第八章 (3) および (4)


(3) 社会の変化――1849−1867年におけるブルジョアジーの権力確立

 <チェコ領域の経済発展> 1848年の革命の後、ヨーロッパでは資本主義的企業が急速に発展した。チェコの領域もこの発展の流れからまぬがれなかった。40年代の経済危機は農業におけると同様に、産業、商業、金融においても一時的好景気が交替する。自由競争の資本主義の研究がはじまった。そのころなってやっと中部ヨーロッパにおいて産業革命が完全に開花しはじめた。
 チェコ領域ではいぜんとして農業が工業を圧倒していた。だがそれでもチェコはハプスブルク帝国のなかで工業がもっとも発達した地域に属していた。この世紀の後半のチェコにおける、そして少しおくれてモラヴァやスレスコでの工業化の急速な進展はこれらの地域の経済をなおいっそうスロバキアから切り離していた。

 <農業における進歩> 農業においては封建主義の崩壊ののち、十八世紀の終わりごろからすでに現われはじめていた変化が完全に行きわたった。このころになって時代おくれの三段耕作法がやっと完全なゆきづまりにたっしていた。それは大農園においてばかりでなく、自作農の耕作においても交替播作法(stridave osevani poli )が勝利をおさめていた。大農園では農業機械と新しい農法が浸透していた(たとえば、排水による湿地の干拓、窒素肥料をほどこすなど)。著しい進歩を示したのは農産業である。とくにビール、モルト、スターチ、砂糖、蒸溜酒の製造である。

 <工業生産物の発展> 工業生産においてはチェコ領域では織物産業とならんで重工業が前面に出てきた。鉱山業においても資本主義の登場とともに貴金属の採掘よりも石炭や鉄の採掘が優位を占め、オストラヴァやクラッドノの無煙炭の鉱山、また北チェコの新しい褐炭の鉱山が急速に発展した。製鉄業は新しい熔鉱炉システム、とくに高い炉でコークスをもちいる方法の導入によって発達のおくれを取り戻そうとした。
 生産への機械の導入と鉄道の急速な成長は鉄工業の発展を刺激した。チェコにおける最大の機械工業の始まりは十九世紀の50ないし60年代である。当時プラハではスミーホフ区のリングホーフェル工場、カルリーンのダニェク製作所、プルゼニュにはヴァルトシュテイン伯爵の鉄工場があった。この鉄工場は60年代の半ばからブルジョア企業家エミル・シュコダの手に移った。
 繊維産業、とくに織物業ではちょうど家内手工業の旧来の方法から近代的な工場大量生産への移行を完全に終えたところだった。蒸気機関や新しいタイプの加工用機械は家内工場の紡績工や織工の何千もの手の代わりをした。最大の織物工場はリベレツコ、トルトノフスコ、ブロウモフスコ、そしてとくにブルニェンスコで成長した。

 <職業法、1859年> 大規模工場生産の重圧をこうむった職人的小企業にも変化がおこった。新しい職業法は1859年に制定され、職業の自由を法律で保証した。その結果、封建時代の典型的遺物である同業組合(ギルド)制度は完全に滅びた。

 <交通・通信手段> 資本主義生産の成長は交通機関のさらなる発展を要求した。蒸気機関車を配備した鉄道網が生れた。初の国際列車が開通し、鉱山や大工場に連結する貨物ターミナル駅も建設された。郵便サービスもいたるところに行きわたった。あらゆる大きな町の中心部には電信網が結ばれたが、わが国におけるその始まりは十九世紀の40年代の半ばにまでさかのぼることができる。

