チェコ・テレビジョン

制 作 チェストミール・コペツキー・クリエーション・グループ

台本とナレーション ズデニェク・マーレル

 白人が作った黒人霊歌(スピリチュアル)


 第一部 「アメリカ時代のドヴォルザーク」のドキュメントフィルムを連続して写す


 (ナレーション) ズデニェク・マーレル



 こんな笑い話をみなさんご存知でしょうか。ある競馬の騎手がとびっきりのサラブレットのところにきて、鐙(あぶみ)に足をかけながら言いました。
 「今日は、おまえ、どっちへコースをはずすつもりなんだ? おまえの気まぐれには、ほとほと手を焼くよ」

 このサラブレットを、いま、かりに「天才」と置きかえて考えてみてください。天から天才を授かった人間は、その天賦の才を自分で操っているんだと思い込みがちです。ところが、どうしてどうして、実際にはその人間が 自分の才能に操られているのです。

 ドヴォルザーク家には代々長い世代にわたって、ある種の天才的なものが培われてきました。なぜかなんてことを考えるのは止しましょう。ただ、自分なりにはっきりそのことを意識していたのはたしかです。もちろん、音楽にかぎったことではありません。

 1892年9月17日、ザーレ号という船がアメリカへ向けて出帆しました。その船にドヴォルジャークが乗 っていたのです。ドヴォルザークを待っていたアメリカ滞在は二年半という、比較的短いものでした。もともとこのアメリカ滞在は彼の人生のなかでは、ほんのエピソードに過ぎません。それにもかかわらず、そのエピソードには時代を超越した普遍的価値をもつ重要な場面が含まれでいるのです。ですから、ころからはじまるこの物語のなかで、それらの重要場面をたどっていくことにいたしましょう。

 ドヴォルザークがアメリカへ旅立ったのは、五〇歳のときでした。ですから、この旅行によって彼は収支のバランスを取ることができたのです。では、彼の精神のなかにははたして何があったのでしょうか? ・・・・・・ それは、多分、これまでの全生涯のなかで彼の人格や作品に刻み込まれた体験だったはずです。

 アントニーン・ドヴォルザークは中部チェコ(旧名ボヘミア)の神話的な地方の生まれです。その地方はテーブルの上に置いたパンのような形のジープ山があたりの平地を支配するようにそびえていました。言い伝えでは、チェコの最古の先祖が従者たちを引き連れ、ジープ山の上まで来てあたりを見回しながら、一転を指して言いました。
「おい、あそこの火のともっているところにあるのは何だ?」
みんなは答えました。
「あれはドヴォルザークの酒場でございます。あそこではそれはもう飛びっきりの舌を焼くような強いビールを出 しております」
すると先祖の長老は手にした杖を地面に突き立てて言いました。
「わしはここから先 へは絶対に行かんぞ」と。

 アントニーンが十歳のとき、おとぎ話のような事件を体験しました。故郷の村にはじめての列車が通ったのです。蒸気機関車が二色に塗られた二台の客車を引いていました。白い手袋をした機関士がシリンダーを持って、蒸気機関の運転をし、また客席には狂句牧師のほか地方の名士たちが窓から重々しくうなずいて、見物人に挨拶を送っていました。蒸気機関車に魅せられたこのときの感動をドヴォルザークは生涯忘れませんでした。

 十五歳のときからドヴォルザークは近くの村や町の舞踏会で演奏するようになり、家には憂鬱そうな顔をしてもどってきました。彼は肉屋を営む父を助けて生活のために働かなければならなかったのです。ですから、牛を殺すときにも手伝わなければならなかったのです。あるとき、父と一緒に若い雌牛を年の市に引いてきました。ところが、その雌牛というのがすごく頑固で、ドヴォルザーク少年は自分の手にロープをしっかり巻きつけて引かなければならないほどでした。

 牛はすっかりおびえて、かわいそうな少年を池の淵まで引きずっていきました。バイオリンは手からすべり落ち、紐を巻きつけた手からは、血が流れました。少年は水の中に立って、はげしく叫びました。
「もう、ぼく、こんなこと、沢山だ!」


