(一)

襟裳屋様

 拝啓 一度も御面識のない方に突然このような長いメールを差し上げます失礼お許し下さい。

 貴HPを拝見致しておりましたところ、掲示板にて「獄門島」のことについて触れられておられるのを拝見させていただき、止むに止まれぬ 思いで不躾をかえりみずこのようなメールを送らさせていただきました。

 襟裳屋様は、「幻の中の女」の中で、「悪魔の手毬唄」について御考察されておられますが、実は、私も同じように「獄門島」について、前々から疑問に思っていたことがあったのでございます。「幻の中の女」を拝見し、「あぁ、私と同じような考え方をされる方もおられるのだなぁ」と感激しておりましたところ、先だっての「獄門島」についての書き込みでしたので、思い切ってお話を聞いていただきたくなったのでございます。

 襟裳屋様が疑問に思われておられた金田一さんと早苗さんのことについては後で触れさせていただきますが、結論だけ先に申させていただけば、金田一さんは早苗
さんに思いを寄せていたかもしれませんが、一般 的に言われているようなものとはちょっと違っているように私は思っているです。
 そのことをお話させていただく前には、『獄門島』について私がどう考えているかということをお話させていただかなければ分かっていただけないと思いますので、そのことからお話させて下さい。

 私が『獄門島』事件を全体的に見たときに感じたことからお話したいと思います。
 口さがない批評などでは、時折「金田一耕助は戦友の遺言で三人の娘が殺されるのを未然に防ぐ為に来たはずなのに、三人とも殺されてしまって…」と酷評を目にすることもありますが、本当にそうなのでしょうか?
 この『獄門島』で取り上げられている事件は、いくつものトリックが鏤められているものの、全体としては、嘉右衛門さんの狂った『見立て殺人』が基本となっていることは、誰も否定できないところだと思います。
 それでは、『見立て殺人』 とは如何なるものなのでしょうか?
 やはり批評などでは、この『見立て』自体もあまりにも現実離れしすぎているとの意見も目にすることもありますが、それまで否定してかかっていては、連続殺人事件などというそれ自体が狂った社会性をモチーフとした作品の根底までも否定しかねないので、ここでは、そういった意見を無視することとし、『狂った見立て』というものも有り得るものかもしれないという前提に立って話しをさせていただきます。
 この場合、常人には計りしれない『狂った』要因を見つけることが、常人である金田一さんに見つけられず、事件を未然に防ぐことができなかったとしてもそれは何の不思議もないことだと思えます。人の常識外のことが起こった場合、いつだって、理屈はコトの起こった後につけられるだけのものであって、未然に常識外のことを予測することなど誰にもできないはずなのですから。結果 論から推測されることを、その結果をもたらす過程にいた金田一さんに当てはめてあれこれ言うのはおかしい考え方だと思います。
 しかし、私が気にかかって仕方なかったのはそういったこの事件と『見立て』のあり方といった面 のことなのではなく、見立てる側から考えた場合のことなのです。
 私としたところで狂った情念を持った立場というものに立ったことがないので、想像するしかありませんが、嘉右衛門さんが見立てをすると思い付いた時、ただ見立てるだけのことに満足していたのでしょうか?
 普通に、「何々に見立てて〜」と遊びで見立てなどをする場合だけであっても、やはり、その見立てた成果 を誰かに見てもらうことの喜びがあって、はじめて『見立て』の美学は成立するのではないのでしょうか?
 それでは、この『獄門島』の場合はどうであったのでしょう。
 まさか、三人娘を殺して見立てをした上で、島の人達に見せることで「見立てていますよ」と判らせることなど、嘉右衛門さんはお考えになられてはおられなかったでしょう。ことが殺人などというものであるだけにそれ程大きく喧伝できるわけでもありません。しかし、その見立てが判る人に見てもらわねば意味が無いはずです。
 もし嘉右衛門さんが生きていて、ご自分の手でこの犯行を実行されたのでしたら、或いは和尚さん、村長さん、幸庵さんの三人がその成果 を見せられる側の人だったのかもしれません。しかし、嘉右衛門さん亡き後、見立てをしなければならない側になってしまった三人にとっては、その成果 を誰に見てもらわねばならなくなってしまったのですが、まさか、駐在の清水さんや床屋の清公に、それを見立てとわかってもらうことを望んだわけでもないでしょう。亡くなられた嘉右衛門さんの霊が見てくれているはず…といった満足で済まされるのかもしれませんが、それにしては、見立て方の度が過ぎるような気もします。
 そこに現われたのが、「本陣殺人事件」を解決したことによって一躍その名を世に知らしめていた金田一耕助という名探偵です。金田一耕助といった名探偵が現われたことによって、見立ての意味を理解し、嘉右衛門さんの美学を完成させるに足りる人物にうってつけとして、『見立て』の証人になりうる適任者という事件をつくりだす要因の一つが揃ってしまい、事件の渦中に引き込まれてしまったのです。
 和尚さんが屏風を金田一さんに御貸しになられ、それを金田一さんが「フェヤ・プレーの精神から」と解釈されておられることからもその一端が伺えるような気がします。殺人を犯し、その死体をもって『見立て』ていることを理解して貰うべき相手には、それなりの手掛かりを渡しているのです。何も、犯行自体を自白するが為に手掛かりを渡したのではないでしょう。更に言えば、三人娘を殺害し、これを見立てるだけでよかったのであれば、何も金田一さんが島に滞在している時に実行する必然はなく、金田一さんが島を去ってから事をおこしても問題なかったはずです。
 犯人の側からすれば、金田一さんは事件を未然に防ぐ為に島に来たつもりであったのだとしても、その意図とは全く関係のない見立ての立証人としてという役割を与えることだけを目的に対応しているのですから、この双方の間での異なった目的意識の中でズレが生じるのは仕方ないことのように思えます。
 結果、金田一さんは、事件を未然に防ぐことができず、一連の事件が全て成し遂げられた後に『見立て』の謎は解明することができ、それによって一つの解決は導きだされましたが、いくつかの疑問が残されてしまうということになったという印象が拭いきれないのです。