 <商業と外国資本の流入> 封建的支配体制の解消とともに資本主義経済と全国的市場の形成を阻んでいた障害も排除された。それと同時にハプスブルク帝国の西半分とハンガリー領域とのあいだの関税障壁も取り除かれた。チェコ産業にとってはそれによって東側の販売市場が開けた。その反対に、ハンガリーの大農場経営者はこの関税協定(celni unie)を利用してより安い穀物をチェコ領域へ送りこんだ。
 外国貿易もまた徐々に上昇した。チェコの工業製品は大規模な消費市場を世界市場に見出だした。同時に外国からの輸入も増大した。国内資本の不足から外国資本がわが国に流入した。それは主としてウィーンとフランスの資本であり、のちには帝国ドイツやイギリスの資本も加わった。それらの資本はとくに鉄道建設、鉱山、製鉄、機械工業に投資された。
 資本主義的企業における新しい重要な性格は、十九世紀の50年代から始まった企業家の株式による連合である。株式システムは純利益の分前の分配にもとづいており、大勢の零細ブルジョアからの成りあがり者にもプロレタリアートの搾取に参画するチャンスを与えた。普通銀行や貯蓄銀行も投資熱を煽った。これらの銀行は企業家や商人に資金の貸付をして、預金された資本の利子を稼ぐことによって不労利益を可能としたのである。

 <資本主義的経済危機> これらのすべての変化によって経済関係の新しい構造は固められたが、この構造自体すでに資本主義的世界経済の法則に支配されていたのである。自由競争は一時的な好景気の期間のあと、生産過剰がもたらす周期的な危機に導いた。ハプスブルク専制王国は、十九世紀50年代の後半にはすでに資本主義経済のショックを感じていた。しかし60年代には大部分の産業分野で経済好況の新しい期間が始まった。

 <ブルジョアジーとプロレタリアートの形成> 工業および農業生産における進歩は社会の階級構造の変化にも反映した。基本的敵対関係が封建的土地所有者と不自由農民の集団とのあいだの対立であった封建時代とちがって、資本主義的ブルジョアジーとプロレタリアートとのあいだの階級対立がいまや全面に押し出されてきた。50年代と60年代にチェコ領域における資本主義社会におけるこれらの二つの主要な階級形成が完了した。

 <農村における階級分裂> 社会構造の次の重要な変化は農村における階級分裂の完了である。封建体制の崩壊後、農業における資本主義的生産関係が急速に成長した。土地は商品的性格を加え、その売りわたしや買いあつめは資本主義的投機の対象となった。大勢の零細農民は土地を買うことができなかったから、自らは農業に携わらない大土地所有者やブルジョア投資家から土地を借りなければならなかった。零細農民はこれまでよりもいっそう工場や建築現場での副業収入のもとを探した。資産家の農民は急速に豊かになった。農村の富豪や農園経営者はブルジョア階級の重要な構成要素になっていた。
 それと対称的に土地なし百姓や下男、小作人、それにまた借金をせおった小百姓などはプロレタリアートないし半プロレタリアートの階級に押し込められた。農村住民のこれらの対立する要素の間に、やがて中間的農民の階層が生れた。その地位は都市の小ブルジョアの置かれた立場と多くの一致点をもっていた。
 零細農民や中間層農民は貴族大土地所有者の圧迫に激しく抵抗した。1848年の革命において貴族がかなりの権力と膨大な土地資産を守りえたことによって農村部に、とくにスロバキアにおいて多くの封建時代の遺風がいぜんとして保たれていた。
 大土地所有貴族はハプスブルク複合国の滅亡まで、半封建主義的支配の方法を保持しようと努力する王朝と反動的ローマ・カトリック教会の重要な支持者でありつずけた。
 
<バッハ絶対主義体制> 1848−1849年の革命の政治的挫折はハプスブルク政権の中央集権化への努力を強化させ、一時的に絶対主義体制を回復させることを可能にした。ハプスブルク反動体制の新しい代表者にはフランティシェク・ヨゼフ一世がなった。彼はほぼ70年間(1848−1916)支配した。1851年の末に、1849年3月にむりやり制定させられた憲法を廃止し、公然と絶対主義政府を任命した。そのとくに際立った代表者が内務大臣アレクサンデル・バッハだった。しかしバッハの絶対主義は革命前のメッテルニヒの絶対主義の単なる継承ではなかった。そのなかに成長しつつあるブルジョア階級、とくにオーストリア・ドイツのブルジョアジーの影響が強く働いていた。国家機関は資本主義的企業の発展の妨げにならないように改編された。役所のほとんどは、とくに下部の役所はブルジョアジーの手に移った。

