00.序
01.文学と社会:文学評価の規範(クリテリア)
02.文学の発展とその時代区分
03.チェコ文学の民族的特性
04.古代における文学発展のいくつかの特徴
05.本書の使命と解説の方法
文学は一般に一国の文化の主要な代弁者と考えられてきた。そう言われるゆえんは、ひとえに文学があらゆる人生の問題をほうかつしうるものであり、かつ、それゆえに国民の文化水準と国民の生活とを全般にわたり深く表現しうるものだからである。くわえて文学作品は他の文化ジャンルが閉ざされているとき、たとえば造形芸術や音楽の鑑賞が不可能なときでも、私たちは読書をすることができる。つまり本とわずかばかりの明かりがあれば、文学鑑賞には事足りるからである。それにまた文学の翻訳という手段をとおして、他の国々の生活に接することもできる。いいかえれば、自国の文学ばかりでなく世界の文学を知ることができる(いわば国際的伊木を有する外国文学作品に接することができる)。この観点から文学は国際的意義を有する。
文化生活のなかでの文学のこのような特殊な地位に関連して、個人の読書からくる文学的知識、いわゆる文学理解がしばしば共用の指標とみなされる。それゆえに文学はまた高等学校における教材でもあり、もっと低い段階の学校でも文学作品を理解することを学び、詩を暗誦するのである。
文学作品は一種の上方であり、したがって、それは社会的事実である。文学的表出が一般的言語表出(いわゆる語り)とことなる点は、文学的表出が十分な価値をもった情報を内包しており、したがって、人々の意識に記憶されようとする努力であるということである。だから文学作品の文章は固定され定着されるのである。現代ではテキストの定着化の通常の方法は記述である(文学の言葉もまた、ラテン語のリテル、文字に由来している)。文学がまだ社会のごく一部の特権であった時代、または、まだ存在し低なかった時代においては、文学は口承という手段によって人々の意識のなかに保存されていた。狭い意味での文学(記述によって伝えられた)と口碑の創造物(口承によって伝えられた)とに共通の呼称は文学である。
口碑は近代にいたるまで民俗のなかに保存されていた。そして今日でもなお市民的環境の中で、口承的形態で、ある種の文学形式がいきており、口伝えで広められている。たとえば小話がそれである。しかしながら今日の芸術生活において、文学作品の伝播の決定的な役割は文字手段(一般には印刷という形)が担っているのだから、私たちはリテラチャーという言葉を文字によって生産されたものの全範囲にたいして用いているのである。
情報を意識のなかに維持しようとする努力(したがって、それは記録すること、または口で伝えること)はその情報の内容によって動機づけられる。ここにはきわめて広い範囲がふくまれる。――電車の乗車券(この紙片の所有者は交通手段を使用する権利を有するという情報)から卒業証書(名前の記された一定の人物は一定の段階の学校教育をおえたという情報)、さらには学術的著作、教科書あるいは小説にいたるまでである。狭い意味でのリテラチャー(この意味でリテラチャーという言葉を用いるとき、特別の定義をしない)は芸術的意図のものであれ娯楽的意図のものであれ上記の最後にあげた例の文書(テキスト)を意味する。したがって、特別の定義なしに「リテラチャー」について話をするとき、その意味は原則として芸術的あるいは娯楽的文学作品のみを指す。(それ以外の意味でリテラチャーの言葉を使うときは「専門的リテラチャー」として区別する。たとえば学術論文とか教科書、「実用文書」としての証明書とか願書とか)。
文学と社会との関係は、文学作品が社会にたいして一定の価値を有する(ないしは、もつべきである)ところの一種の情報であるということからもはっきりしている。
第一義的存在としてあるのは社会であり、文学は二次的現象である。なぜなら社会の存在なしに文学はありえないからである。文学作品の社会にたいする関係はどんなものであろうか? 一方で文学は一定の社会状態および社会状況を反映英しているのにたいし、他方では社会にたいして思想的に作用をおよぼしている。つまり一方では社会から生れ、他方では社会にたいして影響をおよぼすのである。文学が社会にたいして影響をおよぼしうるためには、当然、一定の芸術的価値をもっていなければならない。なぜなら読者の興味を引かなければならないし、そうでなければ面白くないといって放り出されてしまうからである。
