ユメジュウヤ
〜第八夜〜
〜後編〜


「翔子さん、翔子さん。朝ですよ、起きてください。」

障子から透けて入ってくる淡い光を目にしてあたしは布団をはいで半身を起こした。

「…小鈴は朝強いな〜」

あたしはあくびをしながら身体を伸ばした。

「もう朝食できてますから。支度できましたら一緒に行きましょう。」

「うん、分かった。」

あたしは目をこすりながらそう応えた。

小鈴の後姿を見送ってふと思う。

これは現実なのだろうか…と。

あたし自身、これがユメであるならばタイムスリップしたと言うのもうなずける気がした。

と言うより、強引にそういう考えに持っていきたかった。

現実なら…なんでこうなったのか…

その疑問を片付けるには、それが一番都合がよかった。

けれど、まだ続いているところを見ると、現実のようだった。

いや、それともまだユメの中に迷い込んでるのかな…

ユメと現実―――あたしはこれがあたしのいる状況を解決する糸口だと、その時思った。

しかし、考えても考えても、納得いかなかった。

その時あたしの耳の底で、小鈴の呼ぶ声が響いた気がした。

「やばっ!」

あたしはとりあえず疑問をそっちのけで布団から立ち上がった。

 

 

 

疑問をぬぐいきれないまま朝食を済まして身支度を整えて勘定を済ますと、

宿の入り口には踊り子たちが既に旅支度を整えていた。

小鈴も遅れてその輪に加わるが、少し慌てていたのだろう。

彼女の首の後ろに引っ掛けてある市女笠が曲がっていた。

「小鈴、笠曲がってるよ。」

あたしは小鈴の背中に手を伸ばして笠を元に戻した。

「ありがとうございます、翔子さん。」

小鈴が振り向いて礼を述べた。

あたしは小鈴の顔を見て少し驚いた。

白粉をしていて、口は紅色に染まっていた。つまり、化粧をしていたのである。

ちょっと厚化粧…とも言えなくも無いが、それはあたしの感覚だった。

他の一座の面々も同じような化粧をしている。

こちらでは化粧はこれくらいするのが常識らしい。

「へぇ〜小鈴も化粧するんだ。

でもなんで化粧なんかしてるの?昨日はしてなかったのに…」

「あ、いえ。今度行くところはこの辺りの領主様の御殿なので

化粧をしなければならないんです。」

そう言うと、小鈴の白い顔は桜色に染まった。

「どうした?小鈴。」

「いえ実は…わたしは化粧をするのは今日が初めてなんです。変ですか?」

「いや。全然大丈夫だって。」

「ありがとうございます。」

「それじゃ、あたしは…」

あたしは一座から出て一人で船着場へ歩こうとしたその時だった。

「あ、待ちな。」

「はい?」

あたしは呼び止められて足を止める。

振り向くと、声をかけたのは踊り子の中で一番年配の女性だった。

「小鈴から聞いたんだけどさ、あなたこれから船着場に行くんだって?

船着場へまでならあたしたちと道は一緒だよ。旅は道連れ。一緒に行こうさ。」

小鈴も続いてあたしに呼びかける。

「翔子さん、せめてお見送りさせてください。」

あたしは小鈴がどうしてもシャオと同一人物に思えてならなかった。

シャオのこういうのにあたしは弱い。

小鈴はそれを的確に突いてきたようだった。

あたしは小さく微笑み、承諾した。

「あ、どうも。」

小鈴は笑ってあたしの手を引っ張って来るのであたしは呆れながら笑い、

あたしは芸人一座と一緒に船着場へ行くことにした。

 

 

 