 <国家行政の整備> 50年代、60年代の経過のなかで国家行政の体系が作りあげられた(その体系はその後、いろいろなもののなかで1938年まで生き続ける)。国家行政の中心はウィーン政府であり、幾つかの専門の省を統轄する。国内の主要都市――プラハ、ブルノ、オパヴァ――には地方総督(mistodrzitelstvi)が配置され、地方総督にはさらに地方長官(okresni hejtmanstvi )が従属する。
 チェコ領地にはこの地域長官(okresni hejtmanstvi )が百人ほどいた。ウィーン政府によって組織された国家行政機関のほかに、一定の決められた基準以上の額の納税者によって、いわゆる制限選挙制(census)によって選ばれる自治機構(samosprava)も機能していた。この自治機構の最低の構成要素は地域代表(okresni zastupitelstvo=チェコ領域のみ)と地方議会である。すべての自治機構の構成単位は国税に加えて付加税を徴収し、道路、下水、学校、病院、その他の施設の建設の財源とした。
 スロバキアにはこのような二重機構は存在しなかった。行政の基礎は州(zupa)(委員会=komitet )であり、それらはブダペシュト政権に直属していた。そこでは貴族の自治権という伝統的機関と官僚機構とが融合していて、スロバキアの民衆には貴族の機関こそが政府の代表機関であるように見えたほどであった。地域の自治権はスロバキアでは強く制限されており、その活動は地域に住む国の役人や書記によって監視されていた。
 法廷はチェコ領域では、最低の、地域法廷の場合、その管轄範囲は地域長官の管轄範囲よりも小さく、土地台帳の管理と細かな問題の処理がなされた。そのうちから地方法廷へ呼出すこともでき、そこではすでにあらゆるいざこざが取り扱われた。さらに地域高等法廷(vrchni zemsky soud)へ、最後にはウィーンの最高法廷へも申し立てをすることができた。次の国家機構の構成要素は徴税役場で、財産の没収にいたるまでの税金の徴収にかんして気を配った。国家は郵便の整備もし、十九世紀の後半には、すべての鉄道網が隅々までその手のなかにあった。またオーストリア国家の収入源は、国家がタバコ製品の独占的生産者であることにもあった。
 バッハ絶対主義体制の時代の民主的、民族的運動は警察の厳しく取締まるところとなった。警察は1860年の憲法の改変の後にも、現存の社会制度や国家体制を脅かすとみなされるものすべてにたいして厳しく干渉した。ブルジョアジーと密接に結付いた国家の官僚機構、ビューロクラシーの影響が増大した。軍隊は統一的機構として組織され、普遍的な防衛任務に導入された。しかし金持ちの徴兵義務者はこの義務から金で逃れることができた。地方行政官の支配の終わる田舎には国家憲兵隊が配備された。彼らは警察とともに政治活動を監視し、反体制、反政府運動の発生を防ぐことを任務としていた。

 <教会の影響力の強化> 民主的理念に対抗する戦いのなかで政府はカトリック反動にも支持を求めた。ハプスブルク政権と法王庁とのあいだに同意(コンコルダート)が結ばれた。それによればヨゼフ二世時代にカトリック教会を拘束していた多くの制限が廃止されることになっていた。教会はふたたびあらゆる種類の基礎教育制度にたいして検閲する権利を得たのである。

 <ゲルマン化> 国家権力の中央集権化のウィーン政府の努力はゲルマン化の強化によって推進されていた。オーストリア・ドイツのブルジョアジーの階級的利害の一致のなかで、政府は統一的なオーストリア愛国主義を形成することを欲した。これはハプスブルク専制王国のすべての民族と民族性にたいして刻み込まれるはずであった。共通して理解される言葉はドイツ語になるはずであった。あらためて役所にも学校にもドイツ語が導入され、チェコ語はまたもやギムナジウムから締め出された。

