「M」

第9章 side-A


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『よいしょっと』
そういって矢口は、持っていた大きなカエルの人形を部屋のベッドの上に放り投げた。
『あ〜疲れた。軽くてもやっぱ大きいものを運ぶのは疲れるわ』
ベッドに放り投げれたカエルの人形は矢口の体と同じくらいの体積があるように思える。
そのカエルはベッドの端の壁にぶつかってころりと転がり、その顔を矢口の方に向けた。
『あ〜そんな目で見られると抵抗あるなぁ。やっぱ人形じゃなくて他のものにすればよかったかなぁ』


仕事が終わった後、矢口は石川に付き合って、先日石川がなくしたうさぎの人形を買いに行った。
仕事が表参道で終わったので、六本木ヒルズの昨日と同じ店ではなく表参道の同じ系列店に行ってみたのだが、幸いその昨日のうさぎの人形と全く同じものがあった。
同じ系列とはいえ違う店だったので、矢口が代わりに買わされることもなく、石川は自分でうさぎの人形を購入した。
そして石川が矢口にもなにか人形を買うように薦めたとき、矢口は教授の言いつけを思い出し、消去するものとして人形が適当な大きさだろうと思った。そこで石川の言うとおりに人形を買うことにした。
それがこのカエルの人形だ。
「なんでこんな不細工な人形買うんですか?」という石川の疑問がもっともな人形だった。
だが、消去してしまうんだからかわいい人形はいやだなという思いから矢口は人形を選んだので、このような選択になったわけである。
今リバイバルで流行っているというアニメのキャラクターで、ラザニア好きのカエルという設定なんだそうだ。
子供はこんな不細工なぬいぐるみを喜ぶのだろうかと疑問にも彼女は思うのだが、とはいえ、いまベッドの上からくりくりした目で自分を見つめている姿を見ると、妙に愛着もわいてきそうになる。

『だめだめ、同情は禁物』
そういって矢口は時計を見る。現在まだ夜の10時過ぎである。教授に指定された消去時間まではまだ2時間弱ある。
その間は家族と過ごそうと、矢口は自分の部屋を出ようとした。
その時、バッグの中からモーニング娘。の最新シングル曲のメロディが流れはじめた。矢口はバッグに近づき、ジッパーを開いて、中から携帯電話を取り出す。そして発信者の名前を確信すると、受信ボタンを押した。

『はい、もしもし』
『矢口さんですか?私、渡辺です』
電話をかけてきたのはモーニング娘。の身の回りの世話をする女性マネージャーの一人だった。
まだこの仕事について半年たらずであるため、年は下でも業界では先輩となる矢口に対しては敬語である。声が少々緊張感をはらんでいたので、矢口はきっと急なスケジュール変更か何かだろうと感じた。突然明日の集合時間が早朝になったとかそんなものだろう。
『朝は嫌ですよ朝は。遅くなるとかならまだいいけど』
矢口は軽くふざけて答える。
だが、それに対し
『違うんです、そうじゃなくて・・・・』
渡辺の様子が少しおかしい。
『え?どうしたの?』
『あの、矢口さん・・・・石川さんと今一緒じゃないですか?』と渡辺は尋ねてきた。
『梨華ちゃんと?ううん、さっきまで一緒に買い物してたけど、もうおいら自宅だよ。梨華ちゃんもマンションに帰ったけど』
『そうですか・・・・あの、石川さんが今どこにいるかわかりませんか?』
『ちょっと、どうしたのさ。梨華ちゃんがどうしたの?』
矢口の脳裏に不安が広がった。

『あの・・・・石川さんが・・・・いないんです・・・・どこに行ったのか・・・・』
『えっ?何ちょっとどういう意味よそれ』矢口はあわててそう聞いた。
『石川さんのマンションのエレベータの中に荷物が一式全部落ちてて・・・・でも、部屋にはいなくて・・・』
荷物が落ちていた・・・・ただ事ではない。
『そ、そんな!携帯は!?梨華ちゃんの携帯!』
『それもエレベーターの中に・・・・石川さんのバッグと、大きなうさぎのぬいぐるみと一緒に落ちてるのを他の住人の方が見つけて・・・』
恐ろしい不安が矢口を襲った。
動揺でパニックになりそうだった。
それでもなんとか状況をつかもうと言葉を発した。
『か、管理人さんは何か言ってないの!あそこ管理人さんがちゃんと見てるマンションでしょ!!』
『石川さんが帰ってくるところは確認されたそうですが、それ以後は・・・・』
渡辺は自分の無力さを噛みしめているような声でそう言った。

