水妖記(ウンディーネ) その6
〜まもって守護月天オリジナルストーリー〜
静かになった湖面に、月の光がきらめいている。微かに風がそよいで水面に小さな波が立
つたび、水に浮かぶ満月は散らされて、細やかな銀の砂をちりばめたように夜の湖にたゆた
っている。それは、闇に沈む透明なガラス細工が月の光を千々に映しているような風景だっ
た。シャオは、そんな月を見つめながら一人湖畔に腰を下ろしていた。
「太助様・・・」
シャオは、太助がウンディーネを見つけ出したときに感じた胸の痛みを、まだ消化できな
いでいた。
(何でだろう。なんかもやもや。ルーアンさんや花織さんの時と同じ。でも、あの時より、
もっとはっきりしてる。あの時より、もっとずっと不安・・・)
こんな時、太助が側にいてくれたら。シャオは、今すぐ太助の顔が見たかった。見つめ返
してほしかった。
「太助様は、どんな人にも優しいのに。私って、わがままなのかな」
シャオは、ぼんやりと水面の光を見つめていた。と、そっと草を踏んで近づく足音にシャ
オは振り向いた。
「ウンディーネさん・・・」
「シャオさんは、月を眺めるのが好きなのね」
ウンディーネは、静かに微笑みながらシャオのとなりに腰を下ろした。シャオは、さっき
の気持ちを思い出して俯いてしまった。ウンディーネは、そんなシャオにそっと語りかけた。
「私が、こうして叔父に預けられてここにいるのは、さっき話したけれど、本当の理由があ
るの。私達水の精は、お日様や星の光や風や、そんな自然のちょっとしたことと一緒に生
きていて、それは、人間よりも苦しさや悲しさのない幸せな生き方だと思うわ。でもね、
私達には、「心」とか「魂」というものがないの。私の父は、それに満足しなかったのね。
末っ子の私をとても可愛がってくれた父は、私が人と交わって、「心」を得られるように、
ここに送ってくれたの。魂を持つ人間が、私達水の精と結びついてくれることで、私達は
そういったものを得ることができる」
シャオは、月に照らされた白いウンディーネの横顔を見た。
「シャオさん。太助君のこと、好きでしょ?」
「え?・・・私、私は・・・」
シャオは、いきなりの問いに答えに窮してしまった。顔が赤く火照ってくるのが、自分で
も分かって、下を向いてしまった。ウンディーネはそんなシャオを見て微笑むと、顔をあげ
ながらうらやましそうに言った。
「いいなあ」
「え・・・?」
「シャオさんは、太助君のこと、こんなに想ってる。太助君も、シャオさんのことをとって
も大切にしているって分かった。なんだか素敵ね」
ウンディーネは笑顔をシャオに向けると、小さく言った。
「ごめんね」
「・・・どうして?」
「私が現れたから、きっとシャオさんに悲しい思いをさせたでしょ? 私、太助君達と、出
会わない方がよかったのかもね」
「そんなことないよ」
後ろから声をかけられて、二人は驚いて振り返った。いつの間に来たのか、太助が手に毛
布をもって立っていた。
「ごめん。悪いとは思ったんだけど、さっきから聞いてた。シャオが出て行くのを見たから、
心配だったけど、ウンディーネさんもいたんだね」
湖面をそよぐ夜風は、しっとりとして涼しい。太助は、持ってきた毛布をウンディーネの
肩に掛けると、シャオには自分が羽織っていた上着をその肩に優しく掛けて、隣に座った。
「ウンディーネさん、そんなこと言わないでよ。俺達、ウンディーネさんに会えて、とって
も楽しかったし、出会えなかったなんて考えたら、寂しいだろ」
太助は、朗らかにそう言った。ウンディーネは、しばらくその横顔を見つめてから、再び
語り始めた。
「私達水の精は、魂がないから、その命が終わる時には、全て微塵になって消えてしまいま
す。後に残るのは、風や波だけ。私もここに小さな泉を残して、無くなってしまう。でも、
人は魂が残るのでしょう?」
太助は、思いもかけない難しい問いかけに、少し考えるようにして言った。
「魂や心なんて、俺達だってよく知らないし、死んでからどうなるかも分からないよ。ただ、
残るとしたら、そうだな、きっと人の心の中に残るんだね」
「心の、中?」
「そう。人が人と出会って、いつかはいなくなっちゃうかも知れないけど、でも、その人と
会って過ごした時間は、ずっと思い出として残ると思うんだ。俺達は、ここでこうしてウ
ンディーネさんと出会って、話をした。だから、俺達は、ウンディーネさんのことを忘れ
たりしないし、何も残らないわけじゃないと思う」
シャオもまた、遠い眼をしながら太助に応じた。
「私も、これまでたくさんの御主人様にお仕えして、お別れしてきました。でも、どなたの
ことも忘れたことはないですし、今でも私の中に、皆さんいらっしゃいますもの」
「それに、今のウンディーネさんは十分「心」を持ってるんじゃないか?」
「え?」
「ウンディーネさんだって、いろんなことを感じて、シャオの気持ちを分かったりして、そ
れって、ちゃんと心を持っているってことだよ」
ウンディーネは、自分の胸に手を当てて、考え込むように目を伏せた。初めて、自分が求
めていたものを得つつあることに気づいた。以前の彼女は、風が吹くままに、笑ったり怒っ
たりしていた。今は、自分の中に、いろいろな感情が流れ込むように生まれはじめている。
「そう・・・。これが心、なのね。この気持ちが、心があるっていうことなのかしら」
ウンディーネは、目に見えない恐怖を感じたのか、痛々しい表情を浮かべた。
「心って可愛らしいものなのね。でも、何かとても恐ろしいものに違いないわ。本当に、心
なんていつまでもない方がいいんじゃないかしら」
ウンディーネは、潤んだ瞳を太助とシャオに向けた。しかし、その表情には、大きなもの
と向き合い、それを何とか受け入れようとする強さも浮かんでいた。
「魂って、重い荷物に違いないわ。とても重いもの。だって、そのかたちが近づいてくるだ
けで、居ても立ってもいられないほど、心配や悲しみが流れ込んでくるもの」
そんな様子を見て、シャオが自らのことのようにそっとウンディーネの肩をさすった。
「私も、この時代に来て、太助様と出逢って、たくさんのことを知りました。私が知らない
方がいい気持ちと言うのも、今は私の中にあります。そのせいで、今は太助様と離れてし
まうことが怖くてしょうがないの。きっと、今までのように別れを越えることなんてでき
ない」
シャオもまた、この時代で太助と巡り会うことで一つの「心」を手にしたのだ。その不安
も知っている。そして。
「でもね、ウンディーネさん。そのお陰で、今は毎日が、とっても幸せなんですよ」
シャオは柔らかく微笑むと、ウンディーネを見守った。
いつものように軽やかな楽しい気持ちではなく、自分の中に広がる未知なるものへの不安
が、ウンディーネを震わせていた。しばらく、ウンディーネは自分の心を確かめるかのよう
に胸に手を当てたまま目を閉じていた。そして、その奥から、喜びや希望を見つけ出したに
違いない。輝くような笑顔で、こう言った。
「これが心なのね」
その7へつづく