読書は元来作者と読者とのあいだのある種の対話のようなものである。つまり作者は読者に自分の思想を伝えるが、読者はそれを受け取る場合もあれば、受け取らない場合もある。しかし文学はどんな場合でも読者とコンタクトを保っていなければならない。そうでなければ文学は唖者となり、読者の反響を得ることができないからである。
社会にたいするこのような関係から、文学評価の基準も生じてくるのである。つまり私たちは文学作品を社会の発展にどう寄与したか、いいかえれば、社会の発展的部分にいかに密着しているか、また、支援しているかに即して評価する。その意味するところは文学作品評価の出発点は一つにはその内容、他の一つはその作用である。しかし同時代人には理解されなかった作品もある。それらの作品については、時代を先取りしすぎていたからだといわれる。あまりにも早く作られたからだと。ある作品は同時代の大衆と実り多い対話を交わすことができなかった。そして、何年もたってから評価される。その例としてわが国の文学からK.H.マーハをあげることができる。
作品が社会に影響を与えうるためには、もちろん、芸術的<訳注・この場合芸術的とは日本における文学的とほぼ同義に解釈できる>でなければならない。なぜなら、その点にかんしてすでに触れたように、出来の悪い作品に私たちは興味を抱かないからである。
作品理解の鍵はその文章(テキスト)をよく読み取ることである。文章は私たちの文学行為のなかで最初に出会うところの、理性によって把握しうる物そのものである。文章をいかに読み取るかについては詩論が教えてくれる(読者が理解しうる言語で作品を読むことを前提として)。作品を理解することは、当然のことながら、その作品の文学的先行者、および、後継者をも理解するということである。なぜなら文学の形式は発展するものであり、作家は一方で先行者の経験を利用すると同時に、他方、独自にある一定の価値を創造し、その価値をさらに伝えるからである。このことは文学の内在的発展と言われている。
しかしながら作品の「言語」的理解だけでは十分ではない。それを社会的事実としてとらえなくてはならないのである。すなわち(社会の発展を)ダイナミックに把握したコンテクストのなかに秩序づけなければならない。いかなる文学的事実も社会的現実に根ざし、その現実から表現されなければならないからである。
テキストについての具体的作業にあたっては二つの極端がある。作品の形式的側面が見落とされるとか、作品が社会的事実としてのみ解釈されるとかである。この場合文学の内在的発展が脇へどけられる。そうなると文学作品は社会の発展の説明のみに奉仕することになる。私たちはこれを単純社会主義という。その反対の場合の作品解釈は内在的発展にのみ限定される(すなわち、社会的コンテクストから切り離したテーマ、および、想像の手段に限定する)。ここから形式主義的解釈がおこり、つまり社会的発展から切り離されて解釈される。正しくは、まず第一に内容を把握するためのテキストとして作品が解釈され、そのあとで、その作品の社会へのかかわりが考察されなければならない。――一方では作品の成立(社会の反映としての作品)、そしてもう一方ではその作用(つまりインパクト)を研究するのである。
時間とともに発展する対象物は、たしかにその自己証明(アイデンティティー)を失うことはないとしても、時間的経過のなかで絶えず変化する。発展とは持続と同時的不連続との弁証法的家庭であり、過去の要因の部分と新しい要因とによって取って代わられるところの他の要因との同時的否定との接続である。発展の意味は何かというならば、私たちは後続する諸相の観点から過去の諸相を評価しなければならない。それはつまり、私たちは発展が前進する通路を発見しなければならないということである。したがって、それは、ひとえに、自己からさらに前進する諸要因(創造的持続)と死にゆく要因とを切り離すことであると言いうる。それは私たちの文学活動における発展的道筋を明確にし、同時に発展的に重要な諸事実と、発展的に見て非本質的な事実を分離することを可能にする。同時に明らかなことは、単なる量的な増大は、まだ進歩的発展曲線の上にあるというわけにはいかない。きわめて大きな読者の反響を受けたこのような作品が休息にその発展曲線を下降させることがしばしば見られる。内在的発展の観点から、肝要な問題は表現の手法である。今日の文学活動と社会というコンテクストにおいて最も進歩的なものとして社会主義リアリズムの手法があげられる。文学の発展をリアリスティックな方向への発展を言う観点から考察するということを目的とする理由はそこにある。
わが国の文学の主要な発展段階とはどういうものか? そしてその発展の段階において文学はいかなる課題を解決したのだろうか?
