「M」

第15章 side-B


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(トントン)
ドアを控えめにノックする音が研究室に響いた。
『はい』
宗像が答えると、ドアがゆっくりと開き、白髪の小柄な老人が顔をのぞかせた。
『よぉ、宗像君』
『如月さん!』
そういうと、宗像は立ち上がり、横着な彼らしくもなくわざわざドアの方へ迎えに行く。
『これはこれは・・・・うちの大学にこられてたのですか』
そして彼にしては珍しい丁寧な言葉遣いでそう言った。
『あぁ。横田君のところが最近の研究の成果説明会をするというのでな、ちょっと聞きにきたのだよ』
『どうぞこちらへ。ここの椅子をお使いください』
そういって宗像は、如月に研究室の入り口の近くにある応接室、いやとてもそうは思えないくらいに散らかっていたが、とにかくそれらしき場所を示した。
『おう』
そういって如月はゆっくりした動作で歩みだす。
歳のころはもう70か80程度だろうか。杖を持ってゆっくりと歩く動作はいかにも老人風情だが、表情は生気に満ちており、若々しさすら感じさせる。
『相変わらず汚い部屋じゃの』
そういいながら、載っていた資料の類を宗像が片付けてやっと座れるようになった椅子に腰を落ち着けた。
『お茶とコーヒーとどちらにいたしましょう?』
『いや、さっき横田君のところでたらふく飲んできた。何にも要らんよ』
『そうですか』
そういって宗像も、如月の正面のパイプ椅子に座る。
基本的には誰に対してもふてぶてしいのが宗像の特徴だが、尊敬している目上の相手に対してだけはそうではない。その数少ない例の一人がこの如月だった。
神経生理学の権威で、mシステムの神経接続装置、つまりリンクインシステムの設計者である帝都大の桜木教授の師でもある。もっとも権威といっても、既に教授職は引退し悠々自適の毎日なのだが、それでも趣味で研究を続け、その若い発想とアイデアはいまだ多くの科学者にとっては注目の的となっている。

『横田の研究というと、脳の情報を直接読んで、これからしゃべろうとする言葉を読むってやつですな』
宗像が言った。横田というのは宗像と同じ東西大学の、脳医学の教授である。
『うむ。口に出さずとも、心の中で思ったことがモニターに出力されるというやつだ。進展はしておるようだな。まだまだ誤変換が多いが、それなりには出力されておったよ』
如月がそう答えた。
『横田には荷が重過ぎますよあれは。如月さんなり、桜木なりじゃないと無理でしょう。どうせすぐに行き詰りますよ』
『相変わらず厳しいの』
如月は笑って宗像を見た。
『だってまだ一人の被験者からしか読み取れないんでしょう?別の被験者でその装置を試そうとすると、まったく変換できないらしいじゃないですか』
『そのようじゃな』
『人間の脳の働きってのは、個人個人によってまったく違うんだ。だから言語中枢の表面的な情報からモニターするなんていうやつのアプローチじゃ個人個人ごと違う言語中枢の微妙な働きを全部とりこまなきゃならない。アプローチが間違ってるんですよ。もっと脳の底の部分から根源的なデータを取り込む方法をとらないと汎用的なものは作れない。だがやつにはそれが理解できない。あるいは理解してはいても、自分にはそんな難しいことはできないから自分にもできる楽な方法を取ろうとしている。如月さんもそのことは横田に忠告されたそうじゃないですか』
『まぁ好きなようにやってみるがいいさ・・・・失敗は成功の元というからの』
いかにも長い年月を生き抜いてきた人間の答えだった。
『失敗するとわかっている失敗なんて意味はありませんよ』
『ふふ・・・・君のように、わかっていなかった失敗でないと意味はないかの?』
そういって如月は探るような笑顔を宗像に向けた。
『いや・・・・その・・・・・失敗というわけではまだないとは思うのですが』


