「M」

第3章 side-A


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『ただいまー』
矢口は玄関の扉を開けると同時に、家の奥に向かって声をかけた。
『おかえり』と家族の声がする。
その声を聞くと彼女はいつも、やすらぎと、そしてさみしさと、そんな2つの感情が混ざり合った複雑な気分になる。

『真里、今日のライブはどうだった?』
リビングに入った矢口にまず母が尋ねてきた。
『よかったよ。みんなも来ればよかったのに』
『でもお父さんが出張だったからね。あんたが行くって言えばお母さんも行ったのに』と母はソファーで寝転がってテレビを見ている妹に向かって言った。
『だって埼玉遠いよー。どうせ今度横浜アリーナでやるんだからさそのときでいいよ』
『たった一人の妹のくせに薄情だねぇ』
『ごはんは?』
『打ち上げで食べてきた。疲れたからもう寝る』
『ちゃんとお風呂に入ってから寝なさいよ。明日に疲れが残るわよ』
『わかってるってばー』
もっとも明日はオフだから疲れが残ったところで構わないんだけどね。
矢口はそう思いながらも、荷物を置いてそのままバスルームへと向かった。



湯船に漬かっていると、今日の疲れが徐々に湯の中に溶けていくようだった。
矢口は浴槽の中で足をいっぱいに伸ばしてリラックスする。ラズベリーの入浴剤の色が目に心地いい。矢口は入浴剤を、香りを楽しむためではなく色を楽しむために使っていた。水についた色が好きなのだ。それは何か透明感のようなものがあって、心の疲れを流してくれると思っていた。
『ふぁ〜』と腕を伸ばして一つおおきな声をだす。
『あんた、お父さんの癖が移ってるわよ』
バスルームの外から母の声がした。どうやら洗濯物を取りに来たらしい。
『嫌なこと言わないでよ』
『あら、親子なんだから当然じゃない。お父さんも湯船に入ると必ず「ふぁ〜」って言いな・・・・あれ?真里のパジャマ無いわね・・・あっそうか乾燥機に入れたままだったわ。とってこなきゃ』
『ちゃんとアイロンかけてね』
『別にパジャマになんかアイロンかけなくていいと思うんだけどね』
『だめだよ。どんなときでも身だしなみが大切なの。よれよれのパジャマ着てるところなんてファンの人たちに見せれないでしょ』
『はいはい。別にパジャマ姿なんか見せることはないと思うけどね』
そういって母は出て行った。


そして矢口は湯船に漬かりながら今日のライブのことを思い出していた。
バックステージまで作り満員に埋まったさいたまスーパーアリーナ。あの会場が千秋楽でもないのにあれだけ埋まったのは圭ちゃんの卒業ライブのツアー以来だ。
モーニング娘。はもう賞味期限切れだって最近はよく悪口を言われているらしい。でも、今日の会場の熱気をみればそんなことはない。矢口はそう自分に言い聞かせていた。
(でも、卒業したみんなと一緒にまたモーニングの歌を歌えるなんて思わなかったな)
矢口にとって卒業という形で仲間が去っていくのはとても辛いことだった。表面上は「おめでとう」と声をかけてはいても、おめでたいと思ったことなんか一度もなかった。
だから、今回の同窓会ツアーの話を聞いたときは本当に嬉しかった。
ハロプロコンでも卒業したメンバーと同じステージには立つことはできる。でも一緒に娘。の歌を歌う機会などはなかった。
(圭ちゃんに、彩っぺ。できれば明日香に紗耶香だって一緒に歌えればもっとよかったのに)
矢口はこれまでの、娘。に入ってからのことを色々思い出していた。仲間と一緒に喜んだこと、そして一緒に泣いたこと。
なぜだかわからない涙が湯船にいくつも落ちていった。


風呂から出て体を拭き終わった矢口は、自分のパジャマがないことに気がついた。
『そっか』
バスタオルを巻いたままバスルームをでて、
『お母さん、パジャマまだぁ〜?』とリビングの方に向かって声をかける。
『今アイロンかけてるから待ってて』という母の声が聞こえた。
『はーい』
答えて矢口は自分の部屋に戻った。

矢口が部屋でドライヤーを髪にかけていると、部屋の外から母の声がした。
『真里、ここにパジャマ置いておくからね』
その声を聞いたとき、矢口の表情が一瞬悲しみにゆがんだ。
『・・・・うん・・・・えっと・・・・部屋の中に持ってきてよ』
『・・・・・・』母からの返事はなかった。
『・・・・ごめん・・・・ありがと』
『・・・・じゃあね』
母の声は寂しそうだった。
矢口は自分の言ったことを激しく後悔した。
無理だとわかっているのに・・・・・なんであんなことを言ってしまったんだろう。

落ち込んだ気持ちで部屋のドアを開けると、そこにパジャマがきれいにアイロンがけされて置いてあった。
『お母さん・・・・』
矢口は赤いチェックのパジャマを顔に押し付け、涙をこらえた。



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