「M」

第15章 side-A


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彼女は自分が何をされているのか全くわからなかった。

いきなり銀色のシールを腕に貼られたかと思うと、そのシールに手を載せたまま、その手の主がニコニコと笑っている。
何かのおまじない遊びかとも思ったが、その手の主はこれまで見せたことのない何か悪寒を感じるような笑顔をしていた。
その表情を見たとたんに、体中から警報が鳴り響き、彼女はその手の主を突き飛ばした。
だが、相手が壁にうちつけられるのを見て、ふと冷静に戻り、声をかけた。
『あ、ごめんなさい、いし・・・っ!!』
その刹那、彼女の体を電撃のようななにかが流れた。
飛行機に乗っているときに、飛行機ががくんと降下したときのような気持ちの悪い感覚。
それが連続して襲ってきた。
自分の視覚、嗅覚、聴覚、触覚、それらの感覚が瞬間的に失われていくのを感じた。


そして、彼女は自分の死を予感した。


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リンクインしてきた矢口が部屋のベッドの上に突然出現する。
それは何の音も光もともなわずに、ただ単純に、瞬間的にそこに現れる。
それはとても奇妙な光景だった。
2つの別々の時間に撮られたフィルムを強引につなぎ合わせたようなそんな印象を矢口は持った。
教授によるとリンクアウト時は後処理による残像が残るのだそうだ。それもいつかは見てみたいと矢口は思った。

もちろん矢口自身が生でリンクインやリンクアウトのシーンを自分で見ることができるはずはない。
この部屋には入れないこの世界の人間にしても同じだ。
だが、さきほど矢口ははじめて、このリンクインの瞬間を見ることが出来た。
それは自分のものではなく、上坂のものだった。

以前から、矢口の部屋は現実世界からモニターできるようになっていた。
それは、他の人間が絶対に入ってこれない、つまり外部環境からの影響をまったく無視することができるという矢口の部屋の特殊な環境ゆえにできたことだ。
だが、自分の寝室を見られるということに矢口、つまり現実世界の西田が抵抗を示したために、このモニターシステムは封印されていた。

しかし、今はそんな場合ではなかった。
上坂は、リンクアウトをこの世界のどこからでも行うことが出来るが、リンクインに関しては必ず矢口の部屋に対して行われる。
つまりリンクインするときにはかならず矢口の部屋に現れるのだ。
だから、このモニターシステムの封印をとき、矢口の部屋を監視することにした。
上坂がシステム内にいるかどうかを判定することは、リンクアウトを検知できない以上、不可能である。だが少なくとも、いつリンクインしたか、どのような姿でリンクインしたかを知っておくことは重要な情報である。
特にリンクインするときの姿は固定なわけではなく、基本的にはリンクイン時に指定するだけでどのような姿にでもなれる。mシステム上にいる人間そっくりそのままの姿でリンクインすることもできるのだ。
だから上坂を特定するためには、その外見をリンクイン時に知っておくことが欠かせない。

そしてモニターシステムを再開して数分もたたないうちに、その映像が人間の姿を捉えた。
それはリンクインしてくる石川梨華、いや、石川梨華の姿をした上坂だった。
上坂はすぐに矢口の部屋のドアのところへ行き、耳をドアにぴったりとつけた。そして外の様子を伺い、やがてドアを開いて出て行った。

今リンクインしたばかりの矢口は、上坂がリンクインしてきたシーンを思い返していた。
彼はいったい何度ここからリンクインしてきたのだろう。
寒気がした。自分の部屋に、上坂が何度も出入りしていたということなのだから。
しかし、今まで一度もかち合うということだけはなかった。
教授は、おそらくなんらかのモニターシステムを上坂が独自に持っているのだろうと言っていた。そして矢口がいないときを狙ってリンクインしていたのだ。そして矢口の家族の目をかいくぐってこの家を出て、さらにマンションを出て行ったのだろう。
このマンションも石川のマンション同様セキュリティーに関してはかなり厳重になっているが、入ってくる人間に関しては厳しくても、出て行く人間に対してはたいしたチェックもない。ここから出て行くことはきっと造作もないことだ。

そんなことを考えていると、部屋の外から母の声がした。
『真里〜、朝よそろそろ起きなさい』
『は〜い、ってかもう起きてる』
矢口はそう返事をした。
『あら珍しい。じゃ朝ごはん作るわね』
そういって母が台所の方へと遠ざかっていく足音がする。

『よかった。間に合った』
こちらの時間で約11時間の間、矢口は現実の世界に戻っていた。だが幸い、それに気づかれることなく戻ってこれたようだ。
こんな時に自分がいなくなったら、また大騒ぎになってしまっただろう。
『教授に感謝しなきゃ。ちゃんと3時間で作業を完了してくれてたんだから』
そういって矢口はパジャマのポケットの中に手をのばす。
そこに角ばった薄い小さな箱が入っていた。矢口はそれを右手で取り出して左手のひらに置く。透明なカバーに守られた赤いボタンが付いた四角い金属のスイッチボックスだ。透明なカバーの下にあるこの赤いボタンを押せば、このmシステムの世界と外部ネットとの接続が切られる。そうすれば上坂はもうこの世界にアクセスすることはできなくなり、この世界の安全は守られるのだ。