如月は巨大な円筒形のシステムに目を向けた。
そして視線をその傍らに横たわるリンクインシステムと、その中で眠る背の高い女性にうつす。
さらにリンクインシステムの隣には、大きなピンクのうさぎの人形がその女性を見守るようにしてちょこんと座っていた。
そんな光景を見て、如月は軽く微笑んだ。
『被験者の脳との完全な切り離しがうまくいかんとはの』
少し真面目な表情になって如月が切り出した。
『ええ。全く予期しなかった事態です。既にシステム内の環境構築プロセスは軌道に乗り、西田君の脳の力を借りずとも世界が構成されていくはずなのです。予測ではそうでした。しかしながら、西田君がリンクアウトするや否や、環境構築速度が急激に落ち込み、1時間やそこらでゼロになってしまいます』
『だが、システム単独での環境構築も動いてはいるのだろ。だが、それらのデータは長くはもたない。君は私にくれたメールの中で、まるで拒否反応がシステムの中で起きているかのようだと書いておったな』
『はい。システム世界内の環境の変化、時間の経過による世界の進行、それらにかかわるトリガーはシステム単独でも作れてはいるのです。だが、それらのデータはなぜかシステムのチェックで100%淘汰されてしまう。そして西田君がリンクインしているときに、西田君の脳が生み出したトリガーでないと、システム世界の中では生き残れない。
そしてそれは、データの内容の環境適合性によるものではなく、単に誰が作ったかという情報をもとに選別が行われているということのようなのです。ですからつまり、システムが自分自身がつくったトリガーに対して拒否反応をおこしているように見えるのです。例えば臓器の移植時の拒否反応とかと話しは丁度逆みたいなものですね。自分自身のデータは拒否し、西田君がつくったデータのみを受け入れるというのですから』
『ふ〜む・・・・おもしろい現象とも言えるが・・・・つまり彼女無しではこの中の世界は成り立たないということじゃな』
如月は原因ではなく結果のほうに目を向けた。
『そうです。彼女が1週間もリンクインしなければ、今システム世界内にある有効環境データの数は半分以下になるでしょう。新しいトリガーが全く生成されなくなるわけですから。そして2週間もすればすべてが消滅すると思われます。
また、もし彼女のシステム世界内での存在が消える、例えばシステム世界の内部で交通事故かなんかで死亡するというようなことが起きれば、こちらの彼女自身は大丈夫ですが、おそらくシステム世界は急速に崩壊します。彼女がリンクアウトしている場合には、環境pingコールは遅延データを返して待たせるだけですが、彼女の存在がないと判定されれば、おそらくデッドリンクを起こしてオブジェクトは即座に消去されるからです』
宗像が「困ったものです」といった表情でそう言った。
『神が存在しないと成り立たない世界というわけか・・・・最新のテクノロジーの所産としてはおもしろい皮肉じゃの』
『ええ。最近桜木から、最新の神経接続装置の成果を発表する際このmシステムのことも一緒に公表しないかと提案されたのですが、このような欠陥があるので少し待ってくれないかと言ったのです。やつはそれくらいはいいじゃないかと言ってますが』
『完璧主義じゃからな、君は。しかし直せる目処はあるのかな?』
『いえ・・・今のところは・・・』

しばらく沈黙が続いた。宗像も如月も、それぞれに頭の中で解決法を考えているようだった。
だが今すぐにでてくるというものでもないようだった。
『人間の脳を使ってバーチャル世界の初期環境を作るというのは私の発案でもあるからな。私にも責任がある。手伝えることがあれば手伝うよ』如月がそう言った。
『ありがとうございます。それに責任があるなんでとんでもありません。正直このシステムを設計していた段階では初期の世界環境をつくる方法のところで私は途方にくれていたのです。如月さんの、人間の「夢を見る」という機能をシステム世界に組み込むというご提案がなければ、今もただ馬鹿でかいだけのコンピューターと遊んでいただけだったかもしれません』
宗像は真摯な表情でそう言った。
『だが、夢を見るという機構の詳しいところまではまだ分かっていない。ゆえに脳のその部分の動きを被験者から時間をかけてコピーするという方法をとった。そしてそれはうまくいったように思えたが、実はそのコピー元の被験者いなくては成り立たないシステムとなってしまった。コピーが終わった今となってもな。コピーしただけのものだから制御のしかたもわからん』
『そういうことです』

やがて宗像は椅子から腰を上げ、ポットや電子レンジが置いてある一角へと移動した。
そしてマグカップに魔法瓶に入れられた作り置きの煎茶を注ぐ。
『如月さんは結構ですか?』
『では茶でももらおう』
如月のリクエストを聞いて、宗像はもう一つ茶を用意し、さきほどの席へと戻った。
2つのマグカップを資料がたくさんのったままの机の上に置く。