 襟裳屋様は、何をバカなことをとお笑いに思われるかもしれません。島へ金田一さんを向かわせたのは、嘉右衛門さんでもなく、ましてや和尚さんたちでもなく、戦友であった千万太さんなのですから、『見立て』と千万太さんの間には何の接点もないことに言及されることでしょう。
 そうなのです。『見立て』のことだけにとらわれると、千万太さんとは何のかかわりもないことなので、千万太さんの存在が希薄になってしまうのです。しかし、三人の妹たちが殺されると予言し、金田一さんを獄門島へ向かわせたのは千万太さんであるということは見過ごされて済まされるものではありません。
 ちょっと『見立て』のことから話しが逸れますが、千万太さんが何故金田一さんに獄門島へ行ってもらったかという点について考えたいと思います。
 今一度、何度と繰り返し登場する千万太さんの遺言の言葉を読み返してみていただきたいのですが、こうあります。

「死にたくない。おれは……おれは……死にたくない。……おれがかえってやらないと、三人の妹たちが殺される……だが……だが……おれはもうだめだ。金田一君、おれの代わりに……おれの代わりに獄門島へ行ってくれ。……いつか渡した紹介状……金田一君、おれはいままで黙っていたが、ずっとまえから、きみがだれだか知っていた……本陣殺人事件……おれは新聞で読んでいた……獄門島……行ってくれ、おれの代わりに……三人の妹……おお、いとこが、……おれのいとこが……」

