愛と麻琴
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里沙ちゃんが泣いている。さっきからずっと泣いている。
それを、あさ美ちゃんが必死になぐさめている。
でも、里沙ちゃんが泣き止む気配はまったく無い。
あさ美ちゃんも、それはわかっていながら里沙ちゃんにずっと「泣かないで」と声をかけている。
そうでもしていなければ、あさ美ちゃんも自分の気持ちを平静に保つことが出来ないんだろう。
私達はいま、事務所の別の部屋にいる。
さっきの部屋では今、緒方さんと麻琴ちゃんが2人だけで話をしているはずだ。
麻琴ちゃんの本当の気持ちを聞くために、私達は部屋を追い出されたのだ。
私は泣かなかった。いや、泣けなかった。
それは、悲しさよりも、もっと強い感情が私を支配していたから。
その感情は『恐怖』
麻琴ちゃんが私の目を見て「ごめんね」と言った時から、私の頭の中は恐怖でいっぱいになった。
麻琴ちゃんを失う恐怖。麻琴ちゃんともう昔のような関係には戻れない恐怖。
麻琴ちゃんがユニットを断った理由が私にあるんじゃないかという恐怖。
ただ、その恐怖におびえ、がたがたと足を震わせているだけしか、今の私にはできなかった。
どうして、麻琴ちゃんはあの時私を見たんだろう?
どうして、「ごめんね」って言ったんだろう?
あのときの麻琴ちゃんの表情が頭から離れない。
(行こう・・・)
やがて、私は震える足を手で支えながら、席を立ち部屋を出た。
そして、今麻琴ちゃんのいる部屋に向かう。
怖い・・・怖いけれど行かなくちゃ・・・。
行って、本当のことを聞かなくちゃいけない。
原因が私にあるのなら、私の何がいけないのか、私はどうすればいいのか聞かなくちゃいけない。
部屋に近づくと、かすかに話し声が聞こえてきた。まだ2人で話しているみたいだ。
やがて部屋の前に立ち、深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
(ちゃんと聞こう・・・)
そう決意してドアをノックしようとした。しかしそのとき私の耳に入ってきた言葉が、私の右手の動きを止めた。
「じゃぁ小川は高橋と一緒なのがいやなのか?」
体が固まった。全身から冷たい汗が噴き出してくる。
そして私は全神経を集中して、麻琴ちゃんの答えを待つ。
時間が流れる。
麻琴ちゃんの声は聞こえてこない。
部屋の中からは、何も聞こえてはこない。
やがて私にはわかった。
この沈黙が答え。この沈黙はYESという意味・・・・。
そうではないかとは思っていた。でも、心のどこかでは、いやそんなことはないとも思っていた。
今、そんな小さな希望が私の中から消え失せていく。
「あいあい!そんなところで何やってんの!!」
大きな声に体がすくんだ。
加護ちゃんだ。加護ちゃんが事務所に戻ってきて、ドアの前で立ち尽くしている私を見つけて近寄ってきた。
もう今の私には、この状況をどうすればいいのかまったくわからない。
「何そんなところで固まってるの?何?中に誰かいるの?」
そういって加護ちゃんは、ドアをとんとんとノックした後、返事もまたずにドアを勢いよく開けた。
「あっ!麻琴ちゃんと緒方さん」
2人は開け放たれたドアの先にたたずむ私を見ていた。
私が話を盗み聞きしていたこともわかったのだろう、緒方さんは困ったような表情をしていた。
そして麻琴ちゃんは、泣きはらして真っ赤になった目で、信じられないといった表情でこちらを見ていた。
「あ、あれ、どうしたの・・・」
加護ちゃんが呆然とつぶやいた。
しかし、誰も声を返そうとはしない。
だが、しばらくたって麻琴ちゃんが、振り絞るようにして声をだした。
「あ、愛ちゃん・・・・聞いてたの?」
麻琴ちゃんに話し掛けられたとき、一瞬にしていろんな事を思い出した。
合宿でカレーライスをみんなで作ったときにはじめて麻琴ちゃんに話し掛けられた時のこと。
