[資本主義の時代]


    VIII.1848−1849年の革命:1867年にいたるまでの

ハプスブルク王国内での反動と関係回復のあがき  (1) (2)   


 (1)チェコおよびスロヴァキアにおける革命運動 −
     1948年、プラハの6月暴動                  
 (2)チェコにおける革命運動の終り。スロヴァキア民族運動の新段階。
     1848年のブルジョア革命の意義              
 (3)社会変化。
     1849−1867年におけるブルジョアジーの権力確立    
     スロヴァキアの状況 − オーストリア=ハンガリーの平等関係 
 (4)1848−1867年の時代における
     チェコおよびスロヴァキア文化の発展             



(1) チェコおよびスロバキアにおける革命運動――1848年、プラハの六月暴動

 <ヨーロッパ内の革命> 十九世紀の40年代の終わりに一連のヨーロッパの国々ではブルジョア革命の気運が熟してきた。その革命は時代おくれとなった封建主義体制にたいして決定的打撃を与えるはずのものであった。革命の爆発とひろい民衆層の尖鋭化は1845−1846年の不作と、多くのヨーロッパの国々の経済を襲ったそれに先立つ国際的経済危機の結果によって加速されていた。革命運動はそれぞれの国によってことなる性格をもっていたのは当然のこととしても、西と中央ヨーロッパの幾つかの国では革命の火の手がたてつずけにあがった。1848年3月には革命の波はハプスブルク専制王国にもたっした。この国では社会的、民族的、政治的矛盾が混然一体となっていた。

 <チェコにおける革命運動の始まり> チェコ地域では革命運動の発展への刺激はチェコの市民とインテリゲンチャの急進的民主主義の流れを支持するグループから起こった。フランスの二月革命の勝利の報告に動かされて1848年3月11日にプラハの聖バーツラフ温泉に公の民衆集会が組織され、一連の要求を採択した。これらの要求事項は請願書としてまとめられ、チェコ領地の全住民の名において国王のまえに提出されるはずであった。
 採択事項のなかで次のようなことが要求されていた。チェコの領地はハプスブルク専制王国の枠内において独立した単位となる。共通のチェコ議会をもち、その議会には都市および農村地域から選出された代議士も参加するべきものとする。プラハに中央官庁を置くといったことである。チェコ語は官庁および学校において以後は完全にドイツ語と同等の権力をもつべきであった。言論、出版、集会の自由にたいする要求が強調して叫ばれた。都市および農村社会には選挙によって選出した行政機関をもった自治権が付与されるべきであり、警察権も移管さるべきである。公共の秩序維持のために選挙によって選出した士官をもつ市民自警団を組織すべきであるといった要求であった。

 <社会的要求> 急進的民主主義者によって作製された請願書の最初の提案のなかには社会経済的性格の重要な問題点が含まれていた。労役の廃止と、労働と賃金の組織化、つまり失業と、産業プロレタリアートを苦しめる無秩序の排除である。しかしブルジョア階級の右翼の干渉によって労役の廃止の要求は金銭による労役からの解放の可能性に変更され、第二の要求は完全に抹殺された。請願書の最終的な作成はいわゆる「聖ヴァーツラフ委員会」にまかされた(この委員会はのちに組織替えされ、「民族委員会」と改称された)。この委員会にはチェコおよびドイツのブルジョアジーと市民階級の知識人のよかに貴族階級からも数人選ばれていた。

 <オーストリアとハンガリーにおける革命運動> しかし、緩和政策にたいするチェコの請願書が国王に提出されるより以前に、ウィーンとハンガリーの住民は革命的要求をかかげて何倍も強力な足取りで登場していた。1848年3月の半ばに武装したウィーンの住民は帝国の最高の行政機関の役所から憎みてもあまりあるメッテルニヒ侯爵を追放するように大規模なデモンストレーションで無理やり迫った。皇帝は検閲をも廃止することを強いられ、絶対主義的制度は立憲制に置きかえることを約束した。同時にブラチスラヴァに召集されていたハンガリー議会もラーヨシェ・コシュタの指導のもとにほとんどウィーンに従属しない独立のハンガリー政府を樹立した。1848年3月、革命詩人アレクサンドル・ペチョフィを指導者とするペシュト市の貧困層、進歩的若者、知識人たちの集団的抗議行動の圧力によって議会はハンガリーの自由派貴族の改革案を受け入れ、3月18日、農奴制を廃止した。