 この反抗のあと、父親はもう、彼を引き止めませんでした。そして息子を都会のオルガン学校にいかせることにしました。でも、汽車賃は渡しませんでしたから、ドヴォルザーク少年は歩いていかなければなりませんでした。

 小さな村から大都会プラハへ。そこには厳然とそびえるプラは城があり、美しい橋がありました。彼はここでコンヴィクト(エズイット派の学寮)と呼ばれる建物の中にあったオルガン学校に入ったのです。実を言うと、この学校は小学校をのぞいて、ドヴォルザークが受けた唯一の教育だったのです。それ以外は、彼は独学でした。彼の回想によると、そこはかび臭く、空気の通りも悪い古ぼけた建物でした。しかし、彼はまったく気にも止めませんでした。

 彼は近くの家に間借りをして、そこでつましい生活を送っていました。まどの外には直ぐ隣の家の壁がありました。部屋には簡易ベッドと机と椅子しかありません。そして机の上にオルガンの鍵盤を描いて、それを叩いて練習をしました。

 やがてドヴォルザークにも幸運の女神が微笑みかける日が来ます。ドヴォルザークが団員として加わっていたコムザーク・カペラがプラハ国民劇場の前身、プロザティームニー(暫定)劇場のオーケストラとして全員参加することになったのです。こうしてドヴォルザークは正統的な音楽の世界に足を踏み入れることになったのです。それはまさに音楽の大洪水に巻き込まれたようなものでした。それというのも、午前中にリハーサルがあり、そのあと公演が二回という日が毎日続いたし、クリーニング工場のなかのように蒸し暑いオーケストラ・ボックスのなかで一日の大半を過ごさなければならなかったからです。

 それにくわえて、指揮者からも大いに学びました。だって、あの有名なスメタナの指揮のもとで何年間かビオラを弾いていたからです。でも、そのほかにも、十八世紀末からはじまったチェコ(原文・プラハ)文芸復興運動の花形女優ヨゼフィナ・チェルマーコヴァーもこの劇場の舞台に登場しました。ヤン・ネルダは彼女のために頌詩を捧げました。そしてボックス席にはチェコ貴族出身の政治家、若き日のヴァーツラフ・コウニッツもすわっていました。そして、そこからチェルマーコヴァーに向かって真っ赤なばらの花束を投げました。ドヴォルザークもまたオーケストラ・ボックスに座って、彼女を除き見ながら、すっかりとりこになってしまいました。そして彼も負けずに『糸杉』と題した愛の歌の連作歌曲を作曲しました。その作品を彼女の前に差し出すと、彼女は馬鹿にしたように笑いました。

 彼はひどく傷つき、打ちひしがれたような気持ちで、我が家へ戻りました。すると駅の前まで来たとき、みじめな物乞いのツィター弾きが、その風采とは裏腹な、陽気な流行り歌を奏でていました。足2001/07/31元の帽子の中には数枚の硬 貨が善意の印のように光っていました。そのときドヴォルザークはその乞食の中に父親の面影を見たのです。そのときからアントニーン・ドヴォルザークは年中、そのおじいさんへのお恵みがと絶えることのないように気づかっていました。それにしても、この体験は彼の心のなかによほど強く焼きついたのでしょう。彼はその後、何度もこのときの夢を、あのおじいさんの乞食の杖の夢を見たほどでした。

 それでもドヴォルザークは、チェルマーコヴァー家に音楽教師として迎えられることになりました。娘たちにピアノを教えたのです。ご主人のチェルマーク氏はオーダーメードの金細工師でした。ですから、ヨゼフィナがコウニッツ伯爵にとって気のおけない相手だたとしても不思議ではありません。彼女は伯爵のアドバイスに従って、チェルマーク氏と結婚しました。そんなこともあって伯爵は彼女に結婚祝いとしてヴィソカー村にある別荘を贈りました。あとになって、ヨゼフィナは、ドヴォルザークが彼女にはその後も忠実でありつづけたとよく語っていました。なぜなら、ドヴォルザークは彼女の妹アンナと結婚したからです。