状況を考えると、エレベータで待ち伏せしていた誰かにに誘拐されたとしか思えなかった。
あのマンションの厳しいセキュリティーをかいくぐった誰かに・・・・。
さまざまな不安と嫌な想像が矢口の脳裏に浮かび、次に吐き気が襲ってきた。
しかし、このまま不安に身を固くしてもいられなかった。
『おいらも今からそっちに行く!』
『えっ、でも矢口さんは、』
渡辺が何かをしゃべり続けようとしていたが、矢口は電話を切り、部屋を飛び出した。

『どうしたの?』
あわただしく玄関に向かう矢口に対し、母が声をかける。
それに対して『ちょっと行って来る』と叫んで矢口は家を飛び出した。


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『おつり要らないから!』
矢口はタクシーの運転手にそう言い放つと、自動ドアが開くのも待てないとばかりにドアを乱暴に押して車から飛び出た。そして目の前の高級マンションの玄関に向けて走る。
やがて玄関のガラス戸の前まで来ると、中に見知ったマネージャーの顔が見えた。マンションの管理人らしき男性2人と話をしている。表情は厳しい。
矢口は玄関のガラスをガンガンと叩く。それに気がついたマネージャーが話をしている相手の一人に何かを言うと、もう一人の相手が近くの壁に埋め込まれたボタンを押した。すると閉ざされていたガラス戸が横にスライドしたので、矢口は中へと走りこんだ。
『山本さん!梨華ちゃんは!?』
矢口は必死の形相で事務所の統括マネージャーである山本に尋ねた。
だが、山本の返事を待つまでも無く、その表情から矢口には事の状況が理解できた。
『今、警察に連絡したよ・・・・すぐに来てくれるだろう・・・・』
山本は力なくそう答える。
『そんな・・・・』
矢口の全身から力が抜ける。
何かの間違いであって欲しい、コンビニの袋でも持ってひょっこりと帰ってきて欲しい。今にも門のところから石川が顔を出すんじゃないか?そして驚いた顔で自分たちを見つめて、「どうしたの?」とあの高い声で聞いてくるんじゃないか?そんな希望を胸に玄関の外を見たが、そこにはただ夜の闇と、無人の門があるばかりだった。

『今日の仕事が終わった後、石川と買い物に行ったんだよな?』
山本が矢口に尋ねた。
石川と買い物に行くことは、仕事中の待ち時間にしゃべっていた。だからこそマネージャーの渡辺もまず矢口に連絡を入れたのだろう。
『はい・・・・原宿のキディランドに行って・・・・そのあとご飯一緒に食べるつもりだったんだけど、荷物が大きかったからもう帰ろっかってことになって。そこでお互いに別のタクシーを拾って・・・・』
荷物が大きいからという理由で食事をやめようと言い出したのは矢口だ。その事実を思い出し胸が締め付けられた。
あのときそんなことを言わなければこんなことにはならなかったかもしれない。一緒に食事に行っていれば・・・・。
矢口の目に涙が溢れ出した。