 <警察のテロリズム> それと同時にバッハ体制は、ゲルマン化にたいして住民の間で起こされた民族運動にたいする警察による追及を始めた。集会の権利と出版の自由の廃止によってとくに労働者と知識人が槍玉にあがった。被抑圧民族のスポークスマンは警察および憲兵の監視のもとにおかれ、公的機能を剥奪された。1848−1849年のチェコ急進民主派の代表者たちは長い年月のあいだ要塞監獄につながれていた。

 <民衆の反抗の激しい表明> しかしバッハ体制は民族運動を弾圧し、民衆を脅迫することに成功しなかった。政治的には完全に無権利の労働者階級は経済的かつ社会的抑圧にたいして激しいストライキやその他の不満表現によって抵抗した。1852年2月、バンスカー・シュチアヴニツァでの炭鉱夫たちの賃上げストライキは残酷な弾圧を受け、五人の犠牲者を出した。

 <ハヴリーチェクの反動との戦い> ウィーンの絶対主義体制およびローマ・カトリック反動との戦いにおける個人の勇敢さの実例はカレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーのジャーナリスト活動である。彼は最初プラハの「民族新聞」で働いた。その発行停止のあと、クトノホラの「スラヴ人」新聞に移った。裁判、チロルのブリクセンでの何度かの投獄、そして1856年、迫害の結果としてのあまりにも早い死は民衆の心のなかで彼を英雄にしたのである。

 <絶対主義の没落と十月認可(ディプロム)> 警察絶対主義の勝手が長つずきするはずもなかった。なぜなら資本主義社会の発展の必要とも、またハプスブルク専制体制の個々の部分の反絶対主義的気分とも矛盾に陥ったからである。クリミア戦争時代の国家財政の浪費と北イタリアをめぐる戦争でのオーストリアの敗北がバッハ体制の崩壊を早めた。1860年に皇帝は「十月認可」を発布し、以後永遠に絶対主義は廃し、専制王国内の各国の憲法で定めた権利の復活を約束すると華々しく宣言した。

 <1861年の二月憲法> しかしその後1861年二月に皇帝によって宣言された憲法は立法権の決定的に重要な部分はウィーンの帝国委員会(rada)に集中されていた。この中央主権的憲法は「十月認可」が大いに刺激した連邦主義者たちの希望をうらぎった。帝国委員会は二重の構成から成り立っていた。一つは全帝国のための広い委員会であり、他の一つは非ハンガリー地域のための狭い委員会であった。
 この帝国委員会は二つの議院から構成されていた。上院、つまり貴族議会にはハプスブルク家の親族とともに、貴族の一族のもっとも重要な世襲的代表者、さらに皇帝がその功績にたいして終身的身分として指名するメンバーが参加する。立法活動においては本質的により大きな意味をもつところの代議員議会には不平等選挙権にもとづいて地方議会が代議士を送ったが、その地方議会自身も不平等選挙権にもとづいて選ばれたものであった。
 ほぼ三分の一の議員を大農業主が送ったが、それよりほんのわずか多い数の議員を都市部の選挙民と農村地域の代表者が選んだ。選挙民になれたのは、十金貨というあらかじめきめられて制限基準(census)よりも多い額の税金をはらった者であった。貧困者たちへの選挙権の拒否、都市部の納税者の声が農村の人の声よりも重みをもつ裕福層の不公平な代表、これらはいろいろな民族の代表にも強い影響を与えた。何百人かの大農園主たちの代議士たちは、いろいろな民族の力がほぼ拮抗している議会では、重要な位置を占めていた。
 プラハ議会ではほぼ三分の一のチェコ人の代議士が参加したが、ブルノではただの五分の一、オパヴァのスレスコ議会ではたった一人のチェコ人の代議士だった。1861年のハンガリー議会ではスロバキア人の代議士は一人も選ばれたかった。
 憲法は民族的視点からみてもひどく不公平なもので、オーストリア・ドイツおよびハンガリーの支配階級に一方的な権力の優越性を保証したものだった。