オーディションの発表の直後に、4人でエイエイオーってやった時の事。
レコーディングでうまくいかなくて泣いていた私を麻琴ちゃんが励ましてくれたときの事。
始めてのライブの直前に緊張で震えている時、私の手を握って落ち着かせてくれた時のこと。
どうしてだろう?こんな状況なのに、そんな楽しかったことを思い出した。
「あ、あの・・・ご、ごめんね麻琴ちゃん・・・わ、わたし馬鹿だから今まで気づかなくて・・・」
涙が溢れてきた。でも私はしゃべりつづけた。しゃべりつづけないと壊れてしまいそうだったから。
「あのね、私が・・・ユニットには入らへんから、だ、だから、麻琴ちゃんがユニットに入ってね。ほら・・・私じゃ・・・
あさ美ちゃんと里沙ちゃんを引っ張っていけへん・・・から。麻琴ちゃんが入ったほうがいいよ・・・うん・・・」
「ち、違うの愛ちゃん!」
麻琴ちゃんが叫ぶ。
「ううん・・・その、方がいいよ。・・・・あっ、そうだ、私、モーニング娘。も辞めるよ。うん・・・それがいい。
その方が・・・・麻琴ちゃんも・・・頑張れるよ・・・」
もう、私は自分で自分が何を言っているのかわからなかった。
涙が止めど無く溢れてきて、麻琴ちゃんの顔もちゃんと見えない。
「へへ、いままで楽しかったな・・・すっごく・・・・ありがとう麻琴ちゃん・・・・ばいばい・・・」
そういって私は駆け出した。
「待って!愛ちゃん!!」
そんな麻琴ちゃんの声が聞こえたような気もした。
でも、気のせいかも知れなかった。
事務所を飛び出し、夜の青山の街を当てもなく走った。ひたすら走った。
夜空から雨が落ちていた。
街の景色がぼやけてよく見えないのは、きっとそのせいだ。
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肌を冷たい夜の雨が叩きつづける。
気がつくと、私は自分の家の近くまで来ていた。
何も考えずに走ってきただけで、家に帰りたいわけでもなかったのに・・・。
走り疲れた私は、歩道橋の階段の端っこに腰を下ろした。
道を行き交う人達はみんな私の方を見る。
雨の中、傘も差さずにずぶぬれの女の子が階段に一人で座ってるんだもん。そりゃ見るよね。
でも、誰も私がモーニング娘。だなんて気づかないだろうな。
だって、ぐちゃぐちゃな顔をしてるに決まってるから。
明日からどうしよう。
どうしたらいいかわからないよ。
もう、モーニング娘。には戻れない。ううん、違う。麻琴ちゃんの所には戻れない。
だって、これ以上一緒にいて、もっと嫌われるのはいやだ。
嫌われたままでもかまわない。でも今以上に嫌われたくない。
私は臆病者だ。昔からずっとそうだった。
何かを変えるのが怖い。変えて失敗するのが怖い。
やって後悔するよりも、やらないで後悔するほうがましだと思っていた。ずっとそう思ってた。
そんな私を変えてくれたのがモーニング娘。のオーディションだった。
悩んで悩んで、締め切りぎりぎりになってから、応募した。
応募した後も後悔していた。私なんかが受かるわけないじゃないって。
でも、あの合宿から私のすべてが変わった。
私と同じ目標をもつ9人の仲間に出会った。
そしてその中に、私の中での理想的な私、こんな子になりたいって子がいた。
それが麻琴ちゃん。
元気で、はきはきしていて、ほがらかで、そして何より前向きで。
彼女と出会えて、私も前向きな気持ちを持てるようになった。
そして自分でも信じられないくらい、あの合宿では頑張れた。そのおかげでオーディションにも合格できたと思ってる。
でも、今はまた昔の私が顔を出し始めている。
麻琴ちゃんと出会う前の、後ろ向きで、臆病な私に・・・。
寒い。
でも、雨にうたれていると、すべての悲しみが流されていくような気がする。
このままずっと雨が降り続けばいいのに。明日も、あさっても・・・ずっと・・・
ふと、私の足に触れるものがあった。
ん?