その時、
『来てください!映像が見れるようになりました!!』
マンションの管理人室の中から女性の声が上がった。
矢口と山本、そして男性の管理人2人の計4人で管理人室の中に入った。
そこでは30歳程度の女性管理人がコンピューターの前で何か操作をしていた。
『エレベータの映像です。管理会社からセキュリティーコードが届きましたので見れます』
最新のセキュリティーシステムを装備しているこのマンションではいたるところにカメラが設置されていて各所を見張っている。ただし、それを誰でもが見れるとなると、今度はプライバシーがどうこうという問題になる。ゆえに、このマンションでは、管理会社からセキュリティコードをもらってはじめてカメラの映像が見れるというシステムになっていた。そしてそのコードが今届いたらしい。
『石川さんの荷物が落ちていたエレベータの映像です。どうしましょう?何時から見れば・・・・』
女性管理人が操作しているPCの隣のTVモニターにエレベーターの内部の映像が表示されていた。
『彼女が帰ってきたのは8時半頃だったよな山下君?』
男性の管理人のうち50歳程度の年配の方が、年下の20そこそこの青年であるもう一人に向かって尋ねた。
『はい、確かそのくらいでした』彼はそう答えた。
『うむ、じゃぁ鈴木さん。8時20分くらいから早送りで流してくれ』
『はい』
そう返事すると、鈴木と呼ばれた女性管理人はキーボードに何かを打ち込み始めた。
どこかでテープが巻き戻されるような音がする。
やがてテープの止まる音がし、暗くなっていたモニターにエレベーターの中の映像が再び映し出された。
エレベータの中には誰もいない。そして画面の右上にはデジタル表示で数字が示されていて
「2005/3/15 20:20:02」とあった。
『早送りします』
女性管理人がそういって再びキーを操作する。
するとデジタル表示の秒表示が、1秒に5回変わる程度の速さで動き始めた。

しばらくは無人の映像が写しだされていた。
だが突然、エレベーターが開き人間がエレベータの内部に入ってくる場面が映った。
『止めろ!』
年配の管理人の声とほぼ同時に、女性管理人がキーを押す。すると映像がこんどは標準の速度で流れ始めた。
そこに映っていたのは間違いなく石川梨華本人だった。
モニター上のデジタル表示は「20:33:41」と表示されている。
『梨華ちゃん・・・』
両手で大きなうさぎのぬいぐるみを抱えている石川の姿をみて、矢口は思わずそうつぶやいた。

映像の中で、石川はエレベーターのボタンを押そうとしていたが、大きなぬいぐるみを抱えながらであるためうまく押せないでいた。
そうこうしているうちに、スーツを着て手にアタッシュケースを持った中年の男がエレベータに乗り込んできた。
そして石川に何か話しかけ、やがて石川のかわりにエレベーターのボタンを押した。
ドアが閉じる。そして映像が軽く震えて、エレベーターが上昇を開始したことをうかがわせる。
『こいつか・・・・』
低い声で山本がつぶやく。矢口もごくりとつばを飲む。
『いえ・・・まさか・・・野々村さんは・・・』
年配の男性管理人が一層低い声でつぶやく。
すると、カメラの振動が止まった。
そしてドアが開きエレベータの中から中年の男が降りていく。石川はその男にむかって軽く会釈する。
そしてドアが閉じ再びエレベータが上昇を開始する。
『違った・・・』
『あの人は4階の野々村さん・・・住人の方です・・・』
ごくごく小さな声での会話。緊張で息がつまりそうな状態に矢口は汗をかき始めた。
全員が緊張しながら映像に集中している。
やがて再びエレベータが止まりドアが開く。
そして石川はゆっくりとエレベータを降り、再びエレベータの内部は無人となった。

『えっ!?』
全員が驚きに思わず声をあげた。
何も映っていない・・・そんな馬鹿な。
しばらく沈黙が続いた。
『ど、どういうことでしょう・・・・』
女性管理人が疑問を口にした。
だが誰も答えられない。

しかしその直後、映像に変化が現れた。
一旦閉じたエレベーターの扉が再び開いたのだ。
そして少しずつ後ろ足で、石川がエレベータの中に後ずさってきた。
石川はエレベーターのドアの先の空間を目を大きく見開いて見ていた。
彼女が何を見ているのかはわからない。だが何か信じられないものを見ているような表情だった。

全員固唾を呑んで映像を見つづける。呼吸が苦しい。矢口の心臓は張り裂けそうだった。
そしてついに、エレベータの奥の壁にぶつかり、石川は逃げ場を失った。
エレベーターのドアのところに何か光るものが見えた。
矢口の脳裏に鋭く光るナイフが浮かんだ。背筋が凍る。