道中の休憩と言うことで足を止めたときは、正直言ってあたしは解放された気分だった。

さっきまで踊り子たちによる質問攻めを受けていたからである。

話好きのアメリカ人みたいに聞いてくるから、あたしはこれでほとほと疲れ果てた。

もっとも、ここは洋服の普及していない時代。

あたしのような洋服を着ている人が珍しく思えるのだから、こうなるのは自然なのかもしれない。

それから解放されて足を止めた所は、海の見える小高い丘だった。

そこから太陽の光を受けて波で明滅する海が見えた。

気のせいか、潮の匂いもあたしの鼻腔を突く気がした。

海岸沿いに民家がちらほらと立っており、船着場には2、3の船が停泊している。

遠くから見ているのでその船は小さい。

まるでミニチュアの町を眺めているような気分だった。

「いつ見ても綺麗ですね、海は…」

小鈴があたしの隣に来て呟いた。

「でもさ、海の綺麗さはここで見るより近くで見たほうがいいんだよ。

気持ちの暗鬱さがすっきり取れたりするからね。」

あたしは海の大きいのが好きだった。

昔から海を見れば元気が出る―――そんなまじないを小さい頃聞いた覚えがあった。

そういえば、それまだシャオに言ってなかったな。

…けどいいか。小鈴もシャオみたいなもんだし。

あたしが小鈴の顔をちらと覗くと、視線が合った。

そして小鈴が言った。

「確かにそうですけど、でもこうやって遠くから見るのもいいですよ。

近くで見える海とは違った海が見えますから。」

小鈴の好きな海は、どうやら一望できる海が好きらしい。

何か普通の人と違って、それで小さな魅力を見つけて愛でるところは、

シャオにも似た節があった事を思い出す。

「ま、そうだね…あたしは嫌いじゃないけど…ん?」

あたしがふと視線を横へ泳がせると、近くの木の根元に何か黒いものがあることに気がついた。

それを手にとって見ると、それは男子生徒が使う革のカバンだった。

「これは…カバンですね…」

「にしても、こういう革のカバンって珍しいなあ…」

正直言って、あたしはこういう革のカバンを使う男子は見たことなかった。

気がついたら小学校の時でさえ革のランドセルを見なくなったほどだから、

逆にこういうものを見ると新鮮な気がした。

「そうですか?皆使ってるじゃないですか。」

「あ…ああ。そっか…」

あたしの常識と小鈴たちの常識は違っていることをすっかり忘れていた。

あたしは革のカバンを木の根元に戻したその時だった。

「す…すいませ〜ん。」

あたしと小鈴の後ろから男の声がした。

この声は聞き覚えがあった。

これは…七梨の声だ。

「あの、その…このあたりに黒いカバン見かけませんでしたか?」

黒の制服にもう見なくなった学生帽をかぶった少年が踊り子たちに尋ねていた。

だが顔はあたしには見覚えのあるものだった。

七梨太助そのものだったからだ。

「知らない」といった返答を聞いて落胆しかけたとき、

小鈴が少年の方へ駆け寄った。

「あの、これですか?」

小鈴は木の根元にあったカバンを少年に差し出す。

「あ!これです。どうもありがとうございました。」

太助に似た少年は小鈴に頭を下げる。

あたしはそのあと、そいつの目の前に現れて訊いた。

「お前…もしかして七梨か?」

あたしは絶対他人だと分かっていたが、それでもなぜか訊かずにいられなかった。

「…え?いや、違います。僕は好太といいますが…」

「…へぇ。」

あたしは思わず笑ってしまったが、当の好太は分からない表情をした。

「あ、あの…」

「あ、いや…あたしの知っている奴でよく似た奴がいたからさ。」

あたしは笑って好太の疑問をいなした。

そして改めて好太と小鈴を見る。

二人そろうとあたしの学校でいちばん有名なカップル―――七梨太助とシャオが並んでいるようだった。

何でここまで華麗なまでに揃うんだろう…

あたしは運命というのが、とても出来過ぎたシナリオに思えた。

「おーい君?」

踊り子の一人が好太に声をかける。

「君も旅の途中かい?どこへ行くのさ。」

「あ、はい。この道の先にある領主様の御殿ですが…」

「へぇ奇遇。あたしたちもそうなんよ。何なら一緒に行かないかい?」

「…あ、はぁ…じゃあ、御一緒させていただきます。」

半ば迷いを含んだ応えだった。

しかし、あたしは好太の応えを聞いたとき、小鈴の中で何かが動いたような、

そんな閃きを覚えた。

それは勘か、それともあたしの偏見か―――

とりあえず、あたしは様子を見ることにした。

けれどその答えは、意外に早く出てきた。

 

 

 