 <チェコ国家権プログラム> この状況のなかでチェコ・ブルジョアジーは、帝国内のすべての民族の同権にを基礎としたハプスブルク帝国の連邦体制の思想を以後も守り続けた。同時に、古いチェコ王国の歴史的国家権をも強調した。この点にかんして、チェコ領内のいわゆる歴史的貴族の一部に同調者を見出だした。しかし貴族の大農園主はチェコ国家権のなかにオーストリア・ドイツとの競争とウィーン官僚機構との権力闘争における拠り所程度にしか考えていなかった。ウィーン官僚機構にたいしては伝統的貴族特権を防衛しようと欲していたからである。それゆえ貴族たちは個々の領地の自治権要求のほうをむしろ声高に宣伝したのである。

 <消極的反体制> チェコ政治界のブルジョアシーの代表者たちは、専制王国のすべての国が代表を送ることができるウィーンの帝国委員会が国家主権連邦プログラムを戦い取る闘争の場となることを望んでいた。しかし、構成的にみてオーストリア・ドイツの多数派が過半数を占める事実を知ったとき、1863年、ハンガリーの先例にならって、帝国委員会の会議に出席するのをやめ、いわゆうる消極的反体制に移ったのである。

 <老人チェコ党と青年チェコ党> チェコ・ブルジョア政治は60年代から完全にリベラル派の手ににぎられていた。しかしこの傾向はすぐに二つの派閥に分裂しはじめた。つまり保守的な老人チェコ党と進歩的な青年チェコ党である。老人チェコ党の先頭にはフランティシェク・パラツキーとフランティシェク・リーグルが立っていた。青年チェコの陣営を指導していたのはかつての急進デモクラットのカレル・スラトコフスキー、ユリウスとエドアルトのグレーグル兄弟その他であった。老人チェコ党には知識人の保守的部分のほかに、数人の貴族大農園主、農村の富豪や工業、商業の企業家が参加した。その反対に、青年チェコ党の自由民主的プログラムには主として小ブルジョア層、裕福な個人事業家
層、中流の農民層や知識人層のなかに反響があった。


 スロバキアの状況――オーストリア=ハンガリーの均衡関係

 経済基盤、生産関係、階級構成における根本的変化のプロセスはスロバキア社会のなかでは複雑な状況のもとに行われた。ハプスブルク帝国の西側、とくにチェコと比べると、かなり遅れていた。
 ハンガリーにおいては大土地所有貴族は経済活動でも政治活動でも、以後も指導的役割を演じ続ける。スロバキア民衆の状況は、それ以後も二重--- ハンガリーとオーストリア--- の抑圧のもとにあったという分だけ深刻であった。
 ハンガリーの大農園主は生産を著しく発展させていた広大な大農園を1848年以後も保有していた。彼らは工業分野にも大きな関与をしており、農民大衆にたいする支配をあらためて堅固なものとしていた。1850年にオーストリアとハンガリーとのあいだの関税障壁が排除されたあと、オーストリア・ドイツのブルジョアジーの経済的影響力が著しく増大した。工業生産の重心はゆっくりとハンガリーに、とくにペシュトへ移行していき、交通機関の建設もそのほうへ向かっていった。
 スロバキアの産業製品のなかではもっとも重要な部門として鉱山業と熔鉱炉業、とくに製鉄業が残った。いぜんとして古い精錬法によってはいたが、生産は増加してハンガリー全体の鉄生産量の四分の三を示していた。金や銀、とくに銅も生産されていた。鉱山と熔鉱炉部門にもっとも多くの労働者が雇用された(その数およそ二万人で、うち六分の一が女性と子供だった)。産業革命は食品産業の幾つかの部門にもあらわれた。織物生産では家内生産と職人的小規模生産が支配的であった。産業はとくにオーストリア資本とハンガリーの大農園主たちによって支配されていた。