 <労働者の過激化> 封建的絶対主義的反動勢力との闘争における最初の大勝利は全ハプスブルク専制王国内の民衆層に興奮を呼びおこした。
 民衆層のなかに社会的、民族的、政治的要求の意欲的な戦いにいどむ勇気が急速に盛りあがった。産業プロレタリアートは失業と空腹にこれまでの何カ月間、激しいデモンストレーションに駆り立てられていたのだが、いっそう自覚的にと自己の権利を主張するようになった。3月の後半には1200人のプラハの捺染工場の労働者が生活環境の改善を要求した。また4月にはプラハの織物労働者のあいだに11時間労働にたいする要求もあらわれた。
 チェコおよびモラヴァの農村では反封建主義革命の騒動がひろまった。農奴たちは労役の遂行を拒み、領主の森を切り、狩猟をおこない、開墾地を占領し、広大な領主の土地の分配を要求した。

 <スロバキアにおける革命運動> 南スロバキアでは1848年3月に、スロバキアの急進派、詩人のヤネク・クラーリュ、教師のヤーン・ロタリデスに煽動されて農民蜂起がおこった。彼らは農民問題の革命的解決と学校にスロバキア語を導入することを要求した。運動は軍隊によって鎮圧され、クラーリュとロタリデスは投獄された。バンスカー・シュチアヴニツァでは炭鉱夫たちが賃金の増額と鉱山管理への参加を要求した。4月にはブラチスラヴァで縫製工場の職人がストライキをおこした。

 <スロバキア民族知識人の行動> スロバキアの指導的活動家リュドヴィート・シュトゥール、ヨゼフ・フルバン、ミハル・ホッジャ、ヤーン・フランチスチ、シュテファン・ダクスネル、その他は人民議会の進行のなかで、スロバキア民族の要求にたいする支援を獲得していた。こうして「スロバキア民族の要求」がおこった。それらの要求は民族的、政治的、それに幾つかの社会的要求から形成されていた。そして1848年5月10日のその最終的形のなかにスロバキア民族運動の進歩的プログラムを表現していた。
 同時に、スロバキアの代表者たちは専制王国内の他のスラヴ民族、とくにチェコとの協力に努力した。

 <リベラル派と急進デモクラット派> 都市部および農村部における民衆の増大する過激化はもちろん革命運動にたいするブルジョア階級の態度に影響を与えずにはおかなかった。ドイツとチェコのブルジョアジーは都市プロレタリアートと農村貧困層の怒りは自分たちに向かってくるかもしれないという恐怖をつのらせはじめた。それゆえにかつてすでに社会的に貴族と結びついていた部分は、熱心に運動を「法律の限界」内におさえこもうと努めた。そして社会革命的要求をかかげた民衆が運動のなかで優勢を占めることのないようにした。ブルジョアジーが過激化する民衆にたいして自分たちのために組織した武装民族自衛団(ガルダ)の主要任務は、「秩序」と市民的かつ貴族的財産の保護となるはずだった。それにたいして小市民階級の一部と学生と若い知識人たちは、封建主義専制的反動にたいする民主主義的権利のための戦いの協力者を産業労働者や農村の民衆のなかに見ていたのである。
 チェコ・ブルジョアジーの陣営はこうして1848年の春にはすでに二つの政治傾向、すなわち「民族的リベラリズム」を標榜する右派と急進民主主義的左派とに分裂していたのである。リベラル・ブルジョアジーの代表的スポークスマンとなったのは市民的知識人の重要な代表者たちだった。とくにフランティシェク・パラツキー、フランティシェク・ブラウネル、およびフランティシェク・ラヂスラフ・リーグルである。急進民主主義的陣営に属していたのはエマヌエル・アルノルト、ヨゼフ・ヴァーツラフ・フリッチュ、カレル・スラットコフスキー、カレル・サビナ、その他である。