一般に、文学想像は民族的団結の発展を伴い、かつ、それを支援するといえる。この観点から第一の大きな段階は最古の時代からフス時代までとして示される。この時代の文学は封建社会の形式と発展を支援した。この時代(概括的には中世といわれる)にわが国の土壌から、古代スラブ語によるはじめての文学が現われた。これはやがてラテン語によって駆逐されるがチェコ語でかかれた文学はラテン語との葛藤の中で徐々に起こり、成長する。フス時代にいたるまでの文学は狭義には古代チェコ文学といわれ、そこに用いられた言語は――チェコ語がもちいられているかぎり――古代チェコ語と言われる。芸術生活のヘゲモニーは封建的(支配者)階級ににぎられていた。フス時代は新しい社会階級、市民層を登場させた。革命運動は粉砕されたが、市民文化の交流を抑えることはできなかった。市民教育はひゅ―間にスティックなり年を帯同しながら広がり、十七世紀初頭にまで達するが、このときチェコの国土は主権を失った。市民文化の社会的基盤は破壊され、文学的発展は社会の再封建化を求める権力志向によってふたたび覆された。十八世紀の終わり頃にはチェコ語によって書かれた高度な民族文学はほとんど死に絶えた。文学の流れは民衆の文学へと移行していった。
しかし、やがて再興運動が起こる。(フス時代と再興期とのあいだの文学は、以前は中間期の文学と呼ばれていたが、現在では初期から十八世紀末にいたる文学全体を古い文学と定義している。そして再興期以後の文学を新しい文学または新チェコ文学としている)。再興の過程はいくつかの段階を経過する。おおよそ、十九世紀の三十年代までの文学はふたたびせいちょうし、あらためてチェコ語で論文や高邁な詩が書かれた。続く十年間には形成されつつあったブルジョワ市民が政治の領域にも登場する。しあkしながら、発展は一九四八年の革命の年にまた覆され、重圧的な反動の時代がはじまる。そして六十年代に入って、やっと政治活動、それとともに文学活動がふたたび起こる。資本主義的市民の主な属性、つまり独自の国家は、しかしながら、この時点では現実できなかった。文学はまず国際的な理念への適応を目指し、狭い民族的関心から社会的関心(マーイ派)を目指した。やがてドイツ文化への一方的な従属関係(ルミール派)を断ち切ることにつとめ、そして最後には――一八九〇年以後――これまでのチェコ文学の一本の流れは労働者のなかに浸透した関心との関連において分化していく。これによってチェコ文学はいわゆる大きなヨーロッパ文学の同格のパートナーとなった。再興運動の初期に起こった発展は一九一八年、チェコスロバキアという形の独立国家が形成され、それによってブルジョワ市民が究極的な、その主要な属性を得た時点で本当の意味で完成された。しかし、チェコスロバキア共和国はブルジョワ社会がすでに形骸化したときに起こった。それゆえに独立国家のそもそも当初から、共和国を性格づける戦いははじまっていたし、その際、文学発展の進歩的軌道はKCS(チェコスロバキア共産党)の発展と努力とに平行していた。この発展における大きな挫折はヒトラーの軍隊によるわが国の染料によってもたらされた。しかしそれは一時的な中断にすぎなかった。次の発展における決定的なものは一九四八年二月である。このときに社会主義国家の成立のための主要な前提が作られた。この大きな転換のときをもって、この概説もまた終わるのである。
<訳者注=本書の出版は1978年であり、いわゆる「プラハの春」の弾圧のあとの「正常化」という体制下で出版されたものであるから、当然、部分的に体制を反映した言辞が出てくる。しかし、われわれはその問題については了解ずみである。その意味では、ある程度の批判的な視点を絶えずもって読み進められるよう期待する。それにもかかわらず文学史それ自体の記述はきわめてすぐれたものである>
チェコ文学はヨーロッパ諸国の文学のなかにあって、その民主主義的性格によって特別の地位を占めている。その民主主義的性格とは具体的には社会的、国民的正義の希求の表現として、またこの理念の実現へ向かって読者を動員する努力として現われる。同時にその関心を狭い意味での国民に限定せず、むしろあらゆる次元に向かってその意図を投影した。民族再興期においてヤン・コラールは二部作のしによってそのことをよく言い表している。
自由を受けるにふさわしき者は、いかなる自由をも評価することを知る。
人を奴隷のくびきにつなぐ者は自らが奴隷である。
ユリウス・フチークは「自由の戦いのなかのチェコ文学」という論文(1938年2月、カレル・ボヤンの筆名で発表)のなかでそのことをかいている。
かかる自由の戦いのなかで、やがてチェコの歴史の意味と全チェコ文学の意味に気づくだろう。コラールののち60年をへてヤン・ネルダは民族にたいする自分の高貴な使命を『さあ、進め!』で書いている。
嵐の時代からわれらは生れ
一歩一歩嵐の暗雲のなかを進む
ネルダはチェコ国民の同時代の状況を思い浮かべ、すぐに明確に、彼に課された問題がいかなるものか、その中に彼の未来があることを述べている。
人間の自由のために――われわれのなかに、おまえはいつ花咲くのだ! ――
いまチェコはかつて自由のために立ち上がったように立ち上がった
われわれを墓場のなかへ追い込んだあの思想が
ふたたびわれらを栄光へと昂揚させる――前進だ、前進あるのみだ!
