ユメジュウヤ
〜第七夜〜
私はこんな夢をみました。
私は一人、船の舳先に立っている。
沈み行く太陽は海を紅く照らし、人の持つ海の青い概念を塗り替えていた。
限られた時間だけにできる、紺碧を塗りつぶした夕陽の芸術。
それは、誰もが思わず声をあげてしまうほどの絶景だった。
普段の私がこんな絶景を目にしたならきっと、船の舳先に立って、両手を大きく広げ、
「I'm a king of the world!」と叫ぶのだろうが、今の私にはそんな気力がなかった。
敗北を、心から認めてしまったからだ。
敗北―――私にとって一番大切な人は、絶対に手が届かないということ。
船は汽笛を高く響かせる。
この船の行く先は、何故か私には分からない。
ただ、この船は大海原の彼方へ沈む太陽を追っかけているように進んでいた。
私は答えが返ってくるはずもない事を知りながら、それでも船に問い掛けた。
なんでこの船はそんなことができるの?
それが不可能と分かっていても?
そんな問いかけを愚問だと思っているのか、船は煙突から蒸気を発し、
更に大きな汽笛を鳴らして、太陽へと進んでいく。
つい先ほどまで、私はこの船と同じであったのだ。
しかし、今やもうその行為が何であったのかさえ分からなくなっていた。
よくそんな無駄なことに気力を使っていたなどと思い、自分に呆れていた。
この間までの私の行為は一体なんだったんだろう…
私は甲板に立ち、手すりに寄りかかりながら下を見た。
私の眼下には大海原が広がっている。
そして徐々に視点を前へと移動させる。
海は視界から消えない。
どこまでも夕陽を投影したキャンバスだらけだった。
私の心はそれゆえに、晴れなかった。
海は大きくて、雄大で、辛いことを全て忘れさせてくれる不思議なもの。
そういうものと、ずっと信じていた。
不安とかがあっても海を見れば、いつのまにか吹き飛ぶというのはよくある話。
でも、私の想いまで癒してくれるほど、海は気を使ってくれなかった。
なぜなら、その海を、いや、空さえも染める夕陽こそが、シャオ先輩だったから。
私にとってシャオ先輩は、とても大きな敵だった。
どうしても私は二人を引き離せなかった。
理由は簡単だった。
時間が私に悪戯をしたのだ。
長くいるという経験が、私の邪魔をする。
それはどんなに抗っても、距離は縮まらない。
そしてこの海を紅く染めるように、先輩の心を魅了し、私の入り込む余地は、とうとう無くなった。
何時の間にか私は舳先に立っていた。
凄まじい速さで前進する船は、次々に水泡を作りながら海にクレバスを刻んでは進んでいく。
でもやはりその溝はすぐに埋まってしまう。
残ったのは無残に未練がましく浮いている気泡のみ…
そんな海すらも、私にはシャオ先輩のように思えた。
どんなに七梨先輩との間を引き離しても、その分だけ次は近づいてしまう。
だからたとえその間に先輩に限りなく近づいたとしても、
結局それは重なり合えぬ色彩として終わってしまうのだろう。
どんなにあがいても、所詮ちっぽけな人間は、この広大な海には敵わない。
だから私は悟った。
そんな先輩と私は張り合っていて、今までの私の努力が全て水泡に帰したのだと。
船がいくら海を割っても、最後には必ず戻ってしまうのと同じように…
私の髪の間を、潮風が縫うように吹き抜ける。
潮の匂いがあるからか、妙に私の肌には痛く感じられた。
そして気付けば、私の胸に悲しみが込み上げてきた。
嗚咽も船の汽笛、海を割る船のエンジン音でかき消された。
あまりにも無情。
私の運命自体がそうであるようだった。
何時の間にか私は嗚咽を漏らすことをやめていた。
あまりにも冷たい表情で、眼下の海を見下ろしているだけだった。
自然に私の瞳から一筋の涙が、まるで海へと吸い寄せられるかのように雫となって落ちた。
音は波にかき消されたが、波紋ははっきりとできた。
途端、私は一瞬、すべての音が聞こえなくなった。
そして、私のもう一つの意識が、私のすべてを支配する。
まるで炎が紙を舐めるように、私の頭はもう一つの意識に侵食された。
それに全てを侵された後、私の世界観は全て変えられた。
眼下に広がる海さえも、感覚の常識すら通用しなかった。
新しい感覚のみが、頭の中で響き渡る。
眼下に映る海は血の紅。
海は冷たく、私達の存在を拒絶する。
その本質は、混沌とした死の世界への薄い幕。
船が飛沫を上げて海を割る一瞬にできる溝は、
来世へ生まれ変わるための輪廻転生の入り口。
私の恋は終わり、ここでいつまでも苦しむのなら…
先輩へのこの想いが、無駄に終わってしまうなら…
輪廻の輪をくぐり、遠い地で生まれ変わり、
そして来世で生まれるだろう見知らぬ最果ての地で、
新たなる出会いを見つけ、全ての想いの輝きを放ちたい。
そんな願望が沸いてきたとき、私は気付けば笑っていた。
船が作る溝から覗く死の世界は、悲傷した私を虜にした。
そして私は、自然に足を手摺りにかけていた。
もう私に焦燥といったものは無かった。
私の眼は海に釘付けになっていた。
不思議なことに、それでも甲板に人が来ていないことが分かった。
躊躇はしない。
そして私の行為を止める人もいなかった。
そして私は待った。
死の世界が開く一瞬を。
輪廻の輪が見えるその時を。
その時が、来た!