 <ドイツ革命にたいする姿勢> チェコ領域内で革命の基本的問題の一つになったのは他国での革命運動にたいする姿勢であった。とくに中部ヨーロッパで最も重要な、発展しつつあるドイツ革命にたいする姿勢であった。ドイツの革命は階級的にもっともチェコの運動に近かった。両者の目的は資本主義的発展を阻んでいる絶対主義と時代おくれの封建主義の排除にあった。しかしそれとは裏腹に、ドイツ革命の勝利の意味したものはチェコ・ブルジョアジーの地位にとっては危険であった。ドイツのブルジョアジーはドイツを統一するという目的ばかりでなく、ハプスブルク複合国家の西半分をも包含した大ドイツの形成というあからさまな目的をもって革命へと進んでいったのである それは他の民族、とくにチェコ領土をもふくむスラヴ民族の国々を犠牲にしてのものだった。全ドイツ的運動はオーストリア・ドイツのブルジョアジーをもとらえた。

 <ハンガリーの運動のスラヴ民族にたいする姿勢> 同時にまた、ラーヨシュ・コシュトに指導されるハンガリーの運動の代表者たちはスロバキア人や他の非ハンガリー民族を民族的に同化する国家主義的目的を隠さなかった。民族的権利を要求するスロバキア知識人の正当な請願にたいして、ハンガリー政府の施政者たちは投獄による脅迫によって応えた。
 こうしてチェコとスロバキアの革命運動の指導者たちはドイツやハンガリーの同様の運動との間の大きな矛盾におちいった。なぜならブルジョアジーは真の平等な権利にもとづいて民族問題を解決することができなかったからである。

 <オーストリア・スラヴ主義> チェコの政治家たちはハブスブルク専制王国の他のスラヴ民族と共同歩調をとりながら解決策を模索した。彼らはその際、帝国内の住民のなかで数的にもっとも構成要素としてのスラヴ人は力をあわせてハプスブルク専制国家を同等の権利をもつ民族の民主的連邦国家に変化させることができるという前提から出発した。この連邦国家はスラヴ人にたいして共同議会での多数を保証していた。こうしてオーストリア・スラヴ主義(アウストロスラヴィズム)が生まれた。この思想の主な代表者はフランティシェク・パラーツキーとすぐれた若いジャーナリスト、カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーであった。

 <1848年4月8日の政府文書> ブルジョア・リベラル派の政治家たちの政治的幻想はウィーン政府が見せた政策的な譲歩と約束によっていっそう強められた。それはオーストリアとハンガリーで革命の波が大きなもりあがりを見せたそのときに、おびえたウィーン政府がチェコ側の要求にたいして答えたものだった。皇帝は「政府書簡(kabinetni list)」なるものを出して、そのなかでチェコ民族にたいして特別憲法制定議会、選挙権の拡大、プラハにチェコ王国のための最高行政機関を設置する、そしてまたチェコ語とドイツ語の同等の権利などを約束したのだった。

 <フランクフルト議会にたいするF.パラツキーの手紙> これらの譲歩から受けた率直な印象をもとにパラツキーは革命の中心地であった全ドイツ議会の討議にチェコ人も参加するようにとの誘いをきっぱりと拒否した。1848年4月11日のフランクフルトへの公開書簡のなかで、ただ一つ、民族的平等という基盤にたって改編されたハプスブルク専制王国のみが、チェコ人にもまた他の中部ヨーロッパのスラブ人にも自由な発展を保証できるのであるという信念を熱烈な言葉で表明した。