 ドヴォルザークがアンナとの結婚の許しを乞いにチェルマーク氏を訪ねたとき、チェルマーク氏はもうちょっとで心臓発作を起こしそうになるほど驚きました。しかし、アンナがすでに妊娠していることがわかリましたので、もはや結婚を許すしか手はありませんでした。実は、アンナこそ、ドヴォルザークのずば抜けた才能を認識した最初の人物だったのです。ですから、その才能ゆえにアンナは喜んでドヴォルザークと極貧生活を耐え抜こうと決心したのです。

 ドヴォルザークは少しでも家計の足しにしようと聖ヴォイチェフ教会のオルガニストの職を得ました。この場所はすごく寒く、アンナは彼のために指先のない手袋を編みました。そしてドヴォルザークはここでスズメの涙ほどのお恵みを手にしたのです。しかし、彼は気にしませんでした。その分、彼は自分の作曲に打ち込んだのです。

 彼は台本を買い、『王様と炭屋』というオペラを作曲しました。しかし、こんなもの歌えもしない、演じることもできないといって、つき返されました。 それで彼はシンフォニーの作曲に取りかかりました。そして彼にはすでに経験がありましたから、包みにして紐をかけ、一番上には、自分にしかできない特別の結び方で結びました。三週間ほどしてそのシンフォニーの包みが送り返されてきました。彼は誰もその結び目を解いていないことを確認しました。それは、誰もそのシンフォニーの楽譜を見ていないという意味です。こうしてドヴォルザークは誰にもみとめられず、ときには嘲笑されながら生きていました……。

 アントニーン・ドヴォルザークの35歳の誕生日のとき、そして依然として無名の作曲家だった彼のところに集まったのは、オーケストラ仲間が数人と教区牧師さんだけでした。その当時、ドヴォルザーク一家はナ・リブニーチュクという市の中心部に近い小さな通りの古い家に住んでいました。本館のほうはとっくに取り壊されていたのですが、裏手の付属棟だけが残っていて、そのなかの一室に間借りしていたのです。

 ところが、このとき思いもかけない悲劇が起こりました。酔った客たちがわいわいと狭い通路を通り抜けようとしたとき、誰かがうっかり食器棚にぶっつかり、その拍子に、マッチ箱をミルク入れのポットに落としたのです。やがて三歳になるアントニーン・ドヴォルザークの男の子が不運にもそのミルクポットに手をのばし、マッチ棒の頭の燐が溶けて混じったミルクの飲んでしまったのです。子供はその晩、ひどい引きつけをおこして死んでしまいました。

 この不幸な事件はアンナの心も打ち砕いて,もし神様が悪魔がするようなこんな恐ろしいことができるのだろうか、そんなら神様などというものはいない、天国は空っぽだ」といって神様をののしりました。それで、すっかいりおびえたドヴォルザークは、教会のなかにに逃げ込みました。そして、たぶん教会のなかでひざまずき、ぐっと噛みしめた悲しみは長い慟哭と変わっていきました。ドヴォルザークは自分でも気づかないうちに、何か祈りの文句のようなものをつぶやいていました。そしてその祈りの言葉はいつしか彼の意識のなかで、メロディーの発想に変っていました。彼は大急ぎで、祈祷書の端の余白に音符を書きつけたのです。これは後に『スタバート・マーテル』と名づけられた作品の蕾でした。この作品はドヴォルザークは世界的名声を博するにいたる端緒となりました……。

 その後、ドヴォルザークのオラトリオ『スタバート・マーテル』はブラームスや楽譜出版者のジムロックの尽力もあって世界的に知られるようになりました。こうしてドヴォルザークはあらゆる音楽の天才を受け入れる名門のパトロンに招聘されてイギリスのロンドンに招かれ、自作を王立のコンサートホールで上演しました。そして真っ先に父親にこの成功を報告したのです。