 千万太さんは、金田一さんに、“三人の妹たちの命を救ってやって欲しい”とは残念ながら言明されておられません。『おれの代わりに獄門島へ行ってくれ』と『三人の妹たちが殺される』はハッキリと言われているので、最後の『おれの代わりに……三人の妹……』を『おれの代わりに三人の妹たちを救ってやってくれ』という意味なのであろうと解釈することは無理も無いことです。しかし、そうするとその後に『おお、いとこが』と続けられていることが不思議です。もちろんこの『いとこが』の後に『本鬼頭の家督を相続するために邪魔になる三人の妹たちを殺害されるのだ』といった言葉が続くことも考えられないでもありませんが、今にも死にかけていて、何よりも妹たちの殺害を防いで欲しいと望んでいるのなら、回りくどく三人の妹たちが殺される動機をわざわざ説明して話すよりも、それより先に誰が殺すことを計画しているのかを話す方が先なのではないのでしょうか。そうであれば、『おお、いとこが』ではなく『おお、祖父が』でなければならないはずですのに、なぜか『いとこが』とおっしゃって息を引き取られています。
 『いとこが』には何の意味もなく語られた言葉なのでしょうか。
 確かに『おれの代わりに……三人の妹……』と『おお、いとこが』の間には何の関係もないという見方をすることもできないでもありません。しかし、この二つの言葉の間につながりがあるものとして、『おお、いとこが』というのが、わざわざ動機を説明するためのものではないとしたら、『おれの代わりに……三人の妹……』という言葉の後にも、必ずしも『救ってやって欲しい』と続くものだと決めて考える以外に他の見方もできるのではないのでしょうか。
  金田一さんは早苗さんに

「ぼくがなぜこんな離れ小島へ来たと思います。千万太君の頼みによって、こういう悲劇の起こることを、未然に防ごうと思ってやってきたのですよ。千万太君はこういったのです。おれが死ねば、三人の妹が殺される。獄門島へ行ってくれ。三人の妹を助けてくれ。……問題はそこですよ。早苗さん、千万太君が死んだらだれが三人の妹さんたちを殺すのでしょう。いや、それよりも千万太君は、どうしてそれを知っていたのでしょう」

 とおっしゃられていますが、あるいは、金田一さんは、その後に目の前で繰り広げられた悲劇を目の当たりにしてしまったがため、自分が島へ来たのは、この悲劇を食い止めるためだったのではないか…と解釈し、自分をせめておられるのかもしれません。
 この相違はともかくとして、この後、磯川警部さんを伴い、和尚さんに対して事件を話して聞かせているなかでも、千万太さんの渡してくれた紹介状のあて名が三人の連名になっていたことから始めて、

「それにもかかわらず千万太君は、自分が死ねば妹たちが殺されるということを知っていた。どうしてそれを知ったのだろう。すなわち、国をたつまえ、家を出るまえにそんな話があったとしか思えないじゃありませんか」

 ともおっしゃられています。この言葉はとても重要です。そして更に、そのあとに語られる金田一さんの想像には空恐ろしいものさえ感じます。

「そこで、嘉右衛門さんはふたりの孫になんといったか。それはおそらくつぎのような意味のことばだったろうと思います。本家の千万太くんが生きてかえれば、なにもそこにいうことはない。しかし、もし千万太君が死んで、一さんだけが生きてかえった場合には、本鬼頭の家は一さんに継がせる。しかし、それには月雪花の三人娘がいてはじゃまになるから、これを殺してしまう。……」

 仮に、この金田一さんの想像がそのとおりだとした場合、千万太さんは、本当に金田一さんに悲劇を未然に防いで欲しくて島へ行って欲しいと頼んだのでしょうか。このすぐ後の金田一さんの言葉にその疑問への答えがそのまま隠されているような気がします。

「いや、恐ろしいことです。およそ人間ばなれのした感情です。しかし、島の住人というやつは、だれもかれも常人とちがった感情でうごいているのですし、嘉右衛門さんとしては、本鬼頭の将来に対する心配も手伝っていたのでしょう。月雪花の三人娘、そのうちだれがあとを継いでも、本鬼頭はつぶれてしまう。…嘉右衛門さんはそれを心配したのでしょう。」


 千万太さんもまた、金田一さんの言うところの島の住人であったのですし、本鬼頭の跡取りでもあったわけです。嘉右衛門さんの心配は、そのまま千万太さんの心配に置き換えてみても何の不思議もないことだと思うのはおかしいでしょうか。
 しかしながら、ここで一つ疑問が浮かびます。
 和尚さんはおっしゃられています。

