ユメジュウヤ
〜第五夜〜
私の部屋にはくろーぜっとというものがある。
私はそのくろーぜっとの扉を開く。
その扉の裏には、私の体より大きい鏡があった。
その鏡に映るのは、燃えるような緋色の髪をした、眼の大きい少女―――私だ。
そういえば、寝起き姿をまじまじと見るのも初めてだ。
今は眠気こそないが、なるほど、いかにも眠そうである。
それにしても、鏡とは不思議だ。
本当は光を反射して、私はその反射した光を受け取っているだけにすぎないのに
それでも私には、いや皆は、もう一人の自分がそこにいるという錯覚を受ける。
手を鏡と合わせれば、それは硝子越しにもう一人の私が、ちゃんと手を合わせてくれる。
などと思って、私は自嘲の笑みを浮かべた。
その笑みの奥にあるものは、今一番必要なものだと思い、改めて鏡を見つめる。
万難地天として、それは必要なものだから…
それを改めて再確認した途端、私は不思議な感覚に陥った。
鏡にあわせている自分の手が離れないのである。
「ん?」
声をあげた直後、今度はその鏡から、先ほど手をあてていたもう一人の自分の手が
まるで水中から出てきたかのように鏡の奥から現れた。
「何?」
私は驚いたが、為す術もなかった。
なぜなら、そのもう一人の自分の手が鏡から出た直後に、私の手をしっかりと握ったからである。
加えて握られた途端に、私の体の全ての自由が奪われた感じがしたのだ。
抵抗することもできなければ、私に残された選択肢は、その手に為すがままにされることだけだった。
私はそのまま、もう一人の自分の手の出所である鏡の奥へと引きずり込まれた。
全てが引き込まれたあと、私がもといた鏡の外の世界には、短天扇が落ちていた。
そこは暗い世界だった。
私が主殿に呼び出されるまで、ずっと待っていた短天扇の中よりも…
暗闇は恐怖、そして孤独を象徴する…
私はずっとこの世界に置き去りにされたままなのだろうか…
そう思った時、どこからともなく声がした。
私はその声の発せられたところへ進んでいった。
しかし、私には進んでいるという感覚がなかった。
自分の足は動くものの、地面を蹴っているという足への抵抗がない。
気持ちが空回りしている気分だったが、それでも進んでいたらしい。
聞こえてくる声が、次第に大きくなってくる。
そしてその先には鏡が見えた。
とてつもなく縦に長い、長方形の形をした鏡だった。
私はその鏡を覗き込んだ。
するとその鏡は私を映さず、ひたすら鏡の奥にある何かを映しているようであった。
鏡に映るのは泥混じりの水で、それは勢いよく流れている。
どうやらどこかの川らしい。
「やだよ!怖いよ!」
声は鏡から聞こえてきた。
私はその声に聞き覚えがあった。
私が初めて仕えた主殿の声だ。
そういえば、鏡に映っている川の近くに、大きな城壁が見える。
加えてその周りには高い巌が連なる山脈が辺りを囲っていた。
私はその風景に見覚えがあった。
呂梁(リュイヤン)山脈…確かそうだった。
そういえばあの城壁は万里の長城…
…そうか!
鏡に映るのは、私がまだ幼い主殿に試練を与えようと、黄河に連れてきたあの時なのだ。
どうやらこの鏡は、黄河の中から見えたあの時の風景を映すものなのだろう。
それを確認したとき、変わらない昔の私と、その時仕えた主殿、五虎(ウーフゥ)殿が映った。
そういえば、この時の五虎殿は、まだ六歳を迎えたばかりだったな。
その幼い顔には、試練に対する恐怖によって引きつった表情が露になっていた。
五虎殿の表情を見ることなく、あの時の私は淡々と諭すように言った。
「何を言う、これしきの川も渡れなければ、戦になったときに足手まといになるだろう。
戦のときは今のような服だけで渡るのではなく、甲冑を身に纏って進まなければならないのだぞ。
もし戦に行かずとも、誰かのためにしなければならないことは必ずある。
それが川を渡ることだったらどうするつもりだ?