道中、踊り子達による好太への質問攻めが続いた。

あたしがさっきまで受けていた質問攻めの矛先が好太へ行った為、とりあえずあたしは楽になれた。

そのやり取りを傍聴しているうちに、好太は高等学校の一年で、あたしより2、3年上だというのがわかった。

好太はどうやら休みを利用して伊豆を旅している途中、

旅の荷物を入れた革のカバンを忘れてしまい、それを探しているところで私たちと出くわしたと言う。

旅をする理由も、どうやら長い一人の生活に嫌気がさして、それで旅に出たと言った。

境遇も何から何まで七梨に似ていた。

それとも運命っていうのは、そういう人だけにこういう状況を与えるものなのだろうか…

一方シャオに似た女性―――小鈴はというと、なかなか質問の輪に入れないのか

おどおどしたまま輪の外で途方にくれていた。

小鈴の表情も幾分暗くなっていた。

その暗さは、仲間に加われない疎外感とも違うものだった。

大切なものを奪われた―――そんな絶望感も内包していた。

なんだか出会ったばかりの七梨とシャオを再現しているようだった。

けれど、その様子はシャオとはまた違っていた。

シャオと違って、よっぽどの内向的な性格なのだろうか…

あたしはふと、昨日の小鈴とのやり取りを思い出した。

「わたし…そう言われたの、初めてで…」

あたしが踊りを誉めた時の小鈴の言葉だった。

おそらく共にしている踊り子たちとは殆ど仕事上の関係だったのだろう。

昨日、あたしに対して輝くような表情で話していたのは、そういう意味があったのかもしれない。

そういえば、道中小鈴に話し掛ける踊り子は、一人もいなかった。

一通り踊り子たちの質問攻めが終わったあとだった。

好太は喉元を抑えて軽く咳をした。

咳が少し乾いている。

喉が渇いてしまったらしい。

もっとも、一通り質問攻めが終わった後だから喉が渇くのも当たり前だった。

あたし自身もそうだったからよく分かった。

小鈴はあたしと同じくらい早くそれに気がついていたが、行動はあたしより早かった。

顔を赤らめて手を僅かに震わせながら、小鈴は好太に恐る恐る話し掛けた。

「あ、あの…」

小鈴は持っていた一本の竹の水筒を好太に差し出した。

何気ない行動だったが、それはそれで充分と思えるほどの魅力がその仕草の中にあった。

化粧をしている小鈴の口元は、照れ顔の割には妖艶だった。

それに好太も少し惹かれたようだった。

応えるように、しかし隠すように好太の顔が赤みを帯びるのを、あたしだけは見逃さなかった。

好太も、まるで小鈴と共鳴しているかのように、おずおずと手を伸ばした。

しかし、好太の手が小鈴の手に僅かに触れたその時!

「!」

「あっ!」

小鈴は反射的に水筒から手を離してしまった。

しかし―――

「よっ!」

あたしは地面に落ちる寸前に水筒をつかみ取れた。

二人の顔を仰ぎ見ると、二人は安堵の溜息をしてた。

あたしはそれを見て二人に微笑んだあと、

「だめだよ小鈴。ちゃんと渡さなきゃ。ほら。」

そう言ってあたしは水筒を小鈴に渡した。

「あ…はい。」

小鈴は改めて好太に水筒を手渡した。

ぎこちなく好太は水筒の水を飲む。

二人とも僅かだが、まだ顔が赤く染まっていた。

「どうしたんだい、小鈴…」

一人の踊り子が小鈴の異変に気がついた。

それに続き、2、3人の踊り子たちもまた小鈴の異変に興味を示した。

小鈴の勇気が周りを変え始めた。

最後に駆けつけたちょっと年配の踊り子が意味深な笑みを浮かべ、

「ませてんだよ、この娘は。どうやら色気づいたようだね。ま、そんな年頃だから仕方ないけど。」

と言うと、小さな笑いが所々で湧き上がった。

それで二人とも、火照ったように顔が赤くなっていた。

あたしも本当は内心では大笑いしていた。

半分予想していたとはいえ、ここまで型にはまったカップルはシャオと太助以外見た事がない。

こういう女の子と男の子って言うのは、いつの世の中でも結ばれる運命なのかなぁ…

と、よぎった思いが確信に変わりかけていたことに気がついた。

二人の間に沈黙が続いていた。

お互い初々しい限りだが、黙っていちゃ進まない。

太助とシャオだって、何か話すことを通して関係が進んだのだから。

しかし、なにか話題を振るにしても、なかなかいい話題が思い浮かばなかった。

その時、一座の先頭を歩いていた女性が声をあげた。

「港町についたよ。」

一座のほかの踊り子たちに小鈴に好太、そしてあたしも道の先に目をやる。

もう町は目の前だった。

 