もしわが国の文学の民族的特性にかかわる問題への解答を求めようとするなら、景色と内容の問題からこの問題にアプローチしなければならない。内容の観点が第一の重要な点であるのは当然であるが、読書にさいしてまず出会わなければならないのは言語であるから、われわれの考察もこの観点からはじめることにしよう。もちろん形式主義的方法にのっとって「言葉が自ら詩を作る」ということとはかなりへだたりがるとはいえ、いくつかの特殊性が言語から生じるという事実を指摘しないわけにはいかない。特に詩がそうである。
たとえば、チェコ語はロシア語と比べてことなった韻律をもっているから、その韻律構成には下降的ミーター、トロフェイとディクタイルが適している。他の言語、たとえば、英語との比較においても、英語の「民族的」詩が、十と十一の音節の無韻詩であるのに、チェコ語において、最も好まれるのは八音節の韻を踏んだ強弱格(トロフェイ)である。フランス文学においては一音節脚韻が普通であるのにたいし、チェコ語では二音節ないしそれ以上の音節の脚韻であることが多い。そこでもう少し話を進めよう。われわれは類比的にチェコ語文章のイントネーション、文章形態、チェコ語特有の「自由」語順その他の特徴を性格づけることもできそうだ。しかしながら、チェコ人の読者にとってはこれらの特殊性はなんでもないことであるが、外国文学にかんするかぎり、その特殊性は多くの場合翻訳のなかに現われてくる。したがって、チェコ語文章の言語的特殊性があいまいになる。その大部分のことが『もう一方の側からの視点」にたいして適合する。すなわちチェコ語から外国語への翻訳の場合である。
さらに大切なことは、社会的、民族的生活のなかにおける文学の有効性の観点からチェコ文学の特有性を考えることである。ch個文学の発展におけるこの流れをわれわれの概論も追及している。基本的傾向を序論において概括することはさしたる欠陥とはなるまい。ここでも外側からの視点と内部からの視点を適用することが可能である。
外面的に見たチェコ文学の特殊性は(われわれは口碑文学ではなく記録されたテキストを考えている。チェコ文学の発展は何回かにわたって中断され、そのたびに文学はまさに新規まきなおしに、あらためて始まったということである。チェコ文学の源流は古代スラヴ語であったが、言語を解する人々において、文学の基盤となるべき古代スラヴ語は――同じことはロシアについてもいえることだが――暴力的に抑圧された。長いあいだ、文学生活の領域をラテン語が支配した。そしてチェコ語はきわめて徐々に文化領域における自己の位置を戦い取った。やがて、最後には大きな成果をあげ、チェコ語による国民的教養の全範囲のカバーに実質的に成功したとき「白山事件」(1620年、チェコ貴族・市民とハプスブルクの武力衝突)が起こり、文学の声明にも不幸な結果をもたらしたのである。十八世紀末にはチェコ語による見るべき作品は完全に姿を消してしまったかにみえたが、チェコ文学はいわゆる民族再興の期間に失った地位をふたたび徐々に回復した。
内面的な視点はチェコ文学の内容にかかわる。簡単に言えばこの側面でのチェコ文学の努力は民族性の獲得を目指す努力であったと性格くけることができよう。文学的発展の最初の百年間は、この努力はしばしば潜在的であった。なぜなら封建時代の作品の領域においては、まず何よりも民衆に理解される言語の有効性が問題だったからである。人々の関心は目立たぬほどに、タy里奈厳ではあったが、やがて文学に向いてきた。しかし、文学作品のチェコ語化と世俗化に達したとき、文学が民族的関心の直接的なスポークスマンとなるべき条件が形成された。この過程はフス主義時代でおわる。その経過は複雑に入り混じっているから、この概説における文学張っての説明においてはフス主義にいたるまでをふくめて、文学の民衆との関係についての特別の章が挿入されている。さらにその過程は、直接原文テキストによって追及されている。そういうわけで、そういうわけで文学が人民の関心のスポークスマンとなるための可能性が実現するや文学は闘争の場となり、相反する利害や階級に根ざす意見が文学のなかでせめぎあいをはじめる。このことはフス主義をはじめとしてわが国の文学を性格づけるものである。