 「親愛なるお父さん、ぼくがこうして海の向こうのイギリスまで来て、ほとんどの音楽家が体験したこともないような成功を収めるなんて、いったい誰が予想したでしょうね……。ぼくが『スタバート・マーテル』を指揮した音楽ホールに、もし、クラッドノの町の人がみんな聞きにきたとしても、まだたっぷり余裕があるくらい大きいんですよ。それにアルバートホールだってものすごい大きさです……。どれかの新聞にお父さんのことも書いていましたよ。ぼくは貧しい家庭に生まれた。でも、小さな村で肉屋と飲屋を経営している父親は、息子にしかるべき教育を受けさせるために、有り金のすべてをつぎ込んだ。万歳、こうなったのもお父さんのお陰です!……」

 こうして、ドヴォルザークは遂に国内でも評価され、手に触れるもの目にするものすべてを音楽にしてしまう作曲家として認められるようになりました。それどころか、どんな花の香りであれ、どんな鳥のさえずりでありそれらはみんなドヴォルザークの音楽作品になる……とさえ言われました。ドヴォルザーク一家はやがてナ・リブニーチュク通りの家から、ジットナー通りの家に引っ越しました。ドヴォルザークは生涯ここに住むことになります。この家はもともとは二つの部屋とキッチンとガラス張りのベランダがあったのですが、やがて子供が六人も次々に生まれましたから、実際には八人がこの家に住んだことになります。

 そんなわけでもう一室借り足して、ドヴォルザークの仕事部屋にしました。しかし本当を言うと、ドヴォルザークは台所で仕事をするほうが好きでした。彼は田舎の出身でしたから、朝は雌鳥(めんどり)とともに起きるのになれていたのです。あさの四時にはもう台所にすわって、大判の五線紙とちびた鉛筆を引っ張り出して、神様がいいヒントを与えてくださるのを待ちました。そして描きました。彼の一日の仕事の分量は四十小節でした。そして書きおわると、驚いたように顔を上げ、紙に感謝の気持ちを書き加えました。

 ドヴォルザークが全ヨーロッパで名声を高めはじめると、なんとも皮肉な状況が起こりました。いまやヨゼフィナ・コウニツォヴァー伯爵夫人となった、かつての花形女優は今ではもちろんのこと舞台に上がることもできなくなっていました。そして、いまになってやっとドヴォルザークにたいして熱烈な好意を示しはじめたのです。そして自分がドヴォルザークのインスピレーションのもとであるとさえ思い込むようになりました。もちろんコウニッツ伯爵がドヴォルザーク夫妻に、ヴィソカー山にある夏の別荘の食料庫を改装して提供しようと申し出るように仕向けたという点では、ヨゼフィナの功績は大きかったといえるでしょう。アンナもまたアントニーン・ドヴォルザークともども、この好意を大いに感謝の念をもって受け入れました。

 このヴィソカー山の家でドヴォルザークは、やっと開放された自由の空気を味わいました。村のまわりを歩き、森のなかに入っては、礼拝堂のなかにいるような気持ちになりました。自然はドヴォルザークにとって神のみ造りたもうた者でした。この地域全体が銀の鉱脈の横たわっていたのです。ですから、掘り尽くされたあとの洞穴から、地の守護人の語りかけてくる声が聞こえてきそうでした。 大鳥山の頂上には宝の箱が口を開いているといわれています。そうしているうちに近所の人々の中にも友人を見つけました。ドヴォルザークは酒場でそれらの友だちと、ビールのジョッキやトランプを前にして話を交わしました。

 なかでも一番気に入ったのは鉱夫のホディークでした。それでドヴォルザークはこのホディークを自分の家の管理人に任命したほどでした。二人は果樹園や、ジャガイモや小麦を植えた畑の手入れをしました。鳩小屋の面倒は自分で見ました。それから餌を餌箱にあけてやりながら、ヴォラーチや、パルカージや、黒タイガーや、ルベラークや、エプティシュキや、…… と呼部のです。つまり、どれとどれがつがいであるか知っていたのです。

