「M」

第6章 side-A


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『おう、真里おかえり』
矢口が家に帰ると、父親が出張から帰ってきていた。
『ただいま』
矢口がそうであるように、矢口家は父親も母親も小柄である。父はその小さな体をソファーにもたせかけて、ちびちびと水割りを飲んでいた。もう結構酒が入っているらしく顔が赤い。
『あんまり飲みすぎちゃだめだよ。この前また酔っ払って戸締りせずに寝ちゃったでしょ。また玄関の鍵が開きっぱなしだったってお母さんカンカンだったよ』
『なに、うちは下で管理人さんがちゃんと常駐で見張ってるから大丈夫だよ。それより真里、ちょっとだけ付き合わないか?』
といって父はグラスを真里の方に示す。
『う〜ん、圭ちゃんとちょっと飲んだしなぁ。明日はレコーディングだしパス!』
『そうかぁ』
父は少ししょんぼりとした様子を見せる。
娘が一緒にお酒を飲んでくれるというのはものすごく嬉しいことらしく、矢口がたまに付き合ってやると父はいつも本当に幸せそうだった。
だから矢口もたまに付き合ってあげているのだったが今日はやめておいた。

『お母さんは?』
『風呂に入ってる』
『そう・・・あっ、ちょっとまたそういうの見てる』
矢口が口を尖らせる。
父が見ているのは、娘が出演している番組のビデオだ。
最近始まったZYXのメンバーが主演しているのNHK教育の連続ドラマだった。
『おう、やはりどんなつまみよりも、真里の出てるテレビは最高だな』
『もう・・・少しは遠慮してね、わかってる?』
『わかってるわかってる』
遠慮の相手というのは矢口の妹の事だ。父が姉のことばかりかまっているとやはり妹としてはいい思いはしないのだろう。矢口のデビュー当時は、姉のことばかりをかまう両親に反抗して、少し荒れかけたこともあった。
だから父親も、妹がリビングにいるときにはあまりビデオの電源は入れず、そのとき流れているTVを見るようにしている。
そして深夜になって妹が寝てから姉が出演しているテレビのビデオをみるという、傍から見ればなんともこっけいな習慣ができていた。

『今日は梨華ちゃんと保田さんと一緒だったのか』
『そうだよ』
『梨華ちゃんは一人暮らしなんだろ。家に連れてきてもいいからな』
『はいはい、そのうちにね』
といっても、矢口にその気はまったくない。
(お父さんが会いたいだけじゃん。まったく可愛い子には目が無いんだから・・・・)
そう思いながら風呂場へ向かう。
『お母さ〜ん、お風呂上がったら言ってね〜、次私入るから』といって風呂場の母へ声をかけた。



風呂から上り、矢口は自分の部屋へと戻った。パジャマに着替え終わって、ベッドの横の時計を見る。
そこにはデジタル時計が二つおいてあり、片方は「P.M.10:32」もう片方は「A.M.8:46」と表示されていた。
『まだ少し早いか・・・』
矢口はそうつぶやいて、部屋の隅においてあるコンピュータ用の机に向かい、机の手前の椅子に腰をかけた。PCの電源を入れてブラウザを立ち上る。そしてブックマークに登録されたサイトを次々に見て回った。それらはモーニング娘。のファンのサイトであったり、矢口自身のファンのサイトであったりと、いわゆる自分たちのファンの声が聞けるページだった。
矢口はそれらの声を次々に読み進めていく。
『うん。やっぱり今回のライブはいつもより全然評判がいいな』
と一人満足そうにうなずいたり、
『最後の娘。ツアーって決めつけてる人多いなぁ』
と苦笑したり。
今回のツアーの千秋楽のステージが、石川の卒業に加え、そこで解散が発表されるという噂まであってとんでもない値段で取引されているのをみてため息をついたりもした。
『あ〜あ、違うのに・・・もったいない・・・』


矢口は以前も、ファンのサイトや2ちゃんねると呼ばれる巨大掲示板をよく読んでいた。
そして、いわゆる悪口サイトと呼ばれる、モーニング娘。や矢口自身に対する悪口の書かれているサイトをおもしろがって読むようになっていた時期がある。
だが、本人はそれで楽しんでいたつもりなのだが、それによって知らず知らずのうちにストレスがたまっていたらしく、精神状態が不安定になってしまったことがあった。
そんなことがあって、インターネットというものとは距離を置いていた時期があったのだが、今回の同窓会ツアーが決まった辺りからまた色々とファンのサイトを覗くようになっていた。
やはり、自分のことを書かれている文章というのはどうしても気になるものである。
だから、あまりはまり過ぎないように注意しながら、ここ最近は数日に1回くらいは自分たちにわりと好意的なサイトを選んで読むようにしていた。
でも後輩たちには、あまりネットはしないようにと矢口は勧めているし、事務所もそういう方針で指導している。
やはり若い子たちには刺激が強すぎる場合が多いからだ。
でもやはり後輩の中には、気になってネットにはまっているメンバーもいるらしく、例えば道重あたりがネットの話をよく楽屋でしていて矢口は少し気がかりに思っていた。


再び先ほどのデジタル時計を見る。
片方は「P.M.11:58」、もう片方は「A.M. 9:10」と表示されている。
『そろそろ大丈夫かな』
そしてPCをそのままに矢口は席を立ち、ベッドへと向かう。途中電灯に下がっている紐を引いて明かりを落とす。
部屋はPCのモニターからの光のみによって照らされる薄暗い空間となる。
矢口はベッドの頭の部分についている赤いボタンを押し、そのまま横たわる。

その直後だった。
彼女の体は徐々にその輪郭を不鮮明にさせていき、まるで空間に溶けてなくなるかのように薄くなっていく。
半透明になった彼女の体を通して、ベッドの彼女の体重でくぼんだ部分が見える。
彼女の体はさらにうすくなり、もはやそこに薄い靄がかかっているだけのようになる。

そして遂には彼女の体は部屋から完全に消え去った。
そこには無人のベッドが残っていた。



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