―――愛する人が怪我をした。
その人はどうしても川の向こう岸に行かなければならない。
その時男である主殿が、その人を負ぶって行かなければならない。
その時、主殿は泣き言を言って終わりにするのか?」
「でも…でも…」
主殿は私の罵りに怒りは覚えても、それでも目の前の試練の恐怖には勝てなかったのは明白だ。
しかし、それは無理もない。
この時の黄河は先日までに降り続けた雨のために増水し、激流となっていたのだ。
まともに泳げなければ、瞬く間に泥の激流に飲まれるのが関の山である。
「主殿、これも試練だ。」
私の、脅える主殿に対しての決り文句が、これだった。
その言葉は、幼い主殿には致命傷だった。
主殿は、その場に崩れて泣き出してしまった。
「できないよ…こんなこと……どうして紀柳は…ぼくを…いじめるの…」
いじめ―――そうかもしれない。
幼い主殿には、いや、大人ですらも難しく、怖いことをさせようとしたのだから…
その時の私は、ただ何も言わず、無表情で主殿を見ていた。
鏡越しにその様を見ていた私は、映っている私の後ろに、また鏡があることに気が付いた。
その鏡に映るのは、困惑した表情を浮かべた私だった。
初めて人に、それが他でもない主に嫌われるという経験をした私が、初めて感じた感情。
誰もこんな感情を好き好んで感じたくは無い。
しかし私は万難地天として生まれてきた以上、これが宿命と思い、
素直に私はそれを享受した。
いや、それしか道が無かった。
享受した私には何時の間にか、それが表れなくなった。
それでもあの時の私は顔に出さないまでも、
あの鏡が映し出すように、素直に感情を受け取っていた。
改めて私はそのときの想いを思い出した。
すると黄河に流れる泥が、鏡の風景を埋め尽くしていった。
全てが泥に覆われ、光を失った縦長の鏡は、次第に形を変えていった。
縦長の長方形ではなく、今度は私と同じくらいの大きさの丸い鏡へと変わっていった。
どうやら池を象ったみたいだ。
形が整うと、光が入ってきて、何かを映し出した。
その鏡に映るのは、樹齢が何十年もあるであろう巨木であった。
その見事な木の枝の一本に、私が佇んでいた。
この木は、私には見覚えがあった。
飛染(フェイラン)殿の家の近くにあった、私がよく鳥と仲良くしていた巨木だ。
そしてそこにいる私は、ただひたすら、あるひとつの光景を見ていた。
その視線の先に映る人物―――飛染殿だ。
飛染殿が山から下りてきて、老いた母のもとに帰り着いた光景…
私が与えた最後の試練を無事終えた以上、私はもう、ここにいる必要はなくなった。
飛染殿の様子を見送ったあと、静かに短天扇を開いた。
短天扇から出た光が私を包み込む。
そして私は短天扇の中に戻っていった。
私はその短天扇の中で、外のときと同じく無表情で、入り口を背にして佇んでいた。
次なる主が、私を呼び出すまで、ずっとこのまま…
そうだった。私はそう決意したのだった…
再び思い出したとき、その当時の私の後ろに鏡が現れた。
鏡には、短天扇の入り口に立ち、ひたすら外界を眺める私が映っていた。
なぜ、鏡の中の私は、あんなことをするのだろうか。
その時、当時の私の想いが伝わってきた。
飛染殿は今ごろ、私を捜しているのだろうか…
いや、そんなはずはない。
私を嫌っていたのだから…
―――当時の私が思っていたのはこうだった。
しかし、鏡の私は、その私の考えと違った想いを抱いていた。
飛染殿はどうしたのだろう…
もしかして私を捜しているのだろうか…
そうだとしたら…
―――鏡に映る私は、切に淡い期待を抱いていた。
結局は、終ぞ私のところに来なかったが…
その事実を認めたとき、鏡の中の私は、短天扇の入り口に背を向けた。
その鏡の私の眼から、自然に一筋の涙が零れた。
その涙の雫が地に落ちたとき、私が見ている鏡に波紋が生じた。
波紋が収まるころ、その時の風景はすっかり、洗い流されていた。
池の形を象った丸い鏡は、再び形を変え始めた。
今度は今までより小さく、そしてまっすぐな辺で作られた長方形の鏡になった。
今度は…どこかの家の窓らしい。
鏡を覗くと、きれいに舗装された道路が見える。
どうやら今の時代を映しているようだ。
その道路に、私と那奈殿が、巨大化した短天扇に乗って降りてきた。
これは…確かある冬の日に宮内神社で主殿たちが雪で遊んでいた一件の後、
私の居場所がいなくなったときに那奈殿が私にかまってきた時だ。
そう、確か目覚ましをかけ忘れて、急いで学校に行こうとしてその時に
那奈殿がいつのまにか乗ってきたときのことだ。
「なんだぁ、もう降りちゃうの?楽しいのに。」
屈託のない笑いで、当時の私に話し掛ける那奈殿。
その顔を見ることなく、当時の私は那奈殿に言った。
「どうして私にかまう?