 火ともし頃になると宴会やダンスパーティーが開かれます。アンナはきれいに磨き上げた広間の床全体に敷き詰められるほど沢山のケーキを焼きます。そして上機嫌のドヴォルザークは子供たち全員に、ぴゅーっと滑稽な音を出しながら先の方が飛び出す紙筒の玩具を買い与えます……。

 ドヴォルザークは旅行が大嫌いでした。ですから「旅に出るくらいなら、わたしは切り株のように、一つ所にじっとしていた方がいいよ」といった言葉を口にするほどでした。しかし、彼の才能がそうはさせませんでした。彼は世界中を旅行しなければならないよう運命づけたのです。そして大きな世界もまた彼をそっとさせていませんでした。

 楽譜出版者のジムロックが絶えず彼をドイツに呼び寄せ、彼の頑なな愛国心を少しでも薄めようという魂胆だっ他のです。でも、ドヴォルザークときたら、そんなことにはお構いなしに、出版された楽譜、そればかりかポスターに記された名前を再三再四にわたって訂正しました。アントン・ドヴォラーク(Anton Dworak)ではなく、アントニーン・ドヴォルザーク(Antonin Dvorak)だ。わたしの名前のこの字にはこの記号、この字にはこの記号をつけなければならない。つまり、チェコ語の文字につけられる特殊な記号にこだわったのです。

 ジムロックはこのことでドヴォルザークに罰を与えました。ドイツ人のシンフォニーにたいして、ジムロックは、例えば、ブラームスには一万五千マルクを払っていましたが、ドヴォルザーク先生には二千マルクしか払わなかったのです……。 たぶん、ブラームスはそのことを知っていたのでしょう。ブラームスは心の広い人でした。それで、ドヴォルザークに提案しました。「いいかい、聞きたまえ、ドヴォルザーク君、ご存知の通りぼくは独りぼっちだ。それなのに、裕福だ。もし、君がウィーンに来て、住むなら、わたしの遺産をみんな君にあげよう」

 もし、ドヴォルザークがその申し出を断ったら……、ドヴォルザークは心の狭い、時代遅れの人物ということになるのでしょうか? 生まれ故郷、あるいは、祖国の土を足の下に感じていればこそ、そこに奇跡が生まれるのです、というような意見をドヴォルザークは言いませんでした。でも、彼は神様がそう望んでおられるのだと確信し、そのことを義務と感じていました。幸せな気持ちで身をかがめ、家の窓から木々の梢を見上げ、間近に苔を見おろす……そして名曲を作曲する―― ドヴォルザークはそれで満足だったのです。


 ドヴォルザークが五十歳に達したとき、いくつものお祝いの会が開かれました。彼はプラハ音楽院の教授として後進の指導に当たっていたばかりでなく、名誉博士号を受けるためにケンブリッジ大学に招かれました。そして、彼にお祝いの言葉を告げにきた人たちのなかに、まるで貴婦人にも見まごう美しい女性がいました。ドヴォルザークは一瞬、ヨゼフィナのことを思い出しました。彼女はニューヨーク音楽院の総長、ジャネット・サーバーであると自己紹介をしました。そして、すばらしく巧みな言葉でドヴォルザークを説得しました。

 「ナポレオンはヨーロッパを征服するのに軍隊を必要としました。でも、あなたは指揮棒一本でそれをなさったわ。私はあなたに音楽院院長の地位と一万五千ドルの年俸を差し上げたいと思っております」

 彼女はこれがドヴォルザークがプラハで受け取ると思われる金額の三十倍はあるということを知っていました。つまりプラハで受け取るのと同じ額が、ニューヨークでは一日で得られるのです。こうして、ジャネット女史は古い昔からのジレンマ――行くべきか、行かざるべきか――によって、ドヴォルザークを獲得したのです。