 

 

たどり着いた港町は意外と賑やかだった。

まるで昨晩の広間の喧騒をテープで再生したかのようだ。

それはちょっと声を出しただけでは、目の前の相手にさえ言葉が伝わらない。

それだから、私は船長との交渉にかえって時間をかけてしまった。

長い交渉の末、一応『良家の令嬢』と言う扱いで一等客席の乗船許可が下りた。

出航は30分後。思った以上に出発時間は早かった。

あたしはその間、船着場で一人一人お世話になった踊り子たちに別れの挨拶をした。

もうすっかり、あたしたちはこの町と一体化していた。

けれど、唯一それと対極的なのがあたしの後ろにいた。

小鈴と好太だった。

あたしは一通り別れの挨拶を述べたあと、二人の方を振り返るが、二人は気付かない。

二人ともただ近くにいるだけで、手も繋いでなければ話もしていなかった。

道中の踊り子たちのからかいが相当こたえたのだろう。

だから、二人はお互いを傷つけないように遠慮していた。

本当は逆なんだけどな…あたしは心中溜息を吐き出す。

こういうもどかしい二人を見るたびに、なぜかあたしの悪戯心に火が灯される。

あたしは安っぽいテレビドラマのような恋愛よりも、

ロミオとジュリエットが経験したプラトニックな恋愛が大好きだった。

内心あたしもそんな恋愛してみたいな…とは思いつつも、

本音はそれを傍観するのが大好きだ。

なぜなら大概こういう穢れない純粋な心の持ち主たちの恋愛ほど、

いじらしく思え、進展がスムーズに進まない。

あたしは決してそういう性分じゃないから無理なのはわかってる。

だからかもしれないが、あたしは冷静に自分を見てみると『世話焼き』なとこがあるのかもしれない。

そう―――あたしの世話焼きと悪戯心は表裏一体だった。

あたしは好太の方を向いて、二人の沈黙をぶしつけに踏襲した。

「おい好太。」

「は、はい。」

突然声をかけられたためか、多少びくついていた。

そういえば、七梨もそうだった。

「もうあんなとこにカバンなんか忘れんなよ。」

「あ…どうも。」

一呼吸おいて返事が返ってきた。

七梨にはないおっとりさだ。

七梨の天然の場合は”じじくささ”だが

好太の天然の土壌は恐らくこれかもしれない。

「それとさ…」

「?」

「もう一つの忘れ物も絶対するなよ。カバンより大事なヤツ。

そいつから手離したら、一生後悔するからな。」

あたしはからかい半分の笑みを浮かべたが、予想通り好太はきょとんとした表情だった。

七梨と同じ天然野郎は疑問符をつけて考え込む。

何を言っているんだろう―――そう思っているのが手にとるように分かった。

そしていい場所で佇んでは相変わらず一途に見つめる小鈴の瞳。

全ての手札がそろった瞬間、好太はあたしに尋ねてきた。

「あの…それはどういうことで…」

予想通りの質問だった。

あたしは一枚の札を切った。

軽く息を飲み込んで、

「アホ!」

と言いながら好太の背中を気合を込めて叩いた。

バシンと小気味良い音がして、只でさえ華奢な体はバランスを崩して

好太はよろよろ数歩たたらを踏み、少し離れた所に立っていた小鈴にぶつかった。

「うわわ!!」

「きゃ!!」

「!!!」

二人がぶつかった刹那―――私が引きつった笑いを浮かべた瞬間、辺りの刻が止まった。

1たす1が何十にもなったからである。

…いやその…ちょおっと、抱きつくぐらいすればいいかなあ…

ぐらいは思っていたんだけど…ここまで上手くいくとは思わなかったなー。

よろけてぶつかった弾みで好太の唇が、小鈴の頬に軽くぶつかった。

「あ…す、すいません。」

「う、ううん…。」

真っ赤になって慌てて体を離す二人。

初心なその反応がまったくもどかしいくらい可愛いったらありゃしない。

一部始終を見ていた他の踊り子たちもそう思ったらしく、口元に手を当てて笑いをかみ殺していた。

中にはお腹まで抱える踊り子もいたほどだ。

その無言が二人には耐えられなかったのか、顔を赤らめてお互い背を向けてしまった。

結構リアリスティックで、結構不器用な二人。天然は本当不器用だ。

…怪我の功名―――そう割り切れ!