『彼女にはもうそのことは知らせてあるのかな?』
マグカップに手を伸ばしながら如月が聞いた。
『いいえ、まだです。自分の脳の夢を見る部分が、m世界の環境構築に使われていることも知らせていません。彼女は自分の持っている知識、どこどこの街になになにがあり、どこどこでかつてなになにがありといった、そういう彼女の単純な記憶がm世界の整合性の維持に使われているだけだと思っています』
『あくまで、システム世界内の一住民ということじゃな』
『はい。それに私はやっぱり、彼女がそれを知ることはm世界の方向付けにも影響があるかもしれないと思っているのです。例えば、向こうの世界では、もう西暦2005年になっていますが、南アジアの核戦争は起きていないそうです。それは、彼女のそのような事態を望まないという潜在意識が働いているのかもしれません。こちらの世界のイラク戦争は凄惨極まる事態になりましたが、向こうでは比較的小規模なもので終結にむかっているそうです。つまりそれは、知らず知らずのうちに彼女の意思が介在している可能性がある。ならば、実験を公正におこなうためには、彼女は何も知らないほうがいい』
『人に夢を制御する力はないよ。だから教えても一緒だと思うがね』
『それともうひとつ・・・』宗像が続けた
『もうひとつ?』
『なんというかその、西田君はあちらの世界にかなり入れ込んでいると申しますか・・・・家族、友人、向こうの世界の人間相手ですが、それらがそうとうに気に入っているようなのです。なのに、それらを作り出したのが自分の夢だというのは・・・・教えるのは少々残酷なような気もしまして・・・・』
『ふふ・・・・案外と優しいんじゃの君は』と言って如月は笑う。
『いえ、別にそういうわけではないのですが』
宗像が少し困ったような表情をした。そしてさらに続ける。
『いや、むしろ私は西田君に残酷なことをしているのだなと最近気が付いたのです。彼女にとって都合のいい人間に囲まれ、都合のいい出来事が起こる世界。言ってみれば、おとぎの国に私は彼女を住まわせているのです。そんな体験をすることは、彼女がこれから現実の世界を生きていくうえで、とても残酷な経験であるように思います。一生、おとぎの国に住み続けるわけにはいかないのですから』
少し寂しげな表情で宗像はそう言った。
『ふむ・・・だがそこのところは君は少し思い違いをしておるかな』と如月。
『思い違い・・・ですか?』
『夢が作り出す世界というと、何でも自分の思い通りになる都合のよい世界という響きがあるが、実際はそんなことはない。人間はよい夢も見れば悪夢も見る。そうじゃろ?』
『そうですが』
『夢のメカニズムはまだ解明されておらん。だが統計的には、夢はよい夢よりも悪夢の方が見る頻度が高いらしい。この事実からも、夢とはただの願望の具現化ではないことがわかる。一つ面白い説があってな』
『面白い説ですか?』
『うむ、まぁまじめに受け止めずに聞いてくれればよいが、アフリカの一地方の伝説にこんなものがある。夢とは、神が人間に与えた修行の場であるというのじゃな。これからの人生で体験するであろう事を、あらかじめ夢の中で体験しておくことによって、練習をし、現実の世界でよりよい選択をすることができるというのだ』
『迷信というやつにしか感じられませんが』宗像は正直にそう言った。
『その通り、迷信じゃよ。だが、非常に示唆にとんだ迷信であると私は思っておる。まぁそれはともかく、それほどまでに夢とは公平だということじゃ』
『公平ですか』
『うむ。それに前に西田君と話したときの私の印象からいっても、君が思っている以上にm世界と現実の世界は相違は少ないという印象を私は持っておるがな。彼女がそれだけ愛情を抱ける人間がいるというのなら、きっと向こうの人間と私達現実の人間の相違もほぼないのではないかの。彼女は聡明な子だとういう印象を私は持っておる。それくらいは判断できておるじゃろう』
『う〜む・・・・』宗像はいまいち納得がいっていない。

如月は再び西田の姿を見る。そしてその隣の円筒型のコンピュータをみやる。
『あの中の人間も夢を見るのかの?』
『そのような力があるとは思えませんが・・・そのようにも作っておりませんし・・・・』
『どうかの』
『やはり・・・・しょせんは人形ですよ。決められた以上のことは出来ないし、禁止されていることもできない。それを人間とは呼べません』



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