 ドヴォルザークは友人たちに相談しました。その意見はひどくまちまちでした。「もし、君がアメリカに渡ったら、きっと人々は君のことをを悪く言うかもしれない……」 また、ほかの友人は「ニューヨークはウィーンじゃない。アメリカは何の個性もないところだ」 で、次は? 「祖国がオーストリア帝国に隷属しているときに、金になることはないにしても、民族に奉仕することはできる。この国では音楽は音楽以上の意味をもっているのはたしかだ…… で、ほかには? これこそチェコのナを世界中に知らしめるいいチャンスじゃないか」

 しかしドヴォルザークにたいして個人的に好意をいだかない連中は、「ドヴォルザークの名声などは反動勢力によってでっち上げられたものだ。ベルリンは彼にたっぷり金を払い、ウィーンはさかんに誉めそやす。それが、いかさまどものアメリカくんだりまで出かけていって何をしようって言うんだ?」 「こいつはドヴォルザークにとって、時間の浪費じゃないのか? だって、これまでのところアメリカは音楽的には未開地だ。そんな地の果てみたいなところに行けば彼の才能なんて干からびてしまうだろう」 あるいはその反対に、「行きっぱなしになりませんように!」

 そんなわけで、ドヴォルザークはヨゼフィナに助言を求めに行きました。

 「もし、子供が航海の途中おぼれるようなことになったらどうしましょう?」
すると、ヨゼフィナは言いました。
「あたしならそうならないように気をつけるわ」
 そして今度は、同じような状況でプラは音楽院でバイオリンを学んでいるチェコ系アメリカ人の学生にたぅねることにしました。彼は噂ではアメリカの草原のアパッチの血を引いているということでした。それで、その学生を探し出しました。彼の名前はコヴァージークという、二〇歳の青年でした。


 「君はインディアンじゃないんだろう? 本当にアメリカから来たのかい?」

 そうして、その青年を家に招いたのです。するとチェコ系アメリカ人のコヴァージークはドヴォルザーク夫妻の前で、新しい自分の祖国があらゆる面で、いかに優越しているかを熱っぽく語りました。

 「ヨーロッパはもうすべてが完成して、停滞しています。それにたいして、ぼくの国ではすべてがはじまったばかりです。ですからアメリカは無限の可能性をもった国なのです」  それを聞いてドヴォルザークは、この決定を家族会議にゆ だねることにしました。つまり家族の全員の投票によって決めることにしたのです。その会議のテーブルには子供たち全員、ちょうど三歳になったばかりのジチンカちゃんを含む全員が呼ばれました。そこでドヴォルザークは話し始めました。

 「もし、父さんがアメリカに行くと、金持ちにはなる。しかし、おまえたち子供は父さんなしで暮らさなければならない。その反対に、もし、父さんがアメリカに行かないとしたら、貧しいながらも、いっしょに暮らすことができる。さあて賛成は誰かな、それとも反対は?」

 投票の結果は四対四の同数でした。

 「これじゃ、決まらない」ドヴォルザークは当惑すると同時にほっとしました。そして契約書を机の引き出しの中にしまいました。

 それにもかかわらず、ドヴォルザークは夜通し窓のそばを行ったり来たりしながら、窓の外の暗闇を見つめていました。
「また、乞食のおじいさんの杖の夢でも見たんですか?」
 妻のアンナが声をかけました。そして最近とみに頻繁になってきたドヴォルザークと楽譜出版者のジムロックとのあいだの意見の食い違いから生じる口論を引き合いに出しました。それというのも、楽譜の出版にかんする印税の額の問題でいつも交渉しなければならなかったからです。そしてジムロックは支払いそのたの条件について契約書を書かせるようにさえなっていたのです。


「ねえ、あなた」 アンナが呼びかけます。「たった二年間でいいのよ。そしたらアメリカはあたしたちに生涯、お金の心配をせずにすむ、すごい保証を与えてくれるのよ。あなたは好きなように作曲すればいい。アメリカはきっとあなたの乞食の杖の悪夢を追い払ってくれるわよ」