 <反革命運動の始まり> チェコのブルジョア・リベラル派のオーストリア・スラヴ主義の立場はそれが中部ヨーロッパにおける反動的ハプスブルク王位の支配を保持することの必要とする前提から出ているという点で疑わしいものであった。その結果、チェコの公的な政策は1848年の春におけるヨーロッパ革命の決定的瞬間において反革命的専制勢力支持にまわったのである。
 チェコ・ブルジョア・リベラル派の政治家たちが皇帝の約束にもとづいて組立てた希望は、実はそれが幻想であったことがいちはやく露顕した。ウィーン宮廷は逆に帝国内の革命運動にたいする最初の反撃をこともあろうにチェコで行う決定をしたのである。
 5月後半に総指令官として、1844年の労働者暴動の鎮圧によって悪名をとどろかしていたヴィンディッシュグレッツ公がプラハに到着した。軍隊の活動と装備の強化がとくに労働者と急進的学生のあいだに反発を呼び起こした。6月の初めにヴィンディッシュグレッツが軍隊によってプラハ郊外の工場を占領し、プラハに砲兵隊を配置し、さらに援軍を呼んだとき、革命的緊張は上昇した。

 <プラハのスラヴ会議> この緊張を増す政治的雰囲気のなかで1848年6月2日、プラハでスラヴ会議が集まった。この第一回共同会議を召集するという思い付きはオーストリア内のすべてのスラヴ民族の代表者に歓迎された。
 とくにスロバキア人はこの会議に、当時まさに著しい高まりをみせていたスロバキア民族運動にたいする弾圧反対の援助を期待していた。1848年5月10日にリプトフスキー・ミクラーシュでまとめられ、
5月11日に宣言された民主的な「スロバキア民族の要望」にたいして、ハンガリー政府はスロバキアの諸地域に戒厳令の発令によって答えた。 しかし何人かの民族運動の指導者は逮捕されるまえにプラハへ逃亡することに成功した。 フランティシェク・パラツキーに率いられるチェコの代表団はフランクフルトの全ドイツ会議にたいする回答としてスラヴ会議がオーストリア立憲君主体制を保持の宣言として聞こえるようにすること、そして立憲君主体制がオーストリア・スラヴ主義のプログラムの精神において変化することを望んだ。会議への参加者の一部、とくにポーランド人やリュドヴィート・シュトゥールもまた、会議がヨーロッパの革命の民主的な目的に断固として賛同するように呼びかけた。この急進的な主張の影響のもとに会議は民族的抑圧にたいする抗議を表明し、また世界のあらゆる民族の自由にたいする当然の権利を宣言した「ヨーロッパ諸民族へのマニフェスト」を採択した。しかしスラヴ会議の討議が終了するまえにプラハで反動にたいする民衆の蜂起が起こった。

 <プラハの6月蜂起(1848年6月12−17日)> プラハの民衆と軍隊との衝突の少しまえ、6月12日に「馬市場」(Konsky trh、現在の「ヴァーツラフスケー・ナームニェスティー」)で「友愛ミサ」と称する民主主義的プラハ市民の大規模なデモが行われた。それに参加したのはとくに工場労働者、学生、職人たちであった。
 ミサが終わりデモ参加者の流れの一つが抒弾兵と騎兵の部隊に襲われた。攻撃にたいして民衆はバリケードを築き、強力な戦闘によって応えた。プラハの民衆は、そしてチェコ人とともにドイツ人も、圧倒的な軍隊にたいして6日間のあいだ勇敢に戦った。バリケードにはプラハ在住のスロバキア人も、その他スラブ会議に参加した進歩的な人々もたてこもった。
 急進民主主義派は蜂起のために農村をも獲得するように努力した。チェコのいろんな地方で革命プラハへの応援を組織しようという動きや試みが実際に起こった。しかし農村からの援軍が到着するまえに、ヴィンディッシュグレッツはプラハの砲撃によって暴動を制圧した。この蜂起に反対の立場をとったチェコ・ブルジョアジーの保守的な指導者たちの態度もこの敗北に寄与した。