刹那、私は手摺りを蹴った。
だがその直後、
私の足が手摺りから離れた瞬間に、急に命が惜しくなった。
心からよせばよかったと思った。
なぜ?
輪廻の輪をくぐることは私の意志。
船から縁を切ったのも私の意志。
なのになんで後悔するの?
その疑問を自分に問い掛けた瞬間、
私の頭には、今まで生きてきた13年間の思い出が映し出される。
死ぬ間際に今までの思い出が走馬灯のように駆け巡るというのはこういうことなのだろうか?
そして私は、その思い出の中から、後悔する何かを探し始めた。
時間が早く進んでいく。
過去へと遡る。
私は学校にいた。
外では雨が降り注いでいる。
置き傘はない。
仕方なく私は雨がやむまでそこにいることにした。
玄関で佇む私を尻目に、他の生徒たちは次々と帰路へつく。
私はただひたすら、雨が早く止んでほしいと願って暗い空を見上げていた。
その時、私の横から傘が差し出された。
差し出してくれた人は七梨先輩だった。
「この傘使いな。」
そして私は何も言わず、いや、何も言えず、
まったく自然に傘を受け取り、先輩は雨に濡れて帰っていった。
それから私は、一つの恋物語に身を委ねた。
先輩のあの言葉は、白蛇(サーペント)の誘惑だったのかもしれない。
このときから、恋という題の悲劇が始まったのだ。
それ以来、私は先輩に近づいた。
傘を返した後、先輩の家に遊びに行くなど…
でもやはり、障害があった。
シャオ先輩。
主を不幸から守るという使命を背負った月の精霊。
一途で純粋で、そして先輩を慕っていたシャオ先輩は、とても健気だった。
そんな先輩と私はライバルだった。
もっとも一方的にそう思っていたのは私だけれど…
いつもいつも、先輩と一緒になりたいと切に願いながら、いろんなことをやっていた。
でも、私はあるときを境にそれが無理とわかった。
そして私は悲傷して、それで自ら身を投げて…
あれ?
おかしい!
私の恋物語はまだ終わっていない。
どうして…
…
…あっ!
私は大事なことを先輩にしていなかった。
自分の想いを伝えるということを…
それを伝えなければ、私は終わりを告げることなく消えてしまうのだと。
もしそうなれば、いつまでもいつまでも、自分の悲劇に終わりを告げられず、
ただひたすらに悲劇のサイクルを辿るのみ。
私が来世に想うであろう一途な恋心と信じたものは、
それは前世に繰り返され、忘れ去られた罪というレンガで築き上げた、
忘れることで汚れてしまった手で瓦礫に築いたエデンとなってしまう。
このとき私は悟った。
この悲劇に終わりを告げなければ、
来世で生まれる新たなる命でも、同じ道を通るのだということを。
私はまだ終わりの言葉を告げていない。
再び同じ過ちを繰り返してしまう!
終わりの言葉を伝えなきゃ!
しかし、答えを見つけ、決意したときには既に遅かった。
海が私を頭から襲い掛かる。
無情にも、私は海に襲われた。
海上と海中に響く轟音は、死者を誘う悪魔達の饗宴の合図となり、
天へ向かって聳え立つ水柱は、死を食らう悪魔を呼び寄せるための狼煙となった。
いや、飛沫は風に流され広がっているから、恐らくそれは旗なのかもしれない。
いずれにせよ、私は後悔という足枷を着けながら、死に委ねたことは間違いない。
凍える海はやはり、私という生を拒絶する。
そして今度は私の意識を凍結させる。
それが進むにつれ、私の目の前に悪魔が現れた。
悪魔達が、じわりじわりと近づく。
そして私の肢体を、転生の炎へと誘い、そこへ落とそうとする。
私の体が、意識が、その業火に炙られる。
私は海面を見上げ、そこにポツリと浮かぶ船を見つけ、
悪魔たちを貫くように、思いっきり手を伸ばした。
渦巻く業火、群がる悪魔、私を欲する食屍鬼…それらを貫く矢のように。
彼らに想いを奪われる前に、空高く、気高き想いを舞い上がらせたい。
たとえそれが無駄に終わろうとも…
決して後悔したまま転生はしたくない!どうしても!