 そのアンナの一言で、ドヴォルザークはアメリカ行きの契約書にサインしたのです。
 ドヴォルザークはアメリカ行きの契約書にサインするやいなや、お別れの演奏旅行を計画しました。そしてチェコとモラヴィア中、いたるところの市や村で演奏会を開いたのです。その数は四十カ所にも及びました。その演奏会のいずれにもドヴォルザーク自身が出演しましたし、その後には当然、宴会やレセプションがありましたから、この愛国主義的マラソン演奏会の終わりにはくたくたに疲れ半死半生の状態でした。

 それでも最後のクライマックスの演奏会のためにはちゃんと余力を蓄えていました。その演奏会はプラハの代表的な音楽会場「ルドルフィヌム」で行われました。ドヴォルザークは父親を招待し、自分のコートを贈りました。それはビロードで縁取りのあるものでした。貴人用のボックス席には父親のとなりにヨゼフィナ・コウニツォヴァー伯爵夫人と妻のアンナが座っていました。

 やがてプラハの聴衆に向かって、お別れに『カーニヴァル』(Karneval)を演奏しました。 そしてドヴォルザークは聖書とツグミのペピークの入った鳥篭を持って、アメリカへ旅立ったのです。
 チェコ系アメリカ人のコヴァージークもプラハでの修業を終えてアメリカへ戻るというので、ドヴォルザークと同行することになり、それをいいことに、ドヴォルザークは彼を秘書としてその後も自分のそばに置くことにしました。
 九日ほどの航海ののち、ついに新世界、アメリカ大陸が彼の前に姿をあらわしました……。左手のほうから自由の女神が彼を迎えました。地平線上にはマンハッタン島の広大なパノラマが開けました。――十歳、その頃は大部分の十階建てのビルでした。ドヴォルザークの乗った船が港に近づくやいなやすべての船からいっせいに汽笛が鳴りはじめました。
 ドヴォルザークは面白そうに、船長のそばに来て、たずねました。

「あれはいったい、何の騒ぎです?」

 すると船長は言いました。

「世界でもっとも偉大な音楽家を迎えているのですよ」

 すると、それにたいしてドヴォルザークが応えました。

「蒸気の無駄じゃありませんかね」

 埠頭には音楽院総長のマダム・サーバーが秘書のヒューネカーに伴なわれて出迎えに来ていました。彼は背の高いなかなかの好青年で、すかさず、ドヴォルザークに言葉をかけました。

「マダム・サーバーはあなたをアメリカ音楽にとってのコロンブスだと見立てているんですよ」

 たちまちドヴォルザークに向かって新聞記者たちが突進してきたのはもちろんです。だって、ドヴォルザークは彼らにとって、格好のアトラクションであり、新聞種だったからです。でも、マダム・サーバーはドヴォルザークを記者たちから引き離しました。彼女もまた、彼のために取って置きのアトラクションを用意していたのです。

 この国ではいまコロンブス祭が行われていました。コロンブスのアメリカ発見からちょうど四百年目に当たるからです。その祭りは三日三晩にわたっ
て続きます。ドヴォルザークもそのお祭りにほんの少しですが参加したのです。それはマダム・ジャネット・サーバーが彼を見物席に招いたからです。


 市の中心部にあたる五番街(フィフス・アヴェニュー)には、かつて祖国にかわる住家をこの地に求めて渡ってきた人々、そしていまやこの国を誇りとするアメリカ人たち、その人たちの果てしないパレードが延々と続くのです。ドヴォルザークは見物席からその行列を眺めていました。そして父親にその様子を伝えています。

