" Kanon" side story "Nayuki's discipline time"



         

      プロローグ


 泣いていた。
 ただひたすらに、泣いていた。

 どうして泣いていたかなんて、思い出せない。

 苦しいことがあったのかなって思う。
 でも、なにがくるしいのかなんて、わからない。

 とめどもなく涙があふれ、
 心が締め付けられるような悲しみだけがあって、

 泣いていた。
 ただひたすらに、泣いていた。

 心がつぶれそうになる。
 体が砕けそうになる。

 消えてしまえば楽なのかなって思う。
 でも、それは叶わない。

 私は苦しまなきゃならない。
 そんな私がまだ「私」でいられるのはなんだろう?

 私の胸の中にある苦しみの中にある、たった一つの暖かさ。
 それは・・・・・・・

 くる。
 あの人たちが来る。

 私を定義してくれたあの人と、『私をくれる』あの人が
 私のパパとママ。

 それがあれば私は待てる。

 壊れた教会。
 冬の小さな駅。

 あの人たちのくれた記憶が、私を作る。


 その人たちの名前は・・・・・・・

                    -unknown-



           1


 どこまでも、空が青かった。
 大地の上で紡がれる人の想いなど知らぬかのように、どこまでも青く輝いていた。
 少女はただ一人、その光景を瞳に映しながら、風を受けていた。
 年のころは8歳くらいだろうか?
 白磁器のように白い肌を陽光に晒し、
 深い海を想起させる青い色の髪を風にたなびかせ、
 茶色の瞳は彼方の水平線を見つめ、『何か』に想いを馳せていた。

「人待ちですか?」
 その少女に、声をかけた者がいた。振り向いた少女の瞳に映るのは、別の少女。
 年のころは17,8程度。
 灰色の髪に青いリボンを巻き、やや浮世離れした印象を受ける。

「待っている・・・」
 幼い少女は答える。
「だれを、ですか?」
 もう一人の少女は問いかける。

「私の・・・パパとママ」
 幼い少女は答えた。
「・・・・・・どちらに、いらっしゃいますか?」
「これ」
 幼い少女はその問いには答えず、一枚の紙片を手渡す。

「これは?」
「・・・多分、ここにいると思う」
 紙片を手渡された少女は、微かに何かに気がついたような様子を見せる。
「懐かしい・・・懐かしい名前です」
「知っているの?」
 幼い少女は問いかける。

「ええ・・・ならば、お呼びするべきですね」
 少女がどこからかポストカードを取り出し、流麗な字で何かを書き込んでゆく。
「まって」
 幼い少女は少女の手を握る。
「それは、あの人たちの幸せを・・・壊すかもしれない」
 上目遣いに見上げる幼い少女の姿は、恐怖に彩られているかのようにも見える。
 少女はしばし呆気にとられたように幼い少女を見つめた。
「あなたは・・・まさか?」
 だが、やがて納得したかのように頷く。

「多分、想像したとおりだと思うよ。
 私が今こうしているのは『約束が果たされたからだから』」
「・・・・・・ならば、尚のことです。
 あなたを縛る鎖を解くことは『あなたのご両親』にしかできません」
 強い調子で、少女は言う。

「そしてそれは『あなたが本当に望むこと』なのでしょう?」
「・・・・・・・・・」
 押し黙り、幼い少女は俯く。
 両肩に手を置き、幼い少女の前にしゃがみ込む少女。
 見つめあう二つの瞳。

「でも・・・それはあの人たちにとって苦しいことだよ」
 半ば泣きそうな表情で幼い少女が言う。
「信じましょう、夏の日の奇跡を・・・そして、あなたがここにいる奇跡を」
「奇跡・・・・・・」
「そう、奇跡です」
 そうして二人の少女は空を見上げる。
「あなたのような存在を生み出すということは、相応の苦痛があったはずです。
 ですが、それは彼らにとってのdisciplineなのです」

「ディシプリン・・・?」
 幼い少女は首を傾げる。
「discipline・・・
 訓練、規律、試練、懲罰といろいろありますけど『苦しいこと』の総称・・・でしょうか」
 頬に手を当てながら少女は答える。

「うん、確かに苦しい・・・罰というのも当たっている。でも『試練』って?」
「強いて言うのなら・・・『壁』です。突破して、次の場所へ行くための」
「そうなんだ・・・そうだね、確かにそれはパパとママの試練だよ。『本当に一緒にいるため』の」
 納得したように少女は頷く。

「なら、迎えましょう。その方たちを」
「うん」
 初めて幼い少女は微笑んだ。
 それは雨上がりの木漏れ日のように。
 それは雪解けの日の春の日差しのように・・・・・・・


         2


「・・・・・・・・・」
 目を開けると、カーテンの隙間から光がこぼれる。
 枕元の時計は、起きるにはまだ早い時間を指していた。

「うにゅ・・・?」
 意識のはっきりしない頭を上げて、水瀬名雪は夢を思い出そうとする。
 遠い誰かが、自分を呼んだ気がしていた。
 それが誰なのかは解らない。ただ遠い・・・遥か遠い昔に、会ったような気がする。

 そのことを思い出すと、胸の中に何か、大きな穴が開いているような気がした。
 それは寂しさでもあり、悲しさでもある。

「ゆう・・・いち?」
 傍らですうすうと寝息をたてる少年・・・相沢祐一の姿を見つめる。
 かつて彼と共に感じた、大きな悲しみと苦しみ。
 それが蘇ってきた気がした。
 酷く激しく、それでいて曖昧な痛みを感じる。

 完治したはずの痛みが、疼くような感覚とでも言えばいいのだろうか?
 或いは幻肢痛のように、失った部分が傷むような感覚なのだろうか?

 それはどちらでも当たりのように思えるし、どちらも違うような気がした。
 私は何が不安なんだろう、と名雪は思う。
 外の空気が吸いたくなった。祐一を起こさないように気を使いながら、ベランダに出た。

「わ・・・まぶしい」
 東の空に太陽が昇る。雲ひとつない青空に、目もくらむような陽光。
 今日もきっと暑いのだろう。

「なんとも、ないよね」
 眠っている祐一を見つめながら、自分に言い聞かせるように名雪は呟く。
 そっと祐一の耳元に顔を寄せ、悪戯っぽく名雪は笑う。
「朝〜朝だよ〜。朝ごはん食べて、学校行くよ〜」
 いつもの言葉を言いながら、
 いつもの朝が始まる。

 どこまでも、空が青かった。
 大地の上で紡がれる人の想いなど知らぬかのように、どこまでも青く輝いていた。

 少年と少女のディシプリンなど知ろう筈もなく・・・・・・





  次回予告

 相沢祐一

 俺達がその町に寄ったのはほんの偶然だった。
 名雪のミスで俺達はその町に降り立つ。

 そこで俺達は、一人の少女に出会う。

 俺達を両親と呼ぶ少女に、俺達はなぜか納得する。

 次回" Kanon" side story "Nayuki's discipline time"

Episode 1: At one time, I despaired of all things

 俺は、まだ何かを忘れているのかも知れない。


Episode 1

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