あたしはかろうじて笑いをこらえながら内心そう思った。

 

 

 

そんなこんなで船の出港の時間が近づいた。

あたしは甲板に乗って踊り子たちの方へ向くと、踊り子たちは手を振っていた。

振っていなかったのは小鈴と好太だけだ。

あたしの悪戯でちょっとは良くなると思ったが、未だに何も話していないらしい。

あたしは無言を決め込んでいる二人にちょっと発破をかけてやった。

「じゃーな、小鈴。それと好太、小鈴にまたぶつかるなよ。

ぶつかるならせめて真夜中にしろよー!じゃ、お二人さん、仲良くな。」

あたしがからかい口調で叫ぶと、小鈴と好太はお互い顔を見合わせて赤くなった。

その刹那、一座の踊り子たちから大爆笑が始まった。

好太は赤くなった顔を押さえたが、小鈴に限っては照れくささを隠すように

一座の人たちに可愛らしく抗議していた。

あたしもその様を見ておかしくなった。

そして同時に、もうすっかり小鈴が踊り子たちの輪に加われたことに安心した。

一座の踊り子たちの笑いが収まった途端、蒸気船は汽笛を鳴らして出発した。

あたしは視界から小鈴をはじめとした芸人一座の面々が見えなくなるまで手を振り続けた。

小鈴も跳ねながらあたしに手を振り返した。好太もぎこちなく手を振っていた。

視界から彼女たちが消えると、ふとあたしの身体に疲れと眠気が襲ってきた。

あたしは喫茶室に行って珈琲を頼んだ。

がらんとした喫茶室にはあたししかいない。

BGMも海の並の音しかなかったが、逆にあたしにはそれが気持ちよかった。

そのせいか、珈琲を飲んでも眠気は治まらず、あたしはそこで眠りこけてしまった。

心地よい眠りを感じながら、あたしはユメの世界へ昇っていった。

 

 

 

「…お客さんお客さん。」

傍らで誰かがあたしを呼んでいる。

薄目を開けると、あたしは自分がうたた寝をしてたことに改めて気がついた。

「着きましたよ。」

「ぁ…はい…」

私は声にもならない返事をして眠い目をこすりながら喫茶室を後にした。

そして甲板に出て上陸しようとした時、あたしは思わず声をあげた。

「あっ!」

蒸気船だと思っていたが、今乗っている船は明らかに違っていたことに気がついた。

蒸気船でなく、あたしが小さい頃からよく見ていた種類の船―――つまり、現在の船だった。

そして東京湾も、船に乗る前に見た澄んだ水ではなく、汚く濁り、ごみの浮かぶ現在の海だった。

それはあたしが見慣れた風景そのものだった。

こういう対極的なものを見せられれば大概は気落ちするが、

逆にあたしは『帰って来た』と言う思いから、少し歪んだ懐かしさを覚えた。

人は誰もいなかった。

波と海鳥の鳴き声と羽ばたく音しか聞こえない。

賑やかな喧騒は全く見られない。

無意識に寂しさがあたしの甲板を降りる足音に反映されていた。

船から下りて、あたしの足音はコンクリートの固い音に変わる。

あたしがさっきまでいたのは幻想か理想郷だったのか…

そんな心の寂寥感をあたしの足音は煽った。

自然にあたしは、ズボンのポケットに手を入れる。

あっ!

すると、中になにか細いものが入っている感触に気付いた。

それを取り出すと、それは固くて長い巻かれた弦だった。

小鈴の三味線の弦だった。

それはユメという無限の現実への旅行からの小さな、そして貴重なお土産だった。

あたしはそれを握り締めてそれに微笑み、そして再びポケットの中に入れた。

停泊していたはずの船は、その瞬間幻のように消えていった。

 

END


戻る