『絶対成功させなくちゃ』
スイッチボックスを見つめながら矢口は固く決意した。


パジャマから着替えてから、矢口はリビングへと向かった。
すると、
『もう!何回言えば分かるんですかあなたは!いい加減にしてくださいよ!!』
母が大きな声で怒鳴っていた。
『ちょっとちょっとどうしたのよ朝っぱらからぁ』
矢口はそういって母に声をかける。
『う〜ん・・・確かにちゃんと締めたと思ったんだけどなぁ・・・』と父が首をひねっている。
『多分じゃ困るんです!今がどういう時期が知ってるでしょ!!』
『いやまぁ・・・うん・・・すまん・・・』
父は申し訳無さそうに謝った。
『だからどうしたのよ?』
ともう一度矢口が二人に聞きなおす。
すると、母がややためらった後に、答えた。
『・・・・・お父さんったら、夜中に外に出て戻って来るとき玄関の鍵を開けっ放しにしてたのよ。もう、こんな時期に・・・・・』
こんな時期・・・・・母の言いたいことは矢口には分かった。
そして父もわかっているから、素直に母に怒られているようだ。
だけど矢口は知っていた。
父は、自分のために、最近よく外を見回りに行ってくれているのだ。警官が護衛で常についているのだが、それでもやはり心配なのだろう。

そして、そんな父が鍵を開け放しておくわけもない。
上坂が出て行くときに鍵を開けたのだ。
矢口の家はオートロックではないから、鍵を持たない誰かが出て行けば必ず鍵はあいた状態になる。
『変なやつがいないかと思って夜中にマンションの周りを見回りに行ったんだけど・・・・いや、でも俺が悪いな・・・・すまなかった』
父がかわいそうになった矢口は嘘をつくことにした。
『あの・・・それ・・・おいら』
『えっ?』二人が声をそろえる。
『あの・・・なんかその気になって・・・・外がね・・・・えっと警察の人とかちゃんと見張ってくれてるのかなぁって思って、で、夜中に玄関を一度開けたの。多分そのときにおいらが開けっ放しにしたんだと思う』
『ちょっと真里・・・・』母が呆れたように言う。
『ごめん』
『真里・・・あんまりこういう事は言いたくないが・・・今は変な奴がうろついているかも知れない時期なんだ。あんまり心配させるようなことはしないでくれな』
『はい』
父も母も自分を心配してくれている。愛してくれている。プログラムだとか、作られた感情だとか、そんなものだとはとても思えなかった。

素直に信じればいいのかもしれない。
少し嬉し涙がでてきた。

そんな矢口の涙の意味を、両親は取り違えたらしく、複雑な表情で顔を見合わせた。
そして明るく振るまおうとする。
『しかし、母さんもひどいな。だから俺じゃないって言ったのに』
そういって父は笑った。
『だってあなた、すまんとか言ってたじゃない』
と母も笑う。
『真里はこんなおばさんにはなるなよ』
『きっとなるわよ。親子だもの』
そんな両親の気持ちを感じ、矢口は心の中で両親に感謝した。


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『石川はやはり1週間ほど休ませることにしたよ』
ロケの集合場所に石川がいないのを見てたずねた矢口に対し、マネージャーの緒方はそう答えた。
『昨日のハロモニを見るとな・・・やはりショックが大きいんだろう』

今日は娘。のメンバーはばらばらに仕事が入っていた。
ソロ写真集の撮影を行うメンバーがいれば、TVドラマのゲスト出演の収録をするメンバー、ファンクラブ特典の限定プロモーションビデオの収録を行うメンバーなど様々だった。中にはオフのメンバーもいた。
矢口は今日は石川と二人で生放送の情報番組へ出演する予定だった。そしてそれに先立ち、その生番組で使うVTRのロケ撮りを朝から行うことになっていた。かなり無茶なスケジュールだが、ハロプロではこういう無茶が当たり前になっているところがある。それに巻き込まれる番組のスタッフも大変だ。

石川と2人という状況は、矢口にとって理想的だった。ロケの最中でも、2人きりになれる時間があればそこで一気に勝負に出ようと決めていた。
もちろんそうすれば再び石川が消えることになる。収録は大混乱することになるだろうが、今は手段を選んでいられない。一刻も早く上坂を追い出さなければ、自分の大事な仲間をまた失うことになる。
それに、遅かれ早かれ、市井が消されたことが明るみになるだろう。そうすれば、また仕事なんていってられなくなるに違いないのだ。
(梨華ちゃんがもう一度消える・・・・そして・・・・・今度はもう再び現れない・・・・・)
その時、モーニング娘。はどうなってしまうんだろうか。矢口には分からなかった。でも、やるしかなかった。

『それで梨華ちゃんは?』矢口は緒方に尋ねた。
『あぁ、素直に聞き入れて、家でゆっくり休んでますとさ。まぁさすがにな』
矢口は、本物の石川ならば意地でも自分の仕事に穴を開けたりはしないのにと、心の中でつぶやいた。
『じゃぁマンションにいるんですか?』
『そうだな。それか横須賀の実家に帰ってるかもしれんが。だがその場合は事務所に連絡を入れるように言ってある』
いや、きっと実家には帰らない。だって、実家ではないんだから。
そしてきっとまたマンションを抜け出して誰かを消そうとするに違いない。
どうしよう、こんな仕事をしているべきだろうか?

『じゃぁ出発しますんで、バスに乗ってくださ〜い』
番組スタッフの声が響いた。
『ロケは矢口一人で頼む。生放送のほうには柴田がヘルプで来ることになってるから』
『えっと・・・・はい・・・・』
仕事を抜け出すという選択肢は選べそうもなかった。
矢口は仕事が終わってすぐに石川のマンションへ行くことにしようと思った。
今はそれぞれのメンバーに護衛の警官もついている。そうそう誰かを消すなんてことができるはずはない。
それに上坂は、次は自分の目の前で誰かを消そうとするんじゃないかとも思っていた。だから今は大丈夫なはずだ。

そして・・・・その前にやってやる。
そんな決意を秘めながら、必要以上に足取りに力を入れつつ矢口はロケバスに乗り込んだ。



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