人民が、あえて言うならば、人民のスポークスマンが独自の文学を創造する能力を得るやいなや、同様のことが階級社会のあらゆる文学においても言えるのである。しかしながら、わが国の文学にとっては――そしてそれはわが国の文学を全スラヴ文学に結びつける――すでにうえで述べた自由と社会的正義がその特徴的性格である。わが国の文学のこの民主的性格もまた、再興の文学的価値は常に進歩的発展の方向と密接に結びつけられているという現実を条件づけている。それゆえ、わが国の歴史における最も栄光の時代は、王の名とではなく、人民のなかから生れた人物たち、フスやコメンスキーの名と結びついている。その点についてJ.フチークは上記の論文のなかで見事に指摘している。この論文の文章の一部を結論として引用しよう。
チェコはヨーロッパの十字路であり、また、そうでありつづけたし、そうあろうと努力してきた。しかし、この十字路にはどんな覇者にも従属することを欲しなかった人々、自己の政治的かつ文化的自由のために戦ってきた人々が住んでいたし、またすんでいる。
それゆえ、当然のことながらチェコにはほかのどこの国よりも正義ある秩序への願望が――神の名においてであれ、人民の名においてであれ――根づいていた。その秩序における主要な法則は一人一人の正義と権利であったし、それはまた弱者を興者の獲物にしない、小国を大国の侵略のたいしょうとしないような、人間的正義における秩序、「われわれのためにも、われわれのあとに生れてくるもののためにも滅びることのない秩序への願望であった。そのことは十三世紀の最も古いチェコのコラールの一つのなかですでにうたわれている。正義ある人間的秩序へのこの願望は、常に民族集団のなかに浸透していたのである……
チェコ文学の発展はきわめてながきにわたっており、源流をたどればその広がりは――古代スラヴの作品も顧慮に入れるならば―― 十一世紀以上にもおよぶ。この時期においても作品の特徴は明らかに変化しており、それゆえにこの序論のなかで古代における文学生活および文学作品のいくつかの特徴について、あらかじめ注意を促しておくほうがよいと思われる。とりわけ中世における文学生活のいくつかの特殊性には触れておく必要がある。そのなかのいくつかのものは再興期の文学にもうけつがれており、再興期の文学生活は本質的には、今日のものと区別されない。
それには二つの大きな特質があり、そこからさらに一連の特徴が生れるのだが、その二大特質とは作品の口承的性格と主題的オリジナリティーにたいする無関心さである。これらの二つの特質は中世の生活的、文化的条件に制約されている。第一の特質は主に文学作品の伝播の技術に、第二の特質は中世の世界観によるものである。
作品の口承的性格は主に中世における文学の知識が限られていたこと関連している。しかしながら、この「文盲性」を今日的な目で見てはいけない。中世の貴族は文書にかんしてはほかの人間が代わって処理したから、読み書きのできることを必要としなかったのである。それは今日の作家が印刷術やタイプライターを自ら使いこなす必要がないのと同じである。文字知識の貧弱さのため文学作品はとりわけ聴覚によって受け取られたから、口誦を意図した文学になることが要求された。その結果はどうなるか? まず最初に詩がことのほか愛好されることになった。チェコにおける文学生活の初期――およそ十四世紀の中葉にいたる――における詩は、今日におけるような抒情詩あるいは主観的文学表出のための典型的特長的な形式ではなく、われわれが今日「文学的」と名づけているもの、つまりあるテキストが文学の領域に属している、別の言い方をすれば、単なる一般的なお話ではないということの目印にすぎない。それゆえ、今日の慣例では用いないようなもの、たとえば辞典のようなものまでが韻文化されていたのである。