈」
 頭を抱えて愕然となりかける水銀燈を、めぐが呼びかける。と同時に、灯里の手をとらせてゴンドラから地面へと降り立った。
「もう行きましょ。気が済んだでしょ?」
「めぐ……」
「貴女の求めるアリスは別にいるのよ。いいじゃない、アリス違いなんてのを見ただけでも面白い体験よ」
「何言ってんの? 全然面白くないわ」
 何の慰めにもならない言葉にぷすーとふてくされる。それでも、めぐはすっと人形を腕に抱きかかえた。丁度、灯里に初めて声をかけた状態である。そして、懐から小さな財布を取り出した。
「それじゃあこれが代金だから。今日はもういいわ」
「あ、あのう、お客様……」
 不意に手にお金を手渡され、灯里は名残おしそうに呼び止めようとする。結局、ウンディーネの本業であるちゃんとした観光案内などできてない。いやむしろ、彼女らに振り回されてあちらこちらと移動しただけだ。が、めぐはすたすたと、既に歩き去り始めていた。
 しかし、それに反するかのように、水銀燈はこちらを見ている。そして、ごそごそと懐から何かを取り出した。それは小さいプラスチック容器。
「……私からもあげるわ。アリス違いを見せてくれたお礼という事にしといてあげるから。乳酸菌は体にいいのよぉ」
 薄肌色の飲み物。ほいっと投げられたそれを灯里は受け取る。しげしげと容器を見つめるも、乳酸菌が一体何の関係があるのかわからなかったのだが、お礼の言葉を告げる。
「あ、ありがとうございます」
 釈然としないながらも灯里は素直にお辞儀。それで満足したのか、“ふっ”とほんの少し水銀燈は笑った。とそこで、思い出したようにめぐが、歩く途中で顔だけをこちらへ向ける。
「今度会った時は、サン・ミケーレ島へ連れてってね」
「え、ええっ……!」
 戸惑う灯里に対して、本当ににこりと、恐いくらい自然に笑う。その様相を見て、水銀燈がただ一言ぽつりともらした。
「……ばっかじゃないの」
 近くサン・マルコ広場から届く喧騒に、それはすぐにかき消され、やがて黒髪と銀髪の二人の少女の姿も見えなくなる。後に残されたウンディーネ達の周りを、大きな疑問の空気がいつまでも渦巻いていた。

<止まってゆく心>


あとがき:
一作目は、「ローゼンメイデン」より、めぐ&水銀燈でした。
なんでこの二人になったかってーと…まぁ、作品が自分の中で旬だったから、という他無いですねぇ。
多分このシリーズの作品的な主旨として、本来は天野こずえキャラの誰か…とするべきなのでしょうが、
まぁそれはそれ、これはこれってことで。(後々に色々書くつもりですけど)
今回アリスちゃんがゲスト参加してますが、動機は本文読めば十分分かることでしょうね。
っていうか、この話としてやりたかったのは「でっかいアリス違い」ってのと
水銀燈らと灯里ちゃんのやりとり。……が、なんか暗いしのらりくらりだし。
反省点? 沢山ありすぎるので抜粋します(爆)
ちゅーかいいのかなぁ、乳酸菌ネタなんか織り交ぜちゃって……(そう思うなら書くなって)
以上反省終わり(ぇ
念のため(なんのこっちゃ)もう一つの反省点。指導員として同乗している時のアリシアさんは、
多分必要以上は喋らないんでしょうね…
でもって、多分客人の前ではあらあらうふふは言わないのではと…
まぁそんな事を思ったのでした。けど私の作品では今後も出てくることでしょう(爆)
ついでの追記。めぐが今回黒服なのは、噂の君とかぶせたかったから、っていう程度ですね。
普段寝間着ですから、普段着はどんなのかしらとは思ったのですが、多分白っぽいな…でもあえて黒に。
あと本当は、死への甘美うんぬんって話も織り交ぜたかったのですが…結局遠慮しました。
2006・3・31

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