顔を上げると、そこには一匹の子犬が私の靴のにおいを嗅いでいた。
それは雨でずぶぬれになったブルドッグ犬だった。
「どうしたの?ワンちゃん」
私はそのワンちゃんに声をかけた。
私の声にはまったく反応を示さない。どうやら私の靴がそうとうお気に召したみたいだ。
「私と一緒で一人ぼっちなん?」
そう話し掛けながら、ワンちゃんを撫でてあげた、すると首輪にきらりと光るプレートがついているのが見えた。
そのプレートを引き寄せてみると、『栃木県宇都宮市*** 028-636-****』と彫ってある。
迷子になったときの連絡先が記されているみたいだ。
栃木県からここまでどうやってきたんだろう?
いずれにせよ、この小さなワンちゃんが一人で帰れる距離ではない。
プレートがあってよかったね。
「じゃぁ、あとで私が連絡してあげるね」
そう言って、私はワンちゃんを抱きかかえた。
すると、ワンちゃんがやっと私の方を見てくれた。
「・・・・麻琴ちゃん」
私は思わずつぶやいた。ワンちゃんの顔がなぜが麻琴ちゃんの顔に見えたから。
そういえば、前に麻琴ちゃんとこんな話をしたことがあった。
『わたしの顔ってさぁ、なんか平べったいじゃん。だからヒラメとかブルドッグとかよくからかわれてたのよね』
『あはは、でもブルドッグってそうだっけ?』
『犬の中では平べったい顔してるでしょ、だから。
でもさぁこう言っちゃなんだけど、私よりあさ美ちゃんの方が平べったいと思うのよね』
『きゃははは。ひどいよ麻琴ちゃ~ん』
だめだ、麻琴ちゃんのことを思い出すと、また涙が溢れてくる。
「麻琴ちゃん・・・・」
私はこの子犬を抱きしめた。
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「今日のハローモーニングは他の誰かに出てもらうからゆっくり休んでいいよ。
また今夜電話するけど、いいね、ちゃんと家にいるんだよ」
「はい・・・わかりました」
朝早く、緒方さんから電話がかかってきた。今日は家にいてゆっくり落ち着いていなさいという事だった。
ハローモーニングは娘。全員がでなくてはいけないというものではないから、こういうときは助かる。
これがライブとかだとそうもいかないから。
でも、例え今日がライブでも、私は仕事にいっただろうか?
私の中でモーニング娘。を辞めようという気持ちに今も変わりは無い。
麻琴ちゃんにとって私が邪魔な存在なのならば、私は一刻も早く麻琴ちゃんの前から姿を消さなければならない。
でも、ここまで私を応援してくれたファンもいるし、事務所にも迷惑がかからないように、最低限の礼儀は通した上で辞めないと。
卒業会見とかもしなきゃならないんだろう・・・気が重いな。
「バウ!」
どうやらおなかが空いたみたいだ。
「はいはい、ちょっと待っててな、麻琴」
私は、昨日見つけてきたブルドッグを自分で飼うことにした。名前は「麻琴」
麻琴ちゃんの代わりにするわけじゃないけど、でも、今はこの子がわたしを支えてくれるような気がする。
本当の飼い主さんごめんなさい。
麻琴はかしこい犬だった。めったやたらと吼えたりしないし、トイレもちゃんと教えた場所でできる子だった。
飼い主さんにちゃんとしつけられて育ったのだろう。
だけど、時々寂しそうな目をするような気がした。
本当の飼い主さんのことを思い出しているのだろうか・・・・。
ううん、そんなの気のせいだ。私の気が滅入っているからそう思うだけだ。
きっと麻琴ちゃんの影をこの子に見ているからそう思うだけ。
「だめだ、体を動かそう!」
そう決意した私は、近所のホームセンターにいって、
板を何枚かと『初心者にも出来る日曜大工セット』というのを買ってきた。
これで、麻琴の家を作るんだ。
のこぎりで板を適当な長さに切る。
そして板を貼り合わせて、粘着テープで繋いでから、釘を打ち付ける。
トンテン、カンテン、トンテン、カンテン・・・・
一心不乱に家つくりに没頭した。何かに集中していると嫌なことを忘れることが出来る。
それが例えその一瞬でも、今の私にとっては安心できる時間。