しかしその想いはやはり届かず、船が遠ざかるにつれ、全ての意識も薄くなる。
虚無に支配されるに中、私は悪魔に怯えながら、天を仰ぎ、神聖なる言葉を叫んだ。
その直後、私の意識は消え失せた。
輪廻の輪が近づく。
抜け殻になった私を、海の悪魔達が侵食していく。
「…!…で!」
幻聴…私はそう思った。
意識が戻り始める。
何かが聞こえる。
聞き慣れた、凛としている高い声。
「軍南門!急いで!」
…シャオ先輩の声だ。
まだ記憶はある。
転生はされていない。
じゃあ私は…助かったの?
私は眼を薄く開いた。
そして焦点の合わない眼が捉えた光景は、
東洋の甲冑を身に纏った巨大な大男であった。
私はその大男の掌の上にいる。
シャオ先輩の星神だ。
どうやら先輩の星神に助けられたみたい。
どうやら神様は、終わりの言葉を告げさせてくれる時間を私に与えてくれたようだ。
私はゆっくりと船の甲板の上に下ろされる。
私は下ろされた直後、その場にうなだれた。
死ぬ間際で一度は後悔したものの、
やはり私の心の中には、生まれ変わり損ねたことに悲しみはあった。
当たり前だが、その悲しみには涙は必要がなく、
ただ髪から滴り落ちる雫が代わりに涙となっていた。
シャオ先輩が私の所に駆けつける。
「花織さん、大丈夫ですか?」
相変わらず、やさしい声だった。
偽りのない、純粋な言霊。
でも私には今、その言葉が必要なかった。
今はひたすら、気持ちの整理だけをしたかった。
「花織さん?」
「…に…して…だ…さい…」
「?」
「しばらく、独りにしてください…」
私は絞り出すような小さな声でシャオ先輩に訴えた。
シャオ先輩に聞こえたのかどうかは分からないけれど、シャオ先輩は何も言わず離れていった。
甲板の上に独り残された私は、焦点の合わない眼で下を向いていた。
悲しむことも、生き延びたことに喜ぶことも、何もできなかった。
その時、後ろから足音が聞こえる。
私はこの時、こういうときに余計な世話を焼いて余計なことを言う野村先輩かと思った。
足音が私の真後ろで止まった。
そして私は振り向きざまに叫んだ。
「独りにしてください!」
しかしそこには野村先輩ではなく、七梨先輩がいた。
「愛原?」
「あ…せ、先輩…」
驚いて私は何もできなかった。
だがすぐに我に帰り、気恥ずかしさを隠すために下を向いた。
私はしどろもどろしながら、次の言葉を考えていた。
その時、私の頭にタオルがかけられた。
「いつまでも濡れていると、風邪を引くよ。早く着替えてきなよ。」
先輩はやさしく、そう言った。
言霊のこもったその言葉は、私を泣かせるのに十分だった。
私は泣き顔を見られたくなかった。
だからタオルで顔を隠して、そのまま先輩に抱きついた。
「愛原?」
不覚にも、私は嗚咽を漏らしてしまった。
本当は聞かれたくなかったのに…
数秒の間をおいて、先輩はそっと私の頭に手を添えてくれた。
気付けば私は先輩の懐で声をあげて泣いていた。
その時、涙でよく見えなかったけれど、私の視線の先には、
物陰からそっと見ているシャオ先輩の姿があった。
先輩はどうやら、微笑んでいるようだった。
やっぱり、私は勝てなかった…
私は泣き終わったら、先輩に想いを伝えようと決意した。
先輩に、この物語の終止符の打ってもらうために。
End
あとがき
どうもユイちゃんです。今回は第二夜に近い構成で、よりダークにやってみました。
さて、分かると思いますが今回は花織ちゃんのユメです。
しかも失恋の話…
花織ちゃん、結構思い込んだら突っ走る人ですから
もしふられたら自殺とかしちゃいそうだなあ…と思ったので、
今回原作の七夜にある海へ飛び降りることも含めてみました。
(それにしても守護月天で自殺…似合わない要素ですよね…)
でも結構自然な形で演出できたのではないかと思います。
さて、知っても知らなくてもいい裏話。
実はこのユメジュウヤ第七夜はミレニアムの正月早々に完成した作品なのです。
(第五、六夜の執筆ほったらかしでね。)
でもなんでそんな時期に完成したかといいますと、実はそのお正月の三が日があけた早々
私は好きな人に告白したんです。
そして…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
ふられちゃって…
そんな悲しみを抱いてもうそろそろ4ヶ月になりますけれど、そのふられた悲しみに苛まれていたら
何時の間にかこんな作品が出来上がってしまったわけです。
だから今回は花織ちゃんを使うことで、私の当時の心境を投影する作品にもなりました。
その意味で、殆ど自己満足の作品になっちゃっていますけれど、
自分なりに面白く書いたつもりなのでどうかご容赦ください。
なお、この作品はラルク・アン・シエルの「forbidden lover」を
聴きながら書いてしまったため、歌詞が作品に影響を与えていますのでご了承ください。
それでは、次のユメでお会いしましょう。
2000/01/14 第一版完成
2000/05/04 第二版完成