どうして私に、そんな顔して話し掛ける?」
「…そ…そんな顔?ってどんな顔?」
半ば困惑の表情で呟く那奈殿。
「…もうついてくるな。」
当時の私は那奈殿を振り切った。
この時の私の後ろにも、鏡は現れた。
苛立ち…それに近い想いを抱きながら、那奈殿の想いが何なのかを模索している表情。
答えの見つけられない私…変わりたくないことに固執していた私の惨めな姿だった。
………………あれ?
不思議に、その鏡に映る私は、なぜか色が薄くなっていた。
消えかかっている…そうにも思えた。
どうして?
私は無意識に、鏡に手をつけてさらに覗き込んだ。
すると、目の前のはもちろん、当時の後ろに現れた鏡も突然、
音を立てることなく砕け散った。
気がつくと私は、街の真ん中に独りいた。
しかし、いつもは人で賑わう繁華街の活気はなく、人は誰一人いなかった。
私独りしか、そこにはいなかった。
でも、いったいどうしたのだろう…
人が誰もいない…
そう思ったとき、私はふと傍らの店に目をやった。
しかし、硝子越しに見える店の奥には、動くものは一つもなかった。
!
そのとき私は驚愕した。
その硝子に、映るべきものがなかったのである。
私という存在が…
「え?なぜだ…」
私は硝子に近づいた。
それでもやはり私の姿はまったく映らない。
私はその真向かいの店の硝子を見た。
!!
振り向いた途端、突然視界は空高く聳え立つ鏡に支配された。
「これは一体?!」
そして気がつけば、私は鏡で四方八方埋め尽くされた空間に閉じ込められていた。
しかもその鏡には全て、私が映っていなかった。
ひたすら鏡は鏡を、そして鏡を…無限に映しつづけていた。
私という映すべき存在がいたのにもかかわらず…
「私は…私は……私は…誰?」
鏡に映らない、存在が透明に、いや無に帰したとき、私は頭を抱えて崩れていた。
そして体が小刻みに震えだした。
自分の存在はあるのにもかかわらず、鏡には存在しない。
この矛盾が、私に言いようもない恐怖を与えていた。
「私は…私が分からない…」
向かい合った三組の鏡は、一体いつまで鏡を移しつづけるのだろうか。
そしてそこに映る鏡の回廊は、一体どこまで続くのだろうか…
悩み続け、悠久の時間が過ぎていく気がした。
私は感覚が死んでしまったのか、いつしか震えが止まっていた。
死の恐怖に直面し、その覚悟をした後は恐怖の震えとか、焦燥とかは存在しない。
そのときこそ、水のような澄んだ気分になるというのは、先人たちの決り文句だ。
恐らく今の私はそんな気分なのだろう…
私は静かに顔を上げた。
やはり目の前の鏡には、私は映らない。
だが、先ほどとはちょっと違っていた。
両端と上下の鏡には、私が映っていた。
そこには、悲愴、苦悩、焦燥、憤怒、蒼白、それらを表した私が映っていた。
「私が…映っている…」
そう思ったとき、私の目の前の鏡に、もう一人の私が歩み寄ってきた。
そして鏡の手前で止まると、黙って私を見下ろしていた。
私は立ち上がり、鏡に手をつけた。
すると鏡は泡がはじける如く、硝子が霧散した。
私は鏡の中へと歩み寄り、もう一人の私と向かい合った。
そして私は、もう一人の私に問いた。
「あなたは…誰だ。そして私は誰だ?」
するともう一人の私は
「私は…………………天邪鬼。」
と答えた。
そして私の手を取り、掌に輝くガラスでできた小さな羽をのせた。
私はよく覚えてはいないが、どこかで見た気がした。
「綺麗…」
天邪鬼はそう言って軽く握らせ、鏡の外へ出て行った。
私は握っていた手を開き、その硝子の羽を見つめた。
どこから光が出ているのか分からないが、それでも羽の毛一本一本が煌めいていた。
美しい…私は素直にそう思った。
………………あれ?