やがて、麻琴の家が完成した。
三角屋根付きの、オーソドックスでいかにも犬小屋って感じの家だ。
家の中に置くので屋根なんか必要無いんだけど、それはやっぱり気分の問題。こっちのほうが家っぽいじゃない。
あと入り口は、犬の家っぽくトンネルの形の穴をあけたかったんだけど、それはやっぱり私には無理だった。
板を曲線にそって切るってすごく難しい。
だから、入り口の側には板は一枚も貼らなくて、結局ふたのない箱を横向きに置いたような形の家になった。
でも、案外うまくできたんじゃないかな。ちょっといびつになってる場所も少しあるけど、でも初めてにしては上出来だ。
最後に表札を作ろうと思った。
小さく切った板の上に、「麻琴」と書いて、家に貼るつもりだった。
でも「麻琴」という字を書くのに何か抵抗があったのでやめた。
「麻琴、家ができたで~」
私は麻琴を呼んだ。さっそく、この家の感想を聞かなくちゃ。
「麻琴~、こっちおいで」
しかし麻琴は、今度はわたしのスリッパで遊ぶのに必死で、こっちには目もくれない。
「麻琴ってば~」
しょうがないのでドッグフードで釣ることにした。
「ほら、麻琴、ご飯だよ。こっちおいで」
ドッグフードをちらつかせると、麻琴はあっさりと私の作戦に引っかかった。
短い足をトテトテと動かしながらこっちに来る。
そして私がドッグフードを家の奥において誘導すると見事家の中に入っていった。
「やった!成功!!」
しかし、それもつかの間。麻琴はドッグフードをいれた皿を足で動かして家の外に引きずり出した。
そして家の外に出てドッグフードを食べ始めた。
「ちょっとちょっと、なによ麻琴、それどういう意味?」
せっかく私が一生懸命作ったのに、なによその態度は。私はちょっとむくれて見せた。
やがて、ドッグフードを食べ終えた麻琴は、また玄関の方へ戻ってスリッパと遊び始めた。
「諦めないわよ」
そう言って私も玄関のほうへいき、麻琴からスリッパをとりあげて、それを家の奥に置いた。
すると麻琴は、今度も私の作戦通り、私の作った家の中に入っていった。
が、またすぐにスリッパを口でくわえて出てきて玄関の方へ行ってしまった。
「なによ、そんなにこの家が気に入らないの」
私は本気で怒り始めていた。あんたのために頑張って作ったのに、その態度はひどいじゃない。
「そっちがそのつもりなら、こっちにも考えがあるわよ」
私は家を横向けにひっくり返し、入り口を上に向けるようにした。ふたのない箱状態だ。
そして、麻琴を抱いて連れてきて、そのふたの無い箱の中にいれた。
これでは、麻琴も家をでることはできまい。
「どうだ、参ったか。これで家の中にいるしかないでしょ」
私は勝ち誇って麻琴に話し掛けた。
麻琴はしばし戸惑っていた。どこかに出口がないかと探しまわり、やがてその出口が上にしかないことを悟ると
なんとかその出口からでようと、ジャンプを始めた。
「なによ、そんなにこの家が嫌なん?」
どうやらそうらしかった。しかし、この家は麻琴がジャンプして出れる高さではなかった。
必死にジャンプする麻琴だが、出口には届かない。
「無理だってば」
それでも麻琴は飛びつづけた。
やがて何回目かのジャンプの後、麻琴はバランスを崩し、頭から箱の底に落ちた。
「キャン!!」
麻琴の悲鳴が鳴り響いた。
「ま、麻琴!!!」
私は慌てて、麻琴を箱から抱き上げた。
「大丈夫!?麻琴!?大丈夫!?」
わたしは麻琴の頭を調べた。特に怪我は無いみたい。
麻琴をみると、ちょっとびっくりしてるみたいだけど、でも普通に目も開いているし、息もしている。
「バゥ」麻琴が健康そうな声でほえた。
「よかった・・・・」
私は麻琴を抱きしめた。
「ごめんね・・・もうこんなことしないから・・・ごめんね・・・私のこと・・・嫌いにならないでね・・・」
私の涙が次々と麻琴の顔の上にに落ちていった。
麻琴はその涙を不思議そうにぬぐっていた。
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