その刹那。
石川は持っていたかばんとぬいぐるみをエレベータの脇に捨て、ドアに向かってまさにその誰かに向かって突撃をした。
『なっ!?』その場にいた一同は驚きに思わず声を上げる。

そして石川の姿は映像から消えた。石川が見ていた相手の姿もない。
そしてそれっきり、人の姿が映像に戻ってくることはなかった。
あとはただ、主人をなくしたぬいぐるみとバッグがエレベーターの床に落ちているだけだった。

『・・・・参ったな・・・・』
しばらくして、年配の管理人がそう言って近くの机を叩いた。
あまりの事の衝撃に、一同はほとんど声をだせなかった。
だが山本がなんとか声を振り絞った。
『エレベータの出口の辺りが映っているカメラはないんですか?』
先ほどのシーンをエレベーターの外から見ようというのだろう。そんな映像があれば犯人の姿も捉えていそうだ。そして突撃した石川の姿も。
『いいえ・・・・カメラがあるのは階段とエレベーター内部、それにこの玄関だけです』
女性管理人が力なく答えた。
『でも、石川の部屋のある14階まで行く時には、必ずカメラに映るようになっているんですよね?』
『ええそうです。玄関は必ず通るはずですし、14階にあがるためには階段かエレベータを使うはず。ですからこのマンションの上の階に行くときには必ず2回はカメラに映ることになります』
『ただどうやって進入したのか・・・・部外者は絶対に玄関を抜けられないはずなのです。ロックもありますし。私どもがしっかり見張っておりますから』女性管理人に続いて、年配の管理人がそう説明した。
『見落とすとかそんなこと絶対にしてませんよ。本当です』若い管理人が付け加える。
その責任を逃れるかのような一言に矢口はむっとした。
『そんなことはどうでもいい!』
矢口が怒鳴るより前に山本が叫んだ。
『あるいは・・・・』
女性管理人が言いにくそうにいいはじめる。
『まさか・・・・このマンションの住人の方ってことは・・・・』
『馬鹿な!このマンションの住人は全員高い地位や身分のあるエリートばかりだぞ!』年配の管理人が否定する。
『エリートだからってそんなのわかんないでしょうが』山本はさらにむっとして叫んだ。

全員が興奮し殺気立ち始めたとき、パトカーのサイレンが響き始めたのに気がついた。連絡を受けた警察がやってきたらしい。
やがて制服の警官が2人現れ、そしてすぐに私服の警官も駆けつけ始めた。
総勢で10人程度に膨れ上がった警官たちはあるものは今矢口たちが見たビデオをチェックし、あるものはマンション内の聞き込みにとそれぞれの仕事を始めた。
矢口もいくつか事情を聞かれたが、それが終わると山本からすぐに自宅に帰るようにと言われた。

『もう少しいさせてください』矢口は山本にそう訴えた。
『だめだ。お前がここにいたって何もできないだろう。それにマスコミもすぐにかぎつけてくるかもしれん。とりあえず家に帰りなさい』
『でも・・・・』
『石川の家族ももうすぐこっちに来る。お前の面倒まで見てられないんだ。分かるな』
『・・・・はい』
矢口はそう答えるしかなかった
『警察の人に送ってもらうように頼むからちょっと待ってろ』


生まれて25年。この世界にやってきて7年。
矢口はこれほどまでの不安な気持ちになったことはかつてなかった。
ただ無事でいて欲しい。それだけを願った。願うことしか出来なかった。
(お願い梨華ちゃん・・・・・無事でいて・・・・)
矢口は涙ながらに願った。
(神様・・・・)
その時、矢口の中で何かがひらめいた。
神様・・・・神様って何よ・・・。


自宅に帰ると、両親が玄関で矢口を待っていた。
『真里・・・・』
石川の話は既に事務所から連絡を受けて知っているようだった。
その表情は心配と不安で一杯だった。
だが、その両親を押しのけて矢口はすぐに自分の部屋に向かった。
『真里、どうしたの?』
母の声は今の矢口には届いていなかった。

自分の部屋に入った矢口は急いでベッドの上の赤いボタンを押して、転送装置を起動した。
そして、手を胸の前に組んでベッドに横たわった。



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