「……なにもかも運命じゃな。千万さんの死と一さんの帰還、そして吊り鐘……わしは嘉右衛門さんの執念が、生きてわしら見まもっているのをまざまざと感じた。三つのうちのどれひとつ欠けていても、三人娘は殺されずにすみよたのじゃが、そろいすぎたよ、条件が……」

 条件がそろわねば殺されなかったかもしれない三人娘。千万太さんは、ご自分の死という条件は認めることはできたかもしれませんが、その他の二つの条件がどのようになっているかは知る由もなかったはずです。それにも関わらず、千万太さんは三人娘が殺されることを信じて疑わず、金田一さんに「島へ行って欲しい」と依頼しているのです。もちろん、この場合の和尚さんがおっしゃられている条件とは、和尚さんたち三人がそれぞれ手をくださねばならない時のことであり、嘉右衛門さんが生きておられる場合はまた違っていたのかもしれませんが、それにしても、絶対的条件の一つである一さんの生死に関して言えば変わらないはずですし、それに関して千万太さんがやはり答えを知っていなかったであろうことは動かせないことだと思います。
 一さんもまた戻られなかった場合には三人娘は殺されることはなかったと和尚さんはおっしゃられています。それなのに、千万太さんが、ご自分の死だけの要因で、三人の妹たちが殺されると断言されているのは何故なのでしょう。

 ひとつの想像にすぎませんが、ここで金田一さんが語ってくれている推理と和尚さんが語っている条件の他に、別 の『条件』といったようなものがあったのかもしれないと考えるのはおかしいでしょうか。
 例えば、嘉右衛門さんの狂った執念故の三人娘殺害計画の他に、嘉右衛門さんや和尚さんたちが知らないところで、万が一、千万太さんが死亡するような場合には、一さんの生死に関係なく三人娘を殺すことにするといった秘められた約束が結ばれていたと考えれば、千万太さんの遺言の意味も無理なく通 じるように思えるのです。

 それでは、仮にその約束というものがあったとして、それを取り決められたのは一体誰と誰の間のことだったのでしょう。
 約束というものは大抵二人以上の人の間で結ばれるものとして、片一方はもちろん千万太さんであることは間違いないでしょう。そして、もう片方は…。
 三人娘殺害にまつわる数々の疑問もこの片方の人の存在抜きにしては考えられず、そして、この事件の全ての謎を解く鍵こそがこの人物なのです。
 もうここまで書けば襟裳屋様なら私の言わんとすることもお分かりかと思います。そうです。千万太さんと約束をすることができ、また、必ず島にいることができながら嘉右衛門さんや和尚さんたちとは違った立場にいて、一さんの生死を誰よりも心配している人物。早苗さんしかいません。
 ここで、先に述べた千万太さんの最後の言葉の意味がよくわかるような気がします。


「……おお、いとこが、……おれのいとこが……」

 千万太さんのいとこは一さんだけではありません。早苗さんもやはりいとこなのです。
 千万太さんは、本鬼頭の将来を心配し、万が一、一さんも自分と同じように獄門島へ生きて戻ることが叶わないのなら、たとえ嘉右衛門さんの御意志がどうであれ、三人の娘を亡きものとしても、早苗さんに家督を継いで欲しいと願いを残していったのかもしれません。
 もちろん、この場合の約束が、自分がもし帰れない場合は、一さんの生死に関わらず三人の妹たちを殺して欲しいといった直接的な依頼であったとは思えません。しかし、千万太さんの絶句が『いとこが…』とあるのには、それだけ深い、何かの意味が隠されているのではないでしょうか。そして、自分の代わりということで金田一さんを島に送ることによって、早苗さんに「後を頼む」と改めて伝えたかったのではないのでしょうか。

 もし、金田一さんが語ってくれたような嘉右衛門さんの枕元での光景が実際にあり、千万太さんが妹たちの死を予想して、それを食い止めるために金田一さんを獄門島へ向かわそうと考えたのなら、『いとこ』を持ち出すよりも先に、妹たちを殺しかねないであろう嘉右衛門さんについて、言い遺したほうが、予防という意味ではより実際的です。しかし、そうでないところに、私は嘉右衛門さんの忌わしい見立ての遺言と同等の、強い千万太さんの意志が秘められているように感じてならないのです。

