「M」

第10章 side-A


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『真里、今日は家から出ちゃだめよ・・・・』
うつろな表情で朝食を食べる矢口に母親が優しく語り掛ける。
『うん・・・・』
矢口はかろうじてそう答えた。

つい先ほどマネージャーから電話があり、今日の予定は全てキャンセルになったと連絡があった。
石川の捜索は昨夜から続いているが未だ手がかかりはないらしい。
マンション中の世帯はすべて調べられ、カメラの映像も全てチェックされた。
だが、なに一つ手がかりはなく、外に出た形跡はないが、内部にいる形跡もないという状況らしい。
まさしく「消えた」という状況であるとマネージャーは矢口に伝えた。

娘。の全メンバーには外出禁止がつげられ、警官が警護につくことにもなった。
今このときも、矢口のマンションの出入り口、および部屋の前に警官がついている。
マスコミに対しては緘口令がしかれることになっており、情報が漏れることはないはずであるが、この情報化社会においてそれがほとんど効力を発揮しないであろう事は疑いの余地がない。
まずはネットあたりでこの噂が広まり始めるだろう。そして娘。たちのTV出演などが続々キャンセルされていく中でその噂は真実として認識されていくことになるのだろう。
矢口はそのような情報流出に関してはもはや諦めていたが、ただ年下のメンバーたちの気持ちが心配であった。
メンバーの中にはまだ若い子が多いのだ。
そんな彼女たちが、警官に守られながら自宅に閉じ込められる。
石川を連れ去った犯罪者が今度は自分を狙うかもしれないという恐怖におびえながら。

食事を終えた後、矢口は自分の部屋に戻り、机から例のシールを取り出した。
貼るだけで、m世界内の物体を消去できるというシール。彼女はそのシールを見ながら、教授の言葉を思い出した。

「石川梨華という子は別に誘拐されたわけではないかもしれない。いや、おそらく誘拐ではないだろう」
「単にデータが消えたのだ。消えたのか・・・消されたのか・・・それはわからんが・・・・」
「出来うる限り調べてみよう。最優先でだ。だがそのためにまずは例の実験のデータが必要だ。データ消去がシステムに与える影響の詳細サンプルになるからな。だから西田君は急いでm世界に戻って、実験をやってくれたまえ」

矢口はその言葉に素直に従ってこちらの世界に戻ってきた。
今自分ができることはそれしかないのだ。この世界中のどこを探しても、石川がどこにもいないことを彼女は知っているのだから。
そして早く原因を突き止めて、この世界を守らなければならない。
自分にとってなにより大切なこの世界を。

矢口は部屋の時計を見た。こちらの時刻は現在午前10時58分25秒。教授に改めて指定された午前11時までもうすぐだ。
部屋の隅でちょこんと座っていたカエルの人形を矢口は抱きかかえ、部屋の中央で腰を下ろした。あとはこの人形にシールを貼り、そして手を離せばいい。
このシールは、矢口との接触が絶たれた時点でオブジェクト消去プログラムを作動させるという作りになっている。つまりは矢口がいないと作動しないものなのである。石川が消えた事実を知った後、このシールが何者かによって使われたのではないかという思い付きを矢口は教授に話した。だが、シールが彼女ありきで作動する事実から、教授はその考えを否定した。そして確かに、矢口の机の中にあるシールの数は一枚たりとも減ってはいなかった。

10時59分45秒。矢口はシールを台紙からはがし、人形の背中の部分に貼り付けた。
10時59分55秒。抱きかかえていた人形を床に置いた。
そして11時00分00秒。手を離した。

部屋全体が揺らぐような感覚があった。そして一瞬後には、跡形もなくカエルの人形が目の前から消えていた。

『・・・・あっけないね』
矢口はなんともいえない気持ちで、つい数秒まえまでカエルの人形があった場所を見つめる。
この世界に来て以来感じたことのない疎外感が身を襲っていた。
やっぱりこの世界は、現実の世界と違うのだろうか?私と、私の仲間たちは違う種類の存在なのか?

そんな思いにふけっていると、机の上の携帯が曲を奏で始めた。
立ち上がり携帯を手に取る矢口。着信メッセージは電話が安倍からのものであることを告げていた。
『矢口・・・・』
電話と取ると、安倍が暗い声で話しかけてきた。
『なっち・・・・』
『あの・・・・さ・・・あの・・・別に用があるとかじゃないんだけど・・・あの・・・ごめんね・・・』
『ううん』
『・・・・梨華ちゃん・・・・無事だといいね・・・』
矢口には返す言葉がなかった。
矢口は彼女がもう戻らないことを知っていた。
『だって・・・そんなことあるはずないもん。こんなことあっていいはずがないもん・・・・』
安倍が一人ごとのようにそうつぶやいていた。
そんな安倍の言葉を聞きながら、矢口は今自分が話している相手は、本当に人間なのだろうかというそんな疑問を頭に浮かべていた。この世界で生きるようになって最初のころは頻繁に考えていた疑問。だがもうここ数年は、ほとんど考えることもなく頭から否定してきた疑問。
自分はただコンピュータと擬似会話をしているだけなんじゃないか・・・・

『矢口・・聞いてる?』
『あ・・・うん』
自分が安倍に何を話すべきかは矢口は分かっていた。今はとにかく「大丈夫だよ」という言葉をお互いに掛け合うべきときなのだ。例えそれが何の根拠もない形式上のものだとしても。
でも、今の矢口にはそれができなかった。
自分の殻に閉じこもりつつある自分を感じていた。
まるで現実の世界の自分、つまり西田瑞貴のように・・・・・。

その時、矢口の携帯にキャッチがかかった。
『なっち、キャッチ入ったから・・・・』
矢口はそれが言い訳であると安倍にとらえられることを少し警戒しながら話した。
だが、
『あ、なっちもだ。うん、じゃまだあとで』
そういって先に安倍が電話を切り、矢口は少しほっとした。

電話の相手はマネージャーの渡辺だった。
渡辺は矢口との通話が通じた途端に声を弾ませて叫んだ。

『矢口さん!!石川さんが見つかりました!!大丈夫です!!元気です!!』



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