 <プラハ蜂起の意義> プラハ民衆の6月蜂起は、自然発生的で、十分組織されていなかったとはいえ、チェコにおける1848年の革命運動の一つのピークであった。同時にわが民族の革命闘争の歴史のなかで重要な出来事でもあった。民衆が自分の権利を卑屈に願うのではなく、むしろそのためには武器を手にして戦うとという決意を示したこの闘争の経験はけっして無駄な教育ではなかった。革命の時代における政府権力の冷酷な手法はハプスブルク王朝にたいする広い階層の幻想と素朴な信頼を揺るがせた。
 そのうえ1848年のプラハ6月蜂起は、チェコ民族の解放運動のなかで学生と小市民とともに積極的な革命の要因として――わが国の歴史のなかではじめて――産業プロレタリアートが登場してきたということで注目に値する。バリケードの戦いのなかに彼らが参加したことは、次の発展段階で、わが民族の自由と独立のための戦いにおいて労働者階級が担うことになる歴史的使命の予告でもあった。


2.チェコにおける革命運動の終わり。スロバキア民族運動の新段階―1848年のブルジョア革命の意義

 <チェコにおける政府の報復措置> 1848年の革命においてチェコ人は中部ヨーロッパにおける最初のものとして敗北した。反動勢力はこの勝利をゆらいだ自己の権力の立直しに利用した。プラハは包囲状態に置くことが宣言され、工場は軍隊によって占拠されたままであり、失業者は町から退去を命じられた。急進派の民主主義者たちは次々に逮捕され、進歩的学生はひとまとめに軍隊にほうり込まれた。民族議会は解散させられ、市民の武装集団は確実に反動勢力の支配下に置かれるように改組された。ハプスブルク政権は4月にチェコ民族運動にたいして発布を強いられた約束をまもることなどとっくに忘れていた。

 <農奴制の廃止(1848年9月7日)> しかしオーストリアとハンガリーの革命的民主主義運動はその後も砕けずに続いた。その圧力のもとに反動は譲歩を迫られた。とくに農民問題は猶予はなかった。なぜなら農村民衆の暴動の危険が迫っていたからである。 その年の半ばにウィーンに召集された帝国憲法制定議会は1848年9月7日に農奴制廃止にかんする重要な法律を通過させた。これによって初めて農民の抑圧と搾取の封建的方法が終わったことが表明されたのである。労役は完全に廃止され、それとともにその他の封建的義務もなくなった。農民は形式的には完全な権利をもつ国の市民となったのである。封建時代には農奴は借用するだけだった土地も貴族の所有から農民の手に移行するはずであった。同時に領地の役所も廃止されて、あらゆる公的な行政権は国家権力が引継いだ。
 しかし農奴制廃止の方法はひろい範囲の零細農民や農村の土地なし百姓の利害にマッチしなかった。貴族階級はチェコのリベラル派の代議士の援助を得て、農奴制の無条件廃止というドイツ人代議士クドリフ・ス・クルノヴァが提出した過激な提案の拒否を獲得に成功した。同じく、土地なし百姓や小農のために貴族の大農地を分配するという場合によってはありうる問題についても議会ではまったく議題にもあがらなかった。採択された法律は、百姓たちはかつての封建領主に労役の廃止と他の農奴義務免除にたいする「損害賠償」をしなければならないと定めていた。それは各百姓の税金や奉仕の一年分の何倍にもなるはずであった。百姓たちはそれを一時にでも分割ででも払ってよかった。
 こうして裕福な農民だけが苦労せずに土地を買うことができることになった。零細農民にとっては購入は相当な借金を意味したし、農村の土地なし百姓には土地の獲得はほとんど不可能だった。彼らは以後も貴族の大土地所有者と裕福農民の土地か工場で賃仕事につくように運命づけられたのである。産業プロレタリアートと同様に農村の貧困層にも基本的な政治的権利は得られなかった。
 これらの不公正な、非革命的な解決によって、働く農村の民衆は欺かれた反面、逆に貴族階級は得をしたのである。貴族はたしかに農奴制の廃止によって特殊な社会階級の地位や、農民を支配する領主権を失い、もはや労役の廃止後は農民たちの労働力を無償で自由にすることはできなくなった。しかしかつての農奴から得た莫大な額の金が彼らにたいしてその屋敷で農産物を加工し、大々的に生産企業に参加する可能性をあたえたのである。1848年の春にこうして封建貴族の資本主義的大農園経営者や大企業家への変身の速度が加速されたのである。 しかし同時に貴族はそれ以後も幾つかの社会的特典と、宮廷や軍隊や外交、国家の行政機構における政治的影響力の大きな部分を保持しつづけたのである。