 <スロバキア・プロレタリアートの成長> スロバキア・ブルジョアジーの成長の弱さに比べて、スロバキアのプロレタリアート階層はより速く成長した。産業の発達とともに産業プロレタリアートが増大したが、とくに増大したのは大勢の見習工や季節労働者だった。貧窮化した農民や貧困層は大農園や季節労働の賃仕事にさし向けられた。
 反動の勝利および中央集権と絶対主義の確立の結果はスロバキアにおける政治活動を打ち砕いた。だがそれにもかかわらず、政治的努力は停止せず、その生命力を証明した。

 <1861年にスロバキア宣言(メモランドゥム)> 絶対主義の崩壊後、知識人のリベラル派ブルジョアジーはねばり強く民族的要求の作成に努めた。ハンガリー議会には一人のスロバキア候補者も選ばれていないという事実にかんがみて、「民族集会」を召集しようという思想が熟してきた。
 1861年7月に、トルチアンスキー聖マルチンでの6千人の参加者からなる集会でシュテファン・ダクスネル作成になる「スロバキア民族の宣言」が採択された。この宣言は独立の民族としてのスロバキア人の承認と、ハンガリー王国の枠内での自治単位(Okolie)としてのスロバキア領の宣言を要求していた。さらにスロバキア教育協会とスロバキア学校制度の拡大をも要求した。しかしこれらの要求にたいしてさえハンガリー議会でもウィーン政府においても何の反応もなかった。民族的努力はさらに続けられ、1863年には「スロバキア財団」の設立にこぎつけ、スロバキア最初のギムナジウムを開設した。

 <オーストリア=ハンガリーの同権(1867)> 1866年にオーストリア対プロシャ、イタリアとの武力衝突が起こった。この戦争でオーストリー軍は軍事力にまさるプロシャ軍に敗北するが、決戦はフラデッツ・クラーロヴェー近郊のサドヴァーで行われた。ハプスブルク王朝はドイツおよび北イタリアにおける権力的地位を完全に失い、その結果、ハンガリーの要求にたいしてもゆるやかになった。1867年の同権によってハンガリー王国はほとんど独立国になり、以後はハプスブルク専制帝国と支配者の人間と、共通の軍隊、国家財政および外交政策のみによって結びついていた。この三つの省は共通であったが、それ以外の問題はすべて、一方ではウィーン政府が、他の一方ではブダペシュトの政府が処理した。おなじく両議会の立法権も完全に分けられた。一年に一回、両方の議会から平等に選ばれた代表が集り、共通の省の業務にかんする問題を処理した。
 この時以後ハプスブルク帝国はオーストリア=ハンガリーと記されるようになったが、実質的には二つの部分に分けられたのである。そのうち西側は部分的に内部の境界を形づくるリタヴァ川によって、プシェッドリタフスコ(リタヴァ川の手前側)、そして東側はザリタフスコ(リタヴァ川の向こう側)とも呼ばれた。

 <同権の階級的権力関係の本質> この二重国家的同権によって、オーストリア・ドイツのブルジョアジーと貴族階級はハプスブルク帝国の支配権を、専制帝国内の他の民族の権利や要求におかまいなしに、ハンガリーの大農園主およびブルジョアジーと分かちあうことになった。外交と軍事問題については最終決定権は皇帝が保有した。

 <ハンガリーの半封建的性格> ハンガリーでは同権ののちに改めて1848年の改訂憲法が導入された。それは形成されつつあるハンガリー・ブルジョアジーにたいする貴族たちの妥協の結果であった。王権のために変更はほんの少しにどどまった。こうして大農園主貴族階級はハンガリーの政治活動における決定権を確実にしたのである。

