「M」

第12章 side-A


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『お疲れ様でした〜』
『おつかれ〜』
『亀井、田中、ハロプロステーションの打ち合わせBルームだから』
『は〜い』

一夜明けて今日は「ハローモーニング」の収録が天王洲スタジオで行われていた。
メインのゲーム企画は2本とも収録が終了し、後はサブコーナーのいくつかの収録を残すのみとなった。
矢口は特に担当のコーナーを持っていないので、今日はこれで終了である。もっとも矢口自身自分のコーナーがないことには不満をもっていたのだが。
「私も娘。を卒業したらコーナーをもらえるのかな」
そんなことをスタッフに漏らしたこともある。現在のハロモニは、メインの娘。全員による企画以外は、ほとんどが6期メンバーと卒業メンバーによるコーナーになっていた。もっとも、そうでもしないと、卒業メンバーの出演箇所が作れないのだから仕方がないのであるが。
「娘。歴代メンバーが全員でてこそハロモニ」がハロモニスタッフの哲学であった。
矢口にとってもその方針への異論はない。

楽屋へ戻る廊下の途中、矢口は前方を歩く石川の後ろ姿を認めた。
今日の石川の調子は最悪だった。
話せない。笑えない。段取りも間違えまくる。
もっとも、昨日の今日だけに、誰も文句は言えなかった。
ハロモニのスタッフにも事の詳細は伏せつつもある程度の事情は伝えられていたので、石川の不調はある程度予期された形で収録の準備がされており、そのおかげで今日の収録はなんとか無事終了することができた。

矢口は石川の後姿を見て歩きながら考えていた。
彼女は本当に自分の知っている石川なのだろうか。
教授はそんなことはあり得ないといった。データ的に存在しないはずの人間がいるわけがないと。
けれど。
確かに彼女は今ここにいる。
それは紛れも無い事実だ。
ひょっとしたら石川は、このm世界の呪縛から逃れたってことはないのだろうか。
0と1の数字の集まりであるプログラムデータという存在ではなく、私と同じ生身の人間になったのではないか。
m世界自体が、本当の現実の世界へと進化を遂げているなんて可能性はないだろうか。もしそうだったらどんなにいいか。

非現実的でくだらない幻想。
こんな話を教授にしたら、そういって心底軽蔑されるだろうなと矢口は思った。
そして矢口自身もそんなくだらない妄想を信じる気にはなれなかった。

石川の後姿を見ながら、リンクインする前に教授が話していたことを思い出した。
「その娘にオブジェクト消去シールを使ってみるという手もあるな」
そう教授は言った。
データ的には存在しないはずの石川だが、それでも存在しているならば、消去シールを使えば何か反応があるかもしれない。その反応を見てみるという手もあるということだった。
だが矢口は強行に反対した。
「そんな行き当たりばったりの方法を使ってmシステムに何か障害がでたら困るんじゃ無いでしょうか」
それは確かに納得の行く理由ではあったので、教授は自分の考えを退けた。
もっとも矢口にとっては、ただ大事な仲間を消すなんてできるわけがないという感情的な理由でしかなかったけれども。
しかし、石川の存在がいまもって謎であることには変わりない。
教授も手をかえ品を変えて調べはじめるだろう。ならば強行な手段がとられる前にできるかぎり自分でも色々調べたほうがいいのではないかと矢口は思った。
今は石川も、事件のことについては聞かれたくは無いかもしれない。でも・・・・・。
矢口は意を決して、石川に声をかけようとした。
『梨華ちゃ・・・・・』
『矢口!!』

背後から安倍が矢口に声をかけて、矢口の声を掻き消した。
矢口が振り向くと、そこに安倍が立っていた。
『矢口ちょっといい?』
『う、うん』
矢口が背後を振り向くともうそこに石川の姿はなかった。

『矢口今日はもうおしまいっしょ?』
『うん。もう帰るだけ』
『なっちはね、まだごっちんとの新コーナーと、あと美少女教育3の収録があるんだ』
『そ、そう』矢口は心ここにあらずといった体でそう言った。
『矢口・・・・』
『ん?』
『あのさ・・・・なんかあった?』
安倍は真剣な表情で矢口を見ていた。
『えっ・・・な、何言ってるんさ』
矢口はあせったようにそう答える。
『おかしいよ昨日から。ううん、梨華ちゃんのことで言ってるんじゃないの・・・なんか・・・それじゃ無い理由で変な気がする。急によそよそしくなったっていうか』
『そ、そんなわけないよ、なっち』
だが、矢口の心の中ではそれとはまったく違う言葉が出ていた。
(よそよそしい・・・・・か・・・・)

カエルの人形を教授の作ったシールで消したことが原因なのか、それともここ一連の石川に関する騒動のせいなのか、矢口の中では今、このm世界の認識の仕方に変化が生じつつあった。
この世でもっともいとおしい世界、大切にしたい世界であったこの場所であるが、今、その世界のメッキがはがれつつある感覚を矢口は感じていた。そしてそれは、この世界に生きるほかの人間への認識も同じであった。
自分が本当に大切にしたい仲間であり、かけがえのない友達であると思っていた相手に対しても。

今も自分はみんなが好きだ。かけがえのない仲間だと思っている。
でも。
他のみんなはただ『矢口が好き』という情報を与えられているに過ぎないのではないか。
そう思い始めると、友情だとか、仲間だとか、そういう意識を感じている自分が愚かにすら思えてきたのだ。

『ねぇ、なんかあるなら相談してよ・・・・矢口はなっちの相談にいつものってくれてるじゃん』
『・・・・』
矢口は押し黙っていた。
『矢口の悪いところだよ。いつも自分ひとりで抱え込むところ』
『なんで?』
『え・・・なんでって・・・何が?』
安倍は驚いて聞き返した。
『なんでおいらにかまうの?』
『なんでって、それは友達っていうか、仲間だから・・・』
『友達って何?』
『は?』
『仲間って何?ねぇ教えて。それはなっちの中でどう定義されているものなの?』
矢口はまじめにそう尋ねた。
『ちょっと、矢口なにわけのわからないこと言ってんの?』
安倍は心底意味がわからないという表情だ。
『本当においらのこと友達だと思ってるの?ねぇ?どうせ違うんでしょ。ただそう定義されてるだけなんでしょ』
『ちょっと矢口落ち着いて』
矢口の目には涙があふれてきた。
『違うのよどうせ。おいらを好きってのも、バナナを好きってのも同じ種類の好きなんでしょ』
『矢口!』
『どうせおいらなんか・・・・いつも・・・・』
『え?』
『いつも・・・・・一人ぼっちなんだ・・・・・』
『・・・・』
『どこにいたって・・・・・』

そして矢口は後ろをむいて駆け出した。
あとにはただ呆然と安倍が立ちつくすのみだった。



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