 <ウィーンにおける十月蜂起> 1848年の秋にハプスブルク政府は、ハンガリーの革命運動に立向かうために十分な力を備えていると感じた。しかしハンガリーにたいしてオーストリア軍部隊の派遣を準備しているさいちゅうの十月、ウィーンで強力な民衆の暴動が起こった。この暴動にはウィーン在住の多くのチェコ人やスロバキア人も参加した。ヴィンディッシュグレッツ軍の残虐な干渉によってこの暴動も鎮圧された。その直後に反動勢力は総力をあげてハンガリーにおけるコシュタの革命政府に立ち向かったのである。

 <ハンガリーにおける民族的抑圧> ハプスブルク政権はハンガリー領に住むハンガリー人と非ハンガリー人とのあいだの深い民族的な対立を巧みに利用した。ハンガリーの市民革命運動は大ハンガリー民族帝国の思想に常に支配されており、非ハンガリー民族にたいして政治的、民族的同権を与えることを拒んできた。ハンガリー貴族とブルジョアジーの国家主義的方法はスロバキア、クロアチア、セルビア、ルーマニアの民族運動における反ハンガリー的傾向を煽りたて、結局ハンガリー領の非ハンガリー人をペシュト政権にたいする抵抗活動に追いこんだ。

 <スロバキアへの義勇軍の派遣> ハンガリー政府が民族的抑圧を強め、クロアチアとの和解を拒否したときスロバキアの民族運動の代表者たちはクロアチアと共同歩調をとることに同意した。シュトゥール、フルバン、ホッジャを指導者とするスロバキア民族委員会が設立され、チェコ人の将校が指揮をとる自発的なグループが編成された。
 1848年9月、ウィーン政府の認知のもとに数日間の義勇軍団のスロバキアへの遠征が行われた。その目的は全面的な蜂起をうながし、ハンガリー政権下においてスロバキア人のための民族的、政治的基本的権利を獲得することにあった。ミヤヴァにおける集会でスロバキア人の独立が宣言された。
 遠征には農民問題の非革命的解決に不満なスロバキアの大勢の開墾者たちからなる6千人におよぶ自由意思による参加者を集め、武装運動の性格を加えていた。しかし、ウィーン政府は民衆運動にたいする恐怖から蜂起者たちをモラヴァで弾圧した。
 9月末に彼らはここで皇帝軍によって武装解除された。1848年から1849年にかけての冬に第二回遠征隊が組織され、その一隊はシュトゥールとフルバンに指揮され東スロバキアにまでたっした。他の一隊はホッジャを先頭に立て、スロバキア南西部にまでたっした。
 第三の遠征隊は1894年の夏に行われた。同時にスロバキアの政治的指導者たちは皇帝とウィーン政権にたいしてスロバキア問題の解決にかんする意見を提出した。
 1849年の春になって、ハンガリーの政治的指導者たちは左翼急進派に刺激されてやっとハンガリー領における民族の同権を考えはじめた。
 しかし1848年の8月、皇帝軍の支援を受けたハンガリー革命が決定的に敗北したあとウィーン政権は、スロバキアの指導者に与えた政略的約束を卑劣にも破棄した。
 1849年11月、結局、ブラチスラヴァの義勇軍は政府によって解散させられ、失望のうちに分解した。

 <スロバキアの民族的努力の意義> 1848−49年のスロバキア解放運動はその失敗にもかかわらず、また、おくれをとった経済・社会的発展とハンガリーのきわめて複雑な政治状況に根ざした不十分さにもかかわらず、これらの年月の民主的、政治的努力とともにスロバキア民族の歴史の解放運動の歴史の重要な一章に属する。

