妙音講と瞽女式目



5月13日は瞽女にとって絶対に欠かすことの出来ない日でした。高田寺町の天林寺は瞽女の護り本尊の弁財天を祀る高田瞽女仲間の檀那寺ですが、この日、高田瞽女全員が集まって「妙音講」(みょうおんこう)を開きました。弁天様をご開帳してもらい歌を奉納したりお斉をいただいたりして1日過ごします。このとき和尚さんに「瞽女式目」を朗読してもらうのが一番大切な儀式でした。式目は、瞽女の由来と戒律や掟を述べてあるもので、次のような文で始まります。
「人皇五十二代嵯峨天皇第四ノ宮官女ニテ相模ノ姫宮瞽女一派ノ元祖トナラセ玉フ事、忝モ下加茂大明神末世ノ盲人フビンニ思召、忝モ尊ノ腹ニヤトラセ玉ヒ、仮ニ胎内ヨリ御目シヒテ御誕生マシマス・・・」
嵯峨天皇の第四皇子は、生まれながらの盲女でしたが七歳の時、那智の観音が夢枕に立ち「あなたは下賀茂大明神の生まれ変わりで盲女性の司となる方です。この後、あなたを扶ける五人の盲女を授けます。共に諸芸を習い、音曲を業として民間に下り、世の盲女を導きなさい」と告げました。皇女がこのことを父君に話すと天皇は喜ばれ、各地の盲女子を探させて播磨(はりま)、下野(しもつけ)などから五人を見いだされました。この五人が瞽女五派の開祖となりました。
嵯峨天皇は瞽女を民間に下すに際して院宣を出し、掟を示しました。




一、

瞽女仲間の総領(座元)は40年の経験を積んだ者とする。
該当する年数の者がいない時は最も修行年数の多い者とする。

一、

仲間で不行跡ある者は年落之罪とする。

一、

在所の名主、庄屋は瞽女に宿を貸し稼ぎをさせること。


年落之罪(としおとしのつみ)は修行した年数を三年五年と減らされることです。すべて修行年数がものを言う瞽女社会では年落しは大変な不利益と屈辱を味わうことになります。不行跡の仲で最も罪の重いのは男と交わることでした。






昭和初期の妙音講の様子





















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