<十二月憲法> チェコ領地もふくむ専制王国の西側の半分では1867年の終わりに「十二月憲法」と呼ばれる憲法が受け入れられた。この憲法のなかで、資本主義社会のさらなる発展を確実にするブルジョア・リベラル派の要求も幾つか法制化されていた。十二月憲法は形式的にはいわゆる基本的市民の権利を保証していた。とくに経済活動の自由、思想信仰の自由、学問教育の自由、結社集会の自由、言論出版による意見表明の自由などである。同時にその他幾つかの維持不能の封建主義的遺物も清算された。しかし貴族の社会的特権については憲法では触れられていない。
 十二月憲法の発布によって1848年のブルジョア革命に始まる変革の時代は頂点に達する。1848年から1867年にいたる20年間にハプスブルク専制王国は封建的国家形態からブルジョア資本主義国家へ変身したが、その崩壊まで封建時代の反動的遺産は払拭することができなかった。


 (4)  1848−1867年の時代におけるチェコおよびスロバキア文化の発展

 <文化活動に及ぼした1848年革命の影響> 1848年の革命事件は文化活動にかつてない生気を吹き込んだ。1848年の革命の間の出版の自由や集会結社の権利の一時的解禁は、知識人たちがそれ以前の時代よりはるかに広く教育活動を進展させることを可能にした。印刷された言葉、カリカチュア、大衆演劇、音楽、愛国主義的歌、風刺的な小歌をとおして革命思想を町中に、また農村部にまでひろげ、人里離れた山間の僻地にまで浸透していった。戯曲、ロマン、短編小説、また大衆教育的論文から民衆は自分たちの輝かしい過去や、古代スラヴの文化、チェコ国家の自立性と力、フス革命戦士や農民暴動、それにヤーノシークの義賊たちの英雄的行為についての知識を吸収した。雑誌や知識人の集りは広い民衆層が政治的民主主義の基本思想と近付きとなる機会になった。
 1848年革命の民主主義的理念はとくに知識人の若い世代に訴え、十九世紀後半の文学、音楽、造形芸術における戦闘的潮流に影響を与えた。

 <哲学と自然科学> 哲学思想と科学的研究においても1848年は、新しい、新鮮な空気をもたらした。哲学的思想家のなかではアウグスティン・スメタナが傑出している。彼はカトリックの司祭だったが、彼の自由思想の考え方のゆえに教会とたもとを分った。同様の過程をへて社会的空想楽天主義に到達したのがF.M.クラーツェルである。チェコの自然科学の発展にとって重要な意味をもつのはヤン・エヴァンゲリスタ・プルキニュの仕事である。彼は1840年にプラハ大学に採用された。

 <文学> 革命の敗北とバッハ絶対主義体制は民族文化の発展に大きな打撃を与えた。しかしそれにもかかわらず、わが国の文学遺産のなかでもっとも美しい古典的作品が書かれた。ボジェナ・ニェムツォヴァーの『おばあさん』とカレル・ヤロミール・エルベンの『花束』である。またハヴリーチェクの風刺作品の最高傑作が『聖ヴラヂミールの洗礼』と『チロル・エレジー』も生れた。
 新しい時代の予告となったのは、1858年にアルマナック「マーイ」を中心にあつまった若い文学世代の登場である。マーハ、ハヴリーチェク、ニェムツォヴァー、エルバエンに共鳴するこのグループには次の十年間にチェコ文学の先頭に立つ作家たちが属していた。ヤン・ネルダ(1834−1891)、ヴィーチェスラフ・ハーレク、カロリーナ・スヴィエットラー、アドルフ・ヘイドゥクである。

 <文化活動の発展> 絶対主義の倒壊後、またもやあらゆる文化活動が活発化しはじめた。「芸術会議(Umelecka beseda )、歌手の団体「フラホリー(Hlahol)」、チェコ作家の集団「スヴァトボル(Svatobor)」といったような新しい雑誌や重要な集団が現われ、体育協会「ソコル」も生れた。1859−1874年にF.L.リーグルの編集で11巻からなる百科事典「教養辞典(スロヴニーク・ナウチュニー)」が出版された。