 <チェコにおける政治活動の再開> 1848年の秋からチェコ領域における新しい政治活動が息を吹きかえしてきた。それはとくに急進的な出版物の反動にたいする大胆なこうげきと、ウィーンとハンガリーにおける革命運動にたいする労働者階級と進歩的知識人層の共感によっても表明された。ウィーンのプロレタリアートが重要な役割をはたしたウィーンの十月蜂起の支援に、ブルノの民衆とリベレッツの労働者が立ちあがり、武器を要求した。1848年末に急進派は農村部の村々に多くの支部をもつ愛国的組織「スラヴの菩提樹」に決定的影響を及ぼすことに成功した。この組織をとうして急進的民主主義の理念は広範な民衆層にひろがっていった。

 <クロムニェジーシュ議会> 11月からモラヴァのクロムニェジーシュで開かれた帝国議会はこの時期に新しい帝国憲法案を討議した。この憲法のなかでは成長するブルジョア社会の基本的市民権がふくまれるはずであった。しかし憲法にかんする議論が終わるまえに、反動的ハプスブルク政権はハンガリーにおける軍事行動の成功を盾にとって、1849年3月にクロムニェジーシュの議会を解散させた。同時にいわゆる「強制憲法」を宣言した。それはウィーン中央政権の力を強化させるものであった。

 <チェコにおける1849年の「5月共謀」の準備> 1849年5月に急進デモクラット派は強化される反動体制にたいして暴動によって応える態勢を整えていた。そのために農村の住民と産業プロレタリアートをも味方に得ようとした。蜂起はハンガリーとサスコにおける革命運動と同時に進められるはずであり、ハプスブルク専制体制を崩壊させ、貴族の特典を廃止し、ブルジョアによる共和体制を導入するはずであった。しかし「5月共謀」の準備は事前に密告され、その荷担者は投獄され、その後軍法会議にかけられた。プラハと周辺にまたもや包囲状態が宣言され、その状態は1853 まで続いた。

 <1848年革命の意義> ハンガリーにおける孤立的革命運動が失敗に帰したあと、中部ヨーロッパにおける1848−1849年の革命は勝利の結末を見ることもなく終結した。
 革命の課題のほとんどは未解決のままのこり、ブルジョア・リベラル派の王朝との妥協政策は彼らの敗北に導いた。反動的ハプスブルク専制体制は倒れなかった。チェコ人もスロバキア人も、ハプスブルク複合国家の他の被抑圧民族と同様に自由を勝ち取ることはできなかった。民族的抑圧はさらに激しさを増した。大地主貴族と教会ヒエラルキーはその経済的かつ政治的力の大部分をその後も保ち続けた。それにもかかわらず、1848年の革命運動は大きな歴史的意味をもっている――つまり資本主義という新しい、発展的により高い社会体制への道を切り開いたことである。
 生産力の発展は原則として生産関係の革命的変革を要求する。工場生産、交通、国際経済の発展はすでに時代おくれの封建体制とはもはや融合できなくなっていた。農奴制や労役にたいする農村に働く民衆の昔からの階級的反感は封建的搾取方法を維持不能な割りな合わないものにしていた。ブルジョア資本主義的企業は封建主義時代の古くなった支配体制によって足を引っぱられているかぎり、完全に発展することはできなかった。それゆえに反動勢力の政治的勝利でさえも「三月前」の時代の状況への単純な逆戻りを意味してはいなかった。
 1848年の革命事件は、わが国における封建時代と資本主義時代との決定的な区切りとなった。生産関係における変化は広範な影響を社会思想の変化のうえにもおよぼした。大勢の平凡な人々は、彼らの祖先が何世紀にもわたって抑圧と屈辱のなかに生きてきたにもかかわらず、いまや自意識を取りもどして、基本的市民権を力づよく要求しはじめたのである。チェコとスロバキアの人民は、反動勢力との次なる戦いなしに自由への道もないという新しい経験に到達したのである。



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