「M」

第4章 side-B


----------------□

『おはようございます』
コンサートの翌日の朝、私はいつものように背をかがめて教授の研究室のドアをくぐった。
『おお西田君、待っていたよ。今日も長身が素敵だね。さぁ入りたまえ』
『はぁ・・・』
今日の教授はご機嫌モードのようだ。
この教授、とかく感情の起伏が激しい。今日のように機嫌のいいときはとても明るいが、機嫌の悪いときはとことん無愛想なのだ。そしてその中間がないというのだから扱いが難しい。
だが、天才というのはこういうものなのかもしれない。
私が助手を務めているこの宗像教授は、情報統計学の分野では世界的な権威と言われていて学内でも一目置かれている存在だ。
企業からのうちの大学への研究助成金も、その80%は宗像教授の力で集まっているといわれている。
だが、学生にはとことん厳しいために、教授の研究室を選択する学生はほとんどいない。
4年前に私がこの研究室を選択して以来この研究室に入ってきた学生は2人だけで、その2人もすぐにやめてしまった。
私が入ってきたときには先輩が1人いたが、その先輩も3年ほど前に教授に追い出された。
機嫌のいいときの教授曰く、私は「今時珍しい優秀な学生」なのだそうだ。もっとも、頭が切れるという意味ではなく、まじめという意味でのみとのお墨付きだったが。そんなわけもあって、大学を卒業した後私は助手としてこの研究室に残ることになった。自分自身他に特にやりたいことなどもなかったし、人付き合いが苦手な自分にとって、変人である宗像教授の助手というのもある意味似合っているなと思っていた。

助手とは言っても、この4年間私は宗像教授の言う「革新的な研究」に協力してきたがその理屈や原理はいまだほとんど分からず、ただ教授の言われることを機械的にこなしているだけに近い。
ただ教授に言わせると、「私のこの理論を本当に理解できるのは世界に12人もいない」とのことだったが。
そういえばその台詞を聞いたとき、「アインシュタインも同じ事を相対性理論を発表するときに言ったそうですね」と言ってしまい、教授の機嫌をまる一週間悪くさせてしまったことがあった。

『西田君、今日の体調はどうかね?女の子の日だったりしないかい?』
『いえ別に・・・』
機嫌が良いときの下品な冗談もいつも通り。いまさらもう気にはならない。
まだ30代後半なのに、なんとも親父臭い冗談だなぁと思う程度だ。
無精ひげを伸ばし、丸いめがねをかけた顔が機嫌良さそうにニコニコしている。
もともとの顔の形は整っている人なので、ちゃんと清潔にして精悍な表情をしていれば格好のよい人なのになぁと私は思った。
頭もいいし、地位もある。だけどその性格のせいで、私が知る限り女っ気は全く無いようだ。

『よし。では人類の歴史に残る記念日に近づくにあたり憂いは何も無いね』と教授は得意げな表情で私に語りかける。
『歴史に残る記念日・・・・ですか?』
『そうだ。昨日の夜、ついにこの集積回路が届いてね。ほれごらん』
そう言って教授は一つの小さなICチップを私に見せた。
ごくありふれた演算用のチップにしか私には見えない。
『ちょいと特注のチップでね。演算チップにやや大きめの容量のRAMを直結させてある。構造自体は単純なんだがね』
『はい』
『処理速度自体はたいしたものではないのだよ。ペンティアム4レベルだ。もっとも速度はあまり問題ではなくてね。大事なのは数だ。まったくインテルのやつらはその辺りをまだ分かっておらんのだな』
『はい』
こういうときは、何も言い返さずにうなずいているに限ることを、私は4年の経験で知っている。
『で、えらく「お速い」らしい新チップが量産体制に入ったということでな、余った旧チップを使って、私が要求していたこのチップをやっとまとまった数提供してきおったというわけだ』
『まとまった数ですか?』私はそう聞き返した。
『あれを見たまえ』
教授があごでさした方向には、はじめてみるダンボール箱の山があった。そうか。昨夜の違和感はきっとこれだったのかな。しかし、確かにかなりの量だ。

『あれ・・・が全部チップですか』私は少し驚いて聞き返した。
『うむ、1万個ほどあるかな』
『1万!?』
『そうだ。それだけあれば私の計算通りの処理が実現できる。理論上、2の1万乗倍の計算速度で処理をこなせるようになるからな』
そういって教授は得意気に丸い眼鏡をずりあげた。
『じゃぁ、教授の研究も・・・』
『そうだ。ソフトの方はもうほぼ完成しているから、あとはあのチップをハードに組み込んで実行するだけだ。どうだい、遂に新しい世界の誕生だよ。全世界の驚く顔が目に浮かぶようじゃないか。そうだろ。はっはっは』と、いつものように大きな声で芝居がかった笑い方をする。
『そうですね・・・本当に動けば・・・』私がそういうと、教授の目がギロッ光り私のほうを向いた。
『い、いえ、本当に動くって言うか、動くに決まってるんですけども。まさに革命的な出来事になりますね』
『そうだろそうだろ。これは革命だよ』
危なかった。ぎりぎりセーフ。

『そこでだ、善は急げだ。早速チップの組み込みを開始してくれたまえ。私はソフトの方の最終調整を行う』
教授は突然まじめな表情になってそういった。
『え・・・っと・・・チップの組み込みと言いますと・・・あれ全部ですか』といって私はダンボールの山を指す。
『当然だろう。その組み込み方も君は分かっているね』
『あ・・・まぁ分かっているんですが・・・・1万個となると時間がかかりますよね・・・・ちょっとやそっとの時間では・・・』私は不安を口にした。
『なに、私の方のソフトの調整も2,3日はかかる。その間に頑張ってくれたまえ』
『2,3日・・・ですか・・・・誰かに手伝ってもらうというわけには・・・』
『駄目だ。こんな大事な作業は君くらいにしかまかせられんよ』
信用されてるのは嬉しいけど・・・・これから72時間ほどぶっ続けで仕事しなくちゃならなくなったという事みたいだ。私は自分の心の中で深いため息をついた。



----------------□


>第5章 side-A

>目次