 <スロバキア文学> この時代のスロバキア文学を代表するのはシュトゥールの後継者たちである。そのなかでヤネク・クラーリュのほかに際立っていたのはアンドレイ・スラートコヴィッチュ、サモ・ハルプカ、ヤーン・ボットおよびヤーン・カリンチアックである。

 <「スロバキア基金」の設立(1863)> 全民族的意義をもつ大きな活動は1863年マルチンでの文化、教育のセンター「スロバキア基金」の設立である。直ちにスロバキアの専門的学術研究もここに集中しはじめた。その機関誌となったのは「スロバキア基金年鑑」である。それに続く年月のあいだにこの中心的文化機関から文学、文化の刺激ばかりでなく、スロバキア社会の形成にたいする重要な政治的影響も出てきた。

 <学校制度> 民族闘争の必要性は学校制度のとくに低学年の学校制度の確立の努力に導いた。それらの問題は60年代に地域の行政管轄にはいってきた。スロバキアではこの時代に民族運動は自己の資金でスロバキア・ギムナジウムを開設することに成功した。マルチン、ヴェルカー・レヴーツァ、クラーシュトル・ポト・ズニエヴォムである。

 <チェコ=スロバキアの相互関係> これらのスロバキアのギムナジウムにはチェコ人の教師も教鞭を取った。また逆に、プラハ大学ではスロバキアの言語学者マルチン・ハッタラの重要な活動があった。

 <スロバキアの民族的文化活動> スロバキアの民族活動の発展は60年代に雑誌の多さにも現われている。その数はおよそ50種類に及び、政治分野ばかりでなく文学、科学、そして経済の分野にも向けられたものであった。

 <造形芸術> この時代のチェコの造形芸術はとくにヨゼフ・マーネス(1820−1871)のチェコ絵画の古典的作品によって性格づけられる。彼の絵画と素描作品はチェコおよびスロバキア民衆の生活や労働、民族独自の文化を賛美している。ヤロスラフ・チェルマークはチェコおよび南スラヴの過去から英雄的素材を得ている。若くして死んだアドルフ・コサーレクはチェコ風景画の伝統を発展させた。勇敢なるレアリストのカレル・プルキニェとソビェスラフ・ピンカスはチェコ絵画の新しい道を切り開いた。スロバキアの造形芸術家のなかでは肖像画家としてペーテル・ボフーンと彫刻家のラヂスラフ・ドゥナイスキーが抜きんでている。

 <演劇と音楽> とくに重要な役割がこの時代にも演劇と音楽に与えられている。1862年にj「暫時(prozatimni)劇場」とよばれる最初のチェコ語常設劇場が開場した。ひろい範囲の一般の人々のあいだで国民劇場建設のための募金が行われた。1868年にこの劇場の土台石が定礎された。チェコ・オペラの古典作品の作者、そしてまた近代チェコの交響曲、室内楽、ピアノ、声楽作品の基礎を築いた作曲家はベドジフ・スメタナ(1824−1884)だった。彼の功績で60年代のチェコ音楽生活はきわめて高い水準を得た。スメタナの芸術的に先駆的作品はチェコ民衆とその革命的伝統と深く結びついており、十分に民族革命に奉仕した。1866年にスメタナは暫時劇場の舞台に彼の最も有名な作品『チェコのブラニボル人』と『売られた花嫁』を乗せた。
 1848年から60年代末までの時代に全チェコとスロバキア文化の新しい発展の基礎が築かれた。革命と絶対主義反動体制の苦しい時代の経験は、民族文化の開花は民衆の願望と闘争とのもっとも密接な連帯のなかにおいてのみ可能であることを証明した。それゆえに、最高の創造的人物は全力をこの闘争に捧げたのである。しかし、ティルにしろ、ニェムツォヴァー、ハヴリーチェク、クラーリュ、マーネス、そしてスメタナにしろ、自分たちをとりかこむ市民的偏狭さや敵意と闘わなければならなかった。彼らは勇敢な態度でもって、次の世代が引き継ぐべきわが国文化の進歩的でデモクラティックな伝統を確立したのである。


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