「ねえ、お父さん、想像してもごらんなさい、それはもうすごく大勢の隊列を組んだ人々が次から次へと繰り出してくるのです。産業別の一団が来るかと思うと、次は職業別の団体、大勢の体操選手、ほら、チェコのソコル体育会に出てくる体操選手と同じです。それから芸術を代表する人たち。それにいろんな民族や肌の色を代表するひとたちのパレードです。何千、何万という人たち、それがいつも違った、新しい姿で現れてくるのですよ。それに、また、なんと変わった音色の音楽! この陰には沢山の不幸な出来事もあったことだろうということはお父さんにも容易に想像がおできになりますよ。観衆は十一階建てのビルの屋上に出て、そこから、このお祭りの行列を見ています。このお祝いのパレードには百万人の人が参加しただろうと言われています。アメリカとはいったい何か、そして何ができるかを見せてくれました。それにしても、言葉でそれを言いあらわすことはとてもできません」

  このパレードを見物してからドヴォルザークは、アメリカについて深く考えざるをえませんでした。たとえば、アメリカという国は、ドヴォルザークがチェコで生まれ育って知っているのとは、正反対の方法で生まれたのではあるまいか。チェコが近代的国家になるためには、自己を確立し、周囲の国とも自分との違いをはっきりと示さなければならない。もし自分の国が自分流であろうと望むなら、他の国々がどのように存立しているかをも十分よく理解しなければならない。 アメリカは反対に彼らを結びつけている原理に従って、国民を混合した。アメリカはまさに坩堝(るつぼ)の役割を果たしたのだ。そしてそのなかから合金として出てきたのがアメリカ人だ。この解決法、このようにいままでとはことなる道こそ、まさに二十世紀につながる道ではあるまいか? そして、アメリカは未来世界の理想像ではないだろうか?

   この壮大なパレードを見ているとき、マダム・サーバーはドヴォルザークに声をかけました

  「ねえ、先生、こんなダイナミックな力にあふれた国に、国歌がないないということ、どう思われます?」

「そうでもないんじゃありませんか」ドヴォルザークは反論しました。「さっき、それらしい歌を演奏していたじゃありませんか」 

   彼女は自分の考えを説明しました。

  「わたしが申しますのはね、いま国家として歌われているのは、何か、こう、よせ集めた感じで、威厳にかけるように思うんですの。だって、歌詞はアメリカ製でも、メロディーはイギリスのものですもの。言葉が新しいのに、メロディーが古いんです」

   そこで、ドヴォルザークは自分の部屋に戻ると、アメリカ国家の歌詞を正確に読んでくれるようにコヴァージークに頼みました。それでコヴァージークは何度も歌詞を暗誦しました。

    "My country t'is of thee, sweetlannd of liberty, of thee I sing...."

やがてドヴォルザークは五線紙のメモ帳にメロディーを書きつけ、「これはアメリカの国歌だ」といって、書き止めたメロディーの蕾を見せました。しかし、直ぐに、躊躇しました。「わたしが外国の国歌を作曲したと聞いたら、わたしの国の人は何と言うだろう? そうだ、やっぱりアメリカの国歌はアメリカで生まれた根っからのアメリカ人が作曲した方がいい」 そう言って、音楽帳をぱたんと閉じました。

   こうして、アメリカはドヴォルザークに自己紹介をしました。今度はドヴォルザークがアメリカに自己紹介をする番です。

   それはここ、そう、カーネギー・ホールです。ちょうど出来上がったばかりのこのコンサートホール出、ドヴォルザークはアメリカの聴衆にはじめてお目見えしました。それはコロンブス祭の行事の一つとして催されました。そして、ドヴォルザークはその演奏会のために「テ・デウム」を作曲し、自分で指揮をしました。

  「半円形に配列されたボックス席にはアメリカ上流社交界の面々が勢ぞろいしていました。大財閥の未亡人マダム・ヴァンデルビルト、鋼鉄王で億万長者のカーネギー。それにレビュー界のスターで、三メートルもある真珠のネックレスを巻きつけた、悪女の誉れ高きリリアン・ラッセル、またボックス席にはニューヨークのフィルハーモニーの主任指揮者アントン・ザイドルもすわっていました」と、ドヴォルザークは、もちろん、父親に報告しています……。「演奏会は、アメリカ式では、二度行われます。一回は裕福な人たちのため、二度目は裕福でない人たちのためです。ぼくはそのことを子供のようにうれしく思いました……」





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