詩がよく用いられたという理由は、第一に覚えやすいということ(記憶作用)、もう一つは理解しやすいということであった。声を出して読むという意図は全体を把握しやすくするため、構成も圧縮した。しかし今日的観点から言えば、いたずらに冗長にすぎると思われるものがしばしばである。文学の口述的現実化の結果として吟唱家の職業化が進み(専門の吟唱家は役者とか道化とか呼ばれていた)、吟唱家(大衆の目には作者と融合していた)と聴衆とのあいだには密接な接触があった。文学表現はしばしば吟唱家と大衆とのあいだの本当の対話となることがあったから、むしろ、それだけいっそう吟唱家は上演の進行中に大衆の態度に反応しなければならなかった。
主題のオリジナリティーにたいする無関心は中世的ものの考え方に由来している。つまり、世間の知恵のすべては聖書および世に認められた権威者である教会の文書のなかに包含されているから、新しいものを発見することはできない。できることは、ただ、権威者の見解をわかりやすく伝え、いろいろにかいせつすることだけ、それでいいのだというのである。中世の学問でもこのことは守られている。娯楽文学もこの考え方にそって「出来合い」の主題を正常に加工するという考えにつらぬかれている。主題的独創性のなさは、したがって、欠陥とはみなされず、むしろ反対に、正常な現象と考えられていた。中世的世界観によると「世界は神聖なる世界の反映(認識する個人の観点からいえばシンボル)にすぎず、この観点から普遍化と抽象化を指向するする特殊な表現手法が生れてくる。現実の人生は文学のなかでは単に間接的な、遠まわしな言い方によって、今日ではしばしば理解困難なシンボルという手段によって表現されている。ようするに、個々の人間性の表現も現実的な、具体的世界の芸術的認識も興味の対象ではなく、むしろ一般に通用する抽象的形象の提示が問題だったのである。仮に、今日、具体的形象という方法でその特徴を表現しようとするなら、中世と反対方向に歩きだすことになりかねない。
中世は発展を把握する理性をもっていなかった。時間はあたかも輪を描くように流れ、絶えず出発点にもどってくる、四季がめぐるように。それゆえにわが国の中世文学もまた、世代(ジェネレーション)を欠落した文学として現象する。それどころか、作者さえもたぬもたぬものとして現われる。保存されている文学のすべてがまったく作者不明なのだ。(そしてこのことは次の世代にも引き継がれ、部分的には十八世紀にまでいたる。
たとえば、賛美歌の貸しなどについていえる)つまり、作者は――今日的な目で見れば――注文に応じてごくあたりまえの仕事をする職人のようなものだったのだ。これは、たとえば、肖像画家とか建築職人のようなものだ。このことは、元来、文学的に建造された記念碑の主題的オリジナリティーにたいする無関心と密接に結びついている。文筆家はあらかじめ与えられていた素材を加工していたのである。たとえていうなら、精神的テーマを抱えた肖像画家、または建築家と言えるだろう。しかしながら興味の重点が、文学において主題(話の内容)でもなく、また現実の世界を描く努力にもないとしたら、重点は言葉の側面に向けられる。それゆえに中世は詩の形式にたいする偏向におちいり、その結果として言葉の観点から、文学作品はどんなふうにあらねばならないかという処方は、今日の作家が到底思いも及ばない、微細な点にまで立ち入って論じられたのである。
フス時代に文学形式はより広範な人間集団を対象とした文学という観点から、徹底的な変化を遂げ、文学は具体的な人生の問題をよりいっそう取り込むようになった。こうして文学は宗教的形式によって新しい内容を表現するようになったとはいえ、その抽象性を失った。この現実への指向と、それと同じ線上にある個人の意識は十六世紀において強まったが、「白山」の戦い以後の時代については封建主義復活の努力との関連において、中世以来おなじみの要素をふたたび目にすることになる。しかし、ここではすでに中世の抽象性はなく、最も抽象的な問題さえもが、感性によって把握しうる、多くの場合、日常生活から取られた形象によって扱われた。しかし、その一方で、説教の発達との関連で、口誦がふたたび文学の一部としての性格を強めた。