 千万太さんと早苗さんの間にもたれた「約束」の内容がどういったものであれ、金田一さんは、千万太さんの遺志を早苗さんに再度確認させるために獄門島へ行くことになったのです。
 『見立て』とは何の関わりも無い千万太さんの遺志によって島へ来た金田一さんと、『見立て』という嘉右衛門さんの狂った遺志を結びつけたのは言うまでもなく和尚さんです。しかし、千万太さんの訃報を持ってあらわれた正体不明の男に対して、いきなり重要な『見立て』の立ち会いをまかせようと考えるようなことは、いくら巧緻に長けた和尚さんでもしなかったことでしょう。それでは一体いつ『見立て』の立ち会いとなる人物という役回りが金田一さんに与えられたのでしょうか。これは和尚さんの言葉にあります。

金田一耕助というのは、有名な探偵じゃそうなときいて、さては千万さんからなにかきいてやってきたなと勘づいた、そこでわしは、おまえさんになんの手がかりもあたえずに、決行するのは卑怯と思うた。おまえさんがほんとにえらい探偵なら発句のなぞをとくじゃろう。

 和尚さんの狙いは、事件を防ぐためでも解決させるが為でもなく、ただ単に発句の謎を解いてもらいたかったためなのです。

 ここまで長々とお話させていただいたのは、千万太さんという存在を抜きにしては事件のことを考えことはできないのではないかという私の想像に過ぎず、事件の本質とも言える嘉右衛門さんの狂った遺志とは、直接的には何の関わりあいもないように思えますが、実は、この「何の関わりあいもない」二つの異なった遺志が存在することこそが、『獄門島』のなかに見られるいくつかの疑問をうみだした原因なのではないかと思えてならないのです。
 嘉右衛門さんの遺志は、金田一さんと和尚さんによって語られています。しかし、その中で完全に語られきれずに疑問として残ってしまう部分の理由を考えると、ここまで想像してきたような別 の遺志がなければ、到底説明がつかないように思えるのです。逆に言うならば、この千万太さんの遺志の側が書かれていなかったことによって、この恐るべき事件の解決もまたいくつかの細かな疑問を残してしまったままになってしまっていたのではないのでしょうか。

 それでは、なぜ千万太さんの遺志は書かれなかったのでしょう。
 襟裳屋様が「幻の中の女」でお書きになられたのと同様に、事件解決後に残されることになる人たちのことを慮ってのことなのでしょう。
 島に残されることになった人物。それはとりもなおさず早苗さんのことをおいて他にはいません。

 金田一さんは島を去る際、早苗さんにむかって東京は出る気はないかとお誘いになられました。
 しかし、早苗さんは、

「島で生まれたものは島で死ぬ。それがさだめられた掟なのです。」

 と、この申し出をお断わりになりました。
 これは、言われているような、求愛とそれに対する返答といった意味のものなのではなく、金田一さんもまた実は、千万太さんの遺志に気付き、そのあまりにも異常とも言える環境からこの女性を抜け出させてあげられないものかと手を差し出してあげたに過ぎず、早苗さんもまたそれを理解し、さだめとして島に残りますとお答えになられたのではないのでしょうか。そう考えると、この間にある

早苗さんはびっくりして、つぶらな眼をみはったが、やがてそのことばのうらにある意味をくみとると、

 という部分も、金田一さんのあまりにも唐突な求愛などという解釈のほかにも、もっと自然な解釈ができるように思えるのです。

 もう少し整理してお話できれば、これほど長くならなかったのかもしれませんが、慣れぬ もので、思っているようにキチンと話しがお伝えできているか不安です。あまりにも長くなり過ぎてしまいましたので、心苦しいのですが、幾つかの具体的な『疑問』については、また後日改めさせていただければと思います。

敬具     


襟裳屋 TOPへ戻る
次へ進む