私のその感想は、天邪鬼と同じだったのだ。
私は純粋にそう思ったのだ。
ならば天邪鬼は“醜い”とか言うはずだ。
ではあの天邪鬼は…
…
…
…そうか…
私が天邪鬼………………………
…そう言っていたのか……
私は鏡の外への入り口へ振り返る。
そこには天邪鬼と名乗ったもう一人の私はいなかった。
私は羽を軽く握り、そして鏡の外へと出て行った。
気がつくと、私はベッドの上で横たわっていた。
白く閃く朝の陽が、私の瞼を刺激していた。
ふと時計を見てみる。
午前六時五十分。
不思議なことに、私は目覚ましが発動する前に起きていた。
ふと視点をくろーぜっとへ移すと、なぜか扉は開かれ、鏡がこちらに向けられていた。
その鏡に映るのはやはり、寝起きのしまりのない姿をした私だった。
その時、手に何か硬いものを握っていることに気がついた。
それは鏡の中でもう一人の私から渡された、硝子の羽だった。
私は身を起こして、その羽を見た。
背にした太陽の光に反射して、毛の一本一本が白い輝きを放つ。
その毛が全て輝いた途端、その羽は徐々に、四散していった。
「あっ!」
私は一瞬、とても大事なものを失った気がした。
しかし…私の周りに、小さく、そしてやわらかく光る玉が、私を取り巻いた。
光る玉は私の体を中心に螺旋状に飛んでいく。
そして時の経つままに、私はその玉から出る淡い光に身を委ねた。
光は次第に薄れていく。
何かが変わっていく気がした。
鏡を見ると、そこには、天邪鬼と名乗ったもう一人の私が微笑んでいた。
そして徐々に…天邪鬼が消えていった。
それと同時に光は徐々に輝きを失い、辺りは寂漠とした空間へ戻っていった。
『万象大乱!!』
機械で合成された私の声で私ははっとした。
目覚し時計が発動したのだ。
機械音の私の声で大きくなった幾つもの櫛が、私の肢体を貫く槍のように襲い掛かった。
櫛は私が寝ていたベッドの上全てに刺さるよう、避ける隙間もないくらい密集して襲い掛かった。
いつもに比べて少しハードだったが、完全に覚醒もしていたことなので
苦もなく私はベッドから身を躍らせて着地した。
その時、着地した場所の上部からタライが落ちてきた。
たまたま昨日主殿がてれびで見ていたこめでぃのネタをそのまま使ったのだ。
それを身を回転させながら紙一重でよける。
しかし、私は勢い余って私は後ろのたんすにぶつかってしまった。
その際、上に乗っけてあった書物やら何やらが、私の頭上から降り注いだ。
「あっ!」
私はよけきることもできず、その場の落下物をなすがままに受けさせられた。
私の周りには埃が飛び散っている。
埃が落ちきるより早く、私は腰が抜けたようにその場に崩れた。
そしてくろーぜっとの鏡がこちらを向いた。
そこには、たんすの上にあったものをあたりに散らしながら座っている私がいた。
なんだか、寝起き姿を見ているより、ずっと間抜けに見えた。
「…………………………プッ。」
私は体が震えだした。
鏡に囲まれ、震えていたあのときとは違い、とても心地よい震えだった。
「…フフ…フフフフフ…フフフ…アハハハハハハハハハハハハ!!」
私はお腹を抱えて思いっきり笑った。
笑ったのは、初めてかもしれない。
天邪鬼と名乗ったもう一人の私は、分からなくなりかけた私に、大事なものを与えてくれた。
それは、私になかった笑いだった。
私の笑い声は、家中に響き渡るかもしれないほど、大きかった。
END