現代に近い文学生活は十八世紀のおわりになって、再興運動の登場とあいまって形成される。
われわれの概説は完全で詳細な文学史を提供することを意図しないし、また、できもしない。そのためには分厚な数館の書物を必要とするだろう。われわれは控えめな目的を設定している――好奇心に富んだ読者を和学の之文学の歴史に案内して、歴史的記念碑を訪ねたときのように、いくつかの注目sべき現象で立ち止まることだ。この方法の結果、いっていの選択が必要となる。すべての興味ある現象に注目することは不可能であるが、発展の主流を捜し出し、いくつかの個性的な現象に注目するようつとめよう。もし好奇心の強い読者がそんあかに興味を見いだしたなら、独自の読書によって文学のなかにもっと深く入ってもらいたい。文学の現在はわが国の文学の千有余年の発展のすべてによって形成されており、そのすべてが敏感な読者に何かを語りかけることと思う。千年前に生れた作品は文学者の意識のなかで現代作品と並存している。 ――それはあたかもさまざまな時代の書物が図書館のなかに並んでいるように、そのすべてが現在の文学を構成しているのである。それゆえに、古い時代の作品のなかから、今日の文学の一部となるべき作品、そして紺に荷の読者にも何かを与えうるであろう作品に重点をおいた。この概論は、もちろん、文学史に興味を抱く人々だけを対照としたものではなく、とくに感性豊かな読者に向けられたものである。共著者グループのリーダーは自分の研究の興味を適用することを遠慮しない――それは歴史的記念碑の案内者が自分自身に最も近親的なものに訪問者の注意を向けさせようとするのと同じである。
解説にあたって、われわれはできるだけ文学史の専門家でない読者も興味を覚えるように心を配った。理解に役立つために解説には短い引用が付されている。当然のことだが、あまり知られていない作品、接することの困難な作品の場合には引用はながくなっている。したがって説明の課程で、ときには省略することもある。盆分と区別するために引用は小さな活字によって印刷されている。
専門家でない人には、古い時代では時代区分は数百年で区切られているのに、次の発展段階では短く区切られているように、解説の不均等が気になるだろう。その理由は、つまり、文学生活は絶えず成長し、出版も増え、文学的記念碑も増加することともかんれんして、文学的発展も多少ともスピードを増すからである。そのうえ、さらに新しい文学は古い文学よりもはるかに多くの記念碑が記録されている。その反面、また古い記念碑はしばしば近代文学の個々の作品が必要とするよりも詳細な解説を必要とする。説明が忘れられないためにその要点は別の個所でくり返される。説明の内容がいくらかでも暗記されるようにするためである。発展の時代は、要するに、明確には区切られていない。それゆえに、お互いに入り混じり、ある部分では重なっている。
概論の最初の部分(最も古い時代から民族再興期までの文学)をズデンカ・ティハーが担当し、ついでヨセフ・フラバーク(ジュ八世紀のおわりから十九世紀の三十年代までの文学)がうけもち、そのあと、ドゥシャン・エジャーベク(十九世紀九十年までの文学)、それからふたたびヨセフ・フラバーク(九十年以降の文学、テレザ・ボヴァーコヴァーの項D.エジャーベク)が担当した。具体的な記述にかんするチェックは諸般にさいして(再興期以後)イジー・マリークが行った。個々の文学作品の著作年代については――とくに偏向がないかぎり――初版のデータにしたがった。第二版では、研究の現状およびわが国の文学の現状が要求するように、訂正と加筆が行われた。
表紙
00.序
01.文学と社会:文学評価の規範(クリテリア)
02.文学の発展とその時代区分
03.チェコ文学の民族的特性
04.古代における文学発展のいくつかの特徴
05.本書の使命と解説の方法
次章 I.古代スラヴ語およびラテン語文学の時代[九